「希望の源泉」(23)(創価学会の生死観)

 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第23回は、「よく生きる」 ことを促す 創価学会の死生観 であります。今回も 「見宝塔品」 の章がもう少し続きます。  (第三文明・2018/6月・53P)

 ナショナリズムを相対化する 「人間主義」
 佐藤 優  「法華経の智慧」が、現在進行形の時事問題を考えるうえでも示唆(しさ)に富んでいると感じます。たとえば、この章には次のような池田会長の発言があります。
 「国といっても、要は人間です。 人間の集まりであり、人間がつくるものであり、人間が変えられないはずはない。 また国家も 「人間のため」 にあるのです。
 この素朴(そぼく)にして明快な事実が、さまざまな 『とらわれ』 から見えなくなる。 独善的な イデオロギーにとらわれ、小さな利害にとらわれ、感情にとらわれ、誤った知識や先入観にとらわれ、根本的には人間と生命への無知にとらわれて、自分で自分を狭い世界に閉じ込めてしまうのです。 その 『とらわれ』 の鎖(くさり)を断ち切れば、相手を 『人間として』 尊敬できるようになる。 そこから 『人間として』 の対話が始まります」
 (法華経の智慧3巻・55P)

 佐藤氏は、現今の北朝鮮の核問題について、多くの日本人は、北朝鮮を 「独裁者に支配されている国」 としか見ていない。 そこには苦しんでいる多くの民衆がいること――そういう当たり前のことが、さまざまな 「とらわれ」 によって見えなくなってきている。
 日本の一部には、米軍が北朝鮮を攻撃し、その戦争を望むかのような論調があった。 それはまさに、北朝鮮も 「人間の集まり」 であることが、見えなくなっている姿である と語られています。
 
 佐藤  私は池田会長の次の言葉が大好きで、いろいろなところで引用しています。
 「国家主義というのは、一種の宗教である。 誤れる宗教である。 国のために人間がいるのではない。 人間のために、人間が国をつくったのだ。 これを逆さまにした “転倒の宗教” が国家信仰である」 (『池田大作名言100選』・119P)
 ………
 池田会長の思想とは、“人間主義によって ナショナリズム(国家主義)を相対化する思想” なのです。 そして、ナショナリズムを相対化する力の源になっているのが、この章で論じられている 「生命こそ宝塔である」 という思想なのだと思います。 生命が宝塔であるという思想からは、生命を持つ人間という尊い存在を道具視したりする国家主義的な視点は、決して生まれてこないはずですから……。

 ――  池田会長の 「人間主義」 は 「主義」 という言葉がついているので誤解されがちですが、イデオロギーではないんですね。 イデオロギーを超越した思想であり、いわば “イデオロギーを人間に奉仕させるための哲学” なのです、 と語られています。
 佐藤氏は、あらゆる既成の イデオロギーを、人間という共通項で包み込む思想ということですね、 と答えられています。
 そして、今の日本は、籠池・森友学園元理事長の 「神道は宗教ではない」 という発言や、日本共産党の 「国民連合政府」 構想なるもののなかに、国家主義台頭の危険性がある と。
 そうだからこそ、池田会長の “国家主義を相対化する人間主義” は、いよいよ その重要性を増してきているのであります。

 「独裁者」 と 「指導者」 は紙一重
 この章のなかに、指導者と独裁者の違いについて論じられています。
 「指導者」 と 「独裁者」 は違う。 指導者というのは、自分が皆のために苦しんでいく人なのです。
 大聖人は 「元品の無明」 は 「第六天の魔王」 と顕れ、「元品の法性」 は 「梵天・帝釈等」 と顕れる(997P、趣意) と言われている。
 魔王は独裁者。 梵天・帝釈は指導者です。 両者の違いは決定的です。 「天地雲泥」 と言える。 一方、一念の世界においては、「紙一重」 とも言えるのです。
 (同書3巻・79P)

 佐藤  この一節が示すように、「独裁者だから矯正(きょうせい)不可能だ」 などという発想は、池田会長の思想、ひいては日蓮仏法のなかにはないのですね。 民衆を虐(しいた)げる邪悪な独裁者となるか、民衆のために尽くす賢明な指導者となるかは、その人間の一念の違いであって、どちらにもなり得る、 と語られている。
 実際に、古代インドの アショーカ大王は、はじめ暴虐な王であったが、仏法に帰依してから民衆を愛する賢王に変わった。 いま米朝首脳会談で、時の人となっている 北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)委員長についても、仏性は持っているのだから、善縁に会えば独裁者からよき指導者に変わり得るというのが、仏法の人間観である。
 6月12日の会談が、一歩前進の有意義なものになることを願っている。

 「死をどう捉えるか?」 の確かな答え
 佐藤氏は 「生命こそ宝塔である」 という生命尊厳の思想を持つている学会員の皆さんは、少なくとも、宗教を持たない一般人に比べれば、死を忌み嫌わない傾向がある、と感じられると語っています。
 ――  池田会長の米ハーバード大学での講演 「21世紀文明と大乗仏教」(1993年)のなかに 「生も歓喜、死も歓喜」 という有名な言葉があるように、死さえも絶対的な静止状態とは捉えず、次の生に向けてのいわば “変化の一断面” として捉えます、と語っています。
  参考 : ハーバード大・講演の関連ブログ ―→ ここから

 佐藤  日蓮仏法、創価学会には、死を美化するような思想はないですね。 生から逃避し、死を美化するような宗教は、テロリズムや戦争と結びつきやすいという危険性を孕んでいますね。 「神のために殉教すれば天国に行ける」 と、多くの人命を奪い、自らも死ぬ自爆テロに走る イスラム原理主義の テロリストたちは、その最たる例です。 自分の命を軽視すると、他者の命を奪うための ハードルも下がってしまいます。
 ………
 創価学会は 「生命こそ宝塔」 という宗教であるから、生命軽視には決してつながらないのです。
 生命を重んじたうえで、死を恐れない――それが、創価学会の持つ強さの大きな要因になっていると感じます。
 「哲学とは死の練習である」 という、プラトンの 『パイドン』 のなかに紹介された ソクラテスの名高い言葉があります。 死をどう捉えるかは、古代から現代に至るまで哲学の重要な テーマであったし、哲学を包含する宗教もまた然(しか)りです。
 ………
 決して体験できない、想像するしかない死の世界を、どう捉えるべきか? そして、死の恐怖というものをどう克服すればよいか? 古来、それが宗教に与えられた大きな課題でした。
 「生も歓喜、死も歓喜」 という言葉に象徴される学会の死生観、そして、生命を宝塔と捉えてその尊厳を重視しつつ、死を恐れずに真正面から向き合う姿勢は、その課題に一つの確かな答えを提供しているのではないでしょうか。


 死をどう捉えるのか? その恐怖をどう克服するのか? 古今東西にわたる最大の命題である。 今までどこにいって聞いても、世界有数の ハーバード大学にいっても教えてはくれない。
 しかし、佐藤氏は創価学会だけが、確かな答えを提供していると。
 “「生も歓喜、死も歓喜」 という言葉に象徴される学会の死生観” と、それを実践している学会員の姿のなかに、問題解決の答えがある と述べられている。
 しかし、成仏の生命境涯は、学会からでも、誰人からでも、教えられて解かるものではない。 自分自身が自ら妙法を実践・修行して、体得・感得しなければならない ことを肝に銘じて、共々に頑張って参りましょう。 
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「新・人間革命」第17巻〔本陣の章〕(善の指導者。報恩の道)

 〔本陣〕
 すべてが新生の輝きに満ちていた。 希望は、美しき青空となって広がっていた。
 学会が 「教学の年」 と定めた一九七三年(昭和48年)が明けた。 正本堂の建立という大目標を達成し、「広布第二章」 に入って、初めて迎える新春であった。


  今年こそ
     今年こそとて
        七歳
(ななとせ)
    過ごして集う
          二百万の民


 元朝、山本伸一は自宅で家族と共に勤行を終えると、戸田城聖が逝去の年(昭和33年)の年頭に発表した歌を思い起こしながら、決意を新たにした。  (新・人間革命17巻・7P)

 「広布第二章」 に入って、初めての新年である 「教学の年」 が明けた。
 池田先生は “「広布第二章」 とは、生命の尊厳や慈悲など、仏法の哲理を根底とした社会建設の時代です。 言い換えれば、創価学会に脈打つ仏法の叡知を社会に開き、人類の共有財産としていく時代の到来ともいえます” と、そのためには、教学の研鑽が不可欠であり、ゆえに、本年を 「教学の年」 としたのである、と述べられています。

 “「広布第二章」 を迎えて、学会は社会に開かれた多角的な運動を展開していくことになりますが、その際、心すべきことはなんでしょうか” と、男子部長が質問した。 先生は即座に、
 「師弟の道を歩めということです」 と答えられました。 質問者が、なぜ 「師弟の道」 なのか、疑問に思っていたようなので、次のように指導されました。

 「仏法を社会に大きく開いた運動を展開するというのは、これは円運動でいえば遠心力だ。 その遠心力が強くなればなるほど、仏法への強い求心力が必要になる。 この求心力の中心こそが、師弟不二の精神だ。
 近年、青年部員には、社会で勝利の実証を示そうとの気概があふれ、社会貢献への意識も次第に高まってきている。 これはすばらしいことです。 しかし、広宣流布という根本目的を忘れれば、社会的な栄誉栄達や立身出世に流され、信心の世界を軽視することにもなりかねない。 また、世間的の地位や立場で人を見て、庶民を蔑視するようになってしまえば本末転倒です。
 真実の人間の道、仏法の道を歩み抜いていくために、師弟の道が必要なんです。 ところが現代人は、師弟というと、何か封建的な、古めかしいもののように思う傾向がある」
 ………
 「実は、そこに現代の不幸があるといえる。
 学問でも、武道でも、あるいは芸の道でも、何かを学び、究めようとするならば、必ず師匠、指導者が必要です。 ましてや人生の真実の価値を教え、人間の生き方を説く仏法を学ぶには、師匠の存在は不可欠です。 師匠がいないということは、生き方の具体的な規範がないということなんです」
  (同書・15~17P)

 仏法を大きく社会い展開するには、それだけ “仏法への強い求心力が必要になる” と、そして “広宣流布という根本目的を忘れてはならない” と述べられている。
 いま世間では、日本大学のアメリカンフットボール選手による重大な反則行為が問題となっている。 体育競技に、勝つことのみが正義であり、目的のためには手段を選ばないという風潮が、大学教育の場まで浸透しているという、まことに憂慮すべき状態である。
 今こそ、真実の価値を教え、人間の生き方を説く哲理の必要性が叫ばれるゆえんである。 したがって、その哲理を持った指導者なのか、どうなのか、が問われている。
 日蓮大聖人は 「所詮導師に於て二あり、悪の導師・善の導師之れ有るなり、…… 末法に入つては、今日蓮等の類いは善の導師なり」(712P) と仰せです。
 指導者と言われている者のなかに、悪の指導者もおるのである。 現今の世情の混乱ぶりも、世の指導者階級の無能・邪悪ぶりに起因しているように思う。 
 この現状を見るにつけ、妙法を持つて 人間革命した人材群を、世に送り出す以外に道はありません。 その責任と使命は、我ら創価学会員一人一人の双肩にかかっている と言っても過言ではありません。 その確信に立って、前進して参りたいと思います。

 「人間は、父母の恩をはじめ、一切衆生の恩、国王すなわち社会の恩、三宝(仏・法・僧)の恩、また、師匠の恩と、さまざまな恩を受けて生きております。
 しかし、現代人は、他人は皆、対立と生存競争の相手としかしか見えなくなってしまい、周囲の人々の “恩徳” が、心の眼(まなこ)に映(うつ)らなくなってしまっている。 そして、その結果、人間と人間が分断され、皆が互いに孤独を感じ、疎外感をもっています。
 だが、心眼(しんがん)を、また、慧眼(えげん)、法眼(ほうげん)を開いて “恩徳” を見すえていくならば、自分がいかに多くの人に支えられて生きているか再認識することができる。 そうなれば疎外感ではなく、感謝の心が、喜びがわきます。
 仏法はその恩に報いていくことを教え、そこに人間の道があり、仏法者の使命があると説いているんです」
 “報恩” の欠落は、人間性の崩壊である。
 伸一は、報恩こそが、仏法者の生き方であり、社会貢献の活動も、本来、その一念の発露であることを述べた。 なかんずく、折伏をもって、絶対的幸福の道を開く仏法を教えていくことは、それが、最高の報恩感謝であり、孝養となることを語った。
 この日、伸一が、最も力を込めて訴えたのは 「自身の心を折伏せよ」 ということであった。
 広宣流布の前進を阻(はば)むものは、外にあるのではなく、自身の内にこそあるからだ。
 臆病や弱さは、あきらめを生み、「もう、だめだ」 「これ以上できない」 と、自分の壁をつくり出してしまう。 また、慢心は、油断と安逸を生み、敗北の墓穴を掘る。
 その心を打ち破り、自らを折伏するのだ。 壁を破るには、腹を決めることだ。 断じて成し遂げてみせると、一念を定め、御本尊に誓願の題目を唱え抜くのだ。
 そして、勇猛果敢に行動せよ。 走り出せば加速度がつく。 勢いを増す。
  (同書・91~92P)

 先生は “仏法はその恩に報いていくことを教え、そこに人間の道があり、仏法者の使命がある” と述べられています。
 大聖人は 「されば法華経を持つ人は 父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども 此の経の力にて報ずるなり」 (1528P) と仰せです。
 ゆえに、報恩の道を歩むためには、法華経(御本尊)を持つことが肝要なのである。 そして 一切衆生に、絶対的幸福(即身成仏)の道を教えていく 折伏行は、最高の報恩感謝であり、孝養となるのであります。
 ここで先生は、難事中の難事である折伏を敢行するには、「自身の心を折伏せよ」 と指導されています。
 今までの指導で “慈悲に変わるのは勇気である” と聞き及んでいます。 自身の弱い心の壁を打ち破るのは、勇気である。
 “一念を定め、御本尊に誓願の題目を唱え抜くのだ ” とのご指導を肝に銘じ、後半戦を戦い抜きましょう。 
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「希望の源泉」(22)(決断の信仰 と 感化の信仰)

 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第22回は、創価思想という 「感化の輪」 の広がり であります。今回も 「見宝塔品」 の章の続きです。  (第三文明・2018/5月・53P)

 あらゆる生命を貫く 「リズム」
 前回、大地より涌出して、空中に住在する巨大な 「宝塔」 は、生命のことなんだと学びました。 微小な生命から 巨大な宇宙生命まで、すべての生命には、何らかの法則性や 「らせん」 あるいは 「渦巻き」 が見られると語っています。
 
 佐藤 優  私がこの後半部分を読んでまず印象に残ったのは、「仏法では、あらゆる生命を貫き、大宇宙を貫いて、何らかの法則性が存在していると説いています」 (法華経の智慧3巻・48P) という一節です。
 その言葉を受けて、池田会長は次のように語られています。

 「大宇宙には 『リズム』 がある。個々の生命のどんなリズムも、大宇宙のリズムと響きあっている。 “生きている” ということは、大宇宙と、われわれの生命すなわち小宇宙が、『共振』 することではないか、と思う」 (同書・49P))
 佐藤  会長は、大宇宙のリズムとは、「『生きとし生きるものを成長させよう、向上させよう』 という慈悲のリズムです。あるいは慈悲の “波長” と言ったほうがいかもしれない」 と解釈したうえで、次のように説明しています。
 「生命は、この波長をキャッチできる “受信機” です。 どこにいようと、仏界の チャンネルに合わせれば、“自分も成長し、人をも成長させる” という慈愛の曲に包まれていく。 あるいは “音叉(おんさ)” を イメージしてもいいかもしれない。 同じ波長の二本の音叉があれば、一本を鳴らすと離れたところのもう一本も、おのずと鳴りだす」 (同書・50P)
 リズム、波長、受信機、音叉による共鳴現象(レゾナンス)…… そのような、現代人にとってなじみ深い比喩を積み重ねて、仏法の 「法」 ということが平明に説明されています。

 生命は、慈悲の波長を キャッチできる “受信機” であると譬えています。 その波長はあるのですから、誰かが最初に鳴らさなければならないのである。
 先生は、「宝塔品」 で、十方分身の仏たちが釈尊のもとへと馳せ参じた姿は、あたかも 「令法久住(法をして久しく住せしめん)」 という音叉の響きに呼ばれて、たくさんの音叉が同時に鳴り出したかのような光景が、まぶたに広がります」 と述べらrています。
 釈尊は 「我滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」 と誓願し、大聖人は 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが(流布)るべし」(329P) と、広宣流布を遺弟らに命ぜられました。
 その本願を、しかと受け止められたのが、創価のご歴代の会長であります。 その流れを汲む我ら学会員も、一人一人が自立した音叉のように、広宣流布の響きを全世界に広げて参りましょう。

 「決断の信仰」 と 「感化の信仰」
 佐藤  私は信仰の二分法として、「信仰は決断だ」 と捉える立場と、「信仰は感化だ」 と捉える立場があると思っています。……
 「信仰は決断だ」 というのは、言い換えれば、自らの主観的判断、意思を何よりも重視し、個を重視する立場です。 それに対して、「信仰は感化だ」 というのは、人と人との結びつきによる相互影響を重視する立場ですね。
 私は、「信仰は決断だ」 という捉え方は非常に危(あや)ういものを孕(はら)んでいると考えます。 なぜなら、自分の意志とは常に脆(もろ)いものであって、ささいなきっかけで ポロポロと崩れていまったり、悪しきものから影響を受けて変質してしまったりするからです。……
 それに対して、「信仰は感化だ」 というのは、脆く儚(はかな)い自分の意志を絶対視せず、他者からの感化によって自らの歩む軌道を常に修正していく立場と言えます。 そちらの立場のほうが、間違った方向に進む危険性がはるかに少ないと思うのです。


 ――  「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」(1088P) という日蓮の名高い言葉があります。 …… 自分の心などという、さまざまな 「縁」 に触れて常に揺れ動くものを 「師 」として絶対視してはいけない、という戒めです。 「信仰は決断だ」 という立場は、まさに 「自らの心を師としてしまっている」 のだと思います。

 佐藤氏は信仰について、「信仰は決断だ」 とするのと、「信仰は感化だ」 とする立場があると言っている。そして 「信仰は決断だ」 というのは、非常に危ういものを孕んでいると言われています。 それは、“自らの主観的判断、意思を何よりも重視し、個を重視する立場” であるからですと。
 かつて明治時代に 大聖人の仏法を信じながら、国家主義・軍国主義に加担した者たちがいた。 田中智学(国柱会) や 本多日生(顕本法華宗)等、日蓮主義者と言われる者たちである。
 もともと 「神道」 は、教祖も居らず、まともな教典一つもなく、低級なる宗教である。 明治政府は中央集権化を図るため、国民の尊王心を利用して 「国家神道」 なるものを創り、国家の精神的支柱とした。
 西欧諸国との手前、明治憲法には、一応・信教の自由は謳われているが、事実は無きに等しいものであった。そして 「神道は宗教に非ず」 という詭弁を弄(ろう)し、各宗教・宗派の最上に位置せしめ、特に戦時中は、国民全員に神社崇拝を強要した。
 「摧尊入卑(さいそんにゅうひ)」(尊きを摧いて卑しきに入れる)と言って、尊き法華経の教理をくだいて、卑しき神道に入れたのが、日蓮主義者たちであった。 この者たちの 「信仰は決断だ」 と決めた自らの主観的判断は、宗祖の御精神に反していたのである。
 たとえば、久遠実成の本仏の覚体は皇祖神であり、その末裔たる天皇こそがすべての教主であるとして、閻浮提内に折伏教化し、広宣流布(八紘一宇)を目指すと言って、戦争行為を正当化した。
 このように 「劣謂勝見(れついしょうけん)」(劣っているものを勝れていると見る) と言って、低級・低劣な 「国家神道」 を、国家の指導原理にし、最高の法華経を弾圧し捨てたことが、そもそもの間違いのもとであったのである。
 
 無意識の次元で起きる 「共鳴」
 大宇宙には慈悲の波長が常にあって、その波長に合わせるためには、受信機の ダイヤルを ファイン・チューニング(微調整)しなければならない。 それが日々の勤行・唱題になります。
 よく聞くことであるが “自分が変わったら、相手も変わった” と、まさに、自分の心と相手の心が 「共鳴」 するわけです。 しかも、その 「共鳴」 は無意識の次元で起き、また そのことを 「命が変わる」 「一念が変わる」 という言葉で表現されています。

 佐藤  説教や道徳によって変わるのではなく、無意識の次元、言い換えれば生命の次元における共鳴・感化で変わるのでしょうね。 だからこそ、創価学会の 「感化の輪」 のなかで生活し、活動していれば、誰もが変わっていけるのでしょう。 もっと難しい修行によって 「変わる」 のだとしたら、それは聖人君子とか 一部の宗教的エリートのための宗教になってしまい、民衆宗教、万人を救う宗教にはなり得ません。……
 創価学会は決してそうならないわけですね。 世界中の万人に向けて開かれているし、感化の輪と、日々自宅の御本尊に向き合う ファイン・チューニングによって、どこにいても、誰であっても、幸福の軌道を歩んでいける。 その点で、まさに世界宗教にふさわしい教えなのだと思います。
 
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等覚一転名字妙覚(2)

 前回、同名のブログを書きましたが、ゴールデンウイークの4月30日、朝から外出の予定があって、29日までに仕上げようと思い バタバタして書いたもので、読み直してみてどうも中途半端な感は否めません。 そこで、補足的にも追加しようと思いました。

 「等覚一転名字妙覚」 の植木雅俊氏の説明を聞いて、自分が今まで覚えていたものは、不正確で不十分だったなぁ と思いました。
 若いころに 「六巻抄」 を学んだ時の譬え話に、“ある人が、はじめて学会本部を目指して、遠くからでは飛行機や新幹線を利用して上京しますが、途中、道に迷ったり・乗り間違えたりしても、信濃町の駅までたどり着けば、後は自然に分かるというもので、信濃町が 「等覚」 に当たる” というお話だった と記憶していました。
 しかしこの説話では、目的地である妙覚は、等覚に向かって修行する延長線上にあることになります。 植木氏のお話では、延長線上にはなく、足下の出発点の 「名字即」 に 「妙覚」 はある と説かれています。

 そうしますと、上記の譬え話は、どの文言のものだったのだろうかと思いますと、どうも 「文底秘沈」 という文言のときだったと思い出しました。
 「三重秘伝抄」 の 〔第七に種脱相対して一念三千を明すを示すとは〕 のところで、何の文底にあるのかという問いに答えて、「本因初住の文底に久遠名字の妙法・亊の一念三千を秘沈し給えり」云云、応(まさ)に知るべし後々の位に登るは前々(さきざき)の行に由るなり云云、 とあります。 (六巻抄・55P)
 ここに 「本因初住」 という文言があり、したがって、信濃町が 「初住」 に当たるという譬えであったと思います。

 これまでに、「等覚」 やら 「初住」 などの文が出てきていますが、何かと言えば、別教の瓔珞(ようらく)経に説かれる大乗菩薩の五十二の修行の位の中で、十住のはじめが 初住 で、五十一番目が 等覚 である。
  十信……法を聞いて信受し、少しも疑わない位。
  十住……教理を実践し、教理に安住する位。
  十行……衆生利益のために化他行をする位。
  十回向…自己の功徳を廻らせて他に施し、種々の体験を廻らせて真理に向かう位。
  十地……仏智を生ずる地盤となり、一切衆生を荷負する地盤となりえた位。
  等覚……隣極 とも言い、極果である妙覚の隣の位。
  妙覚……完全なる仏果を成就した位。

 以上、爾前・別教の五十二位ですが、円教にも五十二位があります。この修行法は、歴劫(りゃっこう)修行と言って、極めて長い時間をかけて修行し、五十二位の段階を一つづつ登っていくのであるが、このような長遠なる修行では、いつまで経っても成仏は叶わない とされている。
 天台は、円教の五十二位を説き 「我本行菩薩道」 について、 初住位に到って初めて不退の位(聖位)に達し、その時、既に常寿を得たとされ、成仏は間違いないと言っている。
 この不退の 初住位 にまで登りえた本源の力は 何だったのかと言えば、それは 久遠名字の妙法である “南無妙法蓮華経” を修行したからである。
 しかし、像法の教主である 天台大師は、“南無妙法蓮華経” を明らか様に説くことができなったので、成仏の本因を、常寿を得た初住位 に定めた。 大聖人は、その 「文底」 に 「久遠名字の妙法」 である “南無妙法蓮華経” が秘沈されている、ことを明かしてくださいました。
  したがって、釈尊・天台・伝教といえども、みな 「我本行菩薩道」 の修行は、文底に秘沈された “南無妙法蓮華経” を実践して成仏されたのである。

 では、大聖人の仏法ではどうなのかと言えば、天台大師が説いた 「六即」 というのがあります。 『御義口伝』 には、
  理即………「六即の配立(はいりゅう)の時は、此の品の如来は理即の凡夫なり、
  名字即……頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり、
  観行即……聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、
  相似即……さて惑障(わくしょう)を伏するを相似即と云うなり、
  分真即……化他に出づるを分真即と云うなり、
  究竟即……無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり」(752P) と仰せです。

 大聖人の仏法では、「名字即」 が重要になります。
 「理即」 は、すべてに理として仏性が具わっていますが、まだ信心してない段階です。
 「名字即」 は、信心はしているが、経や教えの名字(言葉や文字)を見たり聞いたりして、正法を信じて疑わない位です。
 御書に、「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す、名字即の位より即身成仏す、故に円頓の教には次位の次第無し」(566P)
 「惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず、唯凡夫の当体本有の儘(まま)を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」(752P)
と仰せられています。 

 大聖人の仏法は、釈尊の仏法のように歴劫修行することも無く、直達正観(じきたつしょうかん)と言って直ちに即身成仏ができる法であり、天台大師のような修行の段階をも立てず、初めて三大秘法の御本尊を信受した名字即の凡夫位のままで、直ちに究竟即の仏果を得ることができるのであります。 これを 「名字即究竟」 と言います。
 日蓮大聖人の仏法こそ、人類すべて、国籍・人種・貴賤上下・財産・老若男女等の差異の別なく、凡夫のままで、尊極なる仏界という境涯に 「人間革命」 できる大仏法であります。
 真の人間主義の哲理を持って、世界広布に向かって頑張りましょう。

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 82歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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