「希望の源泉」(16)(仏法の師弟観)

 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第 16回は、創価学会における 「師弟の絆」 を考察する であります。
 今回は 「授記品」 の章の残りと、次の 「化城喩品」 の章です。  (第三文明・2017/11月・53P)

 絶対的幸福への レール
 「授記品」 の章の メインテーマは 「成仏」 です。「授記」 とは、「あなたは未来の必ず成仏できる」 という保証の言葉を、仏が弟子に授けることを意味しています。
 佐藤 勝  池田会長は次のように述べています。
 「端的に言えば、成仏とは、一つの 『ゴール』 に至ることということよりも、絶えず仏界を強め続けていく 『無成道の軌道』 に入ることなのです。
 法華経の迹門では、まだ歴劫修行の成仏観から出ていません。 それで、『遠い未来に成仏する』 という授記になる。 しかし、その本意は、『仏と同じ道を歩ませること』 にあるのです。 仏が歩んだ 『生命の軌道』 『絶対的幸福への レール』 に確かに乗ったよ、と保証するのが授記です。
 『色相荘厳の仏に成る』 という爾前迹門の成仏ではない。 仏が歩んだのと同じ 『軌道』 を歩み続けること自体が成仏なのです」
 (法華経の智慧2巻・120~121P)
 そのような池田会長の、ひいては創価学会の成仏観を知れば、一部の人々が言う 「創価学会は “池田本仏論” だからけしからん」 などという批判は的外れであることがわかります。 成仏が 「『無上道の軌道』 に入ること」 である以上、池田会長も当然その軌道に入っておられるわけで、成仏を約束された身であると捉(とら)えても、本来何の問題もないはずです。 
 
 仏と同じ 「軌道」 を行くとは、法華経を 「受持」 することです。 神力品には 「我が滅度の後に於て・応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし・是の人仏道に於て・決定(けつじょう)して疑有る事無けん」(384P) とあります。
 御本尊を受持する学会員は、「仏道」を間違いなく歩んでいる。ゆえに、その人の成仏は疑いないのであります。
 上記のような成仏観からすれば、池田先生のみが仏であるとする “池田本仏論” なる批判は、もともと成り立たないのである。
 
 佐藤  それから、私が強い印象を受けたのは、池田会長が 「授記」 の持つ意味について、次のように述べている部分です。
 「元来、授記とは、明快な答えを述べ、人びとの心の疑いを解決することだね。
 リーダーは常に 「明快」 でなければならない。 あいまいは悪です。 人々に不安を与えるからです。 『確信をあたえる』 のが 『授記』 の ポイントです」
 (同書・125P)
 この一節のとおり、池田会長の言葉、ひいては創価学会で用いられる言葉は、常に明快であいまいさがありません。 その明快さの根底には、人びとに不安を与えず、確信と希望を与えようという意図があるのですね。

 対談者も “人々の苦しみを取り除くことが最優先事項であるからこそ、「宇宙は有限であるか、無限であるか?」 などという形而上(けいじじょう)的な問題、観念的な問題はあまり扱わないのです” と語れれている。
 要は、民衆救済とはあまり関係がない、教義のための教義ではなく、現実の問題・苦悩を解決するための学会の教義である。だからこそ、常に明快であります。

 師弟は同じ目的に向かって前進し続ける
 ここから 「化城喩品第七」 の章に入ります。 この章では、創価学会の最重要概念の一つ 「師弟」 について論じられています。
 池田会長は、師弟について次のように述べています。
 「仏法の師弟は 『広宣流布へ』 『仏国土へ』 という 『同じ目的』 に向かって進む同志であり、先輩・後輩の関係の延長線上にある。 両者が相対(あいたい)し、向かい合った形だけではなく、根底では同じ方向を向いた関係にあるのです」 (同書・171P)

 佐藤  師匠といっても ゴールのところにとどまっている存在ではなく、弟子たちと同じ軌道のなかにあって、共に前進を続ける存在なのですね。 ……
 それはたとえば、師弟が電車の座席に向かい合って座っているけど、その電車は目的地に向かって前進を続けている、というようなイメージでしょうか? 師と弟子は主観的には向かい合っているが、外から客観的に見れば目的に向かう軌道の中を進み続けている、と。 何だか、アインシュタインの 「相対性理論」 みたいな話ですが(笑)。


 対談者も、面白いですね。法華経の師弟関係が静的・固定的なものではなく、、動的で生成的なものである等と語っています。
 戸田先生は、ご自身が受けられた法華経の難(=二年間の投獄)について、「化城喩品」 の一節をふまえて、次のように述べられています。
 『在在諸仏土 常与師俱生』。 俱生(ぐしょう)と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の功力(くりき)によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十憶万年前からの規定を実行しただけでございます。
 私と牧口常三郎先生とは、この代(よ)きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、先生が師匠の時には私が弟子になりまして、過去も将来も離れない仲なのです」
 (同書・172P)

 時には、師匠と弟子が逆転して生まれてくるというのです。仏法の師弟関係が固定的ではないことを、端的に物語っています。
 池田先生は、師弟関係を弟子(衆生)を因、師(仏)を縁に配して、中心軸となるのはむしろ弟子であるとして、次のように述べています。
 「因と縁では当然、因が中心です。 縁はそれを助けるものです。 師弟の道も、弟子の自覚が中心です。 弟子がどれだけ強き求道心に立つか、どれだけ強き使命感に立つか、その一念の強さに師匠が応ずるのです。……
 弟子は師匠を信じ、求める。 師匠は弟子を守り、鍛(きた)える。 誓いを忘れた弟子たちをも最終的には見捨てない。 この最高に麗(うるわ)しい 『人間の絆(きずな)』 こそ、仏法の師弟です」
 (同書・170P)

 佐藤氏は、“多様な個性を持った学会員の皆さんが異体同心であり得るのは、日蓮仏法という共通の信仰、池田会長という共通の師の存在によって結ばれているからこそですね。……
 「弟子の活躍と勝利が、師匠の偉大さを証明する」 ということが共通認識になっているからこそ、同志の活躍も素直に、わがこととして喜ぶことができるのでしょう。 創価学会における 「師弟」 とは、そのような相互作用の関係、一人の師から世界に広がる弟子たちの ネットワークなのですね”
と語られています。

 この師弟の ネットワークは、決して上から下へという一方通行の関係でもなければ、道理に合わない封建的なものっでもなく、誰もが平等に師と結ばれている。
 そこには 「池田先生にお応えし、師の偉大さを証明する」 という 弟子の自覚と実践があり、師匠の慈愛もある。
 創価学会の世界には、麗しい 「師弟の絆」 があり、人間主義の結合があるのです。 
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「希望の源泉」(15)(学会の座談会)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 15回は、『法華経の智慧』 から考える 座談会の意義 であります。
 今回から 「授記品 第六」 の章に入ります。  (第三文明・2017/10月・53P)

 「集合知」 に満ちた 学会の座談会
 池田会長は冒頭で、「座談会は “大河” です。 あらゆる活動は、その大河に注ぎ込む “支流” です」、「座談会にこそ学会の 『心』 がある」 (法華経の智慧第2巻・115P) と語っています。

 佐藤 勝  創価学会の座談会には、いわゆる 「集合知(集団的知性)」 が満ちていますね。 ごく簡単に言えば 「みんなで作る知恵」 のことです。
 近年、個々の専門家による 「専門知」 の危(あや)うさが露呈してきたのとは対照的に、多くの人々の意見が集約されるなかから生まれてくる 「集合知」 は、「認知バイアス」 などの偏(かたよ)りがなくなって正解・最適解にたどりつく確率が高いことがわかってきました。 それは言い換えれば、「真の英知というものは、独(ひと)りよがりの解釈の対極にある」 ということでしょう。
 もちろん、集団で考えれば即座に 「集合知」 が生まれるというわけではありません。 逆に、一人で考えるよりも愚かな結論に至る “集合愚” に陥(おちい)る危険性もあるのです。……
 集合知が生まれる条件として、意見の 多様性・独立性・分散性・集約性 (=個々の意見を集団のものに統合するメカニズムがあること) の四つを挙げています。
 私は、学会の座談会はこの四条件を兼備していると思います。 世代も職業も立場も多様な人々が集(つど)い、多様な意見を自由に語り合う場であり、なおかつ、師である池田会長の存在という共通項によって 「統合」 されているからです。

 
 佐藤氏は、学会の座談会は、集団的知性に満ちています。 世間では、専門知識を持たない一般大衆の言うことなど、信用に値しないという見方が一般的である。
 しかし、学会には “民衆は賢明であり、民衆の声のなかにこそ真の英知がある。 為政者やエリートたちは、民衆の声に耳を傾けなければならない” とする思想が、一貫して存在している、と語られています。
 そして、“師である池田会長の存在という共通項によって 「統合」 されている” と。
 私は、この一点が大切であると思います。 師を求め、法華経を研鑽し、人間革命をなしゆく場である座談会は、一般世間の単なる趣味や癒しの集いとは違い、そこには人生の蘇生・勝利の ドラマがあり、希望や栄光がある。
 そして、広宣流布を目的とした創価学会丸という船を浮かべる “大海” であり、広布の “推進力” であります。
 先生は、「座談会には、大宇宙を貫く法を説ききった 『哲学』 がある。 どんな人をも包みゆかんとする 『潤(うるお)い』 がる。 どんなに宿命に打ちひしがれていても、“もう一度、頑張ってみよう” と奮(ふる)い立たせずにはおかない 『希望』 がある」 と述べられています。 (同書・117P)

 なぜ座談会は 「民主主義の実像」 なのか
 池田会長が学会の座談会について、次のように語られています。
 「笑いあり、涙あり、感動あり。 決意と感謝の心が響き合い、悩みが勇気に、疲れが充実に変わる。 “庶民のオアシス”。 それが学会の座談会です。
 この小さな集いに 『人間共和の縮図』 がある。 『民主主義の実像』 がある。 『信仰と家庭と地域とを結ぶ広布の脈動』 がある」
 (同書・118P)

 佐藤  人間には、群れをつくる本能があります。 ゆえに、アトム(原子)的個人と国家が直接結ばれるのではなく、その前にまづさまざまな中間団体が成立し、その中間団体が国家と個人の間に介在して両者が結ばれるのが、社会の自然なありようなのです。 だからこそ、さまざまな中間団体がきちんと機能していることが、健全な民主主義のためには極めて重要になるのです。 カルヴァン派(スコットランドの長老派)教会の例で言えば、小会・中会が中間団体となって、個々人の声をきちんとすくい上げているからこそ、大会における意思決定がうまくいくのです。
 そのような中間団体が機能せず、個人と国家が直接結ばれてしまうと、個人にすべての権限が与えられ、国家はその権限の ストレートな代表になってしまうので、国家主義などの偏った思想に結びつきやすいのです。
 ………
 現代日本においては、中間団体の多くが、昔に比べて力を失っています。 労組(ろうそ)は弱体化し、地域共同体は崩壊の淵(ふち)にあります。企業も、終身雇用制が危機に瀕(ひん)しているため、昔のように社員とその家族を結ぶ強い絆(きずな)ではなくなっています。 残るは宗教団体ということになりますが、日本の津々浦々にくまなく存在し、中間団体として社会に溶け込んでいる宗教団体は、それこそ創価学会くらいなものではないでしょうか。
 中間団体がきちんと機能することを民主主義の根幹と捉えれば、中間団体の弱体化は民主主義の危機とも言えます。 そのなかにあって、創価学会は日本有数の中間団体として生き生きと活動を続けているのですから、学会こそが日本の民主主義を下支えしているとも言えるのです。
 そのように考えると、学会の座談会には 「『民主主義の実像』 がある」 という池田会長の言葉には、強い重みと説得力があります。


 佐藤氏は、近代の大きな社会では、バラバラな個々人が国家と直接 「社会契約」 を結ぶことには無理があると語っています。ゆえに、国家と個人の間に介在する中間団体の存在が、健全な議会制民主主義のためには極めて重要であると語っています。
 しかし、現代日本においては、さまざまな中間団体の多くが、昔に比べて弱体化してきています。そのなかにあって、宗教団体の創価学会だけが、生き生きと活動していることは、日本の民主主義を下支えしている言っても過言ではないと、絶大なる エールを送ってくださっています。
 さあ、この確信と自負をもって、来る 10・22 衆議院選挙において、創価パワーを満天下に示して大勝利しましょう。
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「新・人間革命」第14巻〔智勇の章〕(創大開学と四権分立)

 『新・人間革命』 第14巻は、一九六九年(昭和四十四年)五月四日、東京・両国の日大講堂で行われた、第三十二回本部総会から始まっています
 来年の五月三日までの一年は、池田先生の会長ご就任から満十年に至る、総仕上げの一年となります。
 そこで先生は、“来年五月三日までの目標として、七百五十万世帯の達成掲げて進みたい” とのご決意を披歴されました。
 次いで先生は、一九七一年(昭和四十六年)の開学をめざしている創価大学の在り方と、現今の学生運動について言及されました。

 〔智勇〕
 伸一は、学生運動の提起した問題の本質は、教授の精神の老い、権威主義などによる教授と学生の隔絶観、対立にあるととらえていた。
 吉田松陰という一人の青年教師が、長州・萩の松下村塾で、近代日本の夜明けを開く原動力になった塾生たちを育(はぐく)んだように、教師の情熱、魂の触発を、彼は最も重要視していたのである。
 「教授と学生とは、相互に対峙(たいじ)する関係ではなく、ともに学問の道を歩む同志です。 いわば、先輩と後輩であり、あくまでも民主的な関係でなくてはならない。
 したがって、学内の運営に関しても、学生参加の原則を実現し、理想的な学園共同体にしていきたいのであります」 
 ………
 次いで、創価大学の基本理念として、「人間教育の最高学府たれ」 「新しき大文化建設の揺籃(ようらん)たれ」 「人類の平和を守る フォートレス(要塞)たれ」 との、三つの モットーを発表したのである。
 「この モットーの第一は、人間を社会の メカニズムの部品と化し、人間性を無視している現代の教育界の実情に対して、あくまでも社会を リードしていく 英知と創造性に富んだ、全体人間をつくっていく大学でなければならないということを示したものです。
 モットーの第二は、行き詰まっている現代文明のなかにあって、仏法の生命哲学を根底に置き、人間生命の限りなき開花を基調とする、新しき大文化を担(にな)っていくことであります。
 そして、モットーの第三に、人類の平和を標榜(ひょうぼう)したゆえんは、新しき文明の建設も、未来社会の開拓も、平和の実現なくしてはありえないからであります。
 世界を戦乱に巻き込んで、民衆を不幸のどん底に叩きこむようなことがあっては、絶対になりません。
 いかにして平和を守るか。 これこそ、現代の人類が担った、最大の課題であります。
 今、私どものつくる創価大学は、民衆の側に立ち、民衆の幸福と平和を守るための要塞(ようさい)であり、牙城(がじょう)でなければならない と申し上げておきたいのであります」
 (新・人間革命14巻・10~12P)

 創価大学の基本理念として、三つの モットーが発表されています。
 現今の北朝鮮が、核兵器をもてあそんでいる状況をみて、危なくて仕様がありません。私は特に、三つ目の 「人類の平和を守る フォートレス(要塞)たれ」 の モットーの重要性が、ますます増してきていると思います。
 他の大学でも “世界平和” のスローガンを掲げているところはありましょうが、創価大学の “民衆の幸福と平和を守るための要塞たれ” というような具体的な指針は、他にはあまりないと思います。
 今までの大学は、国家のために働く人間をつくり出すことを目的としていた。ここに、学生運動の勃発に見られるように、日本の大学教育の限界が露呈したと思います。
 池田先生は、“二十一世紀は、「国益」 の追求から 「人類益」 の追求へ、「分断」 から 「融合」 へ、「戦争 」から 「平和」 へと向かわねばならぬ時代である。 大学も、国家のために働く人間から、人類の幸福と世界の平和・繁栄のために働く人間の育成へと、変わるべき時を迎えているといえよう。 人材像もまた、単に知識や技術の吸収にとどまらず、人類の幸福を実現する高い理念と、優れた人格をもち、技術、学術を使いこなしていける創造的な人間へと変化していかねばならない。……” (同書・12P) と言及されています。
 創価大学は、仏法の人間主義ともいうべき、日蓮大聖人の 「生命哲学」 を根底にした人材群を多く輩出しています。この三モットーを堅持した人材群は、必ずや、“人類の幸福と世界の平和・繁栄のため” に、働きに働き、これを実現してくれることを願っています。

 当時、多くの大学で学生運動が起きていた。大学のもつ封建的、特権的な体質や学生不在の自治の実態などの問題提起に、大学側は、なんら根本的な解決策も示さず、話し合いさえしょうとしなかった。
 校舎を占拠した学生たちを、力ずくで排除しょうと、警官隊を導入する大学もあった。その象徴的な出来事が、東大の安田講堂での一月十八・九の二日間にわたる攻防戦である。結局は、国家権力によって、打ち砕かれ、排除された。

 昭和四十四年五月、政府は 「大学の運営に関する臨時措置法案」 なるのもを国会に提出した。この法案は、教育・学問の府への、国家権力の介入、管理を可能とするものである。
 先生は、“真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めなければならない” と述べられ、次のように教育権の独立を提案されたのである。                                                                                                            
 そのなかで彼は、大学の再建には ビジョンが必要であり、それは、人間存在そのものについて明快な解決を与える理念でなくてはならないとして、「『生命の哲学』 を求めよ」 と訴えている。 そして、最後に、こう提案したのである。
 「現在の政界の一部には、政治権力の介入によって大学の再建を図ろうとする動きがあるようだが、それでは、さらに火に油を注(そそ)ぐことにしかなるまい。 真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めなければならないと思う。
 本来、教育は、次代の人間と文化を創(つく)る厳粛(げんしゅく)な事業である。 したがって、時の政治権力によって左右されることのない、確固たる自立性をもつべきである。 その意味から、私は、これまでの 立法・司法・行政 の三権に、教育を加え、四権分立案を提唱しておきたい」
 教育権の独立は、伸一が、大学問題を通して、教育の在り方を思索し続けてきた、一つの結論であった。
 真に人間の幸福に寄与する教育を実現していくには、人間への深い洞察に基づいた教育理念や教育方法等の研究が不可欠である。 そのためには教師、学識者、学生、さらには父母も加わった自由な話し合いが必要であり、なかでも、教師の主体的な研究や教育実践を認めることが極めて重要となる。
 ところが、教育権は行政権の一部とされ、一般行政のなかに、文部省を中心とする教育行政が含まれているのだ。 これでは、どうしても、政治権力の教育への介入を避(さ)けることはできない。
 そこで伸一は、教育の自主性、独立性を確保するために、立法・司法・行政 の三権に教育を加えた 「四権分立」 を提唱したのである。
 それは、まさに、政府が推(お)し進めている大学立法の対極に立つ主張であり、大学、そして、教育の在り方を根本から改革する提唱であった。
 (同書・34~36P)

 今までの三権に、教育を加えた 「四権分立」 は、教育の在り方を根本から改革する画期的な提唱である。
 ところで、先生が提唱された四権分立案を、公明党が国会へ提出したということを、一度も聞いた記憶はありません。 何故だろうかと、いつも疑問に思っていました。
 そこで、私なりに考えてみて、国会提出など具体化するのは、時期尚早であると思いました。
 何故ならば、三権であれ・教育であれ、それを運営するのは人間である。人間の如何が、事の成否のカギを握るのである。
 たとえば、牧口先生のような教育に造詣が深く、高潔な人格者であれば良いが、一方、森友学園理事長に見られる、今どきに教育勅語を信奉するような者が事に当たると、戦前の国家神道・教育の再来を招きかねない危険性がある。

 過去、明治憲法下の我が国は、天皇の “統帥権” と “陸・海軍大臣現役武官制” という軍事権を、他の三権から独立させていた。
 これをてこに、傲慢で威張り腐った軍人幹部らは、天皇の命のないまま軍隊を動かしたり、首班指名内閣を流産させたり、実に勝手気ままな振る舞いで、暴走してしまい ブレーキも効かず、ついに国を滅亡へと追いやったのである。
 このように、一つの権力を 立・司・行 の三権から分立させるには、よくよく考えて慎重にやらなければならない。
 池田先生は、“人間存在そのものについて明快な解決を与える理念である、「『生命の哲学』 を求めよ」” と訴えられています。 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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