「希望の源泉」(15)(学会の座談会)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 15回は、『法華経の智慧』 から考える 座談会の意義 であります。
 今回から 「授記品 第六」 の章に入ります。  (第三文明・2017/10月・53P)

 「集合知」 に満ちた 学会の座談会
 池田会長は冒頭で、「座談会は “大河” です。 あらゆる活動は、その大河に注ぎ込む “支流” です」、「座談会にこそ学会の 『心』 がある」 (法華経の智慧第2巻・115P) と語っています。

 佐藤 勝  創価学会の座談会には、いわゆる 「集合知(集団的知性)」 が満ちていますね。 ごく簡単に言えば 「みんなで作る知恵」 のことです。
 近年、個々の専門家による 「専門知」 の危(あや)うさが露呈してきたのとは対照的に、多くの人々の意見が集約されるなかから生まれてくる 「集合知」 は、「認知バイアス」 などの偏(かたよ)りがなくなって正解・最適解にたどりつく確率が高いことがわかってきました。 それは言い換えれば、「真の英知というものは、独(ひと)りよがりの解釈の対極にある」 ということでしょう。
 もちろん、集団で考えれば即座に 「集合知」 が生まれるというわけではありません。 逆に、一人で考えるよりも愚かな結論に至る “集合愚” に陥(おちい)る危険性もあるのです。……
 集合知が生まれる条件として、意見の 多様性・独立性・分散性・集約性 (=個々の意見を集団のものに統合するメカニズムがあること) の四つを挙げています。
 私は、学会の座談会はこの四条件を兼備していると思います。 世代も職業も立場も多様な人々が集(つど)い、多様な意見を自由に語り合う場であり、なおかつ、師である池田会長の存在という共通項によって 「統合」 されているからです。

 
 佐藤氏は、学会の座談会は、集団的知性に満ちています。 世間では、専門知識を持たない一般大衆の言うことなど、信用に値しないという見方が一般的である。
 しかし、学会には “民衆は賢明であり、民衆の声のなかにこそ真の英知がある。 為政者やエリートたちは、民衆の声に耳を傾けなければならない” とする思想が、一貫して存在している、と語られています。
 そして、“師である池田会長の存在という共通項によって 「統合」 されている” と。
 私は、この一点が大切であると思います。 師を求め、法華経を研鑽し、人間革命をなしゆく場である座談会は、一般世間の単なる趣味や癒しの集いとは違い、そこには人生の蘇生・勝利の ドラマがあり、希望や栄光がある。
 そして、広宣流布を目的とした創価学会丸という船を浮かべる “大海” であり、広布の “推進力” であります。
 先生は、「座談会には、大宇宙を貫く法を説ききった 『哲学』 がある。 どんな人をも包みゆかんとする 『潤(うるお)い』 がる。 どんなに宿命に打ちひしがれていても、“もう一度、頑張ってみよう” と奮(ふる)い立たせずにはおかない 『希望』 がある」 と述べられています。 (同書・117P)

 なぜ座談会は 「民主主義の実像」 なのか
 池田会長が学会の座談会について、次のように語られています。
 「笑いあり、涙あり、感動あり。 決意と感謝の心が響き合い、悩みが勇気に、疲れが充実に変わる。 “庶民のオアシス”。 それが学会の座談会です。
 この小さな集いに 『人間共和の縮図』 がある。 『民主主義の実像』 がある。 『信仰と家庭と地域とを結ぶ広布の脈動』 がある」
 (同書・118P)

 佐藤  人間には、群れをつくる本能があります。 ゆえに、アトム(原子)的個人と国家が直接結ばれるのではなく、その前にまづさまざまな中間団体が成立し、その中間団体が国家と個人の間に介在して両者が結ばれるのが、社会の自然なありようなのです。 だからこそ、さまざまな中間団体がきちんと機能していることが、健全な民主主義のためには極めて重要になるのです。 カルヴァン派(スコットランドの長老派)教会の例で言えば、小会・中会が中間団体となって、個々人の声をきちんとすくい上げているからこそ、大会における意思決定がうまくいくのです。
 そのような中間団体が機能せず、個人と国家が直接結ばれてしまうと、個人にすべての権限が与えられ、国家はその権限の ストレートな代表になってしまうので、国家主義などの偏った思想に結びつきやすいのです。
 ………
 現代日本においては、中間団体の多くが、昔に比べて力を失っています。 労組(ろうそ)は弱体化し、地域共同体は崩壊の淵(ふち)にあります。企業も、終身雇用制が危機に瀕(ひん)しているため、昔のように社員とその家族を結ぶ強い絆(きずな)ではなくなっています。 残るは宗教団体ということになりますが、日本の津々浦々にくまなく存在し、中間団体として社会に溶け込んでいる宗教団体は、それこそ創価学会くらいなものではないでしょうか。
 中間団体がきちんと機能することを民主主義の根幹と捉えれば、中間団体の弱体化は民主主義の危機とも言えます。 そのなかにあって、創価学会は日本有数の中間団体として生き生きと活動を続けているのですから、学会こそが日本の民主主義を下支えしているとも言えるのです。
 そのように考えると、学会の座談会には 「『民主主義の実像』 がある」 という池田会長の言葉には、強い重みと説得力があります。


 佐藤氏は、近代の大きな社会では、バラバラな個々人が国家と直接 「社会契約」 を結ぶことには無理があると語っています。ゆえに、国家と個人の間に介在する中間団体の存在が、健全な議会制民主主義のためには極めて重要であると語っています。
 しかし、現代日本においては、さまざまな中間団体の多くが、昔に比べて弱体化してきています。そのなかにあって、宗教団体の創価学会だけが、生き生きと活動していることは、日本の民主主義を下支えしている言っても過言ではないと、絶大なる エールを送ってくださっています。
 さあ、この確信と自負をもって、来る 10・22 衆議院選挙において、創価パワーを満天下に示して大勝利しましょう。
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「新・人間革命」第14巻〔智勇の章〕(創大開学と四権分立)

 『新・人間革命』 第14巻は、一九六九年(昭和四十四年)五月四日、東京・両国の日大講堂で行われた、第三十二回本部総会から始まっています
 来年の五月三日までの一年は、池田先生の会長ご就任から満十年に至る、総仕上げの一年となります。
 そこで先生は、“来年五月三日までの目標として、七百五十万世帯の達成掲げて進みたい” とのご決意を披歴されました。
 次いで先生は、一九七一年(昭和四十六年)の開学をめざしている創価大学の在り方と、現今の学生運動について言及されました。

 〔智勇〕
 伸一は、学生運動の提起した問題の本質は、教授の精神の老い、権威主義などによる教授と学生の隔絶観、対立にあるととらえていた。
 吉田松陰という一人の青年教師が、長州・萩の松下村塾で、近代日本の夜明けを開く原動力になった塾生たちを育(はぐく)んだように、教師の情熱、魂の触発を、彼は最も重要視していたのである。
 「教授と学生とは、相互に対峙(たいじ)する関係ではなく、ともに学問の道を歩む同志です。 いわば、先輩と後輩であり、あくまでも民主的な関係でなくてはならない。
 したがって、学内の運営に関しても、学生参加の原則を実現し、理想的な学園共同体にしていきたいのであります」 
 ………
 次いで、創価大学の基本理念として、「人間教育の最高学府たれ」 「新しき大文化建設の揺籃(ようらん)たれ」 「人類の平和を守る フォートレス(要塞)たれ」 との、三つの モットーを発表したのである。
 「この モットーの第一は、人間を社会の メカニズムの部品と化し、人間性を無視している現代の教育界の実情に対して、あくまでも社会を リードしていく 英知と創造性に富んだ、全体人間をつくっていく大学でなければならないということを示したものです。
 モットーの第二は、行き詰まっている現代文明のなかにあって、仏法の生命哲学を根底に置き、人間生命の限りなき開花を基調とする、新しき大文化を担(にな)っていくことであります。
 そして、モットーの第三に、人類の平和を標榜(ひょうぼう)したゆえんは、新しき文明の建設も、未来社会の開拓も、平和の実現なくしてはありえないからであります。
 世界を戦乱に巻き込んで、民衆を不幸のどん底に叩きこむようなことがあっては、絶対になりません。
 いかにして平和を守るか。 これこそ、現代の人類が担った、最大の課題であります。
 今、私どものつくる創価大学は、民衆の側に立ち、民衆の幸福と平和を守るための要塞(ようさい)であり、牙城(がじょう)でなければならない と申し上げておきたいのであります」
 (新・人間革命14巻・10~12P)

 創価大学の基本理念として、三つの モットーが発表されています。
 現今の北朝鮮が、核兵器をもてあそんでいる状況をみて、危なくて仕様がありません。私は特に、三つ目の 「人類の平和を守る フォートレス(要塞)たれ」 の モットーの重要性が、ますます増してきていると思います。
 他の大学でも “世界平和” のスローガンを掲げているところはありましょうが、創価大学の “民衆の幸福と平和を守るための要塞たれ” というような具体的な指針は、他にはあまりないと思います。
 今までの大学は、国家のために働く人間をつくり出すことを目的としていた。ここに、学生運動の勃発に見られるように、日本の大学教育の限界が露呈したと思います。
 池田先生は、“二十一世紀は、「国益」 の追求から 「人類益」 の追求へ、「分断」 から 「融合」 へ、「戦争 」から 「平和」 へと向かわねばならぬ時代である。 大学も、国家のために働く人間から、人類の幸福と世界の平和・繁栄のために働く人間の育成へと、変わるべき時を迎えているといえよう。 人材像もまた、単に知識や技術の吸収にとどまらず、人類の幸福を実現する高い理念と、優れた人格をもち、技術、学術を使いこなしていける創造的な人間へと変化していかねばならない。……” (同書・12P) と言及されています。
 創価大学は、仏法の人間主義ともいうべき、日蓮大聖人の 「生命哲学」 を根底にした人材群を多く輩出しています。この三モットーを堅持した人材群は、必ずや、“人類の幸福と世界の平和・繁栄のため” に、働きに働き、これを実現してくれることを願っています。

 当時、多くの大学で学生運動が起きていた。大学のもつ封建的、特権的な体質や学生不在の自治の実態などの問題提起に、大学側は、なんら根本的な解決策も示さず、話し合いさえしょうとしなかった。
 校舎を占拠した学生たちを、力ずくで排除しょうと、警官隊を導入する大学もあった。その象徴的な出来事が、東大の安田講堂での一月十八・九の二日間にわたる攻防戦である。結局は、国家権力によって、打ち砕かれ、排除された。

 昭和四十四年五月、政府は 「大学の運営に関する臨時措置法案」 なるのもを国会に提出した。この法案は、教育・学問の府への、国家権力の介入、管理を可能とするものである。
 先生は、“真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めなければならない” と述べられ、次のように教育権の独立を提案されたのである。                                                                                                            
 そのなかで彼は、大学の再建には ビジョンが必要であり、それは、人間存在そのものについて明快な解決を与える理念でなくてはならないとして、「『生命の哲学』 を求めよ」 と訴えている。 そして、最後に、こう提案したのである。
 「現在の政界の一部には、政治権力の介入によって大学の再建を図ろうとする動きがあるようだが、それでは、さらに火に油を注(そそ)ぐことにしかなるまい。 真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めなければならないと思う。
 本来、教育は、次代の人間と文化を創(つく)る厳粛(げんしゅく)な事業である。 したがって、時の政治権力によって左右されることのない、確固たる自立性をもつべきである。 その意味から、私は、これまでの 立法・司法・行政 の三権に、教育を加え、四権分立案を提唱しておきたい」
 教育権の独立は、伸一が、大学問題を通して、教育の在り方を思索し続けてきた、一つの結論であった。
 真に人間の幸福に寄与する教育を実現していくには、人間への深い洞察に基づいた教育理念や教育方法等の研究が不可欠である。 そのためには教師、学識者、学生、さらには父母も加わった自由な話し合いが必要であり、なかでも、教師の主体的な研究や教育実践を認めることが極めて重要となる。
 ところが、教育権は行政権の一部とされ、一般行政のなかに、文部省を中心とする教育行政が含まれているのだ。 これでは、どうしても、政治権力の教育への介入を避(さ)けることはできない。
 そこで伸一は、教育の自主性、独立性を確保するために、立法・司法・行政 の三権に教育を加えた 「四権分立」 を提唱したのである。
 それは、まさに、政府が推(お)し進めている大学立法の対極に立つ主張であり、大学、そして、教育の在り方を根本から改革する提唱であった。
 (同書・34~36P)

 今までの三権に、教育を加えた 「四権分立」 は、教育の在り方を根本から改革する画期的な提唱である。
 ところで、先生が提唱された四権分立案を、公明党が国会へ提出したということを、一度も聞いた記憶はありません。 何故だろうかと、いつも疑問に思っていました。
 そこで、私なりに考えてみて、国会提出など具体化するのは、時期尚早であると思いました。
 何故ならば、三権であれ・教育であれ、それを運営するのは人間である。人間の如何が、事の成否のカギを握るのである。
 たとえば、牧口先生のような教育に造詣が深く、高潔な人格者であれば良いが、一方、森友学園理事長に見られる、今どきに教育勅語を信奉するような者が事に当たると、戦前の国家神道・教育の再来を招きかねない危険性がある。

 過去、明治憲法下の我が国は、天皇の “統帥権” と “陸・海軍大臣現役武官制” という軍事権を、他の三権から独立させていた。
 これをてこに、傲慢で威張り腐った軍人幹部らは、天皇の命のないまま軍隊を動かしたり、首班指名内閣を流産させたり、実に勝手気ままな振る舞いで、暴走してしまい ブレーキも効かず、ついに国を滅亡へと追いやったのである。
 このように、一つの権力を 立・司・行 の三権から分立させるには、よくよく考えて慎重にやらなければならない。
 池田先生は、“人間存在そのものについて明快な解決を与える理念である、「『生命の哲学』 を求めよ」” と訴えられています。 
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「希望の源泉」(14)(変わるのが「生きた宗教」)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 14回は、変わり続けることが 「生きた宗教」 の証し であります。  (第三文明・2017/9月・53P)

 はじめに、東京都議選の公明の完全勝利を喜ばれています。氏は 「自民党都連と決別し、都民ファーストとの共闘を選んだとき,快哉(かいさい)を叫びまいた。自民党の驕(おご)りと、『創価学会は多少雑に扱っても協力してくれるだろう』 とでも言いたげな “甘えと緩(ゆる)み” を感じていたからです」 と語っています。

 「成仏へと向かう軌道」 のなかに仏がある
 ――  この章のもう一つのポイントとして、「成仏」 についての考察があります。
 「薬草喩品は、弟子が領解した内容を仏が承認するとともに、さらに補って述べるという形をとっています。 この説法を天台は 『述成(じゅつじょう)』 と位置づけています」 という解説を受けて、池田会長は次のように述べています。

 「何のために 『述成』 あるのかと言えば、法華経の説法を信解した声聞たちが、『成仏に至る菩薩道に間違いなく入った』 ことを、はっきりさせるためです。(中略) 『間違いなく成仏への道に入った』 ことが、法華経の一仏乗を信解した功徳なのです」 (法華経の智慧 2巻・85P)
 ………
 要するに、成仏とは、“ゴールに到達してそこにとどまる” ことではなく、“成仏へと向かう軌道に入ったこと” それ自体が成仏なのだ、という捉え方ですね。

 一般的には、成仏を目指して修行し、成仏という ゴールに到達すれば、目的達成で そこに居続けられる、という イメージがあると思います。 じつは、「仏」 という一つの固定された実態があるのではなく、成仏へと向かう菩薩道に間違いなく入ったこと、それ自体が成仏なのである。 言うなれば、菩薩道という “軌道・プロセス” のなかに 「仏」 がある、というのです。

 佐藤 勝  『法華経の智慧』 で展開されている成仏観は、もっと動的で生成的です。 成仏を軌道として捉えるからこそ、そこでいう仏には悩みも葛藤もある。そして、その悩みや葛藤を悠々と乗り越えていく プロセスそのもののなかに、仏としての智慧が躍動するのだという考え方なのだと思います。
 「仏」 というと、現実世界に生きるわれわれとは次元の異なる存在である、という イメージを持つ人のほうが多いのでしょうが、創価学会における 「仏」 はそうではないのですね。 むしろ、衆生の救済のために現実世界のなかで行動し続ける人こそが仏である、と。
 これは誤解を招きかねないので慎重に言葉を選ばないといけませんが、私のような外部観察者から見れば、池田会長のような方こそまさに 「仏」 だと感じますね。


 佐藤氏は “衆生の救済のために現実世界のなかで行動し続ける人こそが仏である” とまで言ってくださっています。そして、池田先生を “「仏」 だと感じますね” と。 総じていえば、広宣流布に戦う 我ら学会員は、すべて 「仏」 なのであります。
 日寛上人曰く 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、連祖聖人なり」 と。 (文段集・548P) 

 テキストだけを絶対視する危険性
佐藤  成仏を 「生成の過程」 と捉えることに敷衍(ふえん)して言えば、池田会長の数多い著作もまた、その 「生成の過程」 のなかにあるものとして捉えるべきだと私は考えます。 というのも、何十年も前の池田会長の著作と近年の著作を比較して、細かな差異をあげつらって批判する人が、ときどきいるからです。 その時代時代に応じた文脈というものがあるのですから、部分的に主張が変わったとしても、創価学会は 「生きた宗教」 であるので、むしろ当然です。
 ………
 もちろん、一貫して変わらない根幹の部分はあるにせよ、変わってよい部分は柔軟に変わってきた。 その変化それ自体を 「変節」 や 「迎合」 と捉えて批判する人は、「生きた宗教」 とはどういうものであるかがわかっていないのだと思います。


 「生きた宗教」 の テキストは、時代に応じて変化していくことは当然である。
 氏は キリスト教の テキストの聖書もこれまで何十回も改定を繰り返してきている。 これも 「生きた宗教」 である一つの証である と語られている。
 また、創価学会が会則改正したとき、60年前の戸田先生の “弘安2年の御本尊” に関する指導を引き合いに出して、“今の学会指導は間違いである。けしからん” と批判する者も居たのである。
 戸田先生の時代は、日蓮正宗の教義を受け入れて、宗教法人格を取得し、広布の戦いをしていた。 今は破門され 別団体となっており、当時の状況とは まったく変化しているのである。
 そうであるからには、他教団の本尊や教義を信奉しなければならない謂れは一切ないのである。

 佐藤  また、創価学会には 「人間主義」 が根底にあるからこそ、「目の前の一人に、もっとわかりやすく法を説きたい」 との思いから、テキストを変えてよい部分は柔軟に変えることができる、とも言えます。 信仰においては、人間が 「主」 で、テキストは 「従」 です。 テキストを絶対視するあまり、人間のほうが 「従」 になってしまったら、それこそ本末転倒でしょう。

 “人間が 「主」 で、テキストは 「従」 です。 テキストを絶対視するあまり、人間のほうが 「従」 になってしまったら、それこそ本末転倒でしょう” と。 これこそが、創価の 「人間主義」 の考え方であると思います。
 ゆえに、大聖人の 「御書」 といえども、文字面に執着し、絶対視するのは間違いのもとになる場合がある。
 たとえば 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(328P) とあるからと言って、インド応誕の釈尊を本尊とすることは、大聖人の御正意に反します。

 次元が異なる文献学的真実と信仰
 ――  いわゆる 「大乗非仏説」(法華経などの大乗経典は釈尊の直説(じきせつ)ではなく、後世に作られたものだ、とする説) が仏教界で定説になっていても、そのことによって信仰が揺らぐわけではないのと同じですね。
 佐藤  そうでしょうね。文献学的真実と、信仰における真実は次元が違いますから。 そこを混同してしまったら、それは信仰者ではなく学者の目線になってしまいます。

 歴史上の “文献学的真実と、信仰における真実は次元が違いますから” と。
 経文なぞ、むしろ 文献学的真実と違ったり、証明ができないのが多々あるのである。これは次元の違う問題であると、心に銘じて、自身の信仰心がふらつかない様に気を付けましょう。
 すでに、この シリーズで “法華経は直説か創作か” という関連ブログがありますので参考にしてください。

  参考: 関連ブログ ―→ ここから
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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