相模原事件に思う(2)(万法は己心に収まりて)

 前のブログで、人は必ず年を取って死を迎える。そのように考えれば障害者の問題は、じつは自分自身の問題なのである と書きました。
 これらの見解は普通一般的なもので、誰にでも分かるものですが、人はややもすれば自身の若さや健康なるをもって、老齢者や障害者を嫌悪し、蔑視・差別化してしまいがちである。
 この事件の加害者も、このような考えのうえに、人の生命を金銭と天秤にかけ、効率主義・成果主義の風潮に流されたのではないか、と思われる。したがって、「障害者なんていなくなればいい。税金の無駄遣いになる」 等々の発想が生まれたのではないのかと思う。
 詰まるところ、生命の実相を知らず、生命の軽視が生んだ弊害ではないかと思います。

 池田先生は、米国のハーバード大学での講演で、「死を忘れた文明」 について述べられたところがあります。ご参考になると思いますので、是非お読みくだされば幸いです。
 講演 「21世紀文明と大乗仏教」 ―→ ここから

 仏法では人間の生命は、宇宙生命と同等であるとする、生命至上主義ともいうべきものをとなえています。
 日蓮大聖人は、「万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり」(1473P) と仰せです。

 私はこの御文を、初めて拝したとき、“九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり” とは、なかなか理解できませんでした。自分の頭脳で想像できるからだと思ったが、そんな思考の次元の問題でもないようだ。
 通常、私達は、自身と山川草木・日月・衆星などの森羅万象とが別々に存在していると、分けて考えている。この対立的な思考に、そのうえ自分を中心に考えると、日月・衆星などが己心に収まるとは、とうてい理解できないのである。

 仏法では、「無量義は一法より生ず」(無量義経) と説いている。
 法華経は人間や日月・衆星などの全てが、この 「一法」 から顕現したものであると説いている。そして、この 「一法」 こそ “南無妙法蓮華経” であり、“妙法” と称するものである。
 ゆえに、山川草木・日月・衆星などは、宇宙根源の 「一法」 から創出されたもので、したがって、その一法である “南無妙法蓮華経” の 「当体」 であるといえます。
 それと同じく、人間も “南無妙法蓮華経” の 「当体」 である。
 「当体」 とは “事物そのもの” ということで、 “南無妙法蓮華経そのもの” が、そこに “ある・収まる・備わる” ことを示している。
 ゆえに、“万法は己心に収まりて” と。 同じく、今度は “九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり” と仰せられたのである。 

 涅槃経に 「一切衆生悉有(しつう)仏性 (一切衆生に悉く仏性有り)」 と説かれています。
 一切衆生に仏性有りということは、いかなる障害者にも尊極なる仏性が有るということです。
 我が己心に、障害者の命も、否、一切衆生をも収めているのである。なかなか理解し難く信じ難い法理でありますが、仏さまの智慧はそのように説いているのである。
 ゆえに、その人々を殺すということは、実は我が身を殺していることになる。因果の理法により、大罰の報いを受けなければならなくなるのである。

 上記の法理は、人間だけでなく、国土世間すなわち、環境面においても成り立つのである。通常は 「依正不二論」 として論じられており、教学的には有名な用語であります。
 依正とは、「依報」 と 「正報」 のことで、過去の行為の報い(果報)を受ける衆生を 「正報」 といい、正報の拠りどころとなる環境・国土を 「依報」 という。
 この依報と正報は、ともに一念(生命)のなかにあり、現象面では二つであるが、相互に深い関係性があり 「不二」 (二にして二ならずの意) となる。

 大聖人は 「天崩(くず)れば我が身も崩る可し、地裂(さ)けば我が身も裂く可し、地水火風滅亡せば我が身も亦滅亡すべし」(568P) と仰せです。
 したがって、生物の頂点に立つ人間が、自己の欲望を肥大化させて、地球環境を破壊して行けば、人類自身が滅亡することになる。
 その上に今時は、人間自らが作った核兵器により、人類滅亡の瀬戸際に立たされている。
 この危機を乗り越えるには、人類が日蓮大聖人の生命哲学を持つて、自身の欲望・怒り・無明の心を変革する、「人間革命」 を成し遂げていく以外にないと思います。

 相模原事件を縁として、話が大きくなってしまったが、所詮、個人であれ、人類全体であれ、自分自身の生命について無知なることが、この世の不幸の根源であると思います。
 宗祖大聖人曰く、「命限り有り惜む可からず、遂に願う可きは仏国也」(955P) と。 
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相模原事件に思う(1)(宗教を失った社会)

 神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設 「津久井やまゆり園」 に、元職員だった男が侵入し、入所者らを刃物で次々と襲い、男女 19人が殺害され、重軽傷者も 27人に上った。この種の事件で、これほどまでの大惨事は過去にもなかったとのことである。

 加害者の男は、取り調べに 「障害者なんていなくなればいい」 という供述をしているという。
 また、「障害者は生きていても周りに迷惑をかけるだけ、無駄に税金をかけるより、その分を子育て等に有効に使った方が国のためになり、国を救うことになる」 という趣旨の発言をしているという。
 このような考えが、世のためになると一種の正義感を持って、事件を起こしているようである。実に、思想ほど恐ろしいものはないのである。

 こんな思想は、まったくもって 道理を弁えない身勝手な独りよがりの暴論という外はない。
 誰もが障害者になるかもしれない。否、誰もが必然的に誰かの手を借りなければならない時が来る。そのように考えれば障害者の問題は、じつは自分自身の問題なのである。
 高齢化社会に突入して、ますますこの問題の重要性が増してきております。自分には関係ないと無関心を決め込むのではなく、自分から主体的にかかわって、いまの社会をみんな仲良く・安心して暮らせる・生きていて楽しい、という世の中を建設していきたいと思います。

 今年の 8月6日は、非常に意義ある日である。
 8 時より、71回目の広島原爆死没者慰霊式典が挙行された。
 同じ時刻に、ブラジルの リオ 2016 オリンピックの開会式も挙行された。
 本日の聖教新聞の連載小説 「新・人間革命(清新45)」 には、池田先生の 「宗教を失った社会」 についての指導がありますのでご紹介します。  

 近代 インドの思想家 ビベーカーナンダが 「宗教を人間社会から取り去ったら何が残るか。 獣類のすむ森にすぎない」 と喝破(かっぱ)したように、宗教を失った社会も、人間も、不安の濃霧のなかで、欲望という荒海に翻弄(ほんろう)され、漂流を余儀なくされる。 そして、人類がたどり着いて先が、科学信仰、コンピューター信仰、核信仰、拝金主義等々であった。
 だが、際限なく肥大化した欲望の産物ともいうべき、それらの “信仰” は、精神の荒廃や空洞化をもたらし、人間不信を助長し、公害や人間疎外を引き起こしていった。
 科学技術も金銭も、それを人間の幸福、平和のために使っていくには、人間自身の変革が不可欠であり、そこに宗教の役割もある。
  (聖教・2016-8/6-3 面)

 現代は、宗教を必要とする人が少なくなり、心が宗教から離れつつある情況である。これは、憂慮すべき問題である。
 ウィルソン教授は 「本来、宗教は人間にとって必要不可欠なものです」 と言われております。
 宗教を失った社会は、欲望という荒海に翻弄され、その産物ともいうべきもの(結果)が、“精神の荒廃や空洞化をもたらし、人間不信を助長し、公害や人間疎外を引き起こしていった” と指導されています。
 相模原事件は、「宗教を失った社会」 の深刻なる様相の一断面を映し出しているものであると思います。
 ゆえに、絶対に宗教は必要なのである。その正しい宗教によって、個人は 「人間革命」 をし、社会は 「広宣流布」 をする以外に、これらの問題の解決の道はないのであります。 

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宇宙的 ヒューマニズム(佐藤氏の「希望の源泉」から)

 雑誌 『第三文明』 に、佐藤 優氏の 「希望 源泉」 (池田思想を読み解く) が新しく連載されました。
 第 1回 は、『法華経の智慧』 に見る 「民衆宗教」 と 「人間主義」 であります。

 『法華経の智慧』 は、当ブログにも数多く引用させてさせて頂いています。法華経を学ぶためには無くてはならない、池田先生の代表的著作の一つであると思っています。
 佐藤 優氏は、同志社大学大学院神学研究科を修了された、歴とした プロテスタントの宗教学者であります。佐藤氏の眼から見て 『法華経の智慧』 を、どのように評価してくださるのか、興味の湧くところである。
 
 〔「宗教改革の書」 でもある 「法華経の智慧」〕
 まず冒頭に佐藤氏が、『池田大作全集』 全150巻を買いそろえました とのこと、1~2年かけて全巻通読に チャレンジしていくと決意を披歴しています。お忙しい身で、全巻読破もさることながら、全150巻をそろえることは並大抵のことではありません。すごいことで、今後のご活躍を願っています。
 この新連載の 「希望の源泉」 は、司会者とわかりやすい対話形式で進められています。大聖人の 「立正安国論」 も問答形式で書かれており、池田先生の思想を読み解くうえでふさわしい スタイルだ、と語られています。

 佐藤 『法華経の智慧』 の連載が開始されたのは1995年。……1991年 ソ連崩壊で共産主義という一つの価値観が崩壊し、世界に巨大な思想的空白が生まれた。 その空白を埋めるため、ナショナリズムという危険な思想が世界に蔓延(まんえん)しかかっていた。 そのような節目の時代にあって、人類が ナショナリズムの方向に進まず、平和な 21世紀を生きていくための 「人間主義の思想書」 として構想されたのが、『法華経の智慧』 だったのではないでしょうか。
 と同時に、『法華経の智慧』 は、今まさに本格化している 「創価学会の世界宗教化」 の、基盤となり得る書物だと思います。
  (第三文明・2016-8月・53P)

 21世紀に入り、大国の国家間の紛争はなくなったようですが、民族・宗教・地域紛争・テロ暴力事件・自然災害等は、ますます盛んに頻発しております。未だ世界は、この問題の解決への道を見い出していません。
 大聖人は、「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」(1467P) と仰せです。“平和な 21世紀を生きていくための 「人間主義の思想書」” としての 『法華経の智慧』 の重要性は、ますます高まっていくと思います。

 〔生命への畏敬から生まれた「人間主義」〕
 この項で、池田先生が “宇宙的 ヒューマニズム” と発言されたことが述べられています。

 佐藤 『法華経の智慧』 は、池田会長の 「人間主義」 の思想が本格的に、また多角的に論じられている書物だと思います。 たとえば…… 会長が次のように述べるくだりがあります。
 「共産主義も資本主義も、人間を手段にしてきたが、人間が目的となり、人間が主人となり、人間が王者となる―― 根本の人間主義が、『経の王』 法華経にはある。 こういう法華経の主張を、かりに 『宇宙的人間主義』 『宇宙的ヒューマニズム』 と呼んではどうらろうか」 (上巻・25P/「普及版」による)
 従来のあらゆる政治思想・経済思想が人間を手段視してきたのに対し、池田会長の掲げる人間主義は、人間が目的となる、というのです。
 また、「人間主義」 は英語の直訳すれば 「ヒューマニズム」 ですから、従来の ヒューマニズムとどう違うのかがわかりにくかった。その点をふまえ、池田会長は 「宇宙的ヒューマニズム」 という新しい言葉を作られた。
 従来の ヒューマニズムは、「人間中心主義」―― つまり、「地球の自然は人間が利用するためにある」 と考える傲慢(ごうまん)さを孕(はら)んでいました。 それに対して、池田会長の人間主義、ひいては法華経の人間主義は、地球という狭い枠にとらわれない宇宙的視座からの ヒューマニズムだというのです。地球においては人間が覇者(はしゃ)ですから、「人間がいちばん偉いのだ、特別なのだ」 という傲慢に陥(おちい)りがちです。 しかし、宇宙的視座から考えれば、人間は宇宙の覇者ではないし、地球も宇宙の中心ではありません。したがって、宇宙的 ヒューマニズムは単純な人間中心主義ではあり得ないわけです。


 ―― 従来の ヒューマニズムが陥った 「人間中心主義」 は、生命軽視が生んだものですね。 動植物を人間が生きるための手段として捉えてしまったのですから……。 それに対して、池田会長の人間主義の根底には、すべての生命のなかに仏性があるとする法華経の思想をふまえた 「生命至上主義」 があります。

 佐藤 よくわかります。 「生命の尊厳を根底に据えた人間主義」 であるからこそ、池田思想は環境破壊や、他者の生命を蹂躙(じゅうりん)する戦争には結びつかないのです。 そして、他者の生命の尊重が根底にあるから、池田会長は宗教間対話においても相手を最大限に尊重して対話に臨むことができる。相手の生命の奥底にある仏性を見据えての対話であるからでしょう。
  『法華経の智慧』 が、「二十一世紀の宗教を語る」 という副題を持つことは象徴的です。 「宇宙的人間主義」 を掲げた SGI こそ、二十一世紀において異なる宗教を結ぶ役割を果たし得るという自負が、この副題から感じ取れる気がします。
  (同誌・57P)

 「人間中心主義」 と言えば聞こえはよいが、“「人間がいちばん偉いのだ、特別なのだ」 という傲慢に陥りがちです” と言われるような危険性があるのである。 そこからは、人間が主人公になり、動植物や環境まで利用して当然とする考えになってしまった。その結果が、現世の混沌とした世情の姿である。
 これを正すには、“すべての生命のなかに仏性があるとする法華経の思想” すなわち、「法華経の人間主義」 「宇宙的 ヒューマニズム」 の思想を基盤としなければならないのである。 
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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 80歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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