「新・人間革命」第14巻〔智勇の章〕(創大開学と四権分立)

 『新・人間革命』 第14巻は、一九六九年(昭和四十四年)五月四日、東京・両国の日大講堂で行われた、第三十二回本部総会から始まっています
 来年の五月三日までの一年は、池田先生の会長ご就任から満十年に至る、総仕上げの一年となります。
 そこで先生は、“来年五月三日までの目標として、七百五十万世帯の達成掲げて進みたい” とのご決意を披歴されました。
 次いで先生は、一九七一年(昭和四十六年)の開学をめざしている創価大学の在り方と、現今の学生運動について言及されました。

 〔智勇〕
 伸一は、学生運動の提起した問題の本質は、教授の精神の老い、権威主義などによる教授と学生の隔絶観、対立にあるととらえていた。
 吉田松陰という一人の青年教師が、長州・萩の松下村塾で、近代日本の夜明けを開く原動力になった塾生たちを育(はぐく)んだように、教師の情熱、魂の触発を、彼は最も重要視していたのである。
 「教授と学生とは、相互に対峙(たいじ)する関係ではなく、ともに学問の道を歩む同志です。 いわば、先輩と後輩であり、あくまでも民主的な関係でなくてはならない。
 したがって、学内の運営に関しても、学生参加の原則を実現し、理想的な学園共同体にしていきたいのであります」 
 ………
 次いで、創価大学の基本理念として、「人間教育の最高学府たれ」 「新しき大文化建設の揺籃(ようらん)たれ」 「人類の平和を守る フォートレス(要塞)たれ」 との、三つの モットーを発表したのである。
 「この モットーの第一は、人間を社会の メカニズムの部品と化し、人間性を無視している現代の教育界の実情に対して、あくまでも社会を リードしていく 英知と創造性に富んだ、全体人間をつくっていく大学でなければならないということを示したものです。
 モットーの第二は、行き詰まっている現代文明のなかにあって、仏法の生命哲学を根底に置き、人間生命の限りなき開花を基調とする、新しき大文化を担(にな)っていくことであります。
 そして、モットーの第三に、人類の平和を標榜(ひょうぼう)したゆえんは、新しき文明の建設も、未来社会の開拓も、平和の実現なくしてはありえないからであります。
 世界を戦乱に巻き込んで、民衆を不幸のどん底に叩きこむようなことがあっては、絶対になりません。
 いかにして平和を守るか。 これこそ、現代の人類が担った、最大の課題であります。
 今、私どものつくる創価大学は、民衆の側に立ち、民衆の幸福と平和を守るための要塞(ようさい)であり、牙城(がじょう)でなければならない と申し上げておきたいのであります」
 (新・人間革命14巻・10~12P)

 創価大学の基本理念として、三つの モットーが発表されています。
 現今の北朝鮮が、核兵器をもてあそんでいる状況をみて、危なくて仕様がありません。私は特に、三つ目の 「人類の平和を守る フォートレス(要塞)たれ」 の モットーの重要性が、ますます増してきていると思います。
 他の大学でも “世界平和” のスローガンを掲げているところはありましょうが、創価大学の “民衆の幸福と平和を守るための要塞たれ” というような具体的な指針は、他にはあまりないと思います。
 今までの大学は、国家のために働く人間をつくり出すことを目的としていた。ここに、学生運動の勃発に見られるように、日本の大学教育の限界が露呈したと思います。
 池田先生は、“二十一世紀は、「国益」 の追求から 「人類益」 の追求へ、「分断」 から 「融合」 へ、「戦争 」から 「平和」 へと向かわねばならぬ時代である。 大学も、国家のために働く人間から、人類の幸福と世界の平和・繁栄のために働く人間の育成へと、変わるべき時を迎えているといえよう。 人材像もまた、単に知識や技術の吸収にとどまらず、人類の幸福を実現する高い理念と、優れた人格をもち、技術、学術を使いこなしていける創造的な人間へと変化していかねばならない。……” (同書・12P) と言及されています。
 創価大学は、仏法の人間主義ともいうべき、日蓮大聖人の 「生命哲学」 を根底にした人材群を多く輩出しています。必ずや、三モットーを堅持して、“人類の幸福と世界の平和・繁栄のため” に、働き・実現してくれることを願っています。

 当時、多くの大学で学生運動が起きていた。大学のもつ封建的、特権的な体質や学生不在の自治の実態などの問題提起に、大学側は、なんら根本的な解決策も示さず、話し合いさえしょうとしなかった。
 校舎を占拠した学生たちを、力ずくで排除しょうと、警官隊を導入する大学もあった。その象徴的な出来事が、東大の安田講堂での一月十八・九の二日間にわたる攻防戦である。結局は、国家権力によって、打ち砕かれ、排除された。

 昭和四十四年五月、政府は 「大学の運営に関する臨時措置法案」 なるのもを国会に提出した。この法案は、教育・学問の府への、国家権力の介入、管理を可能とするものである。
 先生は、“真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めなければならない” と述べられ、次のように教育権の独立を提案されたのである。                                                                                                            
 そのなかで彼は、大学の再建には ビジョンが必要であり、それは、人間存在そのものについて明快な解決を与える理念でなくてはならないとして、「『生命の哲学』 を求めよ」 と訴えている。 そして、最後に、こう提案したのである。
 「現在の政界の一部には、政治権力の介入によって大学の再建を図ろうとする動きがあるようだが、それでは、さらに火に油を注(そそ)ぐことにしかなるまい。 真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めなければならないと思う。
 本来、教育は、次代の人間と文化を創(つく)る厳粛(げんしゅく)な事業である。 したがって、時の政治権力によって左右されることのない、確固たる自立性をもつべきである。 その意味から、私は、これまでの立法・司法・行政の三権に、教育を加え、四権分立案を提唱しておきたい」
 教育権の独立は、伸一が、大学問題を通して、教育の在り方を思索し続けてきた、一つの結論であった。
 真に人間の幸福に寄与する教育を実現していくには、人間への深い洞察に基づいた教育理念や教育方法等の研究が不可欠である。 そのためには教師、学識者、学生、さらには父母も加わった自由な話し合いが必要であり、なかでも、教師の主体的な研究や教育実践を認めることが極めて重要となる。
 ところが、教育権は行政権の一部とされ、一般行政のなかに、文部省を中心とする教育行政が含まれているのだ。 これでは、どうしても、政治権力の教育への介入を避(さ)けることはできない。
 そこで伸一は、教育の自主性、独立性を確保するために、立法・司法・行政の三権に教育を加えた 「四権分立」 を提唱したのである。
 それは、まさに、政府が推(お)し進めている大学立法の対極に立つ主張であり、大学、そして、教育の在り方を根本から改革する提唱であった。
 (同書・34~36P)

 今までの三権に、教育を加えた 「四権分立」 は、教育の在り方を根本から改革する画期的な提唱である。
 ところで、先生が提唱された四権分立案を、公明党が国会へ提出したということを、一度も聞いた記憶はありません。何故だろうかと、いつも疑問に思っていました。
 そこで、私なりに考えてみて、国会提出など具体化するのは、時期尚早であると思いました。
 何故ならば、三権であれ・教育であれ、それを運営するのは人間である。人間の如何が、事の成否のカギを握るのである。
 たとえば、牧口先生のような教育に造詣が深く、高潔な人格者であれば良いが、一方、森友学園理事長に見られる、今どきに教育勅語を信奉するような者が事に当たると、戦前の国家神道・教育の再来を招きかねない危険性がある。

 過去、明治憲法下の我が国は、天皇の “統帥権” と “軍部大臣現役武官制” という軍事権を、他の三権から独立させていた。
 これをてこに、傲慢で威張り腐った軍人幹部らは、天皇の命のないまま軍隊を動かしたり、首班指名内閣を流産させたり、実に勝手気ままな振る舞いで、国を滅亡へと追いやったのである。
 このように、一つの権力を三権から分立させるには、よくよく考えて慎重にやらなければならない。
 先生は、人間存在そのものを解明した、「『生命の哲学』 を求めよ」 と訴えられています。 
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「希望の源泉」(14)(変わるのが「生きた宗教」)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 14回は、変わり続けることが 「生きた宗教」 の証し であります。  (第三文明・2017/9月・53P)

 はじめに、東京都議選の公明の完全勝利を喜ばれています。氏は 「自民党都連と決別し、都民ファーストとの共闘を選んだとき,快哉(かいさい)を叫びまいた。自民党の驕(おご)りと、『創価学会は多少雑に扱っても協力してくれるだろう』 とでも言いたげな “甘えと緩(ゆる)み” を感じていたからです」 と語っています。

 「成仏へと向かう軌道」 のなかに仏がある
 ――  この章のもう一つのポイントとして、「成仏」 についての考察があります。
 「薬草喩品は、弟子が領解した内容を仏が承認するとともに、さらに補って述べるという形をとっています。 この説法を天台は 『述成(じゅつじょう)』 と位置づけています」 という解説を受けて、池田会長は次のように述べています。

 「何のために 『述成』 あるのかと言えば、法華経の説法を信解した声聞たちが、『成仏に至る菩薩道に間違いなく入った』 ことを、はっきりさせるためです。(中略) 『間違いなく成仏への道に入った』 ことが、法華経の一仏乗を信解した功徳なのです」 (法華経の智慧 2巻・85P)
 ………
 要するに、成仏とは、“ゴールに到達してそこにとどまる” ことではなく、“成仏へと向かう軌道に入ったこと” それ自体が成仏なのだ、という捉え方ですね。

 一般的には、成仏を目指して修行し、成仏という ゴールに到達すれば、目的達成で そこに居続けられる、という イメージがあると思います。 じつは、「仏」 という一つの固定された実態があるのではなく、成仏へと向かう菩薩道に間違いなく入ったこと、それ自体が成仏なのである。 言うなれば、菩薩道という “軌道・プロセス” のなかに 「仏」 がある、というのです。

 佐藤 勝  『法華経の智慧』 で展開されている成仏観は、もっと動的で生成的です。 成仏を軌道として捉えるからこそ、そこでいう仏には悩みも葛藤もある。そして、その悩みや葛藤を悠々と乗り越えていく プロセスそのもののなかに、仏としての智慧が躍動するのだという考え方なのだと思います。
 「仏」 というと、現実世界に生きるわれわれとは次元の異なる存在である、という イメージを持つ人のほうが多いのでしょうが、創価学会における 「仏」 はそうではないのですね。 むしろ、衆生の救済のために現実世界のなかで行動し続ける人こそが仏である、と。
 これは誤解を招きかねないので慎重に言葉を選ばないといけませんが、私のような外部観察者から見れば、池田会長のような方こそまさに 「仏」 だと感じますね。


 佐藤氏は “衆生の救済のために現実世界のなかで行動し続ける人こそが仏である” とまで言ってくださっています。そして、池田先生を “「仏」 だと感じますね” と。 総じていえば、広宣流布に戦う 我ら学会員は、すべて 「仏」 なのであります。
 日寛上人曰く 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、連祖聖人なり」 と。 (文段集・548P) 

 テキストだけを絶対視する危険性
佐藤  成仏を 「生成の過程」 と捉えることに敷衍(ふえん)して言えば、池田会長の数多い著作もまた、その 「生成の過程」 のなかにあるものとして捉えるべきだと私は考えます。 というのも、何十年も前の池田会長の著作と近年の著作を比較して、細かな差異をあげつらって批判する人が、ときどきいるからです。 その時代時代に応じた文脈というものがあるのですから、部分的に主張が変わったとしても、創価学会は 「生きた宗教」 であるので、むしろ当然です。
 ………
 もちろん、一貫して変わらない根幹の部分はあるにせよ、変わってよい部分は柔軟に変わってきた。 その変化それ自体を 「変節」 や 「迎合」 と捉えて批判する人は、「生きた宗教」 とはどういうものであるかがわかっていないのだと思います。


 「生きた宗教」 の テキストは、時代に応じて変化していくことは当然である。
 氏は キリスト教の テキストの聖書もこれまで何十回も改定を繰り返してきている。 これも 「生きた宗教」 である一つの証である と語られている。
 また、創価学会が会則改正したとき、60年前の戸田先生の “弘安2年の御本尊” に関する指導を引き合いに出して、“今の学会指導は間違いである。けしからん” と批判する者も居たのである。
 戸田先生の時代は、日蓮正宗の教義を受け入れて、宗教法人格を取得し、広布の戦いをしていた。 今は破門され 別団体となっており、当時の状況とは まったく変化しているのである。
 そうであるからには、他教団の本尊や教義を信奉しなければならない謂れは一切ないのである。

 佐藤  また、創価学会には 「人間主義」 が根底にあるからこそ、「目の前の一人に、もっとわかりやすく法を説きたい」 との思いから、テキストを変えてよい部分は柔軟に変えることができる、とも言えます。 信仰においては、人間が 「主」 で、テキストは 「従」 です。 テキストを絶対視するあまり、人間のほうが 「従」 になってしまったら、それこそ本末転倒でしょう。

 “人間が 「主」 で、テキストは 「従」 です。 テキストを絶対視するあまり、人間のほうが 「従」 になってしまったら、それこそ本末転倒でしょう” と。 これこそが、創価の 「人間主義」 の考え方であると思います。
 ゆえに、大聖人の 「御書」 といえども、文字面に執着し、絶対視するのは間違いのもとになる場合がある。
 たとえば 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(328P) とあるからと言って、インド応誕の釈尊を本尊とすることは、大聖人の御正意に反します。

 次元が異なる文献学的真実と信仰
 ――  いわゆる 「大乗非仏説」(法華経などの大乗経典は釈尊の直説(じきせつ)ではなく、後世に作られたものだ、とする説) が仏教界で定説になっていても、そのことによって信仰が揺らぐわけではないのと同じですね。
 佐藤  そうでしょうね。文献学的真実と、信仰における真実は次元が違いますから。 そこを混同してしまったら、それは信仰者ではなく学者の目線になってしまいます。

 歴史上の “文献学的真実と、信仰における真実は次元が違いますから” と。
 経文なぞ、むしろ 文献学的真実と違ったり、証明ができないのが多々あるのである。これは次元の違う問題であると、心に銘じて、自身の信仰心がふらつかない様に気を付けましょう。
 すでに、この シリーズで “法華経は直説か創作か” という関連ブログがありますので参考にしてください。

  参考: 関連ブログ ―→ ここから
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教育勅語について

 毎年、終戦の 8月を迎えると、戦争の悲惨なる体験が語られ、異口同音に “絶対に、二度と戦争はしてはならない” と決意を披歴しています。戦争を忘れ去らないためにも、戦争体験の継承は、大事なことで絶対・必要不可欠であると思っています。
 しかし一方で、なぜ、無謀なる戦争をしてしまったのだろうか といつも思います。この戦争に至った原因を究明し、断罪せずしては、片手落ちで真の平和教育・学習にはならないと思います。

 思えば日本民族は、もともと農耕民族ですから 狩猟民族と違って、好戦的な民族ではありません。
 江戸時代の約 260年間、一揆の鎮圧を除いて、戦争らしきものは一つも無く 平和な時代でした。この時代に、日本独自の文化が花ひらき、今では、数多くの外国人が、日本文化に魅力を感じて来日しています。

 ところが、明治維新以後、一通り見ただけでも、戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争、第一次大戦、満州事変・日中戦争、太平洋戦争と、終戦までの約 80年間、戦争をやってやりまくっている。
 平和を愛する民族が、なぜ、これ程までも変わったのでしょうか

 私はその第一の理由は、明治政府が、国家の精神的支柱として 「国家神道」 を護持し、実践したことであると思っています。
 この点は、既に ブログに記しているところもありますので、よろしければご参照ください。

  参考: 「8月15日」――→ ここから
  参考: 「歴史の歯車」―→ ここから
  参考: 「神道の国教化」→ ここから
  参考: 「靖国神社」――→ ここから

 第二に、国の教育方針を、「教育勅語」 に則り、国民を好戦的な軍国主義者に仕立て上げた からだと思います。
 先だって、森友学園関連の幼稚園で、園児に 「教育勅語」 を暗誦させていた とのことです。全国的には、ほかにも教材として使っているところが 結構あるようである。 知らないうちに、じわじわ広がってきているようだ。
 このような状況は、「国家神道」 の再来に繋がりかねない危険な萌芽が潜んでいる と思います。
 ゆえに今回は 「教育勅語」 について考えてみたいと思います。

 教育勅語の読み下し文、途中からです。(抜粋)
 爾(なんじ)臣民、父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、学ヲ修メ、業(ぎょう)ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ、徳器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ、進ンデ公益(こうえき)ヲ広メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重(おもん)ジ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急(かんきゅう)アレバ、義勇公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以テ天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。 以下略

 現代語訳です。
 あなたたち臣民は父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友とは信じ合い、人には恭しく、自分は慎ましくし、広く人々を愛し、学問を修め、仕事を習い、知能を伸ばし、徳を積み、進んで公共の利益に奉仕し、世の中のために尽くし、常に憲法を重んじ、法律を守り、もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けるようにしなければなりません。

 はじめに、「爾(なんじ)臣民」 とありますが、「臣」 とは 「主君に仕える者、家来」 という意味で、国民を天皇の支配下に置く、天皇主権の考え方であり、現代の日本国憲法の主権在民とは相いれない言葉なのです。

 次の 「父母に孝行し、兄弟は仲良くし、…… 法律を守り」 のここまでは、国民のなさねばならない徳目である。
 道徳論として当たり前のことだが、これがあるからと言って “勅語も良いこと書いてあるとか、教育方針として取り入れるべきだ” などという人もおるが、教育勅語の一部分ではなく全体を見て、どのような人間を育成しようとするのか、見極めなければならない。

 「もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けよ」 と、この一行の文によって、どれだけの若者が一兵士として、特攻隊員として犠牲になられたか、計り知れないのである。

 教育勅語の目的は、天皇の国家の 「忠良な臣民」 を作ることです。
 本当の国家は 「国民の幸福と安穏のためにある」 はずである。 それがここでは 「国民は天皇の国家のためにある」 という考えになっている。
 「国家神道」 の “八紘一宇(はっこういちう = 世界を一つの家とする)” という思想のもと、天皇を頂点とする “大東亜共栄圏” の構想を正当化し、天皇のために戦うのが正義であり、大義であると教えた。そのためには、他国への侵略戦争も、正義の戦争となり、聖戦と言われたのである。
 特に、満州事変以後の十数年間、ひと時の休みもなく、戦争をやりまくり、挙句の果てに亡国となったのである。

 国民を天皇の 「忠良の臣民」 とみなし、もし危急なことがあったら 「皇室の命運を助ける」 ことを、国民の義務として教える 「教育勅語」 が、主権在民を柱とした日本国憲法の精神に反することは明白であります。
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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