希望の源泉(4)(法華経は直説か創作か)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第4回は、〔超越性と現実の間を往還する思想〕 であります。
 今回から、法華経の 「序品」 についての章に入ります。

 〔法華経は釈尊の 「直説」 か
 佐藤 優  この章で池田会長は、いわゆる 「大乗非仏説」(法華経など大乗仏教の経典は釈尊の 「直説(じきせつ)」 ではなく、後世の 「創作」 であると捉(とら)える説) の問題に踏み込んでいますね。 会長は次のように述べています。
 「(法華経においては) 革新となる釈尊直説の思想が、編纂(へんさん)当時の時代状況、思想状況に応じて、一つの形をとったと考えられます。
 時代が釈尊の思想を希求し、釈尊の思想が、時代を感じて出現してきた。 『感応道妙(かんのうどうみょう)』 (仏と衆生が互いに通じあうこと) です。 普遍的な思想とは、そういうものです。 真実の思想の生命力と言ってもいい。 形態は新たになったとしても、時代状況のなかでは、それが、より、その思想の 『真実』 を表しているのです。 その意味で、私は、直説か創作かと問われれば、直説だと言いたい」
 (「普及版」上巻・85P)
 時代状況に応じて表現形態は変わっても、釈尊直説の思想がその核心にある以上、法華経を直説と捉えてよい、というものです。  (第三文明・2016-10月・53P)

 古来から、「大乗非仏説論」 というものはありました。以前のブログに、戸田先生が、ある東大生語られた指導がありますので、お読みくだされば幸いです。
 拙ブログの過去記事 ―→ ここから

 池田先生は、“真実の思想の生命力は、形態は新たになったとしても、時代状況のなかでは、それが、より、その思想の 「真実」 を表している” 以上、釈尊の 「直説」 と捉えてよい と指導されています。

 〔思想の 「編集」 という大切な営為
 この項目のところで佐藤氏は、キリスト教神学を駆使しながら次のように述べています。

 佐藤  要するに、文献批評をどれだけやっても、聖書ほど古い文献になると、確定的なことはめったに言えないのです。 蓋然(がいぜん)性(確からしさ)を追求することしかできない。 それは、仏典についても然りだと思います。……
 そういうこともありますから、信仰者である以上、学問的成果を絶対視すべきではない。 それよりも、カール・バルト(スイスの神学者)が言うように、「霊感説」 的な信念と直感がもっと重視されるべきだと思います。

 
 佐藤氏は、“信仰者である以上、学問的成果を絶対視すべきではない” と言われています。
 この点は、非常に重要な事であります。些細な違いにこだわって、信心の本筋を踏み外さないように気を付けなければなりません。

 佐藤  それから、私が 「序品」 の章で強い印象を受けたのは、池田会長が、法華経について次のように述べる部分です。
 「それにしても、法華経編纂者の編集能力は素晴らしい。文字や暗誦で伝えられてきた仏説の中から、釈尊の思想の核心を選びとり、見事に蘇(よみがえ)らせている。 編纂者のなかに、釈尊の悟りに肉薄し、つかみとった俊逸(しゅんいつ)がいて、見事に リーダーシップを発揮したとしか思えません」 (上巻・87P)
 この言葉は、イエス・キリストと パウロの関係や、釈尊と日蓮の関係、ひいては日蓮と創価学会の三代の会長の関係にも当てはまると思います。 イエスの思想を、イエスの死後に信仰に入った パウロが 「編集」 し、釈尊の思想を日蓮が 「編集」 し、日蓮の思想を池田会長らが 「編集」 して、後代に蘇(よみがえ)らせた …… そのような構図が、世界宗教のなかには共通してあるのです。 (同誌・54P)

 佐藤 氏は、“釈尊の思想を日蓮が 「編集」 し、日蓮の思想を池田会長らが 「編集」 して、後代に蘇らせた” と述べられている。
 前の 「創価学会とは何か」 という テーマの対談者である、 (同誌・2016‐1月より)
 松岡幹夫 氏は、“牧口初代会長の 「価値論」、戸田第二代会長の 「生命論」 を、池田第三代会長が 「人間主義の哲学」 として完成させた。
 そして今、学会員は池田会長の教えに従って正しく日蓮の御書を読んでいると言えます。「智者」 である池田会長が認めた日蓮の御書は、すべて 真正テキストと認めてよいというのが、私の考えです” と述べられている。
 佐藤 氏は、“「解釈者」 というものは、原テキストをより深く解釈することができるのです。池田会長は、まさに日蓮のよき 「解釈者」 と言えるでしょう” と述べられている。
 池田先生 は、“革新となる思想が、当時の時代状況、思想状況に応じて、一つの形をとった。…… 普遍的な思想とは、そういうものです。 真実の思想の生命力と言ってもいい” と述べられている。

 戦時中、宗門は国家権力に屈し、神札を祀るという大謗法を犯し、日蓮仏法は滅亡の状態になった。
 日蓮大聖人の大慈大悲は、戸田先生の 「獄中の悟達」 となって顕わされ、滅亡の危機から救われたのである。
 それまでは、「仏」 といえば絵像・木像の イメージしかなかったものが、戸田先生の 「仏とは生命なり」 の悟りによって、現実の我が身のうえに生命実感として把握することができるようになった。
 池田先生は、「仏界・仏性」 といえども、それは己身の “人格や友情や慈悲心” となって、その “人の振る舞い” のうえに顕われるもの と教えてくださいました。
 今や、創価学会は、生命尊厳の 「人間主義」 を標榜して、世界広布新時代を拡大し、世界の平和と人類の幸福のために、戦っている 教団であります。
 そして、法華経の精神に則っている 創価の 「人間主義」 は、大聖人の 「直説」 であると言っても過言ではないと思います。 
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希望の源泉(3)(「危機の時代」を予見する)

 佐藤 優氏の 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第 3回は、〔今の 「危機の時代」 を予見していた 『法華経の智慧』〕 です。

 〔仏法の智慧を現実社会へと展開
 佐藤 勝  『法華経の智慧』 は、常に現実社会との関わりのなかから法華経を捉えようとしていますね。 「序論」 だけでも、ボスニア紛争、ソ連崩壊後のロシア社会の混乱、生命科学の最先端などの問題が俎上(そじょう)に載ります。 そして、そのような連載当時の アクチュアル(現実的)な問題に対する言及が、約 20年後の現在も古びておらず、21世紀の社会についても深く考えさせるものとなっている。 そこが、この本の大きな特徴です。
 ………
 佐藤  そして、法華経を政治や経済など、社会の問題と結びつけて語れるからこそ、池田思想は 「生きた思想」 なのだと思います。 宗教者が宗教という枠のなかに閉じこもり、「社会問題についてはよくわかりません」 と社会から目を背けるようでは、それは 「死んだ思想」 なのです。
 池田会長自身が次のように述べています。

 「現実の社会を離れて仏法はありません。 仏法即社会です。 社会即仏法です。(中略)仏法の心、仏法の智慧を、つねに社会へ、世界へと ダイナミックに展開していく。 それでこそ真実の仏法です。 宗教の世界に閉じこもるのは宗教の自殺行為です」 (「普及版」上巻・119P) (第三文明・2016-10月・53P)

 この 「序論」 の冒頭のところで、池田先生は、次のように述べられています。
 自分が、また社会が 「どこへ」 「何のために」 進めばよいのか。 それを教えてくれる智慧を求めている。
  あるいは、戦乱の旧 ユーゴ諸国で。
  あるいは、飽食の先進国の社会で。
  あるいは、混乱の旧・社会主義国で。
  あるいは、貧困と戦う第三世界で。
 ………
 何かが間違っている。 何かが必要だ。 科学でも幸福はない。 社会主義でも資本主義でも救われない。 どんなに会議を開いても、道徳を訴えても、心理学を講じ、哲学を講じても、何かが欠けている。
 今、人類の心の情景は、このようなものではないでしょうか。
 と問題提起をなされています。
 この問題の解決への道は、一人の人間の 「生命の変革」 が一切を変えていくという、“法華経の智慧” に求めなければならないと思います。

 〔「法華経の智慧」 を今読むべき理由
 佐藤  なぜ、私のような学会員ではない人間が、『法華経の智慧』 という書物を今読むべきなのか? 
 その問いに対する一つの答えは、「今世界にとって大きな危機の時代・大変革期であり、その危機の時代を生きるための智慧が、ちりばめられた本だから」 ということです。
 ………
 『法華経の智慧』 は、約 20年前に作られた本ではありますが、現在のような 「危機の時代」 にこそ光彩を放つ書物だと思います。 そしてそれは、創価学会自体が 「危機に強い宗教」 であることの反映なのでしょう。 もちろん、学会は平時においてもきちんとした活動をしてきました。 そのうえで、平時よりは危機の時代にこそ、その真価を発揮する教団だと思うのです。
 (同誌・55P)

 なぜ、「危機に強い宗教」 なのかといえば、「難」 の捉え方に一つの要因があると述べています。
 司会者は、「きちんと信心をしていけば、それを妨げる難が起きるのは仏法上の必然であり、その難を乗り越えてこそ成長できるし、宿命も転換できる」 というのが学会の指導性です と言われています。
 佐藤氏は、苦難や危機を避けるのではなく、むしろ喜んで迎え撃つ、よい意味での 「戦闘性」 が学会にはある。だからこそ危機に強い。SGI が各国の社会に受け入れられているのは、一つにはそのためでしょう と、称賛と期待感を述べられている。

 〔「危機の時代」 のための思想
 佐藤  『法華経の智慧』 が連載された 1990年代後半は,今とは違って、「世界が危機の時代に突入した」 などという認識はなかったと思います。 局地的な紛争は当然あったにせよ、「第三次世界大戦の危機が間近に迫っている」 などと考える人はほとんどいなかったはずです。……
 要するに 90年代後半は 「もう戦争は起きない」 という楽観が世界を覆(おお)っていた。 「21世紀は危機の時代になる」 などとは、ほとんど誰も思っていなかったのです。……
 たとえば、「序論」 における ボスニア紛争への言及は、現在の シリアで当時の ボスニアとよく似た状況が現出していることを予見していたとも言えます。……
 しかし、99年に 『法華経の智慧』 の連載が終わったあと、世界は急激に 「危機の時代」 へと向かいます。 2001年の 「9・11」 同時多発テロと、03年からの 「イラク戦争」 が、その暗い幕開けでした。 そこから十数年がたった今、世界は明日さえも見えないような、混沌とした 「危機の時代」 のただ中にあります。…… 約 20年前に現今の 「危機の時代」 を予見していた点に、鋭い先見性があるのです。
 そのことを、あえてキリスト教の語彙(ごい)を用いて 「預言者的」 と評したい気がします。…… 池田会長の未来を見通す慧眼(けいがん)は、私には 「預言者のようだ」 と感じられるのです。


 ――  日蓮にも、『顕仏未来記』 のような 「未来記」、すなわち “予言の書” のような著作があります。 といっても、それは オカルト的な予言ではなく、仏ならではの 「三世(過去世・現世・来世)を見通す」 慧眼で世界が進みゆく方向を考えたとき、おのずと浮かび上がってくる ビジョンなのでしょう。

 佐藤  ええ、池田会長の場合も同じだと思います。 仏法を究(きわ)めた人ならではの鋭敏な認識力・直観力によって、未来を見通すのでしょう。……

 日蓮大聖人は、「三世を知るを聖人という余に三度のかうみよう(高名)あり」(287P) と仰せです。
 三度の高名とは、一には文応元年七月十六日・立正安国論をもって、二には文永八年九月十二日・平左衛門尉に向かって、三には文永十一年四月八日・佐渡赦免後、平左衛門尉に語って云く と。以上三回にわたって、国家諌暁を行い、自界叛逆(ほんぎゃく)難、他国侵逼(しんぴつ)難の二難が起こると警告され、それがことごとく 的中したことを言う。
 また、『顕仏未来記』 には、「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(507P) と仰せです。
 現在、池田先生のご指導のもと、大聖人の御予言のごとく、世界 192ヵ国にまで、創価の世界広宣流布は拡大しております。世界広布の業績を考えても、現今の 「危機の時代」 を見通す慧眼に対しても、池田先生は聖人の一分にあたられると思います。

 ――  『法華経の智慧』 も、現在の世界を見通した 「予見の書」 として読むことができるのですね。

 佐藤  そうです。 人類が 「危機の時代」 を乗り越える方途が、深い次元から考察された書だと思います。 (同誌・57P) 
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「新・人間革命」第10巻〔言論城の章〕(学会精神)

 第10巻では、1965年(昭和40年)元旦から、翌年 3月 5日の壮年部結成大会までの模様が描かれている。

 〔言論城〕
 人間革命 ―― そこには、いっさいの原点がある。
 すべての根本をなしているのは、人間であり、自己自身であるからだ。
 ゆえに、自分自身の生命の変革が、家庭を変え、地域を変え、社会を変える。時代を変え、歴史を変え、世界を変える。
 その人間革命をなしゆく仏法の力の大潮流が、渦巻き、怒涛となって大海を走り始めた。

 「勝利の年」 と銘打たれた、一九六五年(昭和四十年)の新春は、会長山本伸一の小説 『人間革命』 の新聞連載で始まった。
  (新・人間革命10巻・7P)

 「勝利の年」 と銘打たれた昭和 40年。聖教新聞元日付から小説 『人間革命』 の連載が始まった。
 また聖教新聞は、7月15日付から日刊化されました。その準備が進む、編集、印刷、広告、業務の各担当者の奮闘の模様が語られています。実に、“仏法の力の大潮流が、渦巻き、怒涛となって大海を走り始めた” という感に打たれます。
 ある時、池田先生は職員と懇談され、“聖教を世界最高の言論城に” と指導激励されました。

 「聖教新聞は広宣流布の機関紙だということを忘れてはならない。
 一般紙は不偏不党の立場で、物事を客観的に報道するということが基本だ。 しかし、機関紙というのは、自分たちの主張を、どう伝え、いかに波動を起こし、共感を広げていくかが勝負になる。……」
 ………
 「では、聖教らしさとは何か。
 第一に、どこまでも、広宣流布のための機関紙であり、読めば、民衆の幸福と平和のために立ち上がろうという思いがわき起こる、新聞でなければならない。
 また、邪悪とは敢然と戦う、折伏の精神がみなぎっていることが大事だ。
 第二に、すべての人が、真実の仏法とは何かを、よく理解することができる新聞だ。 聖教新聞に触れることは、仏法に触れることになるんだからね。 そして、生命の大哲学の視点から、あらゆる物事を的確にとらえ、問題の解決の方途を示していくんだ。
 第三に、読者に勇気と希望を与える、“励ましの便り” でなければならない。
 聖教は、すでに学会員以外にも読者をもち、広く 『人間の機関紙』 として愛読されている。 その人たちが人間としての生き方を学び、活力の源泉となるような新聞にしていくことだ」
  (同書・72P))

 さらに日刊化によって一般の ニュースも入るようになるし、“よくまとまっていて、わかりやすいと言われるようにすべきだ。 また、文化欄、家庭欄などは、仏法を根底にした人間主義のの視点からの企画、論調が大事になってくる” と指導されています。
 ところが、大闘争の最中、米子支部長が、交通事故で、42 歳の若さで亡くなってしまった。周囲から、“学会の信心が正しくて、御利益があるのなら、なんで、幹部が事故で死ぬのか” 等々の疑問や不信が爆発し、学会を批判し始める会員の姿が見られたのである。
 先生は、急きょ、米子会館で行われていた地区部長会に出席され、次のように指導されています。

 人には宿業があるが、その宿業の深さはわからない。 たとえ、若くして亡くなったとしても、信心を貫いた人は、宿業を 「転重軽受」(重きを転じて軽く受く) しての死なのである。
 ともあれ、真の信仰者として広宣流布に邁進している人は、いかなるかたちで命を終えようとも、成仏は間違いない。
 初期の仏典には、次のような話がある。
 ―― 摩訶男(マハーナーマ)という、在家の信者がいた。彼は、もし、街の雑踏のなかで、三宝への念を忘れている時に、災難に遭って命を失うならば、自分はどこで、いかなる生を受けるのかと、仏陀に尋ねる。
 すると、仏陀は言う。
 「摩訶男(まかなん)よ、たとえば、一本の樹木があるとする。その樹(き)は、東を向き、東に傾き、東に伸びているとする。もしも、その根を断つならば、樹木は、いずれの方向に、倒れるであろうか」
 摩訶男は答えた。
 「その樹木が傾き、伸びている方向です」
 仏陀は、仏法に帰依し、修行に励んでいるものは、たとえ、事故等で不慮の死を遂げたとしても、法の流れに預かり、善処に生まれることを教えたのである。
 また、日蓮大聖人は、南条時光に、弟の死に際して与えられたお手紙で、「釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・目出たく候いけり」(1568P) と仰せになっている。信心に励んだ人の、成仏は間違いないとの御指南である。
  (同書・20P)

 先生のご指導のなかの釈尊の説話は、非常に解りやすく、心から納得のいくものである と思いましたのでご紹介しました。
 修行に励んでいる人は、たとえ、事故や事件に巻き込まれて不慮の死を遂げたとしても、成仏の道から外れることはないのである。
 ここで、涅槃経の文を思い出しました。「菩薩悪象等に於ては心に恐怖(くふ)すること無れ悪知識に於ては怖畏(ふい)の心を生ぜよ、何を以ての故に是れ悪象等は唯能く身を壊りて心を壊る事能(あた)わず、悪知識は二倶(とも)に壊るが故に、悪象の若(ごと)きは唯一身を壊る悪知識は無量の身無量の善心を壊る、悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては三趣に至る」 (452P) という経文です。
 三趣とは、地獄・餓鬼・畜生のこと。悪知識とは、謗法の悪友である。悪友に随い謗法を犯せば、必ず三悪道に堕ちるのである。心して重々気を付けなばならない。

 8月に入り、伝統の夏季講習会が、本山で実施された。
 先生は、この講習会で、学会精神をわが同志の胸に深く打ち込まれました。
 
 ―― 「本門の時代」 に入り、広宣流布の流れは、社会のあらゆる分野で、仏法の人間主義ともいうべき思想を実現していく、多様多岐にわたる 「展開」 の時を迎えた。 そうであればこそ、皆が原点である学会精神に立ち返ることが、何よりも大切になる。
 学会精神 とは、浅きを去って深きに就く、一人立つ 「丈夫の心」 である。
 殉難を恐れぬ、「死身弘法」 の決意である。
 間断なき、「未曾暫廃」 の持続の闘争である。
 情熱と勇気の、「勇猛精進」 の実践である。
 いかなる難も、莞爾として耐え忍ぶ、「忍辱大力」 である。
 大聖人の仰せのままに、広宣流布に生き抜く、「如説修行」 の行動である。  
 邪悪を許さぬ、「破邪顕正」 の精神である。
 正しき信心の血脈に結ばれた、「師弟不二」 の道である。
 堅固なる 「異体同心」 の団結である。
 一人ひとりを仏を敬うがごとく大切にする、「当如敬仏」 の心である。
 この学会精神を伝えるには、どうすればよいのか ―― 答えは明らかである。 自らが行動することだ。 精神の継承は、振る舞いのなかにのみある。
  (同書・90P)

 上記のように、学会精神を 10項目に分けて教えてくださいました。“この学会精神を伝えるには、自らが行動することだ。 精神の継承は、振る舞いのなかにのみある” と、先生は自ら どこで出会ったメンバーにも、寸暇を惜しんで激励を続けられました。
 “そのお姿自体が、「勇猛精進」 であり、「未曾暫廃」 であり、「当如敬仏」 であった” のであります。 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 80歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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