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「希望の源泉」(27)(結合は善・分断は悪)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 27 回は、悪は 「善の炎」 のための薪となる であります。 池田 SGI 会長の 『法華経の智慧』 をめぐる語らい、「提婆達多品」 の章の続きです。 (第三文明・2018/10月・53P)

 悪を 「善知識」 として活かしていく
 「提婆達多品」 には、釈尊が成仏したのは 「皆な提婆達多の善知識に因(よ)るが故なり」(法華経・424P) と説かれています。 すなわち、反面教師として提婆達多がいなければ、釈尊も仏にはなれなかったと言うことです。 (反面教師 … 悪い見本として、反省や戒めの材料となる人物や事柄)

 佐藤 優  はい。 善悪を固定的に捉えず、究極的には 「善悪不二」 なのだと捉える法華経らしい視座ですね。 ただし、提婆達多的な悪が 「善知識」(人々を成仏の道に導いてくれる人) として活かされるためには、その悪と戦い抜くことが前提条件となる、と池田会長は言われていますね。
 「釈尊が提婆達多に勝ったからこそ、提婆の 『悪』 が釈尊の 『善』 を証明することになった。 悪に負けてしまえば、提婆が善知識であったとは、とても言えない。……
 悪もまた善を顕す働きをするのであれば、悪の全体がそのまま善になります。 まさに善悪不二です。 しかし、自然のままに放置していて、悪が善になるのではない。 悪と戦い、完膚なきまで打ち勝って、初めて善悪不二となるのです。
 その意味で、提婆品の 『悪人成仏』 とは、釈尊による 『善の勝利』 の偉大な証明です。 勝利宣言です。 その 『勝者』 の境涯の高みに立って初めて、提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれたのだと言えるのです」
 (法華経の智慧3巻・101~102P)
 まさに、深い次元において提婆達多は反面教師であったわけですね。 そして、古代インドにおいてこれほど深遠な 「善と悪の哲学」 が生まれていたことに、あらためて驚かされます。

 上記のように、“提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれた” とあります。すなわち、過去世においては、提婆は釈尊の師匠であったと。 また 「本地は文殊なり」(744P) と初めて聞いたときの拙は、驚きばかりであった。

 池田先生は、提婆達多も、生命の真実の姿においては、善悪不二です。 無明と法性が一体の妙法の当体です。 釈尊が師とした過去世の提婆達多とは、じつは、妙法そのものだったと言えるのです。
 ゆえに大聖人は 「提婆は妙法蓮華経の別名なり 過去の時に阿私仙人なり 阿私仙人とは妙法の異名なり」(744P) と仰せです。 釈尊も根源の妙法を師として成仏しました。 そのことを提婆品では、釈尊が過去世に阿私仙人を師匠として修業し、成仏したという表現で示したと考えられます。………
 悪知識をも善知識に変えるのが妙法の力であり、苦悩をも喜びに変え、追い風に変えるのが信心の一念の力です。 提婆品は、このことを教えているのです、
と指導されています。 (同書3巻・102~103P)

 ――  日蓮大聖人も、自らを迫害した極楽寺良観(忍性)や平左衛門尉らのことを 「日蓮が仏にならん第一のかたうど(方人)」(917P) つまり 「味方(方人)」 であり 「善知識」 であったと述べています。

 佐藤  それもまた、日蓮大聖人が迫害者に勝利されたからこそ そう言えるわけです。 そのことについて池田会長は、次のように語られています。
 「御本仏を迫害した 『悪』 の存在をも 『善』 に変えてしまわれた。 実際、大聖人や釈尊のそういう戦いの模範があったからこそ、後世の私どもは 『正道』 がどこにあるか分かる。 その意味で、提婆も平左衛門尉たちも、反面教師として、後世に 『善の道』 を示してくれている、と言えるでしょう。
 創価学会も、ありとあらゆる迫害・弾圧・策謀に全部、打ち勝ってきました。 その戦いによって、皆の信心が深まり、強くなった。 難もなく、簡単に広宣流布ができたら、鍛えの場がなく、成仏する修行の場がなくなってしまう。 ……  一切の悪を、善の炎がいや増して燃えさかるための薪(たきぎ)としていくのです」
 (同書3巻・104P)
 「悪を 『善の炎』 のための薪としていく」 とは、含蓄深い言葉ですね。 実際、池田会長は自らを迫害した日蓮正宗宗門を 「薪」 とし、勝利することによって、創価学会の世界宗教化に向けて飛翔(ひしょう)されたのだと思います。

 第二次宗門事件が発生した時、“破門されたし、もう関係ないのですだから、放っておけばいいじゃないか” という声も一部にはあったようだが、悪とは徹底的に戦わなければならないのである。
 そのことを牧口先生は、例えば “電車のレールの上に石を置く。 これは悪です。 一方、それを見ながら放置した人がいるとする。 この人は、悪いことはしていないが、善いこともしなかった。 その結果、電車が転覆したならば、悪いことをしたのと同じである” と。 すなわち、「善いことをしないのは、悪いことをするのと同じ」 「悪と戦わないのは、悪をなすのと同じ」 だと、強く指導されています。

 人々を結合させる 「善の力」
 善と悪を見分ける基準について、池田会長が結論的に述べた次のようなくだりがあります。
 「善と悪については古今東西、さまざまな哲学的議論がある。 それをたどることは今はしないが、ともかく 『生命こそ目的であり、生命を手段にしてはいけない』。
 これが大前提です。 その尊極の生命をより豊かにし、より輝かせるのが善。 生命を委縮させ、手段にするのが悪と言えるでしょう。
 また、『結合は善』 『分断は悪』 です。
 ゆえに最高善は、人々の仏界を開くことであり、人々の善意を結びつけることです。 仏法を基調とした平和・文化・教育の運動、すなわち広宣流布の運動こそ最高善なのです。 この行動を持続するためには、悪をも善の一部にしていく 『善悪不二』 のダイナミックな実践が必要なのです」
 (同書3巻・111~112P)

 「結合は善」 「分断は悪」 という言葉を、創価学会/SGI は、異なる世界、異なる立場の人々を、信仰の力によって 「結合」 させる役割を果たしてきました。
 例えば、アメリカは多民族国家であるが、いまだ人種差別問題は解決できていません。その様ななかでも、創価学会の座談会等では、白人と黒人の メンバーが和気あいあいと会合に集ってきています。 創価学会の世界では、時代に先駆けて人種の壁が崩され、「結合は善」 の姿がすでに出現できています。
 来年は、地方統一選と参院選があります。 公明党の 「軽減税率」 の政策について、佐藤氏が述べていますので、ご参考にして 友好対話にご活用ください。 

 佐藤  また、創価学会が支持母体である公明党の政策にも、「社会の分断を避け、結合に向かわしめる」 という志向性が、常に感じられます。
 一例を挙げれば、消費税が10%になると同時の導入が決定している 「軽減税率」 です。 公明党の強い主張で決定されたものですが、他の政党や有識者の中には、現金給付と所得税などとの還付を組み合わせた 「給付付き税額控除」 のほうがいい、と主張する人たちがいました。
 それに対し、公明党は断固として軽減税率導入を推し進めたわけです。 その理由の一つは、「還付金にしてしまうと社会の分断を招くから」 だと私は考えます。 「所得いくら以下の世帯には還付金を出す」 という形だと、もらう世帯ともらわない世帯の間に分断が生じてしまうのです。 一方、軽減税率ならすべての世帯が対象になるので、分断を招かないわけです。
 そのように、公明党の政策にも、「結合は善、分断は悪」 という池田思想が反映されているのです。 それは同時に、先ほどの引用の前段部分、「生命こそ目的であり、生命を手段にしてはならない」 という池田思想を、公明党も根底に据えているからでもあります。
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「新・人間革命」第18巻〔獅子吼の章〕(映画・人間革命)

 「九月八日」、小説 『人間革命』 全30巻が、ついに連載完結を迎えました。
 池田先生は、第1巻 〔はじめに〕 の章で “『新・人間革命』 は、完結までに三十巻を予定している。その執筆は、限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない” との思いを述べられています。 先生が命を削る思いで続けてこられた 「ペンの大闘争」 に、心から感謝の意を捧げるものです。 誠に有り難うございました。

 原田会長は、“『人間革命』 『新・人間革命』 は、広宣流布の歴史を通して 「学会精神」 を刻み残した 「信心の教科書」 です。 一人一人が、山本伸一の分身たる思いで進むことが、“人間革命” の 「精読」 であり、「実践」 となります。 ……
 新たな人間革命の歴史を開く戦いを開始して、師恩に報いる弟子の道を貫こうではありまえんか”
 (2018・9/8・聖教1面) と指導されています。

 〔獅子吼〕
 「師」 という原点をもつ人は強い。
 原点を忘れるな。
 原点を忘れなければ、人間は、進むべき信念の軌道を見失うことはないからだ。

 山本伸一は、一九七三年(昭和四十八年)の七月七日午後、東京・世田谷区にある東宝スタジオの試写室で、スクリーンに目を凝(こ)らしていた。 彼の小説 『人間革命』 が遂に映画化され、その完成試写会が行われたのである。
 (新・人間革命18巻・7P)

 映画化の話は原作を読み感動した、東宝映像社長で著名な プロデューサーである・田中友幸氏からのたっての要請であった。
 脚本・橋本忍、 監督・舛田利雄、 俳優・丹波哲郎・新珠三千代・仲代達矢 等々の豪華キャストで、東宝全社の総力をあげた作品は、記録的な大ヒットとなったのである。
 試写が終わって、作品の出来ばえを尋ねられた先生は、「感動的な力作です。 師弟の心の交流、また、人間の精神の世界がよく表現されています。 PR 映画のようなものではなく、感動できる芸術作品になっていると思います。
 ともかく、内面世界の昇華を映像化していく作業ですから、大変なご苦労ががあったことでしょう。 スタッフの皆様に、くれぐれもよろしくお伝えください」
と感謝の意を述べられています。 (同書18巻・31P)

 私は45年前、この映画を見ましたが、今ではほとんど記憶に残っていません。 そこで “YouTube” で検索して見ましたらありました。
 映画は一・二部を合わせて、2時間40分の大作である。 第一部は、戸田先生の “獄中の悟達” が中心で圧巻である。 
 第二部は、地獄、餓鬼、畜生……などの十界論が、一貫した テーマとなっている。 私は十界論が説かれていたことは、完全に忘れていました。
 何故だろうかと自分なりに考えてみたところ、浅学なる故か 十界の名目ぐらいしか知らず、映画では十界論かと軽く聞き流したのでしょう。 感動もなかったので、記憶に留めることができなかったと思います。
 今回 視聴してみて、十界論は解かりやすく互具論まで丁寧に説明されており、観客に 「人間革命」 という命題を理解させることができたと思います。 それだけに特に、脚本家・橋本忍氏のご苦労が偲ばれるのである。
 この作品を、見てない方はもちろん、見ている方も再度のご視聴をお願いいたします。
 
 そのころ先生は、聖教新聞社を足繁く訪れていた。 「言論・出版問題」以降、一部の記者の間に、安易に社会に迎合し、信仰の世界を見下すような風潮が生じていたのである。 新聞社の記者・職員たちに、“広布の使命に生き抜け” と訴えられた。
 そのような者たちは、いわゆる苦労知らずであり、確たる信仰体験に乏しかった。 この点について、次のように述べられています。
 揺(ゆ)るがざる確信は、体験によって培(つちか)われる。 では、どうすれば、信仰体験は積めるのか。
 それには、仕事や人間関係、健康の問題等々、自分の悩みを克服し、希望を叶えることをめざして、真剣に唱題し、一つ一つの学会活動に全力で取り組んでいくことである。
 “仏法の偉大さを実証するために、この就職を勝ち取らせてください” “広宣流布のために自在に活動できるように、この病を克服させてください” 等と、懸命に祈り、戦い抜いていくのだ。 そうすれば、必ず、結果は出る。
 ………
 困難な状況のなかで、唱題を根本に自身の限界に挑(いど)んで必死に戦い、目標を達成していくならば、「歓喜の中の大歓喜なり」(788P) があふれ、信心への確信が深まる。
 その体験を積み重ねていくなかで、いかなる非難中傷や弾圧の嵐にも屈しない、富士のごとき確固不動な、堂々たる信仰が培われていくのだ。
 まさに、広宣流布へ進みゆく学会活動こそ、自身の心を強くし、体験をつかむ、生命鍛錬の道場なのである。
 (同書18巻・44P)

 先生は、“確信は体験によってつかむ以外にない” と、すなわち、自らが実践・修行しなければならないのである。 
 初信者のなかには、功徳論ばかり聞いていて、“入会しても 少しも良いことはない、悪いことばかりだ” と。 御本尊や学会が何かしてくれるだろうと、勘違いしている人もいるようです。 苦難を克服してはじめて、功徳・宿命転換もあるのである。 罰即利益です。
 大聖人は、「難来るを以て安楽と意得可きなり」(750P) ・ 「必ず三障四魔と申す障(さわり)いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091P) と仰せです。
 折伏は 成果に焦ることなく、謗法や宿業などについては、よく話をしてあげ 当人が納得したうえで、入会に導きましょう。

 また、当然、創価学会の運営は民主的であらねばならない、…… しかし、信仰の根本問題は、合議や社会的な評価のいかんによって左右されるものではない。
 たとえば、南無妙法蓮華経は最高の法であることを、仮に万人が否定しょうとも、その邪見には、絶対に従うわけにはいかないのだ。
 仏法の師弟についても基準とすべきは、社会の モノサシ ではない。
 (同書18巻・46P)

 たとえば、日蓮大聖人が、幕府の罪人として流罪された時でも、法華経の信念のうえから大聖人に随い、守り抜かれた。
 また、戸田先生は、世間から 「非国民」 と非難されようが、牧口先生の “神札は絶対に受けません” との信念に随い、逮捕・投獄された。 その結果、「獄中の悟達」 という大功徳を受け、今日の “世界広布新時代” を迎えることができたのである。

 多数決による物事の決定を金科玉条とし、「民主的」 というなら、信仰の世界は、その枠に収まり切るものではない。 また、時代の風潮や大勢(たいせい)を占める見解を 「社会性」 というならば、それを絶対視することは、大きな誤りを犯すことになりかねない。
 しかし、そうした尺度で学会を推(お)し量(はか)り、また学会の真実も、日蓮仏法の本義も知らぬ評論家の批評を真(ま)に受け、したり顔で学会批判をする記者もいたのだ。
 信仰の世界にあって、確信の喪失(そうしつ)は魂の喪失を意味する。
 (同書18巻・47P)

 “時代の風潮や大勢を占める見解を 「社会性」 というならば” と、それは世俗的な価値にとらわれ、現世の享楽を説く 「順世外道」 に堕することになる。 先生はそのような 「社会性」 という言語を、“絶対視することは、大きな誤りを犯すことになりかねない” と言われています。
 この頃は、文化・伝統行事と言って、地域の祭り行事等に参加しているようですが、多発する世間の天変地夭の災害を考えるとき、それらを無定見的に絶対視することなく、根底に 「立正安国の精神」 は堅持していきたいと思います。
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「希望の源泉」(26)(衆生の救済こそ究極の善)

 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第26回は、「衆生の救済こそ究極の善」 という思想 であります。今回も 「提婆達多品」 の前半で説かれる 「悪人成仏」 についての章の続きです。  (第三文明・2018/8月・53P)

 「知識・技術そのものに善悪はない
 佐藤 優  この章は、「悪とは何か?」 という哲学・思想上の大テーマを考えるうえでも、示唆に富む内容ですね。
 たとえば、池田会長の
「知識は善人をいっそう善人にし、悪人をいっそう悪くするものです」 (法華経の智慧3巻・88P) という発言があります。 これなどは、知識や科学技術と善悪の関係を論ずるときに引用したくなるような、実に鋭い フレーズだと思います。 ……
 最先端の科学技術を、多くの人を救うために用いることもできれば、大量殺人に用いることもできます。 このように、知識も科学技術も本来は価値中立的で、そこに善も悪もありません。 それを用いる人の心・一念によって、善悪が決まる。

 
 対談者は、“釈尊の教団を攪乱(かくらん)した提婆達多のような悪人は、古今東西、どの宗教の内部にも必ず出現するということだと思います” と語られている。

 佐藤  ところで、「知識と悪」 「技術と悪」 について考えてみると、文系よりも理系のほうに、知識や技術の悪用に走りやすいという傾向性が見られると思います。 理系の学問の多くは、リッカード(ドイツの哲学者)が言うところの 「法則定立的」 な研究――すなわち “実践が可能で、そこから法則を導き出す形の研究をする学問” です。 だからこそ、そこでは理性が研究の基準になり、「理性ですべてが割り切れる」 「ロジック(論理)は万能である」 という、理性に対する過信に陥(おちい)りがちなのです。 そこに、知識や科学技術の悪用という “暴走” が起こる素地(そじ)もある。

 先月(7月)、オウムの死刑囚の刑が執行された。 毒ガス・サリンをまき散らし、人びとを恐怖の底に突き落とし、日常社会生活の破壊を企てた。 宗教団体と名乗りながら、このような極悪非道なることが、よくも出来るものだと慨嘆するものである。
 オウムの実行犯の幹部たちは、みな高学歴の上、その殆んどが理系の出身であるとのことである。 佐藤氏の上記の説明で、訳がよく分かりました。
 日蓮大聖人は、「恵能(よ)く惑を破し理を顕す・理は惑を破すこと能(あた)わず、理若し惑を破せば一切衆生・悉く理性を具す 何が故ぞ破せざる、若し此の恵を得れば則(すなわ)ち能く惑を破す 故に智を用(も)つて乗体と為す」(689P) と仰せです。 唱題で生ずる智で煩悩を破し、仏性を現わすゆえに、智(唱題)を乗体(教え・修行の基本)とするのである。
 この事件があって、“宗教はどれも同じことを説いてる” なんて言う人はいないであろうと思う。 世の中の宗教には、善悪・邪正の違いがあるのである。 これを糺(ただ)して、正しい宗教を求めなければならないのであります。

 善と悪とは 「関係性」 である
 佐藤  池田会長の次の言葉にも、私は強い印象を受けました。
 「孔子や イエス・キリストや マホメット(ムハンマド)が、もし釈尊に会ったら背(そむ)くことはないだろう、とも牧口先生は言われていた。 なぜならば 『彼らはただ等しく自己を空(むな)しうして、衆生を救済しようとするに余念がないからであって、エゴイストではないからである』 と。
 牧口先生は、衆生の救済に究極の善を見ておられたようだ。 反対に、自分の利害だけを考える エゴイズムは悪の根源です」
 (法華経の智慧3巻・98P)
 ここには、創価学会の考える善悪の基準が定義されています。 「衆生の救済」 こそ究極の善である。 また、「衆生の救済」 という共通の大目的に立つ他宗教とは連帯できる、と……。

 牧口先生は、“「衆生の救済」 こそ究極の善である” と唱えられ、大善生活を提唱された。 法華経は一切衆生を成仏へ導く教典である。 ゆえに、法華経を “我も唱へ他をも勧めんのみこそ” 究極の善であり、大善生活です。 まさに、世界広布を目指す 「学会活動」 のことであります。

 善悪は 「関係性」 というもう一つの善悪論について、
 佐藤  池田会長が、次のように説明されている部分ですね。
 「たとえば、『瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者なり』(584P) と大聖人は言われている。 悪への正義の怒りは善。 エゴの怒りは悪。 怒りそのものが善いとか悪いとかは言えません。 善悪は 『関係性』 です。 だからこそ、積極的に 『善の関係』 を創っていくことです」 (同書3巻・108P)
 この 「善悪は 『関係性』」 という考え方の前提にあるのは、仏法の 「縁起」 の思想でしょうね。 森羅万象は相互に関係し合って成り立っているから、何らかの 「縁」 に触れて善悪の心も生じてくる、ということです。

 善と悪とは 「実体」 ではない。 どこまでも 「関係性」 である。
 たとえば、極楽寺良寛は、当時の民衆から 「生き仏」 と崇められていたが、大聖人という 「縁」 に触れて、嫉妬や恐怖に駆られて、大聖人を迫害するという極悪人になった。
 牧口先生は、「善人でも大善に反対すれば直ちに大悪に陥(おちい)り、悪人でも大悪に反対すれば忽(たちま)ちに大善になる」 と言われています。

 「偏狭さ」 とのぎりぎりの闘い
 この項目のなかで、佐藤氏は国家神道について語っていますので引用いたします。
 世界192ヵ国・地域に SGI が広がっていることは、創価学会の寛容さの表れでもあるが、そこで難しいのは神道との付き合い方です。
 佐藤  創価学会は国家神道から弾圧されたにもかかわらず、今は神道とも上手に共存しています。 ただ、あまりにも神道に対して寛容でありすぎると、そこに危(あや)うさもあります。 「神道は慣習であって宗教ではない」 などと言い出して、国家神道復活を目論む勢力も、少しずつ力を蓄えてきているからです。 そこに対する警戒の念を、創価学会・公明党は常に厳しく持たなければいけないと思います。 国家神道自体が、一つの宗教を国民に強要するという偏狭な ナショナリズムそのものであり、まぎれもない悪だったのですから……。
 そのうえで内なる偏狭さを排していかなければならないという、ぎりぎりの闘いがそこにはあるのです。


 この 「国家神道」 の問題を、佐藤氏は憂慮されており、既に、このシリーズで語られていますので、ご参照ください。
   「希望の源泉」(11) ―→ ここから ここから
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「希望の源泉」(25)(反逆の提婆達多)

 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第25回は、「悪と戦い続けてこそ仏」 という思想 であります。今回は 「提婆達多品」 の前半で説かれる 「悪人成仏」 についての章です。  (第三文明・2018/8月・53P)

 法華経は悪をどう捉えているか?
 提婆達多とは、インドの斛飯王(こくぼんおう)の王子で、釈尊の従弟(いとこ)にあたる。 はじめ釈尊の弟子となりながら、退転して新教団を作り、釈尊の殺害をはかるなど三逆罪(破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)を犯した。 立っていた大地が裂け、現身に阿鼻地獄に堕ちたという。
 提婆達多品第十二では、提婆達多は阿私仙人という、釈尊の因位の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来となる記別を与えられている。 これは竜女の女人成仏と並んで、悪人成仏をあらわしている。

 佐藤 優  法華経の 「善悪論」が展開される パートなのですね。 この章の冒頭近くで池田会長が次のように発言されていることに、私は強い印象を受けました。
 「『仏法は勝負』 です。 『限りなき闘争』 です。
 『善と悪』 『法性と無明』 『幸福と不幸』 『平和と戦争』 『建設と破壊』 『調和と混乱』。 それらの永遠の闘争が、人生と社会の実相です。 否、宇宙の実相なのです。 だから戦うしかない。 だから勝つしかない。 仏の別名は 『勝者』 というのです」
 (法華経の智慧3巻・82P)
 これは、実に創価学会らしい捉え方だと思いました。 仏教といえば一般に静的な諦観という イメージがあるのに対し、非常に動的で ダイナミックな存在として仏を捉えている。

 創価学会では、「人生は闘争」 である。 「仏法は勝負」 であるという言葉は、よく用いられています。
 先生はそれらの闘争が、“人生と社会の実相です。 否、宇宙の実相なのです。 だから戦うしかない。 だから勝つしかない” と指導されています。
 対談者は、この言葉の背景には、“生命のなかには仏も魔もあるから、常に仏の側が勝っていなければ魔に負けてしまう” という捉え方がある、と語っている。
 御金言には、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190P) と訓戒されています。
 
 佐藤  仏とは 「魔との闘争に勝利した者」 なのでしょう。 さらに、“一度勝ったものは永遠に仏であり続ける” という固定的な成仏観ではなく、仏と魔、善と悪が常に心のなかでせめぎ合っていると捉えるわけですね。 魔と闘い続けることのなかに仏の生命があるという、“生成的な成仏観” とでも言いましょうか。
 ………
 この章にも、池田会長の象徴的な発言がありますね。

 「『善人』 とは 『悪と戦っていっる人』 です。外の悪と戦うことによって、自分の内なる悪を浄化している人のことです。 この軌道が人間革命の軌道です」 (同書3巻・94P)
 「悪との 『限りなき闘争』 こそ、提婆品を貫く魂(たましい)なのです」 (同書3巻・95P)
 これらの言葉はまさに、“闘い続けてこそ仏になれる” という成仏観を示していると言えそうです。

 池田先生は、“法華経の一念三千は、究極の内省の哲学です” と。 提婆達多は、“それは彼自身が自分との戦いをやめていたからでしょう。 「内なる悪」 を自覚し、その克服に努力しなければ、とたんに悪に染まってしまう” と述べられている。
 “極善の仏にも、悪の生命が具わり、極悪の提婆にも、仏の生命が具わると見る。 その上で、「悪との戦い」 を続けているか 否かによって、現実は、善と悪の軌道に、遠く正反対に分かれてしまう。 そして、じつは、この一点に、提婆達多品を読む カギがある” と申しています。
 まさに、“極悪と戦い続けている人こそ 「仏」” なのであります。
 
 提婆達多から考える 「退転者」 の共通項
 佐藤  「提婆達多品」 前半の直接の テーマは 「悪人成仏」 ですが、現代の学会員の皆さんがこの品を学ぶ意義は、もう一つあると思います。 それは、退転者や反逆者持つ傾向性を、提婆達多の姿を通じて知るということです。 それを知ることで、退転者・反逆者に影響されて信仰が揺らいでしまうのを防ぐことができます。
 ………
 同じ退転するにしても、独(ひと)り静かに去っていく人もいれば、多くの信者を巻き込んで 「分派活動」 を展開する人もいます。 また、組織内に身を置いたまま オルグ活動(勧誘活動)を行い、自らの影響力を強めて “組織内組織” をつくっていく人もいるでしょう。 そのなかで特に問題になるのは多くの信者を巻き込んでいく ケースです。 そういうタイプの退転者は、往々にして言葉巧みで、オルガナイザー(工作者・組織者)として優秀なのです。 だからこそ、組織を破壊する脅威(きょうい)にもなり得る。
 この章のなかで池田会長は、
「悪人は、絶対に 『自分は悪人です』 という顔はしない(笑い)。悪知恵(わるぢえ)というか、奸智(かんち)です」 (同書3巻・92P) と述べています。 
 この言葉のとおり、オルガナイザー型の退転者は奸智に長(た)けており、「私こそが池田先生の教えを正しく受け継いでいる真の弟子だ」 などと主張するでしょう。 その奸智を見破っていく賢明さが、学会員の皆さんには求められているのです。 そういう輩(やから)が学会内部から現れたとき、その人が自ら主張するとおり 「池田先生の真の弟子」 なのか、それとも “提婆達多” になってしまっているのかを、見極めないといけない。


 「提婆達多になってしまっているのか 否か」 を見極める基準線は、どういうところにあるか との問いに。
 佐藤  創価学会の場合はやはり、「会憲」 にも定められた三代会長の位置づけが、一つの メルクマール(指標)となるように思います。
 「会憲」 では、三代会長を 「広宣流布の永遠の師匠」 としています。 そこから逸脱して、…… 三代会長の位置づけを我見でゆがめている人は、どんなに立派なことを言っていても 「提婆達多になってしまっている」 と言えるのではないでしょうか。


 仏法に 「法体と修行」 というものがある。 法体は不変であるが、修行は時代や環境など、その時の状況によって変化するものである。
 退転者や反逆者たちは、この理法がわからず、大聖人や戸田先生などの言説をもとにして、今の先生の指導や学会執行部は、逸脱しているとか、間違っているとか言っている。

 創価学会は初代牧口会長以来、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提・広令流布と一切衆生救済のために、広宣流布に邁進する唯一の団体である。 今日まで、この広布大願の精神は、毛筋ほども変わってない。
 弘安二年の御本尊についても、参拝もできないから 「受持の対象にはいたしません」 と言っているだけで、この御本尊が、間違っているとか 言って否定しているのではない。 それどころか、学会授与の御本尊は、はじめの頃から今日まで、日寛上人ご書写の御本尊である。 これも何一つ変わってない。
 ただ、勤行は五座の読誦から、方便・自我偈のみになった。 これは修行の分であり、世界広布の時代では、変わって然るべき処置である。

 大聖人の御精神を真っすぐに実践しているのは、創価学会のみである。 その根本のところを直視しないで、枝葉末節の部分の違いを ネタに誹謗中傷することは、まさに、「我賢しと思はん僻人等(びゃくにんら)が念仏者よりも久く 阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし」(960P) の者たちである。 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 82歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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