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「希望の源泉」(29)(竜女成仏 と 人権宣言)

  「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 29 回は、竜女の成仏は、高らかな 「人権宣言」〕 であります。 今回も 「提婆達多品」 の章の続きです。

 方便としての 「変成男子」
 「提婆達多品」 で竜女の成仏が 「変成男子(へんじょうなんし)」(一度男性に変身したうえで、成仏の証拠を見せる)の形で描かれていることから、フェミニスト(女性解放論者)たちの “仏教は女性差別の宗教である” という批判に対して、先生は次のように述べられています。
 「いや、それは違う。 竜女の成仏は、あくまでも 『即身成仏』 です。 女性の身のままで成仏したのです。 変成男子は、舎利弗をはじめ、成仏は男性に限られると思い込んでいた人々に対して、竜女が成仏したことを、分かりやすく示すための方便にすぎないでしょう。 男性にならなければ成仏できないという意味ではないのです。
 そのことは、一番初めに文殊菩薩が竜女のことを紹介するくだりで、すでに明確です。 竜女がすでに成仏していると文殊菩薩は語っているのです」
 (法華経の智慧3巻・125P)

 佐藤 優  非常に明快ですね。 この章にも紹介されているとおり、釈尊の教団には女性の出家修行者もたくさんいました。 これは画期的なことでした。 釈尊以前の バラモン教では、出家は男性のみに限られていたからです。 女性出家者を認めていたことそれ自体、釈尊が 「女性は成仏できない」 などとは考えていなかった証左と言えます。
 「生まれによって賤(いや)しい人となるのではない。 生まれによって バラモンとなるのではない。 行為によって賤しい人ともなり、行為によって バラモンともなる」 (『ブッタのことば――スッタニパータ』 中村元訳、岩波文庫) という有名な言葉がある。 釈尊は厳しい差別社会にありながら、身分や性別、出身、僧俗の違いなどは、まったく問題にしなかった。 (同書3巻・132~133P)
 とはいえ、当時の インド社会は極端な女性差別の社会でしたから、「竜女がその姿のままで成仏する」 と説いたら、多くの人が抵抗を感じたでしょう。 いったん男性になってから成仏するという 「変成男子」 は、その抵抗をやわらげ、受け入れやすくするためのいわば “クッション” でした。 そうした時代背景を無視して、「変成男子が説かれているから仏教は女性差別的だ」 というのは、底の浅い批判だと思います。

 法華経が成立した当時の時代背景を無視して 「仏典は女性差別的だ」 と論じても的外れである。
 釈尊の在世には、勝鬘(しょうまん)夫人ら女性出家者が男性出家者らに比して、勝るとも劣らない活躍をしているのである。
 日本でも(584年)、初めての出家者は 「善信尼」 という女性であったと言われている。
 日蓮大聖人は、「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」(1360P) また、「此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたり」(1134P) と仰せです。
 実に、大聖人は女性信徒に対して 「日妙聖人」 「光日上人」 と、 「聖人」 や 「上人」 の称号を与えられておられるのである。 この点についても、大聖人の男女の平等観は徹底されています。
 
 「社会への適応」 に潜む危険性
 ところで、差別社会に受け入れやすいように説かれた 「変成男子」 について、池田会長は次のように指摘しています。
 「ただ問題は、そういう 『社会への適応』 のなかで、宗教者自身が、次第に社会の差別意識にとらわれてしまう場合です。 それでは 『法』 は、ゆがめられてしまう」 (同書3巻・129P)
 つまり、本来は 「方便」 として説かれた 「変成男子」 が、多くの人に受け継がれていくうちに、女性差別として固定化されてしまう危険性の指摘です。 実際、仏教史のなかで、そのように教えがゆがめられた例も少なくなかったのです。

 佐藤  方便としての 「社会への適応」 が、いつしか釈尊の教えの本質をゆがめてしまうという、怖い話ですね。 そのことからの アナロジー(類推)で、私が一つ一つ危惧(きぐ)している点を述べます。 それは、創価学会/SGI 自体がある種の 「エリート集団」 になってしまうのではないかという危惧です。
 ………
 池田会長が創立された創価学園・関西創価学園も、偏差値から見ればいまや上位数%の難関校です。 学会本部職員は高学歴集団であるし、公明党の議員を見ても、弁護士・公認会計士・元外交官など エリート揃(ぞろ)いです。 もちろん、そのこと自体が悪いわけではありません。 ただ、そうした傾向が進んでいった先に、組織の官僚化が進み、民衆から離れていく危険性は常に意識しておくべきではないでしょうか。 もしも創価学会が 「庶民の団体」 であることを忘れてしまう方向に進んでしまったら、それは池田思想から ズレてしまうと思うのです。


 創価学会はかつて、“貧乏人と病人の集まり” と揶揄(やゆ)されましたが、いまや会員の中心は中産階級であり、職員や議員は高学歴の エリート集団である。
 佐藤氏は “そうした傾向が進んでいった先に、組織の官僚化が進み、民衆から離れていく危険性は常に意識しておくべきではないでしょうか” と、ご心配してくださっています。 そして、“たとえば、今の日本のキリスト教は、「中産階級・インテリ層のための宗教」 になってしまっている面が強い。 そうなると、社会の底辺でいちばん切実に救いを求めている人たちには、手が届きにくくなってしまう。 …… 民衆から遊離しかねない危険性もあるのです。 それは私が、日本のキリスト教の失敗をふまえて切実に感じる危惧なのです” と、語られ注意を促されています。
 そのためには、結党の時の先生の 「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」 との指針を片時も忘れず、大衆の中に飛び込んでいく以外にないと思います。
 
 「竜女成仏」 は 「女性的なるもの」 への讃歌
 佐藤  それから、この章の終盤で池田会長は次のように述べられています。
 「自らの尊貴さに目覚めた女性の連帯は、文明の質をも変えていくでしょう。 学会の婦人部・女子部の皆様は、その先覚者であり中核です」 (同書3巻・155P)
 この言葉に完全に同意します。 私は、本来的に女性は男性よりも精神が強靭(きょうじん)なのだと考えているからです。 そう考えるようになったのは、かつて 「鈴木宗男事件」 に連座して逮捕されたとき、外務省内の男の友人は誰一人私についてきてくれなかったのに、三人の女性外交官だけが私を助けてくれたことがきっかけです。 そして、獄中で国家というものが男権的で、とても暴力的なものであることをあらためて認識して、そこから フェミニズムの重要性に関心を持ち始めました。 
 ………
 また、この章の結論部分で、池田会長は次のように語られています。

 「畜身で女性で年少で ―― 一番、低く見られていた竜女が一番早く 『即身成仏』 した。 そこに意味がある。
 ともあれ、しいたげられた差別社会のなかで、竜女成仏は万感の思いを込めた 『人権宣言』 だったと言えるでしょう」
 (同書3巻・154P)
 フランス革命の 「人権宣言」(1789年) における 「人」 には、女性は含まれていませんでした。 それよりもはるかに先駆けた古代インドの法華経において、竜女成仏という形で女性を含めた 「人権宣言」 がなされていたことに、感銘を覚えました。

 フランス革命の 「人間と市民の権利宣言」 には、女性は含まれていなかった。 それに比べれば仏教は、約3000年前、釈尊の竜女成仏という形で 「男女平等宣言」 がなされました。
 日本においては、約800年前、日蓮大聖人は 「法華経の行者は男女悉(ことごと)く世尊に非ずや」(813P) と。
 「撰時抄」 に、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(287P) と仰せです。
 ユネスコが、「世界人権宣言」(1948年)の 20周年を記念し、古今東西の “人権への戦い” の言を集大成し、編纂(へんさん)した 『語録 人間の権利』 という書の中に 『撰時抄』 の御金言が収録されているのである。  
 どんな絶大な権力も精神までは縛れない。自由の叫びを抑えられない という心の底からの本源的な 「人権宣言」 である。
 今、世界の多くの人々は、大聖人の御生涯に亘る 「人類のための人権闘争」を見ている。 そして、まさに 「人権宣言」 の偉大なる先駆者であると讃嘆し、崇敬しているのである。
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「希望の源泉」(28)(女人成仏)

  「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 28 回は、法華経の 「女人成仏」 が語りかけるもの であります。 今回も 「提婆達多品」 の章の続きです。

 爾前・権経で成仏できないとされた者に、二乗(声聞・縁覚)と悪人・女人がおります。 二乗は方便品第二 で 「二乗作仏」 は説かれています。
 提婆達多品第十二 の前半は 「悪人成仏」 でした。 後半の今回は 「女人成仏」 に入ります。 極悪人の提婆達多と八歳の竜女の成仏を述べて、法華経の功徳の偉大さを証明し流通を勧めている章です。
 “法華経の即身成仏は、現世の肉身のままの成仏、言い換えれば 「凡夫成仏」 のことなのです。 「現世そのものを仏の世界の変えていく」 という考え方が、法華経の大きな特徴と言えます“ と語られている。

 宗教における 「男女平等」 の問題
 “提婆達多品における竜女の成仏が、一度男に変わってから成仏する 「変成男子(へんじょうなんし)」 の形で描かれるため、「やはり女性差別が残っている」 と批判する向きもあります” と語られている。

 佐藤 優  ただ、キリスト教に比べると、仏教は一般に 「男権性」 があまり強くないのではないでしょうか。 一人の人間のなかに男性性と女性性が混在しているという捉え方を、早い段階からしていたようですし……。この章でも、池田会長が次のように発言されています。

  「一人の人間のなかに 『男性的なるもの』 と 『女性的なるもの』 が調和していなければならない。 それが人格の成熟であるし、自己実現でしょう」 (法華経の智慧3巻・146P)
 また、一人の人間のなかの男性性・女性性の割合に大きな個人差があるのは当然だし、だからこそ LGBT (性的少数者の総称)の人たちもいて当然なわけですね。
 そうした考え方については、同性愛が宗教上の罪(sin)とされてきた キリスト教よりも、仏教の方が先駆的でした。 なかでも創価学会には、個々人の性的思考に対する偏見が、少なくとも教義上はまったくありません。


 「変成男子」 が描かれているからと言っても、仏教は女性差別の宗教ではないのである。 当時の インドの ヒンドゥ社会では、男尊女卑の思想が強く影響し、女性の成仏を信じることできなかった 舎利弗等の者たちに対して、成仏の姿を示すための方便として男子の姿を現じたとされる。
 生命の実相として “一人の人間のなかに 「男性的なるもの」 と 「女性的なるもの」 がある” とあります。 一方の女性が成仏できなければ、もう一方の男性の成仏も あり得ないのである。 これ、法華経の 「十界互具・一念三千」 の平等大慧の哲理である。
 大聖人は 「法華経の行者は男女悉(ことごと)く世尊に非ずや」(813P) と仰せです。
 仏教には、もともと 女性差別の思想はないのである。

 男女の役割を固定化しない池田会長
 ――  仏教に比較的 「男権性」 がないのは、「空」 や 「無常」、輪廻を説く教えだからということもあると思います。 一つの生命がときには男として生まれ、別の世には、女性として生まれることもある。 また、男性・女性という性別も、常に移ろいゆく 「無常」 の世にあっては、ほんの一時の 「仮の姿」 でしかない……そのような捉え方が根底にあるからこそ、男性性・女性性に執着せずに済むのではないでしょうか。

 佐藤  そうかもしれません。 それと、私が創価学会・公明党の多くの人たちと接して感心させられるのは、女性たちに 「男まさりになって頑張ろう」 というような力(りき)みや無理が感じられないことです。 ………
 それは、男女の役割を固定的に考えて押し付けることをしない、池田会長の柔軟なご指導の反映かもしれません。 会長のそのようなご指導は、この章の次の一節に集約されています。

 「男性も、いわゆる 『男らしい』 だけでは粗暴になってしまう。 女性の考え方、感性を理解できるこまやかさ、優しさが必要でしょう。 女性の場合も、いわゆる 『女らしい』 だけでは十分とは言えないでしょう。 (中略)
 どんな社会においても、男性は男性らしさ、女性は女性らしさが、その社会なりに要求されます。 その要求に適応すればするほど、それ以外の自分の特質が抑圧されてしまう面がある。 それは、ある意味で、しかたのないことかもしれないが、だからこそ、男性は女性に学び、女性は男性に学んで、互いに自分の人格を大きく育てていくべきではないだろうか。
 結婚の意義の一つも、こういう自己完成にあると思う。 もちろん、結婚しなければならないという意味ではありません」
 (同書3巻・147P)
 シンプルな言葉ですが、私は ジェンダー(社会的性差)問題をめぐる智慧として、これ以上のものはないと感じます。
 男性が女性を睥睨(へいげい)するような今の男性優位社会は、明らかにおかしい。 さりとて、仮に女性優位社会が到来したとしても、それは今の歪(ゆが)んだ社会構造を逆転させるだけで、歪みそのものは解消されません。 だからこそ、真の男女平等社会への一歩として、男性は女性に学び、女性は男性に学んで、互いに人格の完成に向けて高め合っていくべきだ、と池田会長は言われるのです。


 先生は “男性は女性に学び、女性は男性に学んで、互いに自分の人格を大きく育てていくべきではないだろうか” と指導されています。
 学び合うためには、お互いに尊敬し合わなければならないと思います。 そのためには、常不軽菩薩の礼拝行の精神を学ばなければならないと思います。

 フェミニズムからの仏教批判への本質的応答
 佐藤  この章で池田会長が展開された、“「男性的なるもの」 と 「女性的なるもの」 が調和してこそ人間であり、真の仏教はその調和を目指している” という視点こそ、フェミニズム(女性解放思想)の仏教批判に対する本質的応答であると思います。
 池田会長の次のような発言も、私には印象的でした。

 「大切なことは、女性も男性も、人間として 『幸福いなる』 ということです。 幸福になるのが 『目的』 であり、他は 『手段』 です。 『こうあるべきだ』 と決めつけ、それが、どんなに正論のように見えても、それを実行して不幸になったのでは何にもなりません。 また女性が不幸のままで男性だけが幸福になれるわけもない」 (同書3巻・143P)
 まさにこれこそが本質ではないでしょうか。

 先生は “大切なことは、女性も男性も、人間として 「幸福いなる」 ということです” と述べられています。
 絶対的幸福といえば、成仏することである。 この成仏を法華経迹門では、舎利弗等の二乗作仏や提婆達多の悪人成仏は、無量劫すぎて作仏する という 仏の 「記別」 を受けただけである。 これに比して、初めて成仏の現証として示されたのが竜女の即身成仏である。
 竜王の娘で八歳の竜女は、女性であり、畜身であり、しかもまだ幼いということで、二重三重に差別され、成仏からもっとも遠い存在である と考えられていたのである。
 その竜女でさえも成仏できると説くことは、この世で成仏できない存在はないということを示しています。

 提婆達多品がある第五巻について、大聖人は 「第五の巻に即身成仏と申す 一経第一の肝心あり」(1311P) と仰せられている。
 池田先生は、大聖人が 「一経第一の肝心」 と言われたごとく、この品に即身成仏が説かれていることが ポイントです。 「あらゆる人を成仏させるのだ」 というのが法華経の心です。 人々にとって法門以上に切実なのは、自分が成仏できるかどうかということです。 提婆品は、まさにその問題に端的に答えを示している、と述べられています。 (同書3巻・84P)
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「希望の源泉」(27)(結合は善・分断は悪)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 27 回は、悪は 「善の炎」 のための薪となる であります。 池田 SGI 会長の 『法華経の智慧』 をめぐる語らい、「提婆達多品」 の章の続きです。 (第三文明・2018/10月・53P)

 悪を 「善知識」 として活かしていく
 「提婆達多品」 には、釈尊が成仏したのは 「皆な提婆達多の善知識に因(よ)るが故なり」(法華経・424P) と説かれています。 すなわち、反面教師として提婆達多がいなければ、釈尊も仏にはなれなかったと言うことです。 (反面教師 … 悪い見本として、反省や戒めの材料となる人物や事柄)

 佐藤 優  はい。 善悪を固定的に捉えず、究極的には 「善悪不二」 なのだと捉える法華経らしい視座ですね。 ただし、提婆達多的な悪が 「善知識」(人々を成仏の道に導いてくれる人) として活かされるためには、その悪と戦い抜くことが前提条件となる、と池田会長は言われていますね。
 「釈尊が提婆達多に勝ったからこそ、提婆の 『悪』 が釈尊の 『善』 を証明することになった。 悪に負けてしまえば、提婆が善知識であったとは、とても言えない。……
 悪もまた善を顕す働きをするのであれば、悪の全体がそのまま善になります。 まさに善悪不二です。 しかし、自然のままに放置していて、悪が善になるのではない。 悪と戦い、完膚なきまで打ち勝って、初めて善悪不二となるのです。
 その意味で、提婆品の 『悪人成仏』 とは、釈尊による 『善の勝利』 の偉大な証明です。 勝利宣言です。 その 『勝者』 の境涯の高みに立って初めて、提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれたのだと言えるのです」
 (法華経の智慧3巻・101~102P)
 まさに、深い次元において提婆達多は反面教師であったわけですね。 そして、古代インドにおいてこれほど深遠な 「善と悪の哲学」 が生まれていたことに、あらためて驚かされます。

 上記のように、“提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれた” とあります。すなわち、過去世においては、提婆は釈尊の師匠であったと。 また 「本地は文殊なり」(744P) と初めて聞いたときの拙は、驚きばかりであった。

 池田先生は、提婆達多も、生命の真実の姿においては、善悪不二です。 無明と法性が一体の妙法の当体です。 釈尊が師とした過去世の提婆達多とは、じつは、妙法そのものだったと言えるのです。
 ゆえに大聖人は 「提婆は妙法蓮華経の別名なり 過去の時に阿私仙人なり 阿私仙人とは妙法の異名なり」(744P) と仰せです。 釈尊も根源の妙法を師として成仏しました。 そのことを提婆品では、釈尊が過去世に阿私仙人を師匠として修業し、成仏したという表現で示したと考えられます。………
 悪知識をも善知識に変えるのが妙法の力であり、苦悩をも喜びに変え、追い風に変えるのが信心の一念の力です。 提婆品は、このことを教えているのです、
と指導されています。 (同書3巻・102~103P)

 ――  日蓮大聖人も、自らを迫害した極楽寺良観(忍性)や平左衛門尉らのことを 「日蓮が仏にならん第一のかたうど(方人)」(917P) つまり 「味方(方人)」 であり 「善知識」 であったと述べています。

 佐藤  それもまた、日蓮大聖人が迫害者に勝利されたからこそ そう言えるわけです。 そのことについて池田会長は、次のように語られています。
 「御本仏を迫害した 『悪』 の存在をも 『善』 に変えてしまわれた。 実際、大聖人や釈尊のそういう戦いの模範があったからこそ、後世の私どもは 『正道』 がどこにあるか分かる。 その意味で、提婆も平左衛門尉たちも、反面教師として、後世に 『善の道』 を示してくれている、と言えるでしょう。
 創価学会も、ありとあらゆる迫害・弾圧・策謀に全部、打ち勝ってきました。 その戦いによって、皆の信心が深まり、強くなった。 難もなく、簡単に広宣流布ができたら、鍛えの場がなく、成仏する修行の場がなくなってしまう。 ……  一切の悪を、善の炎がいや増して燃えさかるための薪(たきぎ)としていくのです」
 (同書3巻・104P)
 「悪を 『善の炎』 のための薪としていく」 とは、含蓄深い言葉ですね。 実際、池田会長は自らを迫害した日蓮正宗宗門を 「薪」 とし、勝利することによって、創価学会の世界宗教化に向けて飛翔(ひしょう)されたのだと思います。

 第二次宗門事件が発生した時、“破門されたし、もう関係ないのですだから、放っておけばいいじゃないか” という声も一部にはあったようだが、悪とは徹底的に戦わなければならないのである。
 そのことを牧口先生は、例えば “電車のレールの上に石を置く。 これは悪です。 一方、それを見ながら放置した人がいるとする。 この人は、悪いことはしていないが、善いこともしなかった。 その結果、電車が転覆したならば、悪いことをしたのと同じである” と。 すなわち、「善いことをしないのは、悪いことをするのと同じ」 「悪と戦わないのは、悪をなすのと同じ」 だと、強く指導されています。

 人々を結合させる 「善の力」
 善と悪を見分ける基準について、池田会長が結論的に述べた次のようなくだりがあります。
 「善と悪については古今東西、さまざまな哲学的議論がある。 それをたどることは今はしないが、ともかく 『生命こそ目的であり、生命を手段にしてはいけない』。
 これが大前提です。 その尊極の生命をより豊かにし、より輝かせるのが善。 生命を委縮させ、手段にするのが悪と言えるでしょう。
 また、『結合は善』 『分断は悪』 です。
 ゆえに最高善は、人々の仏界を開くことであり、人々の善意を結びつけることです。 仏法を基調とした平和・文化・教育の運動、すなわち広宣流布の運動こそ最高善なのです。 この行動を持続するためには、悪をも善の一部にしていく 『善悪不二』 のダイナミックな実践が必要なのです」
 (同書3巻・111~112P)

 「結合は善」 「分断は悪」 という言葉を、創価学会/SGI は、異なる世界、異なる立場の人々を、信仰の力によって 「結合」 させる役割を果たしてきました。
 例えば、アメリカは多民族国家であるが、いまだ人種差別問題は解決できていません。その様ななかでも、創価学会の座談会等では、白人と黒人の メンバーが和気あいあいと会合に集ってきています。 創価学会の世界では、時代に先駆けて人種の壁が崩され、「結合は善」 の姿がすでに出現できています。
 来年は、地方統一選と参院選があります。 公明党の 「軽減税率」 の政策について、佐藤氏が述べていますので、ご参考にして 友好対話にご活用ください。 

 佐藤  また、創価学会が支持母体である公明党の政策にも、「社会の分断を避け、結合に向かわしめる」 という志向性が、常に感じられます。
 一例を挙げれば、消費税が10%になると同時の導入が決定している 「軽減税率」 です。 公明党の強い主張で決定されたものですが、他の政党や有識者の中には、現金給付と所得税などとの還付を組み合わせた 「給付付き税額控除」 のほうがいい、と主張する人たちがいました。
 それに対し、公明党は断固として軽減税率導入を推し進めたわけです。 その理由の一つは、「還付金にしてしまうと社会の分断を招くから」 だと私は考えます。 「所得いくら以下の世帯には還付金を出す」 という形だと、もらう世帯ともらわない世帯の間に分断が生じてしまうのです。 一方、軽減税率ならすべての世帯が対象になるので、分断を招かないわけです。
 そのように、公明党の政策にも、「結合は善、分断は悪」 という池田思想が反映されているのです。 それは同時に、先ほどの引用の前段部分、「生命こそ目的であり、生命を手段にしてはならない」 という池田思想を、公明党も根底に据えているからでもあります。
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「新・人間革命」第18巻〔獅子吼の章〕(映画・人間革命)

 「九月八日」、小説 『人間革命』 全30巻が、ついに連載完結を迎えました。
 池田先生は、第1巻 〔はじめに〕 の章で “『新・人間革命』 は、完結までに三十巻を予定している。その執筆は、限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない” との思いを述べられています。 先生が命を削る思いで続けてこられた 「ペンの大闘争」 に、心から感謝の意を捧げるものです。 誠に有り難うございました。

 原田会長は、“『人間革命』 『新・人間革命』 は、広宣流布の歴史を通して 「学会精神」 を刻み残した 「信心の教科書」 です。 一人一人が、山本伸一の分身たる思いで進むことが、“人間革命” の 「精読」 であり、「実践」 となります。 ……
 新たな人間革命の歴史を開く戦いを開始して、師恩に報いる弟子の道を貫こうではありまえんか”
 (2018・9/8・聖教1面) と指導されています。

 〔獅子吼〕
 「師」 という原点をもつ人は強い。
 原点を忘れるな。
 原点を忘れなければ、人間は、進むべき信念の軌道を見失うことはないからだ。

 山本伸一は、一九七三年(昭和四十八年)の七月七日午後、東京・世田谷区にある東宝スタジオの試写室で、スクリーンに目を凝(こ)らしていた。 彼の小説 『人間革命』 が遂に映画化され、その完成試写会が行われたのである。
 (新・人間革命18巻・7P)

 映画化の話は原作を読み感動した、東宝映像社長で著名な プロデューサーである・田中友幸氏からのたっての要請であった。
 脚本・橋本忍、 監督・舛田利雄、 俳優・丹波哲郎・新珠三千代・仲代達矢 等々の豪華キャストで、東宝全社の総力をあげた作品は、記録的な大ヒットとなったのである。
 試写が終わって、作品の出来ばえを尋ねられた先生は、「感動的な力作です。 師弟の心の交流、また、人間の精神の世界がよく表現されています。 PR 映画のようなものではなく、感動できる芸術作品になっていると思います。
 ともかく、内面世界の昇華を映像化していく作業ですから、大変なご苦労ががあったことでしょう。 スタッフの皆様に、くれぐれもよろしくお伝えください」
と感謝の意を述べられています。 (同書18巻・31P)

 私は45年前、この映画を見ましたが、今ではほとんど記憶に残っていません。 そこで “YouTube” で検索して見ましたらありました。
 映画は一・二部を合わせて、2時間40分の大作である。 第一部は、戸田先生の “獄中の悟達” が中心で圧巻である。 
 第二部は、地獄、餓鬼、畜生……などの十界論が、一貫した テーマとなっている。 私は十界論が説かれていたことは、完全に忘れていました。
 何故だろうかと自分なりに考えてみたところ、浅学なる故か 十界の名目ぐらいしか知らず、映画では十界論かと軽く聞き流したのでしょう。 感動もなかったので、記憶に留めることができなかったと思います。
 今回 視聴してみて、十界論は解かりやすく互具論まで丁寧に説明されており、観客に 「人間革命」 という命題を理解させることができたと思います。 それだけに特に、脚本家・橋本忍氏のご苦労が偲ばれるのである。
 この作品を、見てない方はもちろん、見ている方も再度のご視聴をお願いいたします。
 
 そのころ先生は、聖教新聞社を足繁く訪れていた。 「言論・出版問題」以降、一部の記者の間に、安易に社会に迎合し、信仰の世界を見下すような風潮が生じていたのである。 新聞社の記者・職員たちに、“広布の使命に生き抜け” と訴えられた。
 そのような者たちは、いわゆる苦労知らずであり、確たる信仰体験に乏しかった。 この点について、次のように述べられています。
 揺(ゆ)るがざる確信は、体験によって培(つちか)われる。 では、どうすれば、信仰体験は積めるのか。
 それには、仕事や人間関係、健康の問題等々、自分の悩みを克服し、希望を叶えることをめざして、真剣に唱題し、一つ一つの学会活動に全力で取り組んでいくことである。
 “仏法の偉大さを実証するために、この就職を勝ち取らせてください” “広宣流布のために自在に活動できるように、この病を克服させてください” 等と、懸命に祈り、戦い抜いていくのだ。 そうすれば、必ず、結果は出る。
 ………
 困難な状況のなかで、唱題を根本に自身の限界に挑(いど)んで必死に戦い、目標を達成していくならば、「歓喜の中の大歓喜なり」(788P) があふれ、信心への確信が深まる。
 その体験を積み重ねていくなかで、いかなる非難中傷や弾圧の嵐にも屈しない、富士のごとき確固不動な、堂々たる信仰が培われていくのだ。
 まさに、広宣流布へ進みゆく学会活動こそ、自身の心を強くし、体験をつかむ、生命鍛錬の道場なのである。
 (同書18巻・44P)

 先生は、“確信は体験によってつかむ以外にない” と、すなわち、自らが実践・修行しなければならないのである。 
 初信者のなかには、功徳論ばかり聞いていて、“入会しても 少しも良いことはない、悪いことばかりだ” と。 御本尊や学会が何かしてくれるだろうと、勘違いしている人もいるようです。 苦難を克服してはじめて、功徳・宿命転換もあるのである。 罰即利益です。
 大聖人は、「難来るを以て安楽と意得可きなり」(750P) ・ 「必ず三障四魔と申す障(さわり)いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091P) と仰せです。
 折伏は 成果に焦ることなく、謗法や宿業などについては、よく話をしてあげ 当人が納得したうえで、入会に導きましょう。

 また、当然、創価学会の運営は民主的であらねばならない、…… しかし、信仰の根本問題は、合議や社会的な評価のいかんによって左右されるものではない。
 たとえば、南無妙法蓮華経は最高の法であることを、仮に万人が否定しょうとも、その邪見には、絶対に従うわけにはいかないのだ。
 仏法の師弟についても基準とすべきは、社会の モノサシ ではない。
 (同書18巻・46P)

 たとえば、日蓮大聖人が、幕府の罪人として流罪された時でも、法華経の信念のうえから大聖人に随い、守り抜かれた。
 また、戸田先生は、世間から 「非国民」 と非難されようが、牧口先生の “神札は絶対に受けません” との信念に随い、逮捕・投獄された。 その結果、「獄中の悟達」 という大功徳を受け、今日の “世界広布新時代” を迎えることができたのである。

 多数決による物事の決定を金科玉条とし、「民主的」 というなら、信仰の世界は、その枠に収まり切るものではない。 また、時代の風潮や大勢(たいせい)を占める見解を 「社会性」 というならば、それを絶対視することは、大きな誤りを犯すことになりかねない。
 しかし、そうした尺度で学会を推(お)し量(はか)り、また学会の真実も、日蓮仏法の本義も知らぬ評論家の批評を真(ま)に受け、したり顔で学会批判をする記者もいたのだ。
 信仰の世界にあって、確信の喪失(そうしつ)は魂の喪失を意味する。
 (同書18巻・47P)

 “時代の風潮や大勢を占める見解を 「社会性」 というならば” と、それは世俗的な価値にとらわれ、現世の享楽を説く 「順世外道」 に堕することになる。 先生はそのような 「社会性」 という言語を、“絶対視することは、大きな誤りを犯すことになりかねない” と言われています。
 この頃は、文化・伝統行事と言って、地域の祭り行事等に参加しているようですが、多発する世間の天変地夭の災害を考えるとき、それらを無定見的に絶対視することなく、根底に 「立正安国の精神」 は堅持していきたいと思います。
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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 82歳
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