「21世紀文明と大乗仏教」を読む(2)(「死を忘れた文明」)
20世紀は、第1次・第2次と二度も世界大戦が起き、大量の破壊と殺りくが繰り返され、「戦争の世紀」 であったと言われています。この反省のうえから 21世紀は、人類にとって光輝ある 「生命の世紀」 「平和の世紀} にしなければなりません。
池田先生は、既に 20数年前 ハーバード大学にて、21世紀文明に貢献しうるであろうと思われる思想を、大乗仏教に求めて講演してくださいました。
大乗仏教といえば詮ずるところ、日蓮大聖人の “南無妙法蓮華経である” と我われ学会員は分かりますが、お題目を一度も聞いたことも、唱えたこともない海外の方々に、いきなり “南無妙法蓮華経が最高だ” といっても理解し難いのであります。
そこで先生は、誰人たりとも人生の最重要課題である “四苦(生老病死)”、とくに 「死」 の問題を蔑(ないがし)ろにし死を忘れた現代文明を、大乗仏教の生命観・生死観を用いて批評し、法華経の教えの優越性を述べられています。
一神教(キリスト教等)の生命論しか知らなかった人は、目から鱗(うろこ)が落ちる感がしたのではないかと思われます。
では、先生の ハーバード大での講演の一部分を引用させて頂きます。 (21世紀文明と大乗仏教・19P)
なぜ、人間にとって死がかくも重い意味をもつかといえば、何よりも死によって、人間は己(おの)が有限性に気づかされるからであります。 どんなに無限の 「富」 や 「権力」 を手にした人間であっても、いつかは死ぬという定めからは、絶対に逃れることはできません。 この有限性を自覚し、死の恐怖や不安を克服するために、人間は何らかの永遠性に参画し、動物的本能の生き方を超(こ)えて、一個の人格となることができました。 宗教が人類史とともに古いゆえんであります。
ところが 「死を忘れた文明」 といわれる近代は、この生死(しょうじ)という根本課題から目をそらし、死をもっぱら忌(い)むべきものとして、日陰者の位置に追い込んでしまったのであります。 近代人にとって死とは、単なる生(せい)の欠如・空白状態にすぎず、生が善であるなら死は悪、生が有(う)で死が無(む)、生が条理で死が不条理、生が明(めい)で死が暗(あん)、等々と、ことごとに死は マイナス・イメージを割り振られてきました。
その結果、現代人は死の側から手痛いしっぺ返しを受けているようであります。 今世紀が、ブレジンスキー博士の言う 「メガ・デス(大量死)の世紀」 となったことは、皮肉にも 「死を忘れた文明」 の帰結であったとはいえないでしょうか。
近年、脳死や尊厳死、ホスピス、葬儀の在り方、また、キューブラー・ロス女史による 「臨死医学」 の研究などの関心の高まりは、等しく死の意味の、のっぴきならない問い直しを迫っているように思えてなりません。 やっと現代文明は、大きな思い違いに気づこうとしているようです。
死は単なる生の欠如ではなく、生と並んで、一つの全体を構成する不可欠の要素なのであります。 その全体とは 「生命」 であり、生き方としての 「文化」 であります。 ゆえに、死を排除するのではなく、死を凝視(ぎょうし)し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、二十一世紀の最大の課題となってくると私は思います。
死を忌むべきものとして排除した現代文明は、目的のためには 「生命」 をも手段として軽視して仕舞い、その無残な結末が 「メガ・デスの世紀」 となったと。
そして 「死」 とは、「決して忌むべきではなく、生と同じく恵みであり、嘉(よみ)せらるべきこと」 であり、「信仰の透徹(とうてつ)したところ、生も喜びであり、死も喜び、生も遊楽であり、死も遊楽である」 と、法華経の深く 且(か)つ深遠なる生命観を述べられています。
「戦争と革命の世紀」 の悲劇は、人間の幸・不幸の決定的要因が外形のみの変革にはないという教訓を明確に残しました。 次なる世紀にあっては、従 ってこうした生死観、生命観の内なる変革こそ第一義となってくるであろう と、結局、「人間革命」 する以外に、解決の道はないのであります。
したがって、池田先生は “死を排除するのではなく、死を凝視し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、二十一世紀の最大の課題となってくる” と述べられています。
池田先生は、既に 20数年前 ハーバード大学にて、21世紀文明に貢献しうるであろうと思われる思想を、大乗仏教に求めて講演してくださいました。
大乗仏教といえば詮ずるところ、日蓮大聖人の “南無妙法蓮華経である” と我われ学会員は分かりますが、お題目を一度も聞いたことも、唱えたこともない海外の方々に、いきなり “南無妙法蓮華経が最高だ” といっても理解し難いのであります。
そこで先生は、誰人たりとも人生の最重要課題である “四苦(生老病死)”、とくに 「死」 の問題を蔑(ないがし)ろにし死を忘れた現代文明を、大乗仏教の生命観・生死観を用いて批評し、法華経の教えの優越性を述べられています。
一神教(キリスト教等)の生命論しか知らなかった人は、目から鱗(うろこ)が落ちる感がしたのではないかと思われます。
では、先生の ハーバード大での講演の一部分を引用させて頂きます。 (21世紀文明と大乗仏教・19P)
なぜ、人間にとって死がかくも重い意味をもつかといえば、何よりも死によって、人間は己(おの)が有限性に気づかされるからであります。 どんなに無限の 「富」 や 「権力」 を手にした人間であっても、いつかは死ぬという定めからは、絶対に逃れることはできません。 この有限性を自覚し、死の恐怖や不安を克服するために、人間は何らかの永遠性に参画し、動物的本能の生き方を超(こ)えて、一個の人格となることができました。 宗教が人類史とともに古いゆえんであります。
ところが 「死を忘れた文明」 といわれる近代は、この生死(しょうじ)という根本課題から目をそらし、死をもっぱら忌(い)むべきものとして、日陰者の位置に追い込んでしまったのであります。 近代人にとって死とは、単なる生(せい)の欠如・空白状態にすぎず、生が善であるなら死は悪、生が有(う)で死が無(む)、生が条理で死が不条理、生が明(めい)で死が暗(あん)、等々と、ことごとに死は マイナス・イメージを割り振られてきました。
その結果、現代人は死の側から手痛いしっぺ返しを受けているようであります。 今世紀が、ブレジンスキー博士の言う 「メガ・デス(大量死)の世紀」 となったことは、皮肉にも 「死を忘れた文明」 の帰結であったとはいえないでしょうか。
近年、脳死や尊厳死、ホスピス、葬儀の在り方、また、キューブラー・ロス女史による 「臨死医学」 の研究などの関心の高まりは、等しく死の意味の、のっぴきならない問い直しを迫っているように思えてなりません。 やっと現代文明は、大きな思い違いに気づこうとしているようです。
死は単なる生の欠如ではなく、生と並んで、一つの全体を構成する不可欠の要素なのであります。 その全体とは 「生命」 であり、生き方としての 「文化」 であります。 ゆえに、死を排除するのではなく、死を凝視(ぎょうし)し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、二十一世紀の最大の課題となってくると私は思います。
死を忌むべきものとして排除した現代文明は、目的のためには 「生命」 をも手段として軽視して仕舞い、その無残な結末が 「メガ・デスの世紀」 となったと。
そして 「死」 とは、「決して忌むべきではなく、生と同じく恵みであり、嘉(よみ)せらるべきこと」 であり、「信仰の透徹(とうてつ)したところ、生も喜びであり、死も喜び、生も遊楽であり、死も遊楽である」 と、法華経の深く 且(か)つ深遠なる生命観を述べられています。
「戦争と革命の世紀」 の悲劇は、人間の幸・不幸の決定的要因が外形のみの変革にはないという教訓を明確に残しました。 次なる世紀にあっては、従 ってこうした生死観、生命観の内なる変革こそ第一義となってくるであろう と、結局、「人間革命」 する以外に、解決の道はないのであります。
したがって、池田先生は “死を排除するのではなく、死を凝視し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、二十一世紀の最大の課題となってくる” と述べられています。