横浜・大口病院事件に思う

 また、悲しい事件が起こりました。横浜市神奈川区の大口病院で、患者の点滴に異物(界面活性剤)が混入され、寝た切りの二名の高齢者(88歳)が殺害されるという事件が起きた。
 この病院の 4階では、7~9月の 2か月間に 48人が死亡していたが、事件発覚後は死亡者は出ていないと言う。現時点では、犯人は特定されていないが、外部からではなく病院内の医療・介護の従事者の関与が疑われている。
 
 これに似た事件として、さきの相模原市の知的障碍者福祉施設での大量殺人事件、また、川崎市幸区の老人ホームでの転落殺人事件などが想起される。いずれも関係する介護職員が、弱い立場の無抵抗の高齢者を狙った卑劣な犯行である。
 これまでの犯人の言い分は、“役に立たなくなった高齢者・障害者は、いなくなればよい” という趣旨の考えを述べている。

 なぜ、このような考えになったのだろうか? 
 看護・介護の仕事は、人の生命を育み護る大変重要な・やりがいのある職場である。
 看護師・介護士になるには、それ相当の教育を受け、目的観・使命感を持して職務に就いたと思います。
 ところが理想と現実のはざまで、希望もやる気も段々と無くしていったのではないかと思う。
 そうなれば、不平不満が生じてきて、すべてを他人や環境のせいにして、ますます悪の スパイラル(渦巻)のなかに、自ら落ち込んだのではないかと思います。(推測)

 人のやる気を無くす一番のものは、目的や意義もなく 無意味なことをさせることだ と聞いたことがあります。
 労役に従事させるとき、たとえば、レンガ積みさせて出来上がったたら,一旦それを全部・取り壊し、また同じように積み上げさせる。これを何回も繰り返す。結局、無意味・無価値なことをさせていることになる。これは従事者にとって、一番・心身にこたえることになるという。
 
 このような状況が、いま医療・介護の現場で起きて来ているのではないのか と思われます。
 今回の被害者は、88歳の高齢者である。失礼ではあるが、通常このお年では元気になって、退院できる病状ではないと思います。いわゆる、人生の終末期に入られていると思います。

 このような患者に対しても、現在の病院医療は、若年・壮年と同じような施術を行っている。
 たとえば、食べられなくなったといって、胃に穴をあけて、チューブで流し込んだり、呼吸が困難だからと、すぐ人工呼吸器を取り付ける。
 私は知り合いのお婆さんのお見舞いに行って、顔を見たとき別人かと思った。それは人工呼吸器をつけていて、少し浮腫(むく)んでいるようで、顔色も悪く、男の人の顔のように感じられた。
 本人はかえって、苦しみを増しているのではないかと思われた。

 かつて、堀日亨上人と記憶するが、「わしは 四~五日・何も食べず、腹の中を空っぽにして死んでいくのじゃ(趣意)」 と仰しゃったという記事を読んだことがあります。
 私はその時、人は死に逝くときは腹の中を空っぽにしなければならないのだ なぁ と思った。
 すなわち、動けなくなる・食べられなくなる・呼吸が困難になることは、死に逝くときの プロセス(過程)であり、自然の摂理である。 
 
 ところが、この自然の摂理に反する施術をしているのが、今の日本の医療であり、病院経営である。(門外漢のお前が何を言うのか と怒られそうだが)
 前から世間で言われていたことであるが、医術なのか…算術なのかと。その一端が、検査漬け・薬漬けの医療である。先生は レントゲン写真と パソコンの画面ばかり見て、ろくに患者の顔も見ていない。私は整形外科を受診して、一回も患部を触診されなかった ことがあります。

 事件の犯人たちは、治りもしない患者に無駄な施術をしていると、しかも、社会福祉関係の国家予算は、いまや 40兆円にもなっている。介護の当事者として現場の裏事情をよく知る立場だけに、変な歪んだ正義感が燃え上がり、犯行に及んだのではないかと思う。
 犯人たちを擁護しているのではないが、このような重大事件の犯人が、医療・介護の現場の内部の者から出ているということは、そこに何か、矛盾点・問題点があるという ことではないのだろうか。
 この医療・福祉の問題点を捜し出し、関係者全員・いな国民全員も、危機意識を共有し真剣に考えて、改革し・解決して行かなければ、国の前途が危うくなると憂慮するものである。

 池田先生は ハーバード大学で 「生と死」 について、次のように講演されています。 
 近代人にとって死とは、単なる生の欠如・空白状態にすぎず、生が善であるなら死は悪、生が有で死が無、生が条理で死が不条理、生が明で死が暗、等々と、ことごとに死は マイナス・イ メージを割り振られてきました。
 ………
 死は単なる生の欠如ではなく、生と並んで、一つの全体を構成する不可欠の要素なのであります。その全体とは 「生命」 で あり、生き方としての 「文化」 であります。ゆえに、死を排除するのではなく、死を凝視し、正しく位置づけていく 生命観、生死観、文化観の確立こそ、21世紀の最大の課題となってくると私は思います。


 世間では、どこそこのお家で死者が出た時、“不幸なことが起きた” “不幸になった” などと よく言います。
 “死は不幸である” という考えから、医師より 「人工呼吸器をつけますか」 「胃ろうを施術しますか」 と問われた時、すぐに 「はい、お願いします」 と答えてしまうのである。
 “「死」 は決して 「悪」 でも 「不幸」 でもない” とする、この思想を広めなければ、この問題解決の端緒にも道筋にもならないと思います。それには、各人の生死観の変革が求められています。
 
 池田先生の “死を凝視し、正しく位置づけていく 生命観、生死観、文化観の確立こそ、21世紀の最大の課題となってくる” と仰しゃるように、正しい生命観、生死観を、日蓮大聖人の大生命哲学に求めなければならないのであります。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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No title

こんにちは。大阪から拝見させていただいている40代のものです。わが親の事ですが、確かに入院中、延命処置をされている姿を見た時に、本人にとって本当にいい事なのか?と思いました。
けれど、家族側の気持ちとしては、(生)の状態でいてほしい。 もう会えなくなる事は耐え難く、とにかく、生きていてほしいと思いました。
その時までの自分は、医療に頼らず、人間として自然に(死)にいたる…というふうに考えてましたが、実際に痛み、苦しみが伴う以上、薬や医術に頼らざるを得ないものだと考えます。
理想は空腹のまま、自然の定理のように迎えたいと思っていても、意識もうつろな状態の家族の前では、心が動きます。
死と生、仏法で理解しているつもりでも、現実は無理でした。 以前、ハービーハンコックさんと記憶してますが、お父さんが亡くなられた次の日も、笑顔がたえなかった。それは永遠の生命を信じているから。と聖教新聞に掲載されていたと思います。親が死んで5年。なかなかこのような境涯にはなれないものですね。
とりとめのない話になりました。失礼しました。

Re: No title

 有意義なコメント有り難うございました。
 連休に留守していまして、ご返事遅くなってすみません。

 仏法は事に当たって、あぁしなければいけないとか、こうすべきだとか言うことはありません。
 ご家族様のお気持ちも大切にしなければならないと思います。
 ご自分の気持ちを、御本尊に素直に願っていけばよいのです。

 大聖人は「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」(1143P)と仰せです。
 だから、何があってもお題目を唱えぬくことが大切です。
 実践されていることでしょうが、唱えれば悩みや苦しみも、噓のように霧散していきます。

 大聖人は「されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし」(1343P)との御金言を、確信して、信行に励んでいきましょう。
プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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