本門の戒壇 (1)(三大秘法)
日蓮大聖人の仏法を、「三大秘法」 の仏法と言います。三大秘法とは、「本門の本尊」・「本門の戒壇」・「本門の題目」 の三つを言います。
秘法とは 「秘密の法」 と言うことで、この秘密は “ないしょ,ないしょ,見せなぁい!” という秘密(隠密…欠点・瑕を隠すこと)ではなく、『三大秘法抄』 に、「昔より説かざる所を名けて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す」(1022P) と、いう意味の秘密(微密…計り知れないほど勝れたものがものが隠されていること)であります。
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大聖人は、「本門の本尊と題目」 については、御書の中で数多くのご指導がなされていますが、「本門の戒壇」 についての記述は少なく、“本尊・題目・戒壇” の三箇の秘法ともに記述されている御書は、「報恩抄」(328P) 「法華取要抄」(336P) 「法華行者逢難事」(965P) と 「三大秘法抄」(1022P) の四つが見受けられます。しかし、前の三つの御書には、「戒壇」 の名目だけしかなく、説明のあるのは 『三大秘法抄』 だけであります。
『三大秘法抄』 には、「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし) を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり(1022P) と仰せです。
大聖人は 「戒壇を建立す可き者か」 とのご遺誡を仰せでありますが、「勅宣並に御教書を申し下して」 とありますように、現今の社会情勢にそぐわなくなってきています。そのようであれば、今までの 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(1600P) とのことも、合わせて考え直さなければならないと思います。
そもそも、戒壇の 「戒」 とは、「防非止悪(非を防ぎ悪を止める) の義」(744P) である。「身・口・意」 の三業の悪を止めて、一切の不善を禁制して心身を正すことである。大聖人は、小乗教の五戒・十戒のような戒律等を持つのではなく、御本尊を受持する一行のみが、「末法の戒」 であると仰せられています。
『四条金吾殿御返事』 に 「真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」(1170P) と仰せです。
「留難を止むる秘術」 即ち、御本尊を受持して仏界の生命を湧現していくこと、それがそのまま 「非を防ぎ・悪を止める」 ことであり、 「戒」 を持つことになるのである。
『教行証御書』 には 「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈(あに)万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282P) と仰せです。
したがって我われが、御本尊 (本門の本尊) を、お仏壇に御安置し (本門の戒壇)、南無妙法蓮華経と唱え奉る (本門の題目) ことが、すでに末法の 「金剛宝器戒」 を受持しているのであり、「何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」 ことの義にあたり、わが身の 「一生成仏」 は間違いないのであります。
このことを 「受持即受戒」 と言い、受持する一行ばかりの中に 「本門の戒壇」 の義が含まれているのであります。
秘法とは 「秘密の法」 と言うことで、この秘密は “ないしょ,ないしょ,見せなぁい!” という秘密(隠密…欠点・瑕を隠すこと)ではなく、『三大秘法抄』 に、「昔より説かざる所を名けて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す」(1022P) と、いう意味の秘密(微密…計り知れないほど勝れたものがものが隠されていること)であります。
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大聖人は、「本門の本尊と題目」 については、御書の中で数多くのご指導がなされていますが、「本門の戒壇」 についての記述は少なく、“本尊・題目・戒壇” の三箇の秘法ともに記述されている御書は、「報恩抄」(328P) 「法華取要抄」(336P) 「法華行者逢難事」(965P) と 「三大秘法抄」(1022P) の四つが見受けられます。しかし、前の三つの御書には、「戒壇」 の名目だけしかなく、説明のあるのは 『三大秘法抄』 だけであります。
『三大秘法抄』 には、「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし) を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり(1022P) と仰せです。
大聖人は 「戒壇を建立す可き者か」 とのご遺誡を仰せでありますが、「勅宣並に御教書を申し下して」 とありますように、現今の社会情勢にそぐわなくなってきています。そのようであれば、今までの 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(1600P) とのことも、合わせて考え直さなければならないと思います。
そもそも、戒壇の 「戒」 とは、「防非止悪(非を防ぎ悪を止める) の義」(744P) である。「身・口・意」 の三業の悪を止めて、一切の不善を禁制して心身を正すことである。大聖人は、小乗教の五戒・十戒のような戒律等を持つのではなく、御本尊を受持する一行のみが、「末法の戒」 であると仰せられています。
『四条金吾殿御返事』 に 「真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」(1170P) と仰せです。
「留難を止むる秘術」 即ち、御本尊を受持して仏界の生命を湧現していくこと、それがそのまま 「非を防ぎ・悪を止める」 ことであり、 「戒」 を持つことになるのである。
『教行証御書』 には 「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈(あに)万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282P) と仰せです。
したがって我われが、御本尊 (本門の本尊) を、お仏壇に御安置し (本門の戒壇)、南無妙法蓮華経と唱え奉る (本門の題目) ことが、すでに末法の 「金剛宝器戒」 を受持しているのであり、「何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」 ことの義にあたり、わが身の 「一生成仏」 は間違いないのであります。
このことを 「受持即受戒」 と言い、受持する一行ばかりの中に 「本門の戒壇」 の義が含まれているのであります。