未曽有の大御本尊

 弘安2年(西暦1279年)10月12日は、我らの信奉する、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊が、御建立された意義ある日であります。

 御本尊については、本尊の右下のところの讃文に、簡潔・明瞭に示されていますのでご照会いたします。

 「仏滅度後二千二百三十余年之間・一閻浮提之内・未曾有之大漫荼羅也」 と書写されております。
 仏滅後、日蓮大聖人の時代の弘安2年まで、二千二百三十余年の間、全世界の内で、いまだかってない大御本尊である、との仰せであります。

 仏滅後、正法・像法時代の正統の聖師、竜樹・天親・天台・伝教等は、心の内では知っていたが、外に向かっては弘通しなかった正法なのであります。

 故に、これらの聖人たちは、末法の時を恋い慕ったのであります。
 『撰時抄』 には次のように仰せられています。
 天台大師云く 「後の五百歳遠く妙道に沾わん」
 妙楽大師云く 「末法の初め冥利無きにあらず」
 伝教大師云く 「正像稍(やや)過ぎ已つて末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」
 「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」(御書260P)

 像法の仏教界の最高権威である天台座主よりも、癩人でもよい、末法に生まれて大御本尊を拝し、自行・化他に亘って、南無妙法蓮華経と唱えたいと願ったのである。

 日蓮大聖人が、三大秘法の大御本尊を建立してくださったお蔭で、末法の一切衆生の成仏が可能となったのであります。

 この大御本尊を我らは、辛労も無く行功も無く、受け取ることができました。何たる幸せでございましょう。この御恩は、一人でも多くの方に語って、報じたいと思います。

 立正安国論に曰く 「唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ」(御書33P) と。

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仏様の本尊

 前にこの大御本尊は、正法・像法時代には出現したことがない未曽有の御本尊であると述べました。

 正法・像法時代は、釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来等の小乗・権大乗の仏を本尊としていましたが、いまだ法華経の本尊は出現していません。それは正像時代は、法華経流布の時では無かった故であると思います。

 そもそも釈尊自らは、本尊というものを説いたり・作ったりはしなかったと思います。仏滅度後一世紀ごろ、ギリシャ彫刻の影響を受け、仏像の彫刻が始まったと言われています。

 それまでは、釈尊の足跡・蓮の華・車輪(法輪)等で、象徴的に表現されたものを拝していました。

 その後は、仏像だけでなく菩薩・二乗・四天王等、挙句の果ては、功徳を求めるあまり狐狸の類いまで、自分より力や能力のあると思われるものを像に刻んで本尊としています。

 日蓮大聖人は 「諸宗は本尊にまどえり」(215P) と仰せです。これ等の本尊は言ってみれば、人師・論師・奪っていえば、迷いの凡夫が作ったものなのである。

 これに対して、我らの信奉する大御本尊は、本因妙の教主・末法の御本仏・日蓮大聖人が、法華経本門の肝心・文底秘沈の大法を、自ら取り出だして顕わされた御本尊であります。

 「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」(1124P) と仰せられた御本尊です。
 この御本尊を 「讃むる者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」(291P) のである。

 しかるにある人は、どこそこの不動尊やお大師さんに参ったら、病気が治った・金が儲かったと、功徳のあることを言い張る人もおるでしょう。

 しかし、仏道修行の目的は、そんな金や病気等の小さな功徳を求めることでは無いのである。かえって、妙法に反する謗法によって罪を無間に開くのであります。

 『御義口伝』 に 「功徳とは六根清浄の果報なり、…… 功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり」(御書762P)  と仰せです。

 このように即身成仏するより外の功徳は無い分けであります。皆成仏道の法華経の真意を悟られた 「仏様」 の顕わされた御本尊か、ただ凡夫の作った本尊か、どちらを拝むのか、よくよく思惟して頂きたいと願うものである。

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幸福製造機

 池田名誉会長講義 “勝利の経典 「御書」 に学ぶ” の 『新尼御前御返事』 のなかで、御本尊について次のように述べられています。
 
 日蓮大聖人は、乱世に生きる私たちが、一人ももれなく、自身に内在する、仏と等しい生命を開き、絶対の幸福境涯を確立するための方途として、御本尊をあらわし、末法の全民衆に与えてくださいました。
 この御本尊の偉大なる力を、戸田先生はよく “もったいないことだが” と前置きされながら、分かりやすい表現として 「幸福製造機」 に譬えられていました。

 
 先生は明快に指導されています。 
 「この御本尊は、仏法の最高理論を “機械化” したものと理解してよろしい。たとえば、電気の理論によって、電灯ができたと同じと考えてよろしい。仏教の最高哲学を “機械化” した御本尊は、何に役立つかといえば、人類を幸福にする手段なのである。
 されば日蓮大聖人の最高哲学の実践行動は、この御本尊信じて、南無妙法蓮華経を唱えるにあたって、この実践行動によって、人類は幸福になりうるのである」
 
 
 この御本尊は 「信心の御本尊」 です。受持した我らの信力・行力によって仏力法力があらわれ、一人一人が自らの可能性と使命に目覚め、人生の勝利を築いていくのです。そこに真の世界の平和実現の基盤もあります。ゆえに戸田先生は、この御本尊を流布することを、民衆の幸福拡大の指標とされたのです。 (大白2012年8月・37P)

 戸田先生の 「幸福製造機」 と仰ったことに対して、あるいは御本尊に対して不敬ではないか、不謹慎ではないかと思われる方々も、多々居られると思います。
 しかし、日蓮大聖人も御自身の御本尊を、“はた(旌) じるし” になぞらえている御文もあります。
『日女御前御返事』 に、「法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり」 (1243P) と仰せです。

 また、仏教には多くの説話が説かれています。特に、法華経の難解な法理を理解させるために説いた、「法華経の七譬」 といわれる、代表的な七つの譬喩は有名です。

 戸田先生は、人びとが一人ももれなく幸福になって貰いたいと願い、御本尊の偉大なる力を製造機に譬えて、解かりやすく教えて下さったのである。

 今までの宗教は、礼拝する本尊や神仏等を 「絶対なる存在」 と位置づけ、信者はそれらを仰ぎ見て、ただその前にひれ伏すだけの 「弱い存在」 としか教えて来なかったのである。

 しかし、日蓮大聖人は、「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用(ゆう) の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(1358P)、「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(1359P) と仰せです。

 大聖人は、凡夫(人間) が本仏であり、絶対者と思われている神仏は、実は迹仏、すなわち架空の存在であり、人間のための 「用(働き・作用・功徳等)」 であり、「人間のための手段」 にしか過ぎないと仰せである。まさに、今までの宗教観がひっくり返ってしまった御言葉です。

 現今の世相は、“拝金主義・科学信仰・国家崇拝” 等が、かっての神仏に取って代わり、人間生命の尊厳を抑圧しています。
 このような転倒を正すためには、今までの「宗教のための人間」 から 「人間のための宗教」 へと価値観を転換させなければなりません。
 これを成しうる道は、この日蓮仏法を広宣流布する以外にないと断ずるものである。

 “凡夫が仏”の記事 ―→ ここから

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旗じるし

 『日女御前御返事(御本尊相貌抄)』 に、「竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはた(旌)じるしとして顕し奉るなり」(1243P) と仰せです。

 日蓮大聖人は御本尊を、「法華弘通のはたじるし」 として、すなわち “広宣流布のための御本尊” として、顕わしてくださいました。

 “旗じるし” とは、国家や軍隊、その他種々の集団や施設などの標章として用いられ、集団がその目的の達成のため、外には自己の存在を示し、内には団員の団結や士気を鼓舞するために掲げるものである。

 したがって、たとえその集団の中心者が倒れても、後者がその “旗じるし” を掲げて進んでいく限り、目的とする戦いは続けられる。ゆえに “旗じるし” は、その集団の生命というべきもの、理念といったものをあらわす、最も大事な要になっているのである。
 ゆえに、「法華弘通のはたじるし」 である御本尊は、大聖人の仏法における最も大切な要であると言えるのである。

 法華経方便品に、「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無からしめん) とあります。
 仏の目的は、一切衆生を自分(仏) と等しい境地に導くことによって、苦しみから救うことである。

 『開目抄』 に、「衆生をして仏知見を開か令めんと欲す」等云云、…… 衆生と申すは九法界・衆生無辺誓願度・此に満足す、「我本誓願を立つ一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す我が昔の願せし所の如き今は已に満足しぬ」等云云。(209P) と仰せです。
 
 仏法は一切衆生の生命に、仏界が内在していると説いています。衆生をしてその仏知見を、開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめんがために、仏は世に出現するという。

 したがって、仏の願いとは、「御義口伝に云く大願とは法華弘通なり」(736P) と仰せのように、「法華弘通」 すなわち、法華経(御本尊) をもって、衆生を救うための広宣流布の実現が大願なのである。
 
 御本尊がなければ、広宣流布はあり得ません。ゆえに大聖人は、“広宣流布のための御本尊” を、大難を忍び、大慈悲を起こして、末法の衆生のために顕わしてくださいました。

 池田先生は、次のように講義なされています。 (「新尼御前御返事」大白・2012年8月)

 仏から見て、苦難を避けることのできない闘諍の時代の衆生を、どう救うのか。地上から悲惨と不幸をなくす方途とは何か。それは、乱世に生きる民衆の一人一人を強く賢くするしかない。いかなる苦難をも打ち返す仏界の生命力を触発するしかありません。
 そこで、生命根源の力を直ちにあらわすために、御本尊が必要となるのです。

 人を救うことは、外的な環境整備も大切なことであるが、究極的には “一人一人を強く賢くする” すなわち 「人間革命」 しかないわけである。

 諸仏の願いは末法広宣流布です。悪世にあって、妙法五字の御本尊を 「身に帯し心に存」 して戦う勇者が出現しなければ、悪世を変革することはできません。
 「一人」 からまた 「一人」 へ。この人間の内なる可能性を開く実践が広がることが 「広宣流布」 です。それを実践するための御本尊です。まさに 「人間のための御本尊」 であり、「広宣流布のための御本尊」 なのです。


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板御本尊(1)

 去る9月16日、関西交流に参加し、関西池田記念会館の 「九州兄弟会勤行会」 に出席しました。
 担当幹部として東京より、池田博正副理事長がご出席してくださいました。

 建物は、言うまでもなく立派なもので、エスカレーターで大広間まで上られ、内部は椅子席でした。
 お仏壇は金色に輝いていて、御本尊は板御本尊でした。創価学会の会館で、板御本尊を拝したのは初めてでした。黒漆の板面に、金色の文字が浮かび上がるように輝いて見えました。

 聞くところによると、この御本尊は、戸田先生が請願なされ、日昇上人より御下付された、「創価学会常住」 の御本尊とのことである。かかる御本尊を、おりおり拝することができる関西の同志は、幸せだなぁ! と思いました。 (注…追記)
 そこで、この 「創価学会常住」 の御本尊について、「人間革命」 に記載されていることを、思いだし繙いてみました。

 戸田城聖先生は、昭和26年5月3日、創価学会第二代会長に就任なされました。
 就任式の席上、先生は烈々たる気迫のご決意を披歴なされています。

 「私の自覚にまかせて言うならば、私は広宣流布のために、この身を捨てます!
 私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は私の手でいたします。…… もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい!よろしいいか!」

 最後の言葉は短かった。だが、戸田の火を吐く烈日の気迫は、聞くものすべての肺腑を打たずにおかなかった。   (文庫人間革命第5巻・51P)

 戸田先生は出獄されたその日から、創価学会の再建のために、獅子奮迅の活動をなされました。だが、敗戦下の多くの新興宗教の急激な発展に比して、正法受持の学会の活動が、じつは空転しているのではないかと思われてならなかった。
 先生は、生き生きとした組織の構築のために、何が必要なのか、何かが欠けている。その欠けているものの本質はなんであろうか、と深く反省なされました。その果てに、一切の方法論を、ひとまず捨てて、そして、鋭い洞察の下に、次のように結論いたしました。
 
 ―― 人びとの心は、いつか形式面にとらわれ、現象面を追って右往左往してしまう。われわれの組織は妙法のそれである。妙法流布の組織である以上、組織の中心軸は、いうまでもなく純粋無垢な信心でしかない。―― そう思いいたると、彼はこれまでの学会に欠けていたものこそ、この御本尊に他ならぬと悟ったのである。創価学会に、金剛不壊の大車軸としての御本尊のご安置がなくして、妙法の組織が生命の力をもつはずがない。
 そこで彼は、推戴式の席上、すでに提案していた学会常住の御本尊が下賜されるための請願書の作成を、心をこめて急いだ。

 
      請 願 書
 顧みますれば、昭和三年入信、昭和五年初代会長牧口常三郎、創価学会建設以来、大御本尊の慈悲をこうむる身となりました。私共同志は只々広宣流布を念願して参りまして、牧口会長、大御本尊に身を奉るの日には会いましたが、未だ広宣流布の大願は程遠く、思いをこがして七年になりました。
 大聖人宗旨御建立七百年を明年にひかえまして、去る五月三日に戸田城聖が第二代の会長の任をとり、不思議の因縁をもちまして、戸田会長の下に集う同志は五千を数うるに至りました。
 時あたかも、東洋あげての大動乱の現実に当面し、つらつら私共愚かな心にて、宗祖大聖人の御予言を立正安国論等にて拝し奉るに、遂に一国大折伏の時期到来せりと考えざるを得ないので御座います。
 この時に当たり、私共謹んで仏勅を奉じ、広宣流布実現に身命を賭せんと深く期する処であります。
 御法主上人猊下におかれましては、右(上) の真情を嘉せられ、大折伏大願成就の為の大御本尊を賜りますよう、創価学会の総意を以て誓願申し上げます。
                                 創価学会
                                   会長 戸 田 城 聖
  日蓮正宗総本山
    法主上人猊下
     昭和二十六年五月十二日 願之
 

 この請願書は、創価学会創立いらい、じつに二十一年目のことである。ここに、ようやくさまざまの苦闘の足跡を経て、広宣流布大願成就のための大御本尊の請願となったのだ。すなわち、創価学会の発迹顕本の晴れ姿なのである。戸田城聖の 「広宣流布は、おれがやる!」 という堅い決意と、もはや一歩も退くことのできぬところまできた彼の使命の自覚が、如実にこの請願書にこめられていたといえよう。
 この日、彼は、ある知人に歌をおくっている。


  春の花 秋の紅葉も なにかせん
      広宣流布に われは往くなり
     

 この御本尊の脇書きには、 向かって右の方に 大法弘通慈折広宣流布大願成就 とあり、左の方に 創価学会常住 とお認めの御本尊である。  (同5巻・71~74P)

 この 「広宣流布大願成就」 の御本尊を根本とし、一致団結して、戸田先生の御指導を仰ぎ広宣流布に邁進した結果、先生の願業であらせられる “七十五万世帯” を達成し、世界広布の道を大きく開くことができました。


 *追記
 私の早とちりで、関西の御本尊を 「創価学会常住」 の御本尊と申し上げましたが、関西にも日昇上人御下付の 「関西本部安置」 の御本尊があります。ゆえに、この御本尊のご謹刻の板御本尊であると思いますので、この点、訂正させて頂きます。

 池田先生は、昭和三十一年一月四日、はじめて関西本部を訪問なされ、関西本部の 「所願成就」 の御本尊に深く御祈念なされました。 「人間革命」 に次のようにあります。

 「この御本尊様は、すごい御本尊様です」
 彼はまた眼を御本尊様に移しながら、一語一語区切りながらつづけた。
 「大法興隆所願成就 ―― まさしく関西に大法が興隆して、一切の願いが成就するとお認めになっている。すごい御本尊様です。これで、こんどの関西の戦いは勝った!」 
 ………
 たしかに、向かって右の中央に 大法興隆所願成就とある。そして左の肩に 授与之創価学会関西本部安置 願主戸田城聖とある、
 御本尊様です。  (文庫人間革命第10巻・12P)

 つきましては、この御本尊の御下付された趣旨は、戸田先生の 「請願書」 に尽きると思いますので、上段の記事は、そのまま、利用させて頂きます。
 ご迷惑をおかけして、真に済みませんでした。

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板御本尊(2)

 板御本尊と言いますと、第一次宗門問題(昭和52~54年頃) の時のことを思いだします。
 正信会の僧侶たちが、池田先生が “御本尊を偽作した、偽造した” といって騒ぎだし、彼らの機関紙やビラなどで喧伝して、反創価学会の運動を起した事件のことである。

 御本尊の “偽作・偽造” というから、先生が勝手に書写して作ったのかと思ったら、何のことはない。学会所持の紙幅の御本尊を、板御本尊として “謹刻” 申し上げたまでである。この作業を “摸刻” とも言います。
 御本尊の謹刻は、昔から普通にやっていたことであり、それ自体は謗法でも何でもないのである。それを、偽作だ・謗法だとかいって騒いだのは、御本尊を謹刻するのに、時の日達猊下の認可を受けていないといって、不敬だ・憍慢謗法だ・何だかんだと、誹謗中傷してきたのである。

 この件については、当時、庶務部長の藤本日潤の 「藤本メモ」 に、日達上人が認可されていたことは、ハッキリと記載されているのである。しかし、上人がそれを失念されていただけである。
 「藤本メモ」によれば、その後上人は、「会長から板御本尊にしました、という報告はあった。個人が受けた御本尊だから、その人(学会) の宝物だから、どのように厳護しようと他がとやかく言えない。また、開眼とか、入仏式とかは、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない。(趣意)」 と、仏法の本義に基づいたご指南をなされています。

 「御本尊摸刻問題」 は、創価学会側の行為に、事実上また教義上においても、何ら問題にされるようなものはないのである。それを、事実をねじ曲げ・ウソまでついて人を攻撃するとは、聖職者とは名ばかりの人格破綻の悪比丘たちである。

 彼らは、信徒が受持できる本尊は、紙幅の御本尊のみであり、板御本尊は、僧侶の寺号のある寺のみの専有で、信徒の分際で板御本尊を望むとは、何ごとであるか、という思いがあり、これは僧俗差別主義であり、彼らの頭は特権意識に凝り固まっているのである。

 日蓮大聖人は、「法師品には若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給いて僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(1448P)・「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず」(1134P) と日蓮仏法は、男女平等・僧俗平等の人権主義に貫かれているのである。彼ら日顕宗こそ、師敵対の大謗法を犯しているのである。

 池田先生は、昭和52年1月、第9回教学部大会において、「仏教史観を語る」 と題して、記念講演をなされました。大乗経なかんずく法華経は、在家の菩薩修行者の中から生まれ発展してきたもので、その仏教の本義に基づき、現代を見すえて論じられたものです。その中から少々引用させて頂きます

 「大乗仏教は、小乗の出家仏教が、あまりにも形式主義、官僚主義に陥り、民衆の苦悩から遊離していたのに対し、釈尊の精神、すなわち仏教の原点から問い直そうとした運動でありました。…… かつての民衆のなかから生まれ、みずみずしく躍動した仏教が、沈滞・形骸化していった大きな要因のなかに、仏教界全体が “出家仏教” に陥り、民衆をリードする機能を失ったという事実であります。…… その本義に立てば、現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしているといえましょう。これほど、偉大なる仏意にかなった和合僧は世界にないのであります。…… 形や姿で決めるのではなく、仏教徒の心、姿勢いかんが真実の出家か否かを決定するのである。…… 出家、在家を問わず、ひとたび仏教の正しい信仰に目覚め、苦悩の民衆を救済しようとの精神に立った人は、その瞬間から、形式を超えて精神においては出世間の人々であるというのであります」

 この講演を、伝え聞いた堕落僧たちは、わが身を反省するどころか、かえって黒い嫉妬心と怨念を燃やしたのである。

 「維摩詰(ゆいまきつ) は、在家の身でありながら供養を受けた事実が 『維摩詰経』 に記されております」
「一つには真に仏法流布に挺身し、民衆救済に進むものには、供養を受ける資格があるとの思想が底流にあること。二つには、その供養が民衆のために、仏法のために還元されるならば、それは仏法の本義に叶うということなのであります。つまり、供養とは、あくまで仏法のためになすのであります。その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります」


 彼らは、御供養は出家・僧侶に奉るものであり、在家の創価学会の財務は、御供養ではないと言うのである。
 「供養とは、あくまで仏法のためになすもの」 であるならば、どちらが広布のため尽くしておるのか。僧侶らの贅沢三昧・物見遊山が広布のためなのか、一目瞭然ではないかと言いたい。 

 「ともあれ寺院とは、このように、本来、仏道修行者がそこに集い、仏法を研鑚し、そこから布教へと向かうための道場、拠点であることは論をまちません。その本義からするならば、今日、創価学会の本部・会館、また研修所は、広宣流布を推進する仏道実践者が、その弘教、精進の中心拠点として集い寄り、大聖人の仏法を探究するところであり、そこから活力を得て、各地域社会に躍り出し、社会と民衆を蘇生させていく道場であります。すなわち、学会の会館・研修所もまた 「近代における寺院」 というべきであります」

 池田先生の 「学会の会館・研修所もまた近代における寺院」 というご発言に、わが身の可愛さのあまり、御本尊摸刻事件なるものを惹き起こし、学会員を誑かし脱会させて、その獲得を企てたのである。ここに、創価学会と日顕宗は、日蓮仏法の本義に照らして相容れず、遂に義絶したのである。

 創価学会文化・平和会館は、地涌の菩薩が集い、広宣流布を推進する 「近代における寺院」 として、御本尊を永く大切に護持するため、順次、「板御本尊」 に換えて、御安置すべきことは当然のことである。 

 御本尊摸刻問題 ―→ ここから
 教学部大会講演 ―→ ここから

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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