念仏無間

 念仏宗は、法然を開祖とする浄土宗と親鸞を開祖とする浄土真宗に大別される。浄土宗の依経は、弥陀の三部経と云われる 『観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経』 である。

 これらの浄土宗の三部経は、釈尊一代聖教の中の方等部の経であり、法華経の開経である 『無量義経』 に 「四十余年未だ真実を顕さず」 と述べられている方便の教えに過ぎないのである。

 釈尊一代の経説を、「聖道門・浄土門」「難行道・易行道」「雑行・正行」 と分けて、浄土の三部経以外は、法華経を含め 「聖道門・難行道・雑行」 であるとした。聖道門を修業する者は、「未だ一人も得道した者はいない」 とか、「千人の中に一人も成仏する者はいない」 等と述べてこれを貶(おとし)め、浄土門は 「百人が百人とも往生できる」 等と述べ、それゆえに念仏に帰依せよと主張した。

 そしてこの世の中は 「穢土」 であり、死んで西方十万億土の極楽世界へ往生することを目的としている。浄土往生の根拠としているのは 「阿弥陀仏の名を称える者は誰人であれ、極楽浄土に迎える」 との無量寿経の法蔵比丘の四十八願の第十八である。

 そこには 「設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ。唯だ五逆と誹謗正法とを除く」 とある。ここでは往生するものも 「五逆罪と誹謗正法の者」 は除くと、わざわざ断わられているのである。

 日蓮大聖人は 「念仏の曇鸞法師の難行・易行、道綽が聖道・浄土、善導が雑行・正行、法然が捨閉閣抛の文、此等の本経・本論を尋ぬべし」(1279P) と仰せられています。

 釈尊の出世の本懐であり、皆成仏道の法華経を 「捨てよ・閉じよ・閣(さしお)け・抛(なげう)て」 ということは、釈尊が述べているのか、どの 「経文」 にあるのか、論師・人師の誰が言っているのか、法然以外の者は誰一人も言っていないのである。法然等の一派は、仏説に私の言を入れる、師敵対・誹謗正法の大謗法の者たちである。

 法華経の譬喩品に云く 「若(も)し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば則(すなわ)ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至(ないし)其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん」(427P) とある。ゆえに、無間地獄に落ちることは必定である。

 したがって、日蓮大聖人は四箇の格言で、「念仏無間地獄」 と断定なされているのであります。

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往生の空しさ

 浄土宗は、西方十万億土の極楽浄土に 「往生」 することを願っているが、この往生と我々が言うところの 「成仏」 との違いは何であるかと思いました。

 浄土宗の教えでは、我々の住むこの娑婆世界は永遠に苦悩に満ちた穢土であり、安楽な生活を送るためには娑婆世界を去って他の浄土へ生まれる以外にないとして、死んで阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることを 「往生」 又は 「往生成仏」 と言っている。

 したがって、浄土宗では往生することが目的であり、これが一般的に、仏法で言うところの 「成仏」 であると思っているらしい。そうしますと、死ぬことが成仏すると言うことになります。これほど、仏法の成仏観を歪め、自らを外道の法へと貶めるものは無いと思います。

 そもそも、自分自身が生活をしているこの娑婆世界を、煩悩と苦しみが充満する穢れた国土とし、厭い離れようととする心からは、何一つ建設的・価値的なものは生まれません。そこには消極的な諦めの人生しかありません。

 わが国では、毎年毎年・三万余人の自殺者が出ているそうです。これは世界の先進諸国の中でも、断トツの多さであるとの事です。これも念仏の哀音が、広く日本国民の生命の中に宿っている故であると思います。

 日蓮大聖人は 「念仏宗と申すは亡国の悪法なり、…… 善導と申す愚癡の法師がひろ(弘)めはじめて自害をして候ゆえに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(1509P) と仰せられている通りです。

 しかも、阿弥陀仏の極楽浄土は何処にあるのかと問えば、大宇宙の何処を捜しても無いのである。そこへ 「往生」 しょうとしても、たとえ死後の世界であっても、何もないところへは往生のしょうがないのである。

 また、阿弥陀如来そのものも権仏(仮の仏) であり、釈尊が真実の法 (法華経) へ導くための手段・方便として説いた経や仏である。言ってみれば、全てが譬え話であり、実体のない架空の話であり、絵に描いた餅にしか過ぎないのである。如何に、念仏が、そして 「往生」 が空しいものであるか、お解かり頂けたと思います。

 『法華経寿量品』 には、「娑婆世界・説法教化」 と説かれており、この娑婆世界こそ、久遠の仏の常住する本国土であり、「娑婆即常寂光土」 の原理が示されました。

 また、一切衆生に悉く仏性があります。ゆえに、成仏とは 『御義口伝』に、「成は開く義なり、法界無作の三身の仏なりと開きたり、仏とは此れを覚知するを云うなり」(753P) と仰せのように、自身の仏性を妙法の経力によって開き、凡身を改めること無く、直ちに仏果に至るという、直達正観の 「即身成仏」 が出来るのであります。

 日蓮大聖人の仏法では、「いま」・「ここ」 で、「わが身」 を離れて、成仏はあり得ないと言うことです。それは 「凡夫こそ本仏」 であることを宣言した、「人間主義の仏法」 なのであります。

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弥陀の本願・まことか

 浄土宗の信者さん達は、弥陀の本願を一片の疑いもなく、念仏を唱えれば極楽往生できると信じて居るようである。信ずることは良いことであると言っても、信じたものが間違っていれば、こちらは損害を被るのである。

 そもそも弥陀の三部経は、釈尊の一代聖教を判別した五時(華厳・阿含・方等・般若・法華) の内、方等時の経であり、『無量義経』 に 「四十余年・未顕真実」 と、『法華経譬喩品』 には 「不受余経一偈(余経の一偈をも受けざれ)」 と断わられた権大乗の経である。この判釈の大前提を、肝に銘ずるべきである。

 天台大師云く 「修多羅と合う者は録して之を用いよ、文なく義なきは信受すべからず」(219P) と述べられています。文なく義なき、即ち道理に反するものは信受すべからずである。阿弥陀仏や極楽浄土など、実体のない幻のようなものである。

 親鸞の教説と言われる歎異抄に、「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の……」 とあります。

 ここでは弥陀の本願(法蔵比丘の四十八願) を、無条件・無批判的に受け入れて、根本的・第一条件にしている。そもそも無量寿経(弥陀の本願) は、誰が説いたのかと言えば釈尊である。ならば、釈尊を第一義にして 「釈尊の説教まことにおはしまさば、弥陀の本願 ……」 とすべきである。それを、弥陀を第一義にする誤りを犯し、正反対に論じている。

 ところで、釈尊は無量寿経や弥陀経は、“真実を顕わしてない経だから捨てよ(四十余年・未顕真実)” と説いた。
 法然は、法華経は “機根に合わず、難しいから捨てよ” と言った。どちらの説をとるべきか。

 伝教大師云く 「仏説に依憑(えひよう) して口伝を信ずること莫(なか)れ」(219P) と。涅槃経に仏最後の御遺言として 「法に依って人に依らざれ」 と見えて候、人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候、(1155P) と仰せです。とうぜん、釈尊の説をとるべきである。

 法然は仏説に依らず、人師の曇鸞・道綽・善導の謬釈(びゅうしゃく)を取り入れ、あまつさえ拡大解釈して、真実の法華経を 「捨てよ・閉じよ・閣(さしお)け・抛(なげう)て」(選択集) と放棄させた。

 釈尊一仏の説が、法華経と爾前経で水火の違いのある場合は 「先判・後判の中には後判につくべし」(199P) と仰せのように、この場合は後判、すなわち、後から説かれた法華経を取らなければならないのである。

 また、浄土宗では阿弥陀如来が大宇宙の中の本師・本仏であり、釈迦如来は地球で阿弥陀の教えを弘める弟子だと言って、釈尊を見下している。釈尊は権大乗教のなかで、阿弥陀如来の外・薬師・薬王・大日等、数多くの十方の諸仏・諸菩薩を説いています。その中の阿弥陀如来だけが本仏で、釈迦如来は弟子などと、どの経典に書いてあるのか? 全部いい加減な・自分勝手な妄説なのである。

 ところで、阿弥陀如来を説いたのは釈尊で、言わば作者である。そこで説かれた阿弥陀如来は作品である。作品の出来ばえが素晴らしいからと言って、作者を見下す者が居るのでしょうか。
 たとえば、“鉄腕アトム” の作者は手塚治虫氏である。手塚先生に向かって、“鉄腕アトムは空を自由自在に飛べて素晴らしいが、貴方は空も飛べない唯の人だ” と言ったとしたら、聞くものは皆唖然とするだろう。これと同じことを、法然や親鸞は言っていることになるのである。

 あまつさえ、皆成仏道の法華経等を聖道門と名づけ、これを修行する者を 「群賊」 呼ばわりしている。しかれば、釈尊はじめ竜樹・天親・天台・伝教等の仏教史に輝く聖人方も、法然の手にかかれば群賊となってしまう。

 これほど、仏道の正師を悪口罵詈(めり)し、経を蔑(ないがし)ろにし、仏祖三宝尊を破却するとは、まさに 「悪鬼入其身(悪鬼その身に入る)」 の姿そのものである。かかるものの弟子とならん者は、五逆罪も作らずして、正法誹謗の与同罪による入阿鼻獄は疑いないものである。心しなければならないのである。

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易行道とは

 浄土宗は釈尊一代の聖教を、「聖道・浄土、難行・易行、雑行・正行」 に分け、浄土の教え以外は皆捨てよと説いて衆生を惑わした。その時に一番惑わされたのが 「易行道」 という言葉ではなかったかと思う。それは人は皆、同じものならば易く手に入る方を好むからである。

 『立正安国論』 に 「曇鸞法師往生論の注に云く謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く菩薩・阿毘跋致を求るに二種の道あり、一には難行道・二には易行道なり」(22P) とあります。阿毘跋致(あびばっち) とは、不退転のことである。

 十住毘婆沙論では、菩薩を二種類に分け、不退転の菩薩と退転の菩薩に分けている。不退転の菩薩は、そのままで何も問題はないのであるが、退転の菩薩は、発心の力が微弱でなかなか仏道に進まず、二乗凡夫に堕落し易いとされる。

 毘婆沙論 「易行品」 の難行道の意味するところは、この菩薩たちが二乗界 (爾前経では永不成仏) へ堕落することの警告のために説かれたのである。逆にいえば、それだけ利他を忘れ、我独り悟りの境界を楽しまんとする誘惑が大きいと言うことである。この誘惑を乗り越えることが、なかなか困難なことを 「難行道」 と言ったのであって、六波羅蜜修行の困難性を指しているのではない。

 では、ここでの 「易行道」 とは何か。竜樹は、菩薩の死である二乗界へ堕落しやすい難行道のほかに、たとえ地獄に堕しても、仏道を妨げることのないような菩薩の生きる道を求めたのである。
 何故なら、爾前経の説ならば、もし永不成仏の二乗界に堕すれば、成仏の種子を断つことになり、成仏の可能性がなくなってしまうのに対し、悪道の地獄の方は堕ちた場合でも、再び成仏への道が開かれているからである。

 つまり 「易行道」 とは、難行道を行じて二乗界に堕ちることよりも、地獄に堕ちても不退転に至る仏道として説かれたものなのである。すなわち、二乗界に堕落することを避けるあまり、堕地獄を覚悟のうえで、あるいは堕地獄と引き換えに選ばれた道と言ってよい。
 したがって、易行道の 「易」 とは単に修行が容易であるとか、悟りへ安易に達するという意味ではなく、二乗へ堕落する危険性のない道という意味を表していると捉えるべきであろう。
 故に 「易行道」 とは、発心微弱なる人々を、大乗菩薩道への本流へと導くための方便行に過ぎず、あくまでも竜樹菩薩は、不退転の菩薩の旺盛なる菩薩行の実践と菩提を求めているのである。
 
 では、「真の易行道」 とは何か。『守護国家論』 に 「釈迦如来五十年の説教に総じて先き四十二年の意を無量義経に定めて云く 『険逕(けんぎょう)を行くに留難(るなん)多き故に』 と無量義経の已後を定めて云く 『大直道を行くに留難無きが故に』 と仏自ら難易・勝劣の二道を分ちたまえり」(53P) と仰せです。

  すでに釈尊自らが、一代聖教を総括して無量義経において、爾前経は 「難行道」、“法華経は 「易行道」” と分類されているのである。それを、釈尊以外の人師・論師が、これ以外の難易二道を立て分けるのは外道魔王の説である。それ故に、竜樹の毘婆沙論における難易二道の分類は、法華経以前の権大乗教の内だけという限定つきのものである。

 ここに、中国の浄土教の開祖たちも踏み込んでないのに、勝手に拡大解釈して、難行道に法華経を含め、ひとり念仏のみを易行道と立てる、法然の自義が 「外道魔王の説」 に同じであることが分かる。

 『立正安国論』 に曰く 「是れ偏(ひとえ)に法然の選択(せんちゃく)に依るなり、悲(かなし)いかな数十年間百千万の人、魔縁(まえん)に蕩(とろ)かされて多く仏教に迷えり、傍(ぼう)を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや、円を捨てて偏(へん)を好む悪鬼便りを得ざらんや、如(し)かず彼の万祈(ばんき)を修せんよりは此の一凶(きょう)を禁ぜんには」(御書24P) と、念仏宗を 「一凶」 と断じ、厳しく破折されています。

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プロフィール

谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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