無問自説 (四箇の格言)

 『御義口伝』 に、「無問自説とは釈迦如来・妙法蓮華経を無問自説し給うなり、今日蓮等の類いは無問自説なり、念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と喚(さけ)ぶ事は無問自説なり、三類の強敵来る事は此の故なり」(713P) と述べられています。

 無問自説とは、仏が 「問い無くして自ら説く」 ことであり、『法華経方便品第二』 の 「爾の時に世尊、三昧より安詳として起ちて、舎利弗に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり、其の智慧の門は難解難入なり」 と説き出したように、衆生の質問がないのに自ら説くことを言います。

 一般的には、衆生の側から質問があり、それに応じて法を説くのが通常で、これを 「随他意」 の説法と言います。法華経は、釈尊の悟りの法そのものであり、衆生が質問しようにも仕様がなく、仏の無問自説となるのである。これを 「随自意」 の説法と言います。

 日蓮大聖人の場合も、三大秘法の南無妙法蓮華経をはじめ多くの法門は、無問自説であり、随自意の説法であります。その中で、立宗宣言と同時に発せられた、念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という 「四箇の格言」 も、当然のこととして無問自説なのであります。

 四箇の格言は、学会草創期の折伏の戦いのときには良く使いましたが、この頃はあまり使用されて無いようです。しかし、だからと言って、時代遅れでも・賞味期限が切れている訳でも有りません。末法の民衆を救うため邪宗の魔性との闘争の中で結実した格言です。大聖人の慈悲と智慧の結晶のご金言であります。

 ただ、現代の無信仰者の多い時に、四箇の格言を大上段に振りかざして叫んでも、誤りを正してくれていると思うより、侮辱された・名誉棄損だと、反発し・聞く耳を持たないという人々が、大半だと思います。宗教のことは、自分は知らないものだからと謙虚な気持ちで、仏の金言を聞いて貰いたいと思います。

 四箇の格言は、諸宗を破折するにあたって、その宗が一番に主張していることを、端的に打ち破っているのである。

 念仏宗は、厭離穢土・欣求浄土と云って、念仏によってのみ極楽往生できると主張した。大聖人は、極楽往生を無間地獄に差し替えて、その排他的主張で、法華経を否定している謗法性を 「念仏無間」 と破折された。

 禅宗は、教外別伝・不立文字を立て、仏の所説に従わず経典を否定し、未だ得ざるをこれ得たりと思う増上慢の一面を、端的に 「禅天魔」 と破折された。

 真言宗は、鎮護国家の祈祷を売り物にしていた。大聖人は、護国を亡国に差し替えて、何が鎮護国家だ、亡家・亡国の法だと、その欺瞞的な呪術性を 「真言亡国」 と破折された。

 律宗は、小乗の戒を持し、外には賢善をあらわし・内には貪嫉を懐きながら、生き仏とか国宝とか崇められていた。大聖人は、国宝を国賊に差し替えて、その欺瞞性を 「律国賊」 と破折された。

 池田先生は、次のようにご指導されています。 
 四箇の格言の本質は、当時の各宗の独善性と、その独善性を宗教的権威で隠す欺瞞性を見破り、厳格に指摘された大聖人の 「智慧」 の発現だということです。
 また、その根底に、民衆を守る 「慈悲」 が漲っていたことは言うまでもありません。
 つまり、各時代において、民衆の幸福を妨げる思想・宗教を見破っていく智慧を発揮していくことが、四箇の格言の 「継承」 になるといっていいでしょう。……
 四箇の格言は、民衆を惑わす魔性とは断固として戦うという、大聖人の確固たる信念の現れです。
(御書の世界第1巻・93P)

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宗教批判

 カール・マルクスは、「宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情けであるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民のアヘンである」 と云って、宗教を批判した。彼は西洋のキリスト教を対象としているが、一面の真理を言い得ています。

 日蓮大聖人は、すでに約760年前の鎌倉時代、世に流布していた代表的な四つの宗教を、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」(713P)  という 「四箇の格言」 をもって、批判し・破折を加えました。

 宗教と云っても、全て正しいことを説いているとは限りません。むしろ殆んど、間違った邪宗・邪義のものばかりなのである。
 『顕仏未来記』 に、「仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵(みじん)よりも多く、正法を行じて仏道を得る者は爪上(そうじょう)の土(ど)よりも少なきなり」(御書507P) と、仰せの通りなのです。

 池田先生は、この四宗は偏った宗教の四つの類型を示しているのではないだろうか、と述べられています。四宗によって示される四つの類型とは、以下の通りです。
 
(1) 絶対者の他力による救済を説く宗教。これは念仏宗に当たります。
 この種の宗教が、一番多いと思います。唯一絶対神を説く、キリスト教やイスラム教も、この部類に入ります。

(2) 自力のみによる悟りの獲得と悟りへの安住を説く宗教。これは禅宗であります。
 短絡的に自身を仏と見る傲慢な生命的傾向性がある。

(3) 呪術による現世利益を説く宗教。これは真言宗である。
 仏法には異質なシャーマニズムの一形態であり、健全なる理性を麻痺させ、仏法を得体の知れないものに歪曲させる危険性がある。

(4) 戒律・規範による外からのコントロールを説く宗教。これは律宗である。
 末法では、実践不可能な戒律を掲げる故に、偽善者を生み出すのが関の山である。現在では、この宗は殆んど残っていません。

 この様に、本来の仏教の精神をことごとく歪めていた。その欺瞞に満ちた仮面を引き裂いて、宗教が持つ魔性とも言うべきものを示し、大慈悲心の立場から、民衆救済のための他宗破折であります。それを独断だ・排他的だ・非寛容であるというのは、本質を知らない、余りにも浅薄な批判であります。

 これらの定理は、鎌倉時代のものですが、現代にも・未来にも通ずるものである。それは時代がどの様に変わろうとも、人間自身の 「生命」 は変わらないからです。民衆にとって、宗教の善悪・邪正を判断することは、非常に難しいことである。

 妙楽云く 「第三最も甚だし、転(うたた)識り難きが故に」(御書229P) と。宗教的善悪は、何が善で・何が悪か、紛らわしくて判らないのである。その分、幸福を妨げる思想・宗教を見破っていく智慧を持たねばなりません。

 池田先生は、次のようにご指導されています。
 円教(法華経) とは、この四つのいずれにも偏ることなく、「自力と他力の一致を説き、その力に基づく人間変革と現実変革を説く宗教」 と言えるでしょう。
「自力と他力の一致」 とは、自分を超える力 (他力) を自分のなかに見ることです。
大聖人の仏法で説かれる 「仏界の内在と涌現」 が、それに当たります。これは、まさに日蓮仏法の真髄にほかなりません。……

 四箇の格言の現代的意義は、単なる日本の宗派の破折という次元にとどまるのではなく、円満なる人間の生命の力の開花にあると言えるのではないだろうか。これが 「妙法蓮華」 であり、無限なる 「価値創造」 なのです。この大聖人の円教を立て、初めて社会に宣言したのが立宗宣言です。
大聖人は、そこに、永遠かつ根本的な人類救済の大道を示してくださったのです。
  (御書の世界1巻・95P)

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法の正邪

 日蓮大聖人の 「四箇の格言」(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊) について、少々述べて見ました。この四箇の格言に対して、独善的・排他的・非寛容的であるとかと言う批判が、古来からなされています。

 我々が仏法対話を致しましたとき、“人の家の宗教の悪口を言うな、自分が好んでやっているのだから干渉するな、信教は自由だ” 等々のことをよく言われます。しかし決して、独善的でも、排他的でもなく、むしろ理性的な批判であり、大聖人の慈悲と智慧の結晶なのであります。

 創価学会ほど、寛容的なところはありません。誰であろうと差別なく、この信仰を望む者は入会させています。今や、世界192ヶ国に “SGI” の友が、嬉々として信仰に励んでいる姿が、その証拠です。 

 仏法には 「人と法」 というものがあります。「人」 の寛容と 「法」 の寛容を分けて考えることなく、ごちゃ混ぜにして、何でも宗教には寛容の精神が大切であると思っているようです。人に対しては、どこまでも寛容でなければなりません。しかし、人の幸・不幸を左右する宗教の 「法の正邪」 に関しては、厳しく正して行かねばならないのである。創価学会を批判し、大聖人の御遺命たる広宣流布の破壊を企てる 「日顕宗」 のようなものは、断固破折を加えていくのは当然のことである。

 日蓮大聖人は、この世の中の 「不幸の原因は、みな邪宗邪義にある」 という趣旨のことを仰せられています。然れども、一般の方々は、宗教を信じて不幸になるなんて、信じられないし、夢にも思われないことである、と思っているようです。

 それはどの宗教でも、親に孝行・人には友情・信頼・慈愛を、全てのものに感謝など、すなわち、倫理・道徳を説いているから、別に悪いことでは無いし、宗教を信ずることは良いことである、と思っています。倫理・道徳を説くことが悪いのではありません。この様なことは宗教の一部分のことであって、宗教の本質的な役割は、人々を如何にして幸福にするかと言うことにあります。
 それには人間生命の解明が、絶対必要不可欠なのです。この 「生命の実相」 を説いているのが、法華経であり、日蓮大聖人の “南無妙法蓮華経” であります。

 法華経に云く 「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」(29P) とあります。
 法華経は、一切衆生に悉く仏性が具わっていると説いています。この法華経を信ぜず・誹謗を為すものは、「仏種を断ぜん」(譬喩品) すなわち、幸福への道を自らが塞ぐことに成るのであります。

 このように、宗教の高低・浅深・邪正を見極めることは、各人の人生にとって非常に重要ことであります。したがって、次回から四箇の格言の四宗について、一宗ごと取り上げて見たいと思います。

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禅天魔

 禅宗は菩提達磨を初祖として、坐禅修行によって悟りを得ようとする宗派である。霊山会上で釈尊が黙然として花をつまんで大衆に示したとき、その意味を理解できたのは迦葉尊者一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付属された(粘崋微笑)。これは作り話なのである。こんな偽経(大梵天王問仏決疑経)を根本としているのである。

 迦葉より第二第三祖と代々相伝して、第二十八祖の達磨に至ったとしている。日本では鎌倉時代に、栄西の臨済宗・道元が開いた曹洞宗などがある。

 禅宗の教義は、“戒・定・慧” の三学のうち、特に “定” を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追求ではなく、そのために文字を立てず(不立文字)、教法は仏より伝えられたものではなく(仏祖不伝)、別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の経法は月をさす指のようなものであり、月が分かれば経は無用とし、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心が直ちに仏性を見ることが出来る(直指人心・見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修せず、画像木像の仏菩薩をも否定する。

 禅宗では 仏祖不伝 と言いながら、達磨は付法蔵の二十八祖と称し、東土の六祖より相伝されていると主張されている。また迦葉は一枝の花房を釈尊より授けられ、それを理解して心の一法を伝えたものが禅宗の根源であるとしているが、これとて仏祖から伝えられたものではないのか。

 また、祖師無用 と言いながら、達磨を禅祖としている。祖師無用ならば達磨も無用なはずである。また仏の教法を無用と言いながら、朝夕に真言陀羅尼や首楞厳経や金剛経、円覚経を読誦している。仏・菩薩を信用しないと言いながら、禅法の中で南無三宝と行住坐臥に唱えている。すなわち、言っている事とやっている事が、全てバラバラなのであり、自語相違も甚だしい。

 『涅槃経』 に 「若し仏の所説に順わざる者有らば、当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」(152P) とあるように、教外別伝・不立文字といって仏典を否定し、仏の所説に従わないのは、魔の所為以外の何ものでもない。 
 ゆえに、日蓮大聖人は禅宗を判別して、「禅宗は天魔の所為」(1073P) と喝破されている。客観的な法理・教説よりも、自身の凡夫の無明の心を基準にしていくもので、その悟りは仏力・法力の裏づけのない、ただ凡夫の魔に支配された観念にしか過ぎないのである。

 日蓮大聖人の禅宗破折のご金言は、数多くありますが、その一部分を記させて頂きます。

 涅槃経に云く 「願つて心の師と作つて心を師とせざれ」云云、愚癡(ぐち)無懺(むざん)の心を以て即心即仏と立つ豈未得謂得・未証謂証の人に非ずや。(152P)
 禅宗は理性の仏を貴んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕(お)つ定めて是れ阿鼻の罪人なり、故に法華経に云く 「増上慢の比丘は将(まさ)に大坑に堕ちんとす」(152P)
 
 若し教を離れて之を伝うといわば教を離れて理なく理を離れて教無し、理全く教・教全く理と云う道理汝之を知らざるや、拈華微笑(ねんげみしょう) して迦葉に付属し給うと云うも是れ教なり、不立文字と云う四字も即教なり文字なり此の事・和漢両国に事旧(ふ)りぬ、(488P)

 若し教文にとどこほり言説にかかはるとて教の外に修行すといはば、此の娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作すべき、さように云うところの禅人も人に教ゆる時は言を以て云はざるべしや、其の上仏道の解了を云う時文字を離れて義なし、(488P)

 文字は是一切衆生の心法の顕れたる質(すがた)なり、されば人のかける物を以て其の人の心根を知つて相する事あり、凡そ心と色法とは不二の法にて有る間かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり、然れば文字は是れ一切衆生の色心不二の質(すがた)なり、汝若し文字を立てざれば汝が色心をも立つ可からず、汝六根を離れて禅の法門一句答へよと責む可きなり、(380P)

 次に修多羅の教は月をさす指の如しと云うは月を見て後は徒(いたずら)者と云う義なるか若其義にて候わば御辺の親も徒者と云う義か又師匠は弟子の為に徒者か又大地は徒者か又天は徒者か、如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ御辺を出生して後はなにかせん、人の師は物を習い取るまでこそ用なれ習い取つて後は無用なり、夫れ天は雨露を下すまでこそあれ雨ふりて後は天無用なり大地は草木を出生せんが為なり草木を出生して後は大地無用なりと云わん者の如し、是を世俗の者の譬に喉(のど)過ぬればあつさわすれ病愈(い)えぬれば医師をわすると云うらん譬に少も違わず相似たり、所詮修多羅と云うも文字なり文字は是れ三世諸仏の気命(いのち)なりと天台釈し給へり、(380P)

 若し達磨の禅観に依るといわば教禅は未顕真実妄語方便の禅観なり法華経妙禅の時には正直捨方便と捨てらるる禅なり、祖師達磨禅は教外別伝の天魔禅なり、共に是れ無得道妄語の禅なり仍て之を用ゆ可からず、若し天台の止観一心三観に依るとならば止観一部の廃立・天台の本意に背く可からざるなり、若し止観修行の観心に依るとならば法華経に背く可からず止観一部は法華経に依つて建立す一心三観の修行は妙法の不可得なるを感得せんが為なり、故に知んぬ法華経を捨てて但だ観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なることを、其の故は天台の一心三観とは法華経に依つて三昧開発するを己心証得の止観とは云う故なり。(527P)
 

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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