生死と波の譬え

 『生死一大事血脈抄』 に、「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり …… 天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり」(1336P) と仰せです。

 これは 「妙は死」 「法は生」 ということは、「妙法」 そのものが 「生死の二法」 である。また、あらゆる生命の生死、あらゆる天地の現象の起滅が、ことごとく 「妙法蓮華経の生死」 であり、言うなれば、「生と死」 は本来的に 「妙法蓮華経」 に具わっているということです。

 池田先生は 『生死一大事血脈抄講義』 において、この 「妙法」 と 「生死」 の関係を大海原の波の譬えをもってご指導されています。 
 言うまでもなく、大海原が 「妙法」 であり、波が 「個々の生命」「個々の現象」 に当たります。そして、波が大海原から起こり、大海原に還っていくことが 「生」 と 「死」 に当たります。
 ここで注意すべきことは、個々の波が大海原に呑み込まれて消えていくように、個々の生命も死ぬと妙法の海に呑み込まれて消えていくのではない、という点です。

 外からは見えなくとも、海中には種々の海流が厳然と流れていると考えてみれば、生と死の違いは、海面に現れた波と、海中でうねる海流との違いといえるかもしれない。決して生命が死んで消えていくのではない。生も死も、ともに妙法のうねり以外のなにものでもないのです。
 海中のうねりは海面に現れて波となり、また、海中に没して見えないうねりとなる。同じように、生として現れた生命の波は、死によって妙法の海に溶け込み、見えなくなりながらも、うねりを持続している。そして、何らかの機縁に応じて、また新しい生命の波として出現するのです。
(同書53P) 

 戸田先生は、よく、死後の生命は大宇宙のなかに溶け込むと語られていました。
 この大宇宙の生命それ自体が、十界具足の生命です。大宇宙そのものに地獄もあり、餓鬼もあり、仏界もあります。私たちもまた、この大宇宙の地獄界なり、餓鬼界なり、菩薩界なり、そして仏界なりへと、それぞれの境界へ溶け込んでいきます。
 私たちの生命は、溶け込んでいるといっても、厳密に言えば、もともと、宇宙の生命それ自体です。大宇宙の海そのものが、刻々と変化を起している。常に、動き、変化しながら、「生」 と 「死」 のリズムを奏でている。

 前回、確認したように、一次元の譬喩で言えば、私たちの個々の生命は、大宇宙という大海から生まれた 「波頭」 のようなものです。波が起こることが、私たち個々の生命の 「生」。また大海と一つになれば、私たちの生命の 「死」 です。
 大宇宙に溶け込んだ死後の生命は、大海の中のうねりのようなものであり、決して一個所に固まっている訳ではない。大宇宙の生死のリズムに合わせて、宇宙に遍満しながら、動いている。
(同書73P) と述べられています。

 以上のように、波が起これば 「生」、大海と一つになれば 「死」 という絶妙な譬喩をもって教えて下さいました。
 宇宙生命も一個の生命も、この 「生と死」 が永遠に繰り返されて続いている、と日蓮仏法は説いているのである。

 しかれば、仏教以外の教えは、おおかた、どの様に言っているのであろうか。
 欧州統合の提唱者、クーデンホーフ・カレルギー伯が、池田先生と対談したときに、面白いことを言っていました。
 それは 「東洋人、とくに仏教徒にとって、この人生は本の一ページである。終わっても、めくれば次のページが出てくる。ヨーロッパ人にとっては、人生は一冊の本であって、終わればそれでお仕舞いだ。(趣意)」 ということです。
 キリスト教には、東洋的な輪廻観、即ち、生命は生死・生死と繰り返すという考えはないようです。この世界での生は今世だけで、ゆえに、死ぬのは一回だけということです。
 そして最後の審判の日に、神を信じた者は天国で永遠に生き続けるという。それに対して、神を信じなかった者は地獄に落ちるとされている。

 仏教でも権教の念仏宗などは、この世は穢土であり成仏できないから、念仏でも唱えて死んで、あの世で極楽浄土に往生しょうというのである。
 いずれも、子供じみた架空のおとぎ話の様なものである。本当は、死んでからのことが解かっている訳ではない。今世で苦悩が解決できなくて、どうして来世の安穏が確信できるのかと聞きたい。
 このようなことだから、生命が 「生死・生死」 と繰り返すなんて、確信がないから恐ろしくて言えないのである。

 要は現世で、どう 「永遠の価値」 を創っていくかと言うことである。それが出来るのが日蓮仏法である。
 大聖人は 「自身法性の大地を生死生死と転(め)ぐり行くなり」(724P) と仰せです。

 池田先生は、次のように指導されています。
 すなわち妙法を信仰した者は、法性の大地、仏界の大地の上を、「生」 の時も、「死」 の時も悠々と前進していく。大白牛車という壮麗な最高の車に乗って、自在に進むのである。「仏界の大地」 とは、絶対に崩れない幸福境涯のことである。大地のごとく盤石に固めに固めた自分自身の成仏の境涯である。その境涯を固めたら、三世永遠に続く。だから 「今世で頑張りなさい」 というのである。
 自分自身が 「法性の大地」 の上を、「生も歓喜」 「死も歓喜」 と前進する。これが 「生死、生死とめぐり行くのである」 ということである。
(輝きの人間世紀へ・402P)

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「生の仏」 と 「死の仏」

 聖教新聞の連載小説 「新・人間革命」 には、いま “厚田” の章が載っています。
 厚田とは、戸田城聖先生の故郷である厚田村(現在の石狩市厚田区) のことである。この厚田の地に、1977年(昭和52年)、恩師の名を冠した 「戸田記念墓地公園」 が完成した。9月30日、その式典の出席とその後の一連の行事のようすが載っている章であります。

 10月3日、園内の戸田講堂で、北海道の広布功労者に対する追善法要が営まれた。追善法要のあいさつで、先生は、日蓮仏法の死生観について指導されています。

 『上野殿後家尼御返事』 に、「い(生)きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、『若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり』云云」(1504P) と仰せです。

 大聖人は、「生死ともに仏」 であると述べられています。この点について池田先生は、
 「なぜか ―― それは、広宣流布のために、この世に馳せ参じた私どもは、御本仏・日蓮大聖人の真の弟子であり、地涌の勇者にほかならないからであります。大聖人と同じく法華弘通の大願を起こし、友の幸福のために広宣流布に奔走してきたことは、自身が仏であり、地涌の菩薩であることの証明であります。広宣流布は、仏、地涌の菩薩のみが成し得る聖業だからです。
 そして、“学会活動が楽しくて楽しくてしょうがない。折伏が大好きである。唱題するのが嬉しくて仕方ない。新しい挑戦の意欲が満ちあふれてくる。生きていること自体が喜びである” というのが、成仏の境涯であり、『生の仏』 の姿なんです」

 「私たちは、必ず臨終の時を迎えます。しかし、生命は永遠です。自分の生命がなくなるわけではありません。大宇宙に冥伏するんです。ちょうど、一日を終えて、眠りに就くようなものです。時が来れば、また生まれてきます。
 死んでも、三世にわたる生命の原因と結果の法則は一貫していますから、宿業も、福運も、使命も、境涯も、そのまま続いていくんです。広宣流布に生き抜いた人は、仏・菩薩の境涯のまま、『死の仏』 となるんです。
 生きている時は、『生の仏』 であり、亡くなってからも 『死の仏』 となる ―― それを日蓮大聖人は、『即身成仏と申す大事の法門』 といわれているんです。
 さらに大聖人は、法華経見宝塔品の 『若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり』 の文を引かれています。正法を持ち、強盛に信心を貫き通していくことこそ、一生成仏の根本要件なんです」
 (聖教2012年8月・厚田・42・43)
 
 以上、「生の仏」・「死の仏」 につて述べられていますが、一般の方々は 「生の仏」 について、なかなかスッキリと納得がいかないのではないかと思います。それは、貪・瞋・癡の三毒の煩悩にまみれ、罪障深き我が身が、とうてい 「仏」 だとは思えないからである。

 それどころか 「死の仏」 の方は、“死ねば極楽浄土に往生して仏に成る” という浄土宗の邪見に、日本の民衆は長い間、命の中にすり込まされてしまっている。
 死ねば仏に成るのならば、仏道修行も何もやらなくてよい。今世で苦悩にあえいだ者が、死んだら直ちに来世で仏に成るなんて、因果の理法に反する邪見である。邪宗邪義に騙されてはならない。
 死して 「死の仏」 となるには、今世において 「生の仏」 とならなければならないのである。

 大聖人は 「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(1359P) と仰せです。
 「本仏」 すなわち、本当の・真実の・実在する仏とは、「凡夫」 すなわち、生きている・実在する人間以外にいないのである。
 「迹仏」 すなわち、影の・仮の・用の仏とは、「仏」 すなわち、一般の諸宗が本尊としている、阿弥陀・大日・薬師仏などである。これらは、衆生を導くために説かれた理論上の仏たちで、権仏とも言われている。
 
 したがって、拝む対象物であるそれらの 「本尊」 には、真の仏の生命(仏界・仏性) はないのである。では、どこにあるのかと云えば、他ならぬ我が身(生命) の中にあるのである。

 ゆえに大聖人は、「都(すべ)て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり」(383P) と仰せられている。
 この一点を外して、成仏も得道もないわけである。これを知るを 「法華経の心」 を知るというのである。

 それでは 「仏の生命」 は、どこに現れるのかい云えば、それは何か、今までと別な姿かたちになるものでもなく、特殊な通力のような能力を発揮するものでもありません。

 池田先生は、「“学会活動が楽しくて楽しくてしょうがない (歓喜)。折伏が大好きである (慈悲)。唱題するのが嬉しくて仕方ない (智慧)。新しい挑戦の意欲が満ちあふれてくる (生命力)。生きていること自体が喜びである (成仏の境涯)” というのが、『生の仏』 の姿なんです」 と指導されています。

 それは、日常の生命活動の中で、智慧や慈悲や歓喜等となって、わが身の振る舞いの上に現れるものなのです。ゆえに、「一生成仏」・「即身成仏」 といわれる訳であります。
 このように、「生の仏」 なくして 「死の仏」 はないのである。

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パスカルの賭け

 前の北海道の広布功労者追善法要における池田先生の指導のなかで、戸田先生の講義を引かれているところがありますので紹介いたします。
戸田城聖先生は、法華経の方便品・寿量品講義で、生命は永遠であることを強く訴えています。
 
 「この世の中へ、また生まれてきて、また死ぬ。また生まれてこなければならない。それがために、仏法ということを やかましく 言うのであります。いわざるを得ないのであります。死んでしまえば、おしまいだと言うのなら、仏法は必要はないことになるではありませんか。
 この生命が永遠だと叫ぶ。永遠であるから御本尊をきちんと拝んで、仏の境涯をつかまなければいけないと、やかましく 言うのであります。もしも 『しち面倒くさい。なんだっていいではないか。私が死んだら、それっきりだ』 と言う人なら、そう貧乏したり苦労して生きている必要はないではありませんか」
 (聖教2012年8月・厚田・45)

 文中、“やかましく” のところに、傍点をつけて注意をうながされています。
 “人は死んでも、また生まれてこなければならない” という、生命の実相を覚悟なされている、戸田先生の眼からみれば、どうして解からないのか、解かろうとしないのか!と、歯がゆい思いをなされていると推察いたします。

 死後に生命が、続くのか、続かないのか、これは現在では、未だ証明は不可能です。
 池田先生は、“だから私は、いつもパスカルの議論を思い出すのです” と述べられています。

 名誉会長 思想家だが、数学にも長けていた。「確率」 の研究でも有名です。そういう彼らしく、死後の生命について、パスカルは 「賭(か) け」 の理論で説明する。<『パンセ』>

 つまり、死後の生命があるかどうか、理性ではどちらとも言えない。―― これはカントが証明したことでもあるね。だから、もし人が 「死後の生命がある」 ほうにかけて生き、死んだとする。その結果、賭けに負けた ―― すなわち、実はそれが存在しなかったとする。それでも 「あなたは何も損をしないではないか」 とパスカルは言うのです。
 一方、「死後の生命はない」 ほうに賭けて生き、死んだとする。それでもし、死後の生命が実在していたら、もう取り返しがつかない。生きている間に善行を積んで、死後に備えていればよかったと思っても、もう間に合わない。だから、死後を信ずるほうに賭ければ、賭けに勝てば幸福だし、負けても何も失わない。反対のほうに賭けて、賭けに負ければ、取り返しがつかない。こう冷静に考えれば、死後の生命を信じるほうに賭けることは ―― つまり宗教を受け入れることは、極めて 「合理的な選択」 であり、理性的である人ならば、これ以外の選択はないという論理です。異論もあるかもしれないが、私はパスカルの理論には今でも説得力があると思っている。


遠藤 「賭け」 ですか。確かに、「絶対確実でなければ、何もしない」 という態度では、結婚も出来ません(笑い)。
 「絶対うまくいく」 という保証は、どこにもないわけですから ――。

 名誉会長 結婚のことはともかく (笑い)、「死」 というものは、絶対にだれもが迎えざるを得ない。確実といえば、これほど確実なものはない。しかし、「生死」 という人生の 「一大事」を真剣に考える人が少ないのも、また事実です。
 日蓮大聖人が 「夫れ生を受けしより死を免れざる理りは賢き御門より卑き民に至るまで人ごとに是を知るといへども実に是を大事とし是を歎く者千万人に一人も有がたし」(474P) と嘆かれている通りだ。
 特に現代は、仏法でいう 「断見」 の人が多くなっている。
 

斉藤 「断見」 とは、生命が死によって無に帰するという生命観ですね。現代の 「享楽主義」 も、その裏腹の 「不安」 や 「悲観主義」 も、この 「断見」 に根っこがあると言えるかもしれません。 (法華経の智慧4巻・317P)
 
 “賭け” とは、言い得て妙である。ある一面から言えば、人生はすべて賭けである。未来のことは分からないという点において、そう言えると思います。
 その人生にあって、ある事をなして失敗して後悔することよりも、何もしなくて後悔することのほうが、大きいと言われています。失敗しても、人生経験を積み重ね、勉強したことになるからである。

 ゆえに、創価学会に対する、つまらぬ風評や悪意ある讒言などに惑わされることなく、真実の宗教・本当の日蓮仏法は、何処にあるのかと真摯に求め、勇気をもって実践修行して御覧ください。必ずや、人生の正しき軌道に入っている、自分自身を発見することができるでしょう。

 大聖人は、「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿(なか)れ」(970P) と御遺誡なされています。

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自殺 と 法器

 前のブログの池田先生のご指導は、次に戸田先生の自殺のお話にも言及されています。
 池田先生とトインビー博士との対話には、そのほとんどが意見の一致を見ましたが、一致しなかったなかで自殺の問題がありました。ゆえに、以前に “ブログ” で紹介いたしました。今回も先生の指導を紹介いたしたいと思います。

 引き続いて、池田先生の指導です。
 さらに、戸田は、自殺にも言及し、「この肉体というものは、法の器と申しまして、仏からの借り物になっております」 と述べ、その大切な仏の入れ物を、勝手に壊してはならないと、力説している。
 仏縁を結んだ人は、いつか、必ず御本尊と巡り合える。また、周囲の人びとの題目は、個人をも救い得る力となる。それが仏法の力であるが、自らの命を絶ち、福運を消してしまう人を、絶対に出したくなかったのである。
 (聖教2012年8月・厚田・45)

 戸田先生は、“この肉体というものは、法の器と申しまして、仏からの借り物になっております” と述べられております。
 法器とは、身体は妙法の無上宝聚を藏する器ということで、すなわち、妙法の当体であり、成仏の境涯を意味する。ゆえに、仏からの借り物になるのであります。

 『対談集』 でトインビー博士は、「当人が熟慮のすえ、なお死を願うというのを、邪魔してはならないと考えます」 と述べています。
 
 池田先生は、「生命には仏界が潜在しているが故に尊厳なのです」 と生命の尊厳性について語られ、仏法の三世の生命観によれば 「人間のもつ宿業もまた持続していくものと考えます。苦しみは死によって終わるのではなく、苦しみの業として死後も続いていくとするのです」 と、たとえ自死したとしても、何ら問題の解決にはならないのである。
 
 博士は 「人間は自殺する権利をもつ」 と、自らの尊厳を護るためには、許されるべきであると述べています。

 先生は 「その 『自らの生を終える』 ということを決定する主体は、知性や感情ではなく、もっと本源的な、その生命自体であるべきだと思います」 と、「全体的生命のみが、その生の終焉を決定する権利をもつといえましょう。…… それは、知性や感情がかかわりえない、意識下の深層にあるわけです」 と述べられ、知性や感情などの表層部分を突き抜けて、生命の奧底・本源に立ち返って論じられています。

 池田先生は、戸田先生の仰せの 「この宇宙そのものが慈悲の当体である」 との言葉を引かれまして、
 「万物を生成し、変化させ、生死生死を繰り返させながら、一切を生かそうとしている宇宙。この宇宙という大生命そのもが、仏の当体です。無作三身の仏の当体なのです。
 宇宙の慈悲とは 「本有の仏界」 の力用である。また 「本有の菩薩界」 の力用であり、これが地涌の菩薩の働きなのです。ゆえに総じては、宇宙の生きとし生ける一切のものが神聖なる地涌の菩薩なのです。別しては、この生命の法に目覚めた者を地涌の菩薩と呼ぶのです。
 菩薩道は人間性の極地の行動です。それは根底において、宇宙の慈悲の力用と一体なのです。私どもが友の幸福を祈り、語り、動いていくとき、その身口意の行動のなかに、永遠の生命が現れ出ているのです。
 (法華経の智慧3巻・330P)
 
 我われはともすれば、誰からも手を借りず、自分の信念・努力で生きているのだと思いがちであるが、そうではないのである。生まれて来る時から死ぬる時まで、すべて 「一切を生かそうとしている宇宙」 の大慈悲に助けられ生かされているのである。この大慈悲がすなわち、地涌の菩薩の働きであると仰せです。
 生をこの世に受けた者として、妙法受持の地涌の菩薩として、今度はその大慈悲の万分の一でも報恩感謝すべく、「友の幸福を祈り、語り、動いていく」 とき、「宇宙の慈悲の力用と一体」 となることができ、「永遠の生命が現れ出ている」 すなわち、一生成仏できるのである。

 引き続き、厚田の章の指導です。
 生命は永遠である。ゆえに、老いとは、終局を待つ日々ではない。今世の人生の総仕上げであるとともに、次の新しき生への準備期間なのである。
 命の尽き果てるまで、唱題に励み、師と共に、愛する同志と共に、広宣流布の大願に生き抜いていくのだ。そして、わが生命を磨き高め、荘厳なる夕日のごとく、自身を完全燃焼させながら、大歓喜のなかでこの世の生を終えるのだ。
 希望に燃えるその境涯が、そのまま来世のわが境涯となるからだ。
 (厚田・46)

 本来、人間は、宇宙と一体の大いなる存在なのだ! 個人の力は、かくも偉大なのだ! これが法華経のメッセージです。

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池田先生の「生命の話」

 池田先生の 「東洋広布」 の第一歩は、香港の地に印(しる)されました。早速その夜、少人数の座談会が開かれた。
 入信して間もない一人の婦人から “生命が永遠であると聞きましたが、人は死んだあと、どうなるでしょうか。また勤行の時に、先祖供養をしますが、それはどんな意味があるのでしょうか” という質問がありました。
 先生は、生死という人生の根本のテーマを、明確に解かりやすく説明されています。全ての人に関係する問題ですので、是非ともご紹介したいと思いました。  (同書・62P) 

 「これは極めて大事な問題です。死の解明は、人間の、そして、宗教の重要なテーマです。……
 現代人のなかには、生命というものは、今世限りだと考えている人も多いようですが、もしも、生命が永遠でなければ、生まれながらの不公平を、どうとらえればよいのかという問題が残ります。
 日本の国に生まれる人もいれば、香港に生まれる人も、アメリカに生まれる人もいる。あるいは、戦火や飢餓の国に生まれる場合もあります。
 さらに、金持の家に生まれる子もいれば、貧困の家に生まれる子もいる。生まれながらにして、不治の病に侵されていたり、不自由な体で生まれてくる子供もいます。生まれる境遇も、顔や姿も、千差万別です。まさにもって生まれた宿命という以外にありません。

 もし、神が人間をつくったのであるならば、皆、平等につくるべきです。
 また、生命が今世限りなら、不幸な星の下に生まれた人は、親を恨(うら)み、無気力にならざるをえません。あるいは、何をしょうが、おもしろおかしく生きていけばよいと考え、刹那主義に陥(おちい)ってしまうことになる。
 この宿命が、どこから生じたのかを、徹底して突き詰めていくならば、どうしても、今世だけで解決することはできない。生命が永遠であるという観点に立たざるをえません」

 ………
 「三世にわたる生命の因果の法則のうえから、この宿命の根本原因を明かし、宿命の転換の道を示しているのが仏法なんです。
 では、仏法では、宿命はいかにしてつくられると、説いているのか――。
 自分以外のものによってつくられたものではなく、過去世において、自分自身がつくり出したものだというんです。少し難しくなりますが、身・口・意の三業の積み重ねが、宿業となるのです。つまり、どのような行動をし、何を言い、何を思い、考えてきたかです。
 たとえば、人を騙(だま)し、不幸にしてきたり、命を奪うといったことが、悪業をつくる原因になります。さらに最大の悪業の因は、誤った宗教に惑(まど)わされて、正法を誹謗(ひぼう)することです。これは生命の根本の法則に逆行することになるからです。

 さて、人間は、死ねばどうなるのかという問題ですが、生命は大宇宙にとけ込みます。
 戸田先生は、その状態を、夜になって眠るようなものであると言われている。さらに、眠りから覚めれば新しい一日が始まる。これが来世にあたります。生命は、それを繰り返していくのです。
 ここで大事なことは、死後も、宿業は消えることなく、来世まで続くということです。たとえば、一晩、眠っても、昨日の借金がなくなりはしないのと同じです。今世の苦しみは、また来世の苦しみとなります。
 今世で、七転八倒の苦しみのなかで死ねば、来世も同じ苦を背負って生まれてきます。人を恨み抜いて、怨念(おんねん)のなかで死を迎えるならば、来世も、人を恨んで生きねばならない環境に生まれることになる。死んでも、宿命から逃れることはできない。ゆえに、自殺をしても、苦悩から解放されることはないんです。
 反対に、幸福境涯を確立し、喜びのなかに人生の幕を閉じれば、来世も、善処に生まれ、人生の幸福の軌道に入ることができます。

 こう言うと、なかには、来世も宿業で苦しむなら、生まれてこないで、ずっと眠ったままの状態の方がいいと思う方もいるでしょうが、そうはいきません。生まれる前の、大宇宙にとけ込んだ状態であっても、生命は苦しみを感じているんです。ちょうど、大変な苦悩をかかえている時には、寝ても、悪夢にうなされ続けているようなものです」

 ………
 現代の思想や哲学は、今世のみに目を奪(うば)われている。それは、地表の芽を見て、根を見ないことに等しい。ゆえに、人間の苦悩の根源的な解決の方途を見いだせずにいるのだ。
 ………

 「それでは、その宿業を転換し、幸福を実現する方法はあるのか。
 あります。それを、末法の私たちのために説いてくださったのが日蓮大聖人です。そして、その方法こそ御本尊への唱題であり、折伏です。それが、生命の法則に則(のっと)った最高の善の生き方であり、歓喜に満ちた永遠の幸福という境涯を確立する唯一の道なんです。

 こう申し上げると、初代会長の牧口先生は、牢獄で亡くなったではないか。不幸ではないかと言う人がいます。
 しかし、一番大切なことは、死を迎えた時の心であり、境涯です。苦悩と不安と恐怖に怯(おび)えて息を引き取ったのか、獄中であっても、安祥として歓喜のなかに死んでいくかです。牧口先生は獄中からの便りに、経文通りに生き抜いた大歓喜を記(しる)されている。
 また、学会員でも、病気や事故で死ぬ場合があるではないかと、思う人もいるでしょう。その場合でも、信心を全うし抜いた人は転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)であることが、仏法には明確に説かれております。
 つまり、本来、何度も生死を繰り返し、長い苦悩を経て、少しずつ宿業を消していくところを、今生で過去世の宿業をことごとく転換し、成仏しているんです。その証明の一つが臨終の相です。
 大聖人は御書のなかで、経文のうえから、体も柔らかいなど、成仏の相について論じられています。戸田先生も、微笑むような成仏の相で亡くなりました。私は数多くの同志の臨終を見てきました。

 ともあれ、広布のために、仏の使いとして行動し抜いた人は、いかなる状況のなかで亡くなったとしても、恐怖と苦悩の底に沈み、地獄の苦を受けることは絶対にない。経文にも、千の仏が手を差し伸べ、抱きかかえてくれると説かれている。臨終の時、一念に深く信心があること自体が成仏なんです。まさに、生きている時は、『生の仏』 であり、死んだあとも 『死の仏』 です。さらに、その証明として、残された家族が、必ず幸福になっています。
 だから、信心をし、難に遭い、いかに苦労の連続であったとしても、退転してはならない。難に遭うことは宿業を転ずる チャンスなんです。永遠の生命から見れば、今世の苦しみは一瞬にすぎない。未来の永遠の幸福が開けているんです」


 日蓮大聖人は 「されば先(まず)臨終の事を習うて後に他事(たじ)を習うべし」(1404P) と述べられている。
 「死とは何か」 の正しい究明がなければ、人間として 「なんのために死ぬか」 「いかに死ぬか」 を考えることはできない。そうであれば、「いかに生きるか」 という答えも導き出すことはできない。生と死とは、本来、表裏の関係にほかならないからである。
 現代人は、葬儀の形式などには、強い関心をもち始めているが、死という問題自体を、徹して掘り下げようとはしない。実はそこに目先の利害や虚栄、快楽に流されがちな風潮を生み出している、根本的な要因が潜んでいるといえよう。


 引き続いて、先祖供養についてお話をされました。

 「さて、苦悩を背負ったまま亡くなった先祖は、どうしているかというと、既に生まれ、宿業に苦しんでいることもあれば、まだ、生まれてていない場合もあるでしょう。
 あるいは、生まれていても、人間に生まれているとは限りません。宿業のいかんによっては、畜生、つまり動物に生まれることもある。これは、経文に明確です。むしろ、人間に生まれることの方が、はるかに難しい。 
 しかし、先祖が何に生まれ、どこにいて、いかに苦しんでいても、生者が正しい信仰をもって、その成仏を願い、唱題していくならば、それが死者の生命に感応し、苦を抜き、楽を与えることができる。南無妙法蓮華経は宇宙の根本法であり、全宇宙に通じていくからです。
 ましてや、畜生などに生まれれば、自分では題目を唱えることはできないわけですから、私たちの唱題だけが頼みの綱になります。また、先祖が人間として生まれてきている場合には、私たちの贈る題目によって先祖が誰かの折伏を受け、仏法に縁(えん)し、信心をするようになるんです。したがって、先祖を供養するには、真剣に唱題する以外にありません。お金を出して、塔婆を何本立てれば成仏できるというものではない。もし、そうだとするなら、金の力で成仏できることになってしまう。
 一方、信心を全うし、成仏した人は、死んでも、すぐに御本尊のもとに人間として生まれ、引き続き歓喜のなか、広宣流布に生きることができる。
 そして、先祖が成仏したかどうかを見極める決め手は、先ほども申しましたように、子孫である自分が、幸福になったかどうかです。それが、先祖の成仏の証明になります」


 人間は、過去世も未来世も見ることはできない。しかし、三世にわたる生命の因果の理法を知る時、いかに生きるかという、現在世の確かなる軌道が開かれる。そして、それが未来世を決定づけてゆく。
 ………

 「私たちは今、人間として生まれてきた。しかも、大宇宙の根本法を知り、学会員として、広宣流布のために働くことができる。これは、大変なことです。
 たとえば、森に足を踏み入れると、その足の下には、数万から数十万の、ダニなどの小さな生物がいるといわれています。さらに、細菌まで含め、全地球上の生命の数を合わせれば、気の遠くなるような数字になります。
 そのなかで、人間として生まれ、信心することができた。それは、何回も宝くじの一等があたることより、はるかに難しいはずです。まさに、大福運、大使命のゆえに、幸いにも、一生成仏の最高のチャンスに巡りあったのです。
 ところが、宝くじで一回でも一等が当たれば大喜びするのに、人間として生まれて信心ができた素晴らしさがなかなかわからないで、退転していく人もいます。残念極まりないことです。私たちにとっては、この生涯が、一生成仏の千載一遇のチャンスなのです。どうか、この最高の機会を、決して無駄にしないでいただきたい。
 永遠の生命といっても、いっさいは 『今』 にあります。過去も未来も 『今』 に収まっている。ゆえに、この一瞬を、今日一日を、この生涯を、感謝と歓喜をもって、広宣流布のために、力の限り生き抜いていってください」


 現代人は、葬儀や先祖供養などには関心をもっているが、その本当の意味はあまり知られていない。
 「供養」 とは、仏法僧の三宝、父母、師長、死者などに真心や諸物を捧げて、報恩感謝申し上げることで、また、回向するとも言う。
 「回向」 とは、回転趣向(えてんしゅこう)ということで、自らが仏道修行して得たところの功徳を、回し転じて、衆生に向けて施すことを言う。日本では、冥福を祈るという意味に使われることが多い。
 ゆえに、供養する、回向する と言っても、正法 すなわち、宇宙の根本法である “南無妙法蓮華経” を信じ持って、即身成仏を願い、唱題していかなければならないのです。
 大聖人は、「自身仏にならずしては父母をだにもすく(救)いがた(難)し・いわうや他人をや」(1429P) と仰せです。
 ゆえに、自らが仏道修行して得たところの功徳が肝心要なことであって、自身は何もせず、他人(僧侶など)に祈って貰っても無意味なのである。況やその僧らが、邪法の堕落僧であっては尚更である。
 以上のことをよくお考えくださって、常に正しい法で、正しい三宝に南無し、先祖代々並びに亡くなられた会員・友人の追善供養をいたしましょう。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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