創価の法華経(その1)(法華経について)

 初信のころよく聞かされたのが、“釈迦は謗法だ、日蓮大聖人様だけだ(趣意)” という言葉である。何か、仏教の創始者のお釈迦さまを悪く言っているようで、違和感がありました。
 後から考えてみますと、“釈迦は謗法だ” と言ったのは、旧仏教界の念仏・真言・禅宗などを指していて、お釈迦さまを悪く言っているのではないのです。

 信仰するにあたって、釈尊の法華経ではなく、末法においては、日蓮大聖人の法華経でなければならないと強く言われました。一般的に法華経と云えば、釈尊の妙法蓮華経のみと思っていたら、日蓮大聖人の法華経というものがあるのである。
 その後、教学講義などで、三種類の法華経があると学びました。戸田先生は、正法・像法・末法という三時において、それぞれに法華経があると述べられています。

 正法時代の法華経は、釈尊の二十八品の法華経。
 像法時代の法華経は、天台大師の摩訶止観。
 末法時代の法華経は、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経。

 この外にも、過去の日月燈明仏・大通智勝仏・威音王仏・不軽菩薩なども、法華経を説いたとされる。不軽菩薩は 「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて。当に作仏することを得べし」(常不軽品) という 「二十四文字の法華経」 を説いて、衆生を礼拝した。

 この 「二十四文字の法華経」 は、一切衆生にすべて仏性があることを示唆したものである。諸仏の悟りの法である 「一仏乗」 を説いた教えは、どの仏が説いたとしてもすべて 「法華経」 なのである。説き明かす悟りの 「法」 は共通で同じものでも、その説き方は、時代によって異なってくるのである。
 創価学会は、日蓮大聖人の教えを正しく受け継いだ教団である。正しく受け継ぐと言っても、何も一文一句、その言文を間違いなく受け継いでおるという意味では無い。そもそも、鎌倉時代と現代では、言葉も・生活様式も・時代背景も違って来ている。宗教だって根本の法体(本尊)は変わらないが、教え方や修行の仕方は、時代と共に変わってきて当然である。

 たとえば、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(328P)・「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と……妙法蓮華経と唱え奉る」(1337P) と仰せられているところの 「釈尊」 を、インド応誕の釈尊と採るのではなく 「久遠元初の自受用報身如来、即、本因妙の教主・日蓮」 と採らなければ、大聖人のご真意を理解することはできません。
 
 末法の初め、赫々たる日蓮仏法の太陽は出現しましたが、無明の雲は厚く太陽を蔽い隠して、当時の人々はそれを理解することができなかった。その暗雲を解き払い、仏法の真髄を教えて下さったのが、ご歴代の会長であり、なかんずく、現在は池田大作先生であります。

 日蓮仏法と言えども、創価学会の出現がなければ、日顕宗や身延・池上のような旧態依然の姿から脱することは出来なかったであろうと思います。
 創価学会は、日蓮大聖人の法華経を根底として、“平和主義・文化主義・教育主義・人間主義の思想” を、池田先生のご指導のもと、世界192ヶ国に広げました。

 この法華経の新思想を 「創価思想」 「池田思想」 「第三文明」 等々と言われていますが、私はもう一つ、創価学会の法華経、「創価の法華経」 と称しても良いのでないかと思っています。 

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創価の法華経(その2)(総別の二義)

 前に 「創価の法華経」 のタイトルで書きましたところ、コメントがありました。そのコメントには、「創価の法華経」 は、“矛盾だらけの 「暗雲」” “「ご都合」 に即したもの” “日蓮大聖人の御書に反する創価学会の思想は、「法華経」 などとは呼べないと判断します” と言ってきました。

 私はここまで来れば、もう暴論としか言いようがないと思いました。そこで理論が重複するかも知れませんが、引きつづき 「創価の法華経(その2)」 として、私の考えを述べさせて頂きたいと思います。

 まずはじめに、「創価の法華経」 すなわち、“創価学会が実践している法華経” と言うことですが、これをそのように呼称することが、出来るのか・どうかと言うと、私は出来ると思っています。
 創価学会は、日蓮大聖人の法華経の精神を、寸分も違わず実践している教団である。「創価の法華経」 と言っても、何も日蓮大聖人の法華経と別のものを、立てようとか・示そうとか・行なうとか しているのではありません。

 ただ、“日蓮大聖人の法華経を実践している” と言うだけならば、大聖人を御本仏と認めていない身延や池上・法主信仰の日顕宗など、みな我が宗こそが、本山だ・直系だ・血脈があるなどと称している。
 ゆえに、同じ “南無妙法蓮華経” を唱えていても、教義内容や修行方法は、マチマチで違うのである。したがって、これ等のエセ日蓮宗との違いを際立たせるためにも、「創価学会」 の名は、強調しても強調し過ぎることはないと思います。

 つぎに法華経には 「総別の二義」 があり、別して言えば、法華経とは 「日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊」 のみである。
 総じて言えば、過去の日月燈明仏・大通智勝仏・その外三世十方の諸仏も、みな 「法華経」 を説いたのである。大聖人の本因妙のお立場からすれば別ものであるけど、「一仏乗」 を説いている分ではみな同じで、総じて 「法華経」 と言うのである。
 創価学会が “大聖人の南無妙法蓮華経” を現代に約して実践し、広宣流布している仏法も、また 「一仏乗」 である。しからば、創価学会の思想哲学・指導実践は、どこをとっても、「法華経」 と言えるのである。

 しかし、「又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん」(1055P) とのご遺誡があります。あくまでも、総じて・広義に釈した立場である・ことを、ご了解ください。

 「一仏乗」 とは、凡夫の己心に仏界を具していると云うことであり、この法理は法華経にきて初めて説かれたものである。では、その前の権教はと云えば、
 「法華経已前の諸経は十界互具を明かさざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う、九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず、凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に」(403P) と仰せられています。
 
 池田先生は、次のようにご指導されています。
 爾前権経では、「仏」 と 「凡夫」 の間に超えがたい懸隔(けんかく)があります。 凡夫の中のごく一部の修行の達人だけが歴劫修行の果てに仏を目指すことができるのであり、反対に、仏になってから凡夫に戻ることはありえません。
 原則として仏が住む世界もまた、凡夫の住む娑婆世界ではありません。両者の間は、徹底的に隔絶しています。
 「仏界」 と 「九界」 の間に断絶がある限り、万人の成仏は現実の上であり得ません。どこまでも、理想とされる仏とは、人間とかけ離れた存在であり、その仏による救済を願うしか、凡夫がなしうることはありません。
 この九界と仏界の断絶を破ったのが法華経の一念三千の法であり、端的に言えば、「九界即仏界」 「仏界即九界」 の法理です。いかに法華経の十界互具の思想が卓越しているか。
 日蓮大聖人は、唱題行を修業として立てることにより、十界互具という一生成仏の原理を実現する道を開きました。ここにこそ、民衆の成仏を目指す仏教の完成形態があるのです。
  (一生成仏抄講義・50P)

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創価の法華経(その3)(戸田先生の悟達)

 私の 「創価の法華経 」 というブログを見て、色々なお考えが有ろうかと思います。それはそれで結構なことなのですが、もう少しはっきりと、私の考えを述べさせて頂いた方が良いように思いました。

 私が 「創価の法華経」 と言ったのは、前のブログにも述べましたが、何としても創価学会の独自性を強調したかったからです。
 その根拠となるものが、戸田先生の 「獄中の悟達」 であります。戸田先生の 「悟達」 があったればこそ、大聖人の仏法は、戦時中の滅亡の淵から蘇(よみが)えったのである。
 したがって、「創価の法華経」 と 「獄中の悟達」 を、イコール(=)で結んでもらって結構であると思っています。ただ 「獄中の悟達」 のみを指しているのではなく、牧口・戸田・池田先生御三方のご指導のすべてにわたることは当然である。

 御入滅後の700年間、確かに御本尊も御書もありました。御書には 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(1360P)・「法華の行者は男女共に如来なり」(737P)・「大願とは法華弘通なり」(736P) 等々のご金言を、まことに身読なされて、その真意を教えて下さったお方は、牧口先生・戸田先生・池田先生であります。

 特に、戸田先生は、「生命」 という言葉を法華経より取り出だして下さいました。
 池田先生は、「彼の明晰な悟達は、仏法を見事に蘇らせ、近代科学に優に伍して遜色のないものとした。仏法に鮮明な性格と、現代的な理解とを与えたのである。あらゆる古今の哲学のうえに位置せしめた」 (人間革命4巻・生命の庭より) と述べられています。

 「仏とは生命なり」 そして 「我、地涌の菩薩なり」 の戸田先生の悟達を、私は 「戸田先生の法華経」と称しても良いと思いましたが、個人名ではその範囲が限定されますので、「創価の法華経」 とした訳です。

 「大聖人の法華経」 (南無妙法蓮華経) は、基本であり、肝要であり、根本であります。創価学会は、それを実践修行し、広宣流布を成し行く団体であります。 
 大聖人と創価の法華経の両者を判別すれば 「創価」 は、「総別」 では “総” であり、「本迹」 では “迹” であり、「勝劣」 では “劣” であり、「原理」 に比すれば “応用” であり、「法体」 に比すれば “修行” となるのである。

 「創価」 とは、“価値創造” ということで、すでにその名の中に、「大聖人の法華経」 と比して、我と劣ることの意を含んでいるのである。ゆえに 「総別の二義」 をわきまえて、「創価の法華経」 と称することは、間違いではないし、可能で且つ、許されるものであると思っています。

 すでに、戸田先生の 「獄中の悟達」 という言葉があるのに、別に立てる必要はないのではないかと思われますが、私は 「悟達」 や 「悟り」 という言葉からくる イメージが、なにか “釈尊のような・特別な・奥深い・我ら凡人の到底なすことの出来ない・関係のないもの” と、受け取られがちに成るのではないかと危惧するものであります。

 戸田先生は、仏法の成仏を 「人間革命」・「絶対的幸福境涯」 と解明して下さり、我々の身近な問題として示して頂きました。これからの世界の広宣流布を考えるとき、日蓮仏法をどのように現代人に理解させていくのかが、重要な課題となってきます。まだまだ、これから、この問題に挑戦しなければならないと思っています。 
 いま世間では “なでしこ ジャパン” と言えば、誰もが関心を示し・話に花が咲く状況である。そこまでは行かなくても、少なくとも、悟りや成仏の法理を含む法華経や日蓮仏法には、関心を示し・話の種になるようにして行かねばならないと願うものである。

 池田先生は、「社会も宗教も混乱の極みにある末法において、人々を救い、時代を変革していくためには、万人が具える成仏の可能性を開く教え以外にない。つまり、人間の偉大な可能性を開発する以外に、末法の救済はない。
 人間が境涯を広げる以外に、本質的な解決はないのです。
 法華経の救済観を委細に求めると、そういう根本的な 『人間主義』 ともいうべきものを見ることができる」
と仰せられています。 (御書の世界第1巻・10P)

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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