法華経の心(1)(南無妙法蓮華経)

 前の 「戸田先生の悟り(11)」 のところで、チヨット触れましたが、「法華経の心」 を知って行ずるのと、知らずして行ずるのとでは、大きな差が出るのである。

 日蓮大聖人は、「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」(404P) と仰せです。爾前の経の利益のなかには、成仏の利益はありません。しからば、成仏ができないとなれば大問題である。
 したがって、「法華経の心」 を知るとは、どういうことなのか、考えてみたいと思いました。

 「法華経の心」 の “心” とは、精神・心髄・肝要・肝心・根本・原点等々に約されると思います。要するに法華経は、何を言わんとしているのか、何を説き伝えたいのか、と言うことであろうと思います。
 そのように考えて、まず思いついたのが 「南無妙法蓮華経」 という一法であります。そこで日蓮大聖人は、どの様に仰せられているのかと思い、御書を繙いてみました。

 『曽谷入道殿御返事』 に、「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058P)
 『報恩抄』 に、 「如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復・一切経の肝心・一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり」(324P)・ 「問うて云く汝が心如何答う南無妙法蓮華経肝心なり」(325P)
 上記のように、「南無妙法蓮華経」 の一法こそが、法華経の “心” であり “肝心” であると仰せであります。

 『秋元御書』 に、「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072P) と仰せです。
 また、日寛上人は、「種子を覚知するを作仏と名づくるなり」(三重秘伝抄) と、この 「南無妙法蓮華経の種子」 を覚知して、わが身が 「一念三千の当体」、すなわち、仏なりと覚知することが成仏であります。
 “三世十方の仏” と言えば、釈尊は当然のこと、竜樹・天親・天台・伝教等すべての仏菩薩たちは、みな 「南無妙法蓮華経」 を 「種」 として仏になったのである。

 かかる大事な、三世諸仏の能生の根源である 「南無妙法蓮華経」 ではあるが、法華経一部・八巻・二十八品の中には、文上の字面のどこを探しても説かれてないのである。それは 「文の底」 に秘し沈められていたのである。
 『開目抄』 に、 「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(189P) と仰せになっています。

 では、竜樹・天台は知っていながら、なぜ説かなかったと言えば、「答えて曰く、一には自身堪えざるが故に、二には所被の機無きが故に、三には仏より譲り与えられざるが故に、四には時来らざるが故なり」(1028P) という訳なのであります。

 釈尊はご自身が成仏した本因を、ただ 「我本行菩薩道」 としか明かさず、如何なる仏に会い、如何なる法を修業したのか、そのことの答えは、末法の仏である日蓮大聖人に譲られたのである。
 『三大秘法禀承事』 に、「此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)・地涌千界の上首として日蓮慥(たし) かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」(1023P) と仰せになられています。

 しこうして、日蓮大聖人は、法華経寿量品の文の底より 「南無妙法蓮華経」 という “根源の一法” を取り出だして、末法の我ら衆生に与えてくださいました。これによって、初めて 「万人成仏」 の道が開かれたのである。

 法華経の会座は 「二処三会」 もあり、登場する仏菩薩も多く、それらの説話は多くの話題を提供し、説話文学論や芸術論として、数多くの論者から讃嘆されています。(二処とは霊鷲山と虚空。三会とは前霊鷲山会・虚空会・後霊鷲山会のこと)
 しかし、幾ら法華経を読み讃嘆しようとも、寿量品の文の底に秘し沈めてある 「南無妙法蓮華経」 が解からなければ、伝教大師のいうように 「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死(ころ)す」(1439P) ということになります。

 したがって、三大秘法の 「南無妙法蓮華経」 を信じ、唱題に励む創価学会員は 「法華経の心」 を知っている正信の方々であります。 

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法華経の心(2)(御本尊)

 次に、法華経は何を、言わんとしているのかと言えば、それは 「三大秘法の御本尊」 のことであると思います。
 法華経ほど釈尊の滅後のことを、それも正法・像法よりも末法のことに、心をくだかれた経典はありません。
 
 『観心本尊抄』 に、涅槃経に云く 「譬えば七子あり父母平等ならざるに非ざれども然れども病者に於て心則ち偏に重きが如し」…… 然れども病者に於いてと云うは滅後法華経誹謗の者を指すなり。(253P) と仰せです。

 末法の衆生は、「本未有善(本と未だ善有らず)」 の者で、“貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)” の三毒(むさぼり・いかり・おろか)熾盛(しじょう)の荒凡夫ばかりである。かかる極重病人を、仏は大慈悲心をもって救わんとなされましたが、如何せん、釈迦仏法は 「本已有善(本と已に善有り)」 の衆生を、得脱(成仏)させるための 「脱益(だっちゃく)仏法」 なのである。 
 「脱益」 とは、過去に仏道修行してきた善根のある衆生のみを、得脱させる役目だけの教法である。ゆえに、釈尊と縁のない末法の衆生は救えないのである。

 『法華取要抄』 に 「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、…… 安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す在世の衆生は傍なり、滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり、末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり」(333P) と仰せの通りです。
 
 したがって、法華経は在世の衆生のためと言うより、滅後・末法の衆生のため、なかんずく日蓮大聖人のために説かれたと言えるのである。
 そこで釈尊は、末法の衆生を救うべき 「久遠の仏」 と 「久遠の法」 を、法華経のなかの文の底に秘し沈めて、末法の教主・日蓮大聖人に譲り渡したのである。

 その付嘱ための荘厳なる儀式が、見宝塔品の 「虚空会の儀式」 であります。そこには、巨大な七宝の塔があり、大地より涌出して空中に住在し、その中より多宝如来が 「釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」 と証明した。
 引きつづき、宝塔の中へ釈迦・多宝の二仏が並坐(びょうざ) し、諸の天・人・迹化の大衆も皆虚空に置いて説法が始まります。
 
 『見宝塔品第十一』 に、「諸の大衆に告ぐ 我が滅度の後に 誰か能く 斯の経を護持し読誦せん 今仏の前に於いて 自ら誓言を説け …… 当に大願を発(おこ) して 久しく住することを得せしむべし」 とあります。

 釈尊のこのような弘経の呼びかけは、数品にわたり再三再四要請されています。これに応えて迹化の菩薩たちは、「六難九易」(宝塔品)「三類の強敵」(勧持品) が競い起っても、そのなかで耐えて、法華経を弘通するという誓願を立てた。

 しかし釈尊は、迹化の菩薩たちの誓願を 「止みね善男子」(涌出品) と退け、自分には久遠からの弟子がいると言って 「地涌の菩薩」 を大地の底から呼び出します。
 この 「地涌の菩薩」 の出現に驚いた迹化たちの疑念を代表して、弥勒菩薩が 「若し此の経に於いて 疑いを生じて信ぜざること有らん者は 即ち当に悪道に堕つべし 願わくば今為に解説したまえ 是の無量の菩薩をば 如何にしてか少時に於いて 教化し発心せしめて 不退の地に住せしめたまえる」(涌出品) と、滅後・末法の衆生のために、説法を請うたのである。

 この請いを受けて説かれたのが、『如来寿量品第十六』 である。ここでは、釈尊の本地が明かされるのである。
 「我成仏してより已来(このかた)、甚(はなは) だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず」 と説き、「五百塵点劫」 という久遠より、すでに成仏していたのだと、“本果(仏界)の常住” が明かされます。
 「是れより来(このかた)、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」 と、仏の “本国土は娑婆世界” であると宣言されます。
 「我本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」 と、“本因(九界)の常住” もあわせて明かされます。このことを 「三妙合論」 と言います。

 釈尊は寿量品で明かされた法華経の肝要を 「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の藏、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」(神力品) と、「四句の要法」 に結んで、地涌の菩薩の上首・上行菩薩に付嘱されました。(結要付嘱)
 この 「四句の要法」 は、文底より拝すれば 「三大秘法」 になります。
 
 日蓮大聖人は、外用・上行菩薩の再誕として付嘱を受けられ、末法の教主として決起なされました。
 「此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)・地涌千界の上首として日蓮慥(たし) かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承(ぼんじょう) に芥爾(けに) 計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」 
 「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」(1023P)
 と仰せです。

 大聖人は大慈悲を起こして、この三大秘法を含めたる法華経の中より 「妙法五字の珠」 を取り出だして、末法の衆生のために大難を忍んで、「十界の文字曼荼羅御本尊」 を御図顕してくださいました。

 以上の流れを見てみますと、「法華経」 とは、御本仏・日蓮大聖人が、末法に出現するという予言書なのである。
 また、釈尊の説かれた荘厳なる 「虚空会の儀式」 は、御本尊のお姿を描き顕わしている設計図なのである。
 そして、天台大師の三大部(法華文句・法華玄義・摩訶止観)の 「十如実相・一念三千論」 は、御本尊のことの説明書であります。

 『顕仏未来記』 に 法華経の第七に云く 「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」(505P) と仰せです。
 釈尊が・天台が・伝教が・三世十方の仏菩薩たちが、共に 「令法久住」 を願い、護り念じてきたものは 「三大秘法の大御本尊」 であります。
 
 たとえ、“南無妙法蓮華経” と唱えていても、この 「十界の文字曼荼羅御本尊」 が解からない・信じられなければ、それは 「法華経の心」 を死(ころ) すものとなるのであります。 
 その点、御本尊を信じ、朝夕の勤行を実践し、学会活動に励んでいる創価学会員は、自身の自覚が有ろうが無かろうが、基本的に 「法華経の心」 を知る “地涌の菩薩” であります。

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法華経の心(3)(怨嫉謗法)

 「法華経の心」 について、日蓮大聖人の御精神(御本尊) を知(信じ)られなければ、ならないと申し上げましたが、今度は同じ御本尊にお題目を唱えても、修行する者の信心の姿勢の如何によって、その功徳に差が出てくるのであります。
 その功徳を消す信心のなかに、同志の批判をしたり、うわさ話をして回ったりする人が、まま見受けられます。このことについては、『松野殿御返事』 の御指導を拝したいと思います。

 日蓮大聖人は、門下の松野殿が質問された題目の功徳の多少について、次のように仰せられています。
 「但し聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金(こがね) も智者の持ちたる金も・愚者の然(とも) せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり」(1381P)

 大聖人は、題目の功徳には勝劣はないけれども、但し此の経(法華経) の心に背いて唱えれば、その差別が出てくると仰せです。その要因について、十四種の悪の因を挙げられています。

 「悪の因に十四あり・一に憍慢(きょうまん)・二に懈怠(けたい)・三に計我(けいが)・四に浅識(せんしき)・五に著欲(じゃくよく)・六に不解(ふげ)・七に不信・八に顰蹙(ひんしゅく)・九に疑惑(ぎわく)・十に誹謗(ひぼう)・十一に軽善(けいぜん)・十二に憎善(ぞうぜん)・十三に嫉善(しつぜん)・十四に恨善(こんぜん)なり」 此の十四誹謗は在家出家に亘(わた) るべし恐る可し恐る可し、(1382P) 
 
 このなかで、一から十までの分は、御本尊を持っている方々は、基本的に謗法にあたりませんが、後の十一から十四までの怨嫉謗法は、たとえ御本尊を持っていても充分に気を付けねばなりません。
 現在、聖教新聞に連載中の 『新・人間革命第26巻』 の “法旗” の章に、愛媛県幹部会での御指導のなかに、この十四誹謗のことが掲載されていましたので、ご紹介させて頂きます。

 山本伸一は、厳しい口調で語っていった。
 「『松野殿御返事』 には、十四の法華経への誹謗、つまり十四誹謗について記されています。
 誹謗とは、“そしる” ことですが、そのうちの最後の四つは、軽善(きょうぜん)、憎善(ぞうぜん)、嫉善(しつぜん)、恨善(こんぜん)といって人に対するものです。御本尊を持つ人を、軽蔑したり、憎んだり、嫉妬したり、恨んだりすることです。一言すれば、同志への怨嫉(おんしつ) であり、いがみ合いです。
 日蓮大聖人は、十四誹謗の罪は極めて重いので、『恐る可し恐る可し』(1382P) と、戒められている。怨嫉というのは、自分の功徳、福運を消してしまうだけでなく、広宣流布の組織を破壊していくことになる。だから怖いんです。
 皆が心から団結できない。どうも、組織がすっきりとまとまらない。皆、頑張っているのに、功徳を受けられないでいる ―― そうした組織をつぶさに見ていくと、必ず、怨嫉問題が潜んでいます」

 なぜ、御本尊を持った人同士が、時には幹部同士が、怨嫉し合うことが生ずるのか。
 大聖人は、「十四誹謗も不信を以て体と為せり」(97P) と御指摘になっている。
 皆が仏の使いであり、地涌の菩薩であることや、生命の因果の理法など、妙法を信じることができないところに、その根本的な要因があるのだ。
 (法旗・31)

 池田先生は、“そのうちの最後の四つは、軽善、憎善、嫉善、恨善 といって人に対するものです” と指導されています。この “善” というのは、“御本尊を持つ人” のことであり、“同志への怨嫉” は、“広宣流布の組織を破壊していく” すなわち、破和合僧(五逆罪の一つ) という極重罪に当たることになります。

 大聖人は、「或は 『若実(にゃくじつ)若不実』 とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀(そし) るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」(1382P) と仰せです。

 「若実若不実」 とは、『普賢菩薩勧発品第二十八』 の文で、「若(も)し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」 とあります。
 もし事実であっても、事実でない作りごとであっても、御本尊を受持する者を誹謗すれば、大罰を受けるのである。
 「若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ」 というこの経文は、一般の世間法の概念をつき抜けて、生命根源の一法から発せられたものであろうと思います。
 
 引きつづき大聖人は、「釈に云く阿鼻(あび)の依正は全く極聖(ごくしょう)の自身に処し毘盧(びる)の身土は凡下の一念を逾(こ)えず云云、十四誹謗の心は文に任せて推量あるべし」(1382P) と仰せられ、地獄の生命といっても、仏の生命に内在しているものであり、仏といっても凡夫の生命に、もともと具わっているのである。
 たとえ、極悪人といえども妙法の当体であり、ましてや、同志であればなお更である。ゆえに、この 「凡夫が仏である」 という 「法華経の心」 に反する怨嫉謗法は、重々・気を付けなければならないのである。

 さらに大聖人は、「何なる鬼畜なりとも法華経の一偈一句をも説かん者をば 『当(まさ)に起(た)ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし』 の道理なれば仏の如く互に敬うべし」(1383P) と仰せです。
 『御義口伝・普賢品』 に、「此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏(とうきおんごう・とうにょきょうぶつ)の文なり、…… 当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり、…… 但此の八字を以て法華一部の要路とせり」(781P) と、この “八字” をもって、法華経一部八巻の肝要としたのである。すなわち、「法華経の心」 であります。
 「最上第一の相伝」・「法華一部の要路」 と、これ程までに、人間生命の尊厳を謳い上げた哲理はありません。

 したがって、御本尊を持つ者はみな 「仏」 である。仏を謗ることは罪を受けるのである。「若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ」(勧発品) の戒文の重きことに、心せねばならない。この教えを信受する者は 「法華経の心」 を知る正信の人であります。

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法華経の心(4)(三毒の煩悩)

 次に、功徳を消す信心の姿勢としては、愚痴や言いわけが、ついつい出てしまうことである。
 この “愚痴” とは煩悩の一つで、その中の根本的な三毒の煩悩、すなわち 「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」 の中の癡(おろか) にあたります。
 
 『観心本尊抄』 に、十界のなかの六道を説明しているところで、
 「瞋(いか)るは地獄・貪(むさぼ)るは餓鬼・癡(おろか)は畜生・諂曲(てんごく)なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖(ししょう)は冥伏(みょうぶく)して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し」(241P) と仰せです。

 「瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生」 と、この “三毒” は、即・「地獄・餓鬼・畜生」 の “三悪道” に対応しています。
 したがって、愚痴は畜生の命から起こると言うことです。畜生の心は、強きものには卑屈になり、弱きものには傲慢となり、そのうえ、ものの道理を弁えず本能ままに行動する 等のことです。

 『御義口伝』 に、この三毒の煩悩から三災が起こることについて、
 文句四に云く 「相とは四濁増劇(ぞうぎゃく) にして此の時に聚在(じゅざい)せり、瞋恚(しんに)増劇にして刀兵起り、貪欲増劇にして飢餓起り、愚癡増劇にして疾疫起り、三災起るが故に煩悩倍(ますます)隆(さか)んに諸見転(うた)た熾(さか)んなり」(718P) と仰せられています。

 怒りの心から争いごとが起こり、欲望の心から飢餓が起こり、愚かな心から病気が起こると言うことです。
 愚かさが病気になるとは、例えば、肉が好きだから肉ばかり、甘いものが好きだからケーキばかりと、好き勝手に食べれば、病気になるのは必然である。食事一つをとっても、理知的であらねばならない。
 そうであるのに、偏見や邪見の愚かな心で事に処すれば、そのものの生命が本来の正しいリズムの軌道から外れ、歪みが出てくる。これゆえに、愚痴が病気の原因となるのである。

 『御義口伝』 に、三毒の煩悩の病を治す方法について、
 「されば妙法の大良薬を服するは貪(とん)瞋(じん)癡(ち)の三毒の煩悩の病患を除くなり、法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉る者は謗法の供養を受けざるは貪欲(とんよく)の病を除くなり、法華の行者は罵詈(めり)せらるれども忍辱(にんにく)を行ずるは瞋恚(しんに)の病を除くなり、法華経の行者は是人於仏道決定無有疑と成仏を知るは愚癡(ぐち)の煩悩を治するなり」(755P) と仰せです。

 このように、根本的には 「三大秘法の大御本尊」 に帰命する以外には無いわけです。
 御本尊を信じる者は、謗法の供養を受けることはない。このことは金儲けのために、法を犯したり無節操であってはならないと言うことである。これは “貪欲の病” を除くことになるのである。
 いかに悪口罵詈されても、忍辱の鎧を着て折伏を行ずることは、“瞋恚の病” を除くことになるのである。
 『如来神力品第二十一』 に、「是人於仏道 決定無有疑」(是の人仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん) とあります。御本尊を信ずることによって、即身成仏が出来ることを覚知することは、“愚痴の煩悩の病” を治すことになるのである。
 しかしながら、御本尊を持っていながら愚痴がでることは、まだまだ、確信が足りないというものであろう。「譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり」(97P) と仰せであります。

 池田先生の 『一生成仏抄講義』 の 「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(383P) のところの講義のなかに、「愚痴・不信」 についての御指導がありますので、ご紹介させて頂きます。

 さらに、「漠然たる不信」 「グチ」 「文句」 も排していきたい。
 妙法蓮華経を 「心外の法」 と考える誤った信心には、自他の生命に仏性が内在することに対する不信がある。この不信の根底には 「元品の無明」 があります。
 現実の信心のあり方において言えば、「仏性といっても理想に過ぎないのではないか、現実は変わらないのではないか」 との不信感は、確信なき祈りや漠然とした祈りとして現われてしまう。中途半端では、当然、一念の転換も、生命の変革もありません。
 
 本抄に 「深く信心を発(おこ) すべきなり」(383P) と仰せのように、一生成仏のためには、信心と祈りを深化させていく必要があります。そして、信心の深化は確信ある具体的な祈りとして現われてきます。
 一生成仏の信心における唱題行にあっては、我が一念を定めることがどこまでも重要となります。
 弓で矢を射る時に的を定めなければ、弓を引く力もこもりません。同じように、「…… したい」 という漠然たる思いから、「必ず …… するのだ」 という確信ある祈りを決定してこそ、祈りは成就するのです。

 この 「漠然たる不信」 に通じる門として 「グチ」 や 「文句」 があります。グチと文句は、よくないと分かっていても、つい出てしまう場合があります。グチや文句が自分の習性となれば、絶えず自身の成長のブレーキとなって、前進を忘れてしまう。それは、自分自身の可能性を自ら閉ざすことになり、結局は、「己心の外に法あり」 の姿勢になっていまいます。
 凡夫にとってグチや文句を消すことは難しいかもしれませんが、それを上手に操り、前進へのバネとすることが、妙法の智慧です。
  (一生成仏抄講義・72~74P)

 先生は、“妙法蓮華経を 「心外の法」 と考える誤った信心には、自他の生命に仏性が内在することに対する不信がある” と、仰っています。
 “自他の生命に仏性が内在する” という 「法華経の心」 を、知らなかったり・信じなければ、自身の一生成仏は叶いません。
 「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(751P) と、この 「愚痴・無明の心」 を断破すべく、南無妙法蓮華経の智慧を持って、信行に励んで参りましょう。

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法華経の心(5)(種・熟・脱)

 「法華経の心」 と言うことでありますが、日蓮大聖人が 「法華経の肝心」 と仰せられた御書があります。
 それは 『秋元御書』 に、「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072P) の御金言であります。
 
 「種・熟・脱」 とは、下種・調熟・得脱のことで、仏が衆生を悟りに導く化導の始終を三段階に分けたものである。
 『曽谷殿御返事』 に、「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(1056P) と仰せられていますように、植物の生長過程になぞらえて、どのようにして調熟し成仏していくのか、その過程を明らかにしたものです。

 「種」 とは、衆生の心田に仏になる種子を植える(下種) ということで、仏法に縁した最初をいう。
 「熟」 とは、その下種された種子に手を入れて、次第に生長させ機根を調えさせることをいう。
 「脱」 とは、種子が生長してきたら実を成らせて、得脱させるということで、成仏に至る化導の終わりを言います。

 この 「種・熟・脱」 すなわち、化導の始終は、爾前経では明かされていないのである。
 『観心本尊抄』 に、「設(たと)い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還(かえ)つて灰断(けだん)に同じ化の始終無しとは是なり」(249P) と仰せられています。
 この 「化の始終無し」 とは、化導がいつ始まって、いつ終わるのか、如何なる仏が、どのような法を説いたのか、そういうことが明らかにされていなければ、どんなに立派そうに成仏の姿を説いても、その根拠が・プロセスが、明らかになっていないのですから、その成仏は空虚な抽象論であり、単なる観念論にしか過ぎません。
 
 初めて 「種・熟・脱」 が明かされたのは法華経だけであり、ここにおいて、迹門・本門・文底の三釈があります。
 「迹門の種熟脱」 は、『法華経化城喩品第七』で、三千塵点劫の過去に、大勝智勝仏という仏がいて、法華経を説法した。その十六番目の王子(釈迦) が、もう一度法華経を説くわけです。これを大通覆講と言います。その時が 「下種」 になります。
 その後、いろんなところで化導を受け、その間ズートと爾前経の段階までが 「熟」 になります。
 法華経迹門に入ると、舎利弗等の二乗に未来成仏の記別が与えられる。提婆達多という悪人、竜女という女人にも成仏の記別を与える。これが 「脱」 になります。

 「法華経本門」 では、『如来寿量品第十六』 で、五百塵点劫という久遠を明かします。この時点が 「下種」 になります。
 これによって、三千塵点劫の大通智勝仏及び四十二年間の爾前経と法華経迹門までが 「熟」 になります。
 寿量品に至って、釈尊は自身の五百塵点劫・久遠実成の境地を明かし、霊山の聴衆はこれを信受することによって得脱する。これが 「脱」 になります。
 このように釈尊の法華経は、久遠に下種を受けながら (本已有善)、大乗から退転して小乗に堕ちた衆生(退大取小)を 「得脱させるため」 のものであり、これを 「脱益の法華経」 という。

 日蓮大聖人の 「文底独一本門」 では、久遠元初のときが、ことごとく 「下種」 となります。「熟・脱」 はこの 「下種」 のなかに含まれています。「下種」 と同時に 「熟・脱」 も完成する訳です。ここら辺のところが、解かり難いところであります。
 大聖人は、“南無妙法蓮華経” を 「因果倶時・不思議の一法」(513P)・「因果一念の宗」(871P) と仰せになられています。この点に関しては 「久遠即末法」 ということも、あわせて考えなければならないと思います。

 このように、大事な成仏の プロセスを説いている法華経は、「一切の諸の教法の中に於いて、最も為(こ)れ第一なり。…… 諸経の中の王なり」(薬王品) と呼ばれている。その外には、
 『法師品第十』 に、「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当(まさ)に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」 とあります。
 伝教大師は、「已説の四時の経・今説の無量義経・当説の涅槃経は易信易解なり随他意の故に、此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」(991P) と述べられ、ここでも、一切経の中で法華経が最高の教法であることが明かされています。 
 したがって、「已・今・当」 の三説をもって、諸経・諸宗は成敗されたのである。然るに、権宗諸派の開祖たちは、無惨にも 「皆成仏道の法華経」 を捨てさせているのである。

 “浄土宗” の法然は、「捨・閉・閣・抛」 の四字をもって、法華経を蔑(ないがし)ろにした。
 “真言宗” の弘法は、最上第一の法華経を第三・戯論(けろん)の法と下し、そのうえ正覚房は、教主釈尊を無明の辺域、大日の牛飼い、草履取りにも及ばないと、口汚く罵(ののし)っている。
 “禅宗” は、「教外別伝・不立文字」 といって仏典を否定しながら、経文を読誦している。祖師無用と言いながら、達磨を禅祖としている。言っている事とやっていることが、全てバラバラで自語相違も甚だしい。
 
 『如来寿量品第十六』 に、「飲他毒薬。薬発悶乱。宛転于地」(他の毒薬を飲む 薬発し悶乱して 地に宛転す)・「毒氣深入。失本心故」(毒気深く入って 本心を失えるが故に) とあります。
 これらの開祖たちは、第六天の魔王から魂を打ち抜かれ、仏弟子でありながら、祖師釈尊の金言に悉く叛逆する様は、本心を失える狂子の様だとしか言いようがない。

 同じく 『寿量品』 に、「如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者」(如来諸の衆生の 小法を楽(ねが)える徳薄垢重の者をみては) とあります。
 権宗・権教の “厄除けだとか、◯◯安全とか” このような小功徳を願う衆生は、「小法を楽える徳薄垢重の者」と、仏は戒められています。
 
 大聖人の 「文底下種仏法」 には、即身成仏という、永遠にして “絶対的幸福境涯” を獲得することが出来る道を教えています。
 『顕仏未来記』 に、伝教大師云く 「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」(509P) と仰せです。
 「丈夫の心」 とは、仏の心ということです。浅き爾前・権教の小功徳を去って、遠大な広宣流布という大目的に向かって、前進していくのが 「丈夫の心」 であり、「法華経の心」であります。

 したがって、「種・熟・脱」 の化導すら説かない権教、すなわち古今東西の数ある宗教・思想・哲学の中で、日蓮大聖人が御図顕された 「十界の文字曼荼羅御本尊」 が最高峰であることを確信し、「不受 余経一偈」(余経の一偈をも受けざれ)(譬喩品) の人のみが、「法華経の心」 を知る人であります。

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法華経の心(6)(広宣流布)

 「法華経の心」 について、釈尊は何のために、法を説いたのかを知らなければならないと思う。それは、一切衆生の救済のためであります。
 釈尊の 「四門出遊」 の説話にあるように、人生には 「生・老・病・死」(四苦)という、誰人にとっても逃れることのできない、本源的な苦しみがあります。この四苦からの解放・救済を目指したのが仏教である。
 
 釈尊は数多くの経文を説かれましたが、その中で真実・最高の経典である、『法華経方便品第二』 に 「一大事因縁」 という教えが説かれています。
 そこには 「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲するが故に、…… 衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、…… 衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲するが故に、…… 衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」 とあります。
 仏がこの世に出現した目的は、衆生の生命に内在する仏知見を、“開かしめ・示し・悟らしめ・入らしめん” がためであるというのである。
 同じく 『方便品』 に、「欲令一切衆 如我等無異」(一切の衆をして 我が如くして異なること無からしめんと欲しき) とあります。
 これも同じく、仏が御自身と等しい境地にまで、一切衆生を導くことが目的であると言っています。

 『崇峻天皇御書』 に、「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」(1173P) と仰せです。衆生を救う方法には、
 第一に、“蔵の財” 即ち、物質的な物や金銭を与えること、これは一時的なものである。
 第二に、“身の財” 即ち、教育を施して知識や技術を身につけさせること、これは前者よりも長期的に救うことができる。
 第三に、“心の財” 即ち、己身の生命次元からの改革である。凡夫の煩悩に覆われた無明の心を、仏の法性の心へと変革する戦いである。即ち人間革命である。これは永続性があり、根本的な救済方法なのであります。
 ゆえに、仏は一切衆生の救済のために、法華経の 「広宣流布」 を願われたのである。

 『波木井三郎殿御返事』 に、仏記して云く 「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布し閻浮提に於いて断絶せしむること無けん」 等云云、天台記して云く 「後の五百歳遠く妙道に沾(うるお)わん」 等云云、伝教大師記して云く 「正像稍(やや)過ぎ已つて末法太(はなは)だ近きに有り 法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」 等云云、此れ等の経釈は末法の始を指し示すなり(1372P) と仰せです。
 「末法の始」 とは、広宣流布の時である。釈尊を初め天台大師・伝教大師・三世十方の諸仏までも、みな 「令法久住(法をして久しく住せしめん)」(宝塔品) を念じ、末法の始めを願行したのである。

 日蓮大聖人は、「御義口伝に云く大願とは法華弘通なり」(736P) と、
 『報恩抄』 に、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(329P) と仰せです。
 
 大聖人の御心は、「広宣流布」 にあります。この御精神を持して広宣流布に邁進している教団は、創価学会のみであり、その指導者は、池田大作先生であります。
 池田先生は、ありのままの凡夫が、奧底の一念を 「広宣流布」 に向けることによって、生命の基底部が仏界になっていくと、次のように指導されています。

 名誉会長 そのためには、広宣流布への強き責任感に立つことだ。
 「だれかがやるだろう」 とか、「何とかなるだろう」 という、いいかげんな気持ちが一念にあれば、自分で自分の仏界を傷つけるようなものだ。
 たとえば今月の予定・スケジュールが決まる。それをただ手帳に書いているだけなら、自分の一念の中に入っていかない。なすべきことを全部、自分の一念の中に入れていくことです。入れていけば、それが祈りとなっていく。一念三千で、勝利の方向へ、勝利の方向へと全宇宙が回転していく。
 自分の魂の中、一念の中に、「広宣流布」 を入れていくのです。一切の 「我が同志」 を入れていくのです。広宣流布を祈り、創価学会の繁栄を祈り、我が同志の幸福を祈り、行動するのです。それが広宣流布の大闘士です。
 悪人は 「悪鬼入其身(悪鬼其の身に入る)」(勧持品) だが、その反対に、いわば 「仏(ほとけ)入其身」 とならねばならない。
 広宣流布こそ仏の 「毎自作是念(毎に自ら是の念を作さく)」(寿量品) です。この一念をともにしていこうとするとき、仏界が躍動し、はじめて真の十界互具・一念三千となっていく。
 凡夫の九界の身に、御本仏の生命がわいてくる。十界互具です。
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」(790P) です。
 “億劫の辛労” です。広宣流布のために、極限までの辛労を尽くしてこそ、仏界は太陽のごとく輝いていく。この御文にこそ、十界互具の要諦があるのです。 
(法華経の智慧第四巻・295P)

 まさに、仏の大願たる 「広宣流布」 こそ、「法華経の心」 であります。広宣流布に反対しその破壊を企てる者は、「其人命終 入阿鼻獄」(其の人命終して 阿鼻獄に入らん)(譬喩品) の人に当たるのであります。

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法華経の心(7)(最上第一の相伝)

 今まで 「法華経の心」 について、六つほど書いていますが、考えてみますと、不軽菩薩の礼拝行や折伏は、「法華経の心」 の実践であり、これらのことも、押さえて置かなければならないな! と思いました。
 そこで、うまく書けるかどうか分かりませんが、自身の勉強のつもりで書いてみようと思いますので、お目を通して頂ければ幸いです。

 日蓮大聖人は、法華経の経末に至って、“最上第一の相伝あり” と仰せられています。
 昨年の11月、「広宣流布大誓堂」 の落慶記念勤行会が開催され、池田先生よりメッセージを賜わりました。その 「名誉会長のメッセージ」 に、(抜粋)

 この大殿堂の南側と北側には、それぞれに八本の柱が立ち並んで、来館される方々をお迎えいたします。
 日蓮大聖人は、「御義口伝」で、「此の品(=普賢品第28)の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏(とうきおんごう・とうにょきょうぶつ)の文なり」(781P) と仰せです。
 八本の柱は、「必ず仏の如くに法華経の行者を敬うべし」(同) という 「法華経の心」、すなわち学会員を仏の如くに大切にする 「創価の心」 を体した八文字の象徴なりと、私は後世のために申し上げておきます。
  (聖教・2013-11-9)

 大誓堂の南側と北側の入り口にある其々八本の柱は、「広宣流布誓願勤行会」 に参加する “学会員を仏の如くに大切にする 「創価の心」 を体した八文字の象徴なり” と、その意義を教えてくださいました。
 そして、釈尊が八年かけて説いた法華経も、要約すれば 「当起遠迎当如敬仏」 の八字になります。その本意は、末法に現れる法華経の行者即ち、日蓮大聖人を 「末法の御本仏」 として敬いなさいという意味であります。
 その上で、総じては、日蓮大聖人の門下として、広宣流布に邁進する創価学会員をも、“まさに仏の如くに敬いなさい” という、これが 「法華経の心」 であり、「創価の心」 であります。

 『崇峻天皇御書』 に、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) と仰せです。
 仏法の肝要は 「人の振舞」 即ち、「人を敬う」 実践こそが、「法華経の修行の肝心」 であり、「教主釈尊の出世の本懐」 であると仰せです。
 ゆえに、「当起遠迎当如敬仏」 の八字を 「最上第一の相伝」 とまで、仰せになられています。大聖人は、この 「法華経の心」 を、一切衆生にまで及ぼし、全人類を救わんと大願を立てられました。
 引きつづき “メッセージ” を拝読いたします。
 
 「大願」 とは 「法華弘通」 つまり 「広宣流布の大願」 にほかなりません。
 大聖人の立宗より七百年、闘諍言訟の末法が極まった現代にあって、この御本仏のお心のままに、「広宣流布」 の大願を成就することを誓って立ち上がった仏意仏勅の教団が、創価学会であります。
 「広宣流布の大願」 と 「仏界の生命」 とは一体です。
 だからこそ ―― この誓いに生き抜く時、人は最も尊く、最も強く、最も大きくなれる。
 この誓いを貫く時、仏の勇気、仏の智慧、仏の慈悲が限りなく湧き出でてくる。
 この誓いに徹し切る時、どんな悩みも変毒為薬し、宿命をも使命へと転じていける。
 これが、創価の最極の同志であります。
 これが、学会の無敵の陣列であります。
 そして、我ら誓願の学会が奉ずる 「法華弘通のはたじるし」(1243P) こそ、この大礼拝室に御安置奉った 「大法弘通慈折広宣流布大願成就」 と、お認めの常住御本尊であられるのです。
 ………
 我らの祈りは、わが地域から全地球まで包みます。
 この大殿堂は、「生死一大事血脈抄」 の御聖訓の通り、ありとあらゆる差異を超えて、妙法の世界市民が集い合い、「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え」(1337P) 民衆の幸福と安穏、社会の繁栄、世界の平和、人類の宿命転換へ、共々に励まし、誓願へ勇猛精進していく究極の人間共和の宝塔なのであります。
 ゆえに本日より、この城を 「広宣流布大誓堂」 として、世界広宣流布の新時代へ、歓喜勇躍して正義と希望の大前進を開始したいと思いますが、いかがでしょうか(大拍手)
 大聖人は 「ちかいし願やぶるべからず」(232P) と仰せになられました。
 我ら創価の家族は、この広宣流布大誓堂とともに、「ちかいし願」 をいよいよ燃え上がらせて、いかなる試練も断固とのり越え、金剛不壊にして所願満足の大勝利の人生を、仲良く朗らかに飾りゆくことを約束し合い、私の記念のメッセージといたします(大拍手)。

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法華経の心(8)(常不軽菩薩)

 「法華経の心」 の実践は、「常不軽菩薩の礼拝行」 に求められます。
 法華経本門の流通分である 『常不軽菩薩品第二十』 に、「我深敬汝等(がじんきょうにょとう)。不敢軽慢(ふかんきょうまん)。所以者何(しょいしゃが)。汝等皆行菩薩道(にょとうかいぎょうぼさつどう)。当得作仏(とうとくさぶつ)」(我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何(いか)ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし) とあり、経文の漢字が “二十四字” ありますので、「二十四文字の法華経」 と言われております。

 常不軽菩薩は、過去世の威音王仏の滅後、像法時代に出現し、一切衆生に仏性があるとして 「二十四文字の法華経」 を唱え、四衆の衆生を礼拝し、軽んじなかった。 
 しかし、国中には謗法者が充満し、不軽を見て軽蔑し、杖木瓦石の迫害を加えたが、屈服することなく礼拝行を全うし、その功徳によって、六根清浄を得て、成仏した。
 また、迫害を加えた衆生は、その罪によって、一度は無間地獄に堕ちたが、再び不軽にあって、救われた。
 釈尊は、この常不軽菩薩の礼拝行を通して、滅後末法の “弘経の方軌” と “逆縁の功徳” を説いているのである。

 この不軽品に登場する菩薩の名前であるが、サンスクリット語の原典では、「常に(人から)軽んじられた」 男という意味になっているそうである。
 それゆえに、竺法護訳の 「正法華経」 では、「常被軽慢」(常に軽んじられる)と訳されていて、原典に近い訳である。
 鳩摩羅什訳の 「妙法蓮華経」 では、「常不軽」(常に軽んじない)菩薩と訳されている。

 池田先生は、「常不軽菩薩が、いつも バカにされていたという表面に着目すれば、たしかに 『常に軽んじられた』 菩薩になるでしょう。
 しかし一歩深く、その行動の本質、魂に着目すれば、『常に軽んじなかった』 という訳は正しいのではないだろうか」 
と述べられています。  (法華経の智慧5巻・120P)
 いかにも、羅什訳の 「妙法蓮華経」 が、釈尊の正意を誤りなく訳出した、珠玉の名訳であることが分かります。

 鳩摩羅什について ―→ ここから

 『御義口伝』 に、「此の廿四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり」(764P) と仰せです。 
 法華経には、「広・略・要」 の三つがある。
 「広の法華経」 とは、釈尊の “一部八巻二十八品” 全体をいう。
 「略の法華経」 とは、天台の“摩訶止観”、また “方便・寿量の二品” をいう場合もある。ここでは、不軽の “二十四文字の法華経” も、「略法華経」 に当たります。
 「要の法華経」 とは、日蓮大聖人の三大秘法の “南無妙法蓮華経” であり、“七文字の法華経” とも言います。
 いずれにしても、“南無妙法蓮華経” とその元意は同じであり、広・略の法華経は、要である南無妙法蓮華経の序文となり、流通分となるのであります。

 池田先生は、次のように指導されています。
 名誉会長  法華経とは一体、何を説いたのか。それがこの二十四字に凝縮されているということです。「私は深く、あなた方を敬います。軽んじたり、慢(あなど)ったりいたしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができるからです」
 一切衆生に 「仏性」 がある。「仏界」 がある。その 「仏界」 を不軽菩薩は、礼拝したのです。法華経の経文上では “一切衆生に仏性がある” とは明示されていない。しかし、厳然と、そのことを主張しているのです。これ以上の 「生命尊厳」 の思想はない。
 宗教のなかには、「平等」 を説いたとしても、人類は 「罪の子として平等」 であると説くものもある。しかし法華経は皆、尊き 「仏子」 と説く。「仏界の当体として平等」 なのです。そこには、大きな違いがある。


 須田  自分の仏界を自覚してない “異教徒” であっても、仏界の当体である事実は変わりません。不軽菩薩が礼拝した通りです。ゆえに法華経の精神からは、暴力は絶対に出てきません。

 斉藤  暴力を伴なう 「宗教紛争」 は、絶対にありえないですね。

 名誉会長  ありとあらゆる暴力と対極にあるのが 「不軽菩薩」 です。法華経です。
 「暴力」 に対する 「精神闘争」 が法華経なのです。
  (法華経の智慧5巻・125P)

 二十世紀、二度にわたる世界大戦を経験した人類は、この大戦から何かを学んだかと思いきや、二十一世紀はますます、地域・民族紛争・無差別殺人等々、全地球的に 「暴力」 が罷り通っています。
 “「暴力」 に対する 「精神闘争」 が法華経なのです” と仰っているように、この激流に抗する力は 「法華経の心」 即ち、「自他の仏性を信ずる」 信念と、不軽菩薩の 「人を敬う」 ということを実践する以外にありません。
 この信念と実践行動をもって、「世界広宣流布」 に邁進しているのは、わが 「創価学会」 以外にありません。
 地球と人類の未来は、実に 「創価学会」 の双肩にかかっていると言っても、過言ではありません。創価学会会員の皆さま、我らこの 「常不軽菩薩の精神」 に立って、法華弘通の大願に頑張って参りましょう。

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法華経の心(9)(折伏)

 一切衆生に仏性があるという 「法華経の心」 を実践せんがために、常不軽菩薩は一切衆生の人々を礼拝して回りました。この [不軽菩薩の礼拝行」 は、末法においては仏道修行の折伏弘教に当たります。

 「折伏(しゃくぶく)」 とは、破折屈伏ということで、相手の邪義・邪法を破折して、正法に伏させる化導法の一つで、摂受に対する語である。
 「摂受(しょうじゅ)」 とは、摂引容受ということで、相手との違いを認めつつ次第に誘引して、正法に入らせる化導法のことである。

 『佐渡御書』 に、「仏法は摂受・折伏時によるべし」(957P) 
 『開目抄』 には、「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(235P) と仰せです。

 仏法の弘経の方軌に、摂受と折伏があるが、“無智・悪人の国土に充満の時は摂受を”、“邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす” とあり、そのどちらを取るのかは、章安の云く 「取捨宜きを得て一向にす可からず」(236P) と言われますように、時代の様相によるのである。
 ここに “無智・悪人” とあるのは、愚かでろくでなし・ということではなく、仏法の道理を知らない者、まだ仏法が流布されていない国土の人という意味であります。
 “邪智・謗法” というのは、邪悪な智慧をもって正法(法華経)を謗ることである。
 『開目抄』 に、「日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」(235P) とあり、「正像の時の所立の権小の二宗・漸漸・末法に入て執心弥強盛にして小を以て大を打ち権を以て実を破り国土に大体謗法の者充満するなり」(507P) の如き日本国は、折伏の時である。

 折伏は破折屈伏のことであるが、我々が折伏したときによく言われた言葉に、“宗教は自由だ。人の宗教を悪く言うのは、信仰者として有るまじきことではないのか。(趣意)” というものがあります。
 このことについて、先生の 『御書の世界』 のご指導を学びたいと思います。(抜粋)

 名誉会長  「如説修行抄」 等には 「法華経の敵を責める」 と仰せです。 この点について、誤解のないように一言しておきたい。
 誤った教えに執着している人は、たとえ正しい教えが示されても、かえって反発し、誤った教えへの執着を強める。
 だからこそ、粘り強い対話で、教えそのものの誤り、そしてそれを信じることの誤りの両方を明確に指摘し、気づかせ、目覚めさせることが大事です。
 相手が邪見に毒されて悪口している場合は、破折が表になるのは当然です。 「破折」 を忘れたら、大聖人の弟子ではない。 悪への 「破折」 がなくなったら、創価学会の魂はありません。


 森中  「如説修行抄」 には、「諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(504P) とも仰せです。

 名誉会長  ただし、「責める」 といっても、決して言い争いをするとか、まして言論以外の手段を用いるということではない。
 「正邪を明らかにしていく」 ことであり、具体的には、「正法を言い切っていく」 ことです。
 “間違っている” という指摘だけでは、不十分です。 言われた側も納得できない。 “これが正しい” と明確に示してこそ、現実に変革へと一歩、踏み出すことができる。


 斉藤  正義を示す 「第一義悉檀(しつだん)」 と、悪を打ち破る 「対治悉檀」 は、一体不二ですね。

 名誉会長  その根本は、やはり慈悲です。
 大聖人は、「開目抄」 で、御自身が折伏を行じ、諸宗を厳しく破折されている意味を、涅槃経を解釈した章安大師の言葉を引いて示されている。

 
 森中  拝読します。
 「仏法を壊乱するは仏法中の怨(あだ)なり 慈無くして詐(いつわ)り親しむは是れ彼が怨なり 能く糾治(きゅうじ)せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり 彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり 能く呵責(かしゃく)する者は是れ我が弟子駈遣(くけん)せざらん者は仏法中の怨なり」(236P) 
 
 斉藤  ………
 この言葉に照らして見るときに、一切衆生を仏にしょうとの法華経の深い心を踏みにじって、仏法を破壊し混乱させている諸宗を徹底して責めることは、仏法者としての責務であり、真の慈悲の行為です。

 名誉会長  大聖人の実践される折伏行は、どこまでも邪法に惑わされている人々を目覚めさせ、救っていこうとの、大慈悲の御精神に基づくものです。
 私たちの折伏の実践もまた、どこまでも大聖人の大慈悲の御精神に連なって、一人の人を必ず救っていこうとの一念に基づくものでなければならない。
  (御書の世界3巻・26~29P)

 折伏行は、どこまでも大慈悲の御精神に基ずくものであります。それでは、もう少し、折伏の意義、功徳について、お伺いしたいと思います。

 名誉会長  折伏の意義については、何点か述べることができます。
 まず、折伏の核心は、「慈悲」 と 「哲理」 であるということです。
 「慈悲」 とは、苦悩する人々を救う仏の心です。これは、私たちが実践するうえで、友への 「思いやり」 であり、具体的には、粘り強い 「忍耐力」 と、正義を語り抜く 「勇気」 として現れるといえます。
 「哲理」 とは、すべての人が成仏できる “誰もが幸福になる権利をもつ” という法華経の哲理に対する 「確信」 です。

 ………
 名誉会長  折伏の根本は、“すべての人を何としても幸福に” という仏の願いです。 その心をわが心とすることが、末法広宣流布に戦う本物の弟子、地涌の菩薩の誓願です。
 「慈悲」 は、しばしば 「慈」 と 「悲」 に分けて論じられます。
 「慈」 は、人々をわが子のように慈しみ、教え導くことです。
 「悲」 は、人々の苦悩を悲しみ、同苦することです。
 
 ………
 名誉会長  ………
 いわゆる母性的な温かく包み込む愛と、いわゆる父性的な厳しく導く愛の両方に育まれてこそ、人間は心豊かにまっすぐ育っていくことができる。 溺愛では、自立心が育たない。 抑圧では、個性が伸びない。
 仏は、父母両方の親の徳を具えて、人々を導く。
 苦悩から解放するだけにとどまらず、さらに正しい生き方を教えて、境涯を変革させ、現実に幸福を得られるようにはたらきかけるのです。
 折伏とは、この抜苦与楽の慈悲の実践にほかならない。
  (同書3巻・20~23P)

 「抜苦与楽(ばっくよらく)」 とは、苦を除き・楽を与えることで 「慈悲」 のことである。楽を与えることが 「慈」 であり、苦を除くことが 「悲」 である。
 『御義口伝』 に、「一念三千は抜苦与楽なり」(773P) と仰せです。
 本当に、抜苦与楽の力があるのは、一念三千の当体たる南無妙法蓮華経の御本尊様だけであります。
 その御本尊を弘める折伏行の功徳について、学びたいと思います。

 名誉会長  すべての根幹は、仏の心、法華経の心と一致することです。 仏と一体となり、妙法に合致すれば、どんな困難も乗り越えられないことはない。
 仏の心は、万人救済の大慈悲の誓願です。 その誓願に連なり成就せんとする大闘争のなかで、自分の生命が鍛え磨かれるのです。


 森中  人々を救う闘争によって、自分が 「六根清浄」 となるのですね。

 名誉会長  折伏行には自他の無明を打ち破っていく力があるからです。
 ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けない。 同様に、人間は人間によってのみ、磨かれ輝くのです。

 ………
 名誉会長  仏の教説のままに、難をも恐れず勇敢に広宣流布を目指して戦う人は、「即身成仏」 「六根清浄」 の功徳があると仰せである。
 勇気をもって戦った分だけ功徳があり、「人間革命」 できるのです。
 「御義口伝」 には 「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」(762P) とも仰せです。 勇気をもって自他の悪と戦っていくところにのみ、妙法の善なる力が現れてくる。勇気ある戦いがなければ、偉大な功徳はありません。
 偉大な人生を歩むためには、折伏が大切なのです。
 一人の人の一生は、長いようで短い。 そのなかで自ら体験できることは限られている。
 しかし、一人また一人と、他の人の悩みを我が悩みとして、共に祈り、共に戦い、共に勝ち越えていけば、人生の豊かさは、二倍、三倍、十倍、百倍と無限に広がっていく。
 ほかの人のために悩んだ分だけ、戦った分だけ、「心の財」 を積むことができる。 そして、どんなことが起ころうとも揺るがぬ幸福境涯を確立していくことができるのです。
  (同書3巻・39~40P)

 さらに、末法の折伏には、二つの意義があります。
 一つ は、「法体の折伏」 です。大聖人の法門それ自体が、他宗の教義を破折していることになり、三大秘法の 「十界の文字曼荼羅御本尊」 を顕されたことで、この義は完成されています。
 二つ には、「化儀の折伏」 です。現実社会のなかで、御本尊を護持し、広く流布して、民衆を救済することである。

 「法華経の心」 の実践は、「折伏行」 すなわち、「広宣流布」 であります。日蓮大聖人は、「法体の折伏」 すなわち、「本門の本尊」 である 「十界の文字曼荼羅御本尊」 を御図顕してくださいました。
 そして、その 「化儀の折伏」 すなわち、「化儀の広宣流布」 を、「時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり」(1600P) と、未来の末弟等に御遺命なされました。
 
 この “仏意仏勅” を受けて、「折伏行」 を実践し、法華弘通に邁進している教団は、わが 「創価学会」 のみであります。いまや、「世界広布新時代 開幕の年」 を迎え、池田先生の御指導のもと、わが身の使命と福運を自覚して、一歩前進の行動あるのみである。

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テーマ : 仏教・佛教
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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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