会い難き御本尊 (1)

 前の 「法華経の心(2)」 のところで、いくら法華経を読んでいても、日蓮大聖人の御図顕された “三大秘法の御本尊” がわからなければ、「法華経の心」 を知ったことにはならないと申し上げました。
 それについて、かつて “五老僧は御本尊のことがわからなかった” という文を、読んだことを思い出し捜してみました。それは 『人間革命第7巻』 の 〔原点の章〕 にありました。そこのところを引用させて頂きます。
 
 戸田先生は 「方便品・寿量品講義」 の後で、質問会を催されました。
 そのとき一人の壮年が、“『富士一跡門徒存知の事』 のなかに、五老僧たちが御本尊を、非常にお粗末にしているとあります。大聖人様は、御本尊を大事にされていますのに、五老僧とまで言われる方が、どうして御本尊をお粗末に扱ったのか、それが私には、どうしてもわからないのですが?” という質問であります。
 大聖人御在生の時、高弟六人を定めました。日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人(六老僧)です。五老僧とは、第二祖・日興上人以外の五人を言います。

 『富士一跡門徒存知の事』 には、本尊の事について次のようにあります。
 一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇(あが) め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間・盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍(よ) つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸(か) け奉り又は堂舎の廊(ほそどの) に之を捨て置く。(1605P)
 一、上の如く一同に此の本尊を忽緒(こっしょ) し奉るの間・或は曼荼羅なりと云つて死人を覆(おお) うて葬る輩も有り、或は又沽却(こきゃく) する族も有り、此くの如く軽賎(きょうせん) する間・多分は以て失せ畢(おわ) んぬ。(1606P)
  (忽緒……軽んずる ・ 沽却……売り払う)

 五老僧のこのような御本尊を拝する姿勢は、何たることでしょうか。惨憺(さんたん)たる状態です。
 戸田先生は、上記の質問に次のように答えられています。

 「第一に、五人は大聖人様のお傍での給仕が足りなかったのです。故に師弟としての深い境地の一致に欠けるところがあった。みんな大聖人様に心服して、南無妙法蓮華経を弘めにかかりましたが、いつもお傍で本当のことを聞く時間が足りなかった。これが一つ。
 それから、大聖人様の仏法の行き方を、お傍ですっかり見なかったからわからない。なぜならば、第一番に大聖人様が仰せになったのは、南無妙法蓮華経だけなんです。しかし、南無妙法蓮華経を言われるまえに、法華経、法華経とおっしゃっておられた。これも教相と観心の問題ですが、五人は教相の面において服していた。みんなそのころの学者の通例なのです。法華経ということは知っていたが、南無妙法蓮華経の真実はわかっていなかったのです。
 大聖人様は、まず南無妙法蓮華経ということを沁(し)みこませようとなされた。それから佐渡へおいでになってから、御本尊のご出現となる。そこで、佐渡以後の本尊建立ついては、五老僧はさっぱりわからないのですよ。
 ですから、御本尊とはどういうものか、どれほどのものかということは、常随給仕と申しましてね、ずっと傍について離れなかった、御開山日興上人しかわからなかったのです。御本尊に関しては、厳密にいうと、唯授一人と申しまして、ただ一人にしかわからぬことなのです」

 
 回答は明確であったが、問題は極めて微妙なところにさしかかった。…… そして、現代と鎌倉時代とを思いくらべながら話を続けていった。

 「あの当時は、今のように交通機関も発達していませんから、大聖人の指導というものも、伝えにくい時代であった。ともかく南無妙法蓮華経なんて聞いたこともない時代です。そういう時代の人びとですから、南無妙法蓮華経とわかっただけでも感心と思いますね。
 それで、ともかく五人は地方在住の棟梁でした。ところが、ただ南無妙法蓮華経だけ覚えて、御本尊を覚えないでしまった。それだから、日興上人はお叱りなったのです。『南無妙法蓮華経がわかったら、御本尊がわからない理由はないではないか』 と。
 あのころの宗教の風習として、人が死んだら、阿弥陀とか大日如来などを棺の中に入れてやるのです。それで、大聖人様の御本尊も平気で棺の中に入れちゃったのでしょう。まったく愚かな、困った弟子たちです。
 そこで日興上人から 『もったいない、御本尊を全部集めなさい』 という命令が出されて、御本尊を集めたのです。
 こんなわけで、五老僧というのは、題目論はわかったが、本尊論がわからなかったのです。ここに三重秘伝の奥義がある。いま、学会で日寛上人の 『三重秘伝抄』 をやかましく勉強させているのは、このためなのです。五老僧は日興上人に叱られたのであって、なにも反対していたのではない。『五人所破抄』 の御文は、そういうふうに読まなければならんのです。
 まァ、こういうわけです。どうです、納得しましたか。……」 
(文庫人間革命第7巻・117∼120P)

 五老僧は、お題目を唱えなければならないことは解かったが、大聖人御図顕の御本尊と爾前経の画像・彫像の仏像との判別・勝劣が解からなかったのである。すなわち、大聖人の下種仏法と釈迦・天台の熟・脱益仏法の違いが解からず、大聖人は末法に於いて、「釈迦の法華経」 を身読し、それを再び弘めておるのだという位の認識しかなかったのである。

 それらの故か、五老僧は大聖人御入滅後、すぐさま “われわれは天台沙門だ” と言い出したのである。
 この点に関しては、次の人の質問の回答で、天台沙門と名のった経緯が述べられています。ここのところで、大事なことも指導されていますので、ぜひ 「人間革命第7巻・原点の章」 の質問会の続きをお読みください。

 五老僧ともあろう高弟からして、日蓮大聖人の出世の本懐たる 「三大秘法の御本尊」 が解からなかったのである。それほど大聖人の仏法は、釈迦仏法の範囲・概念を超えた、画期的・革新的な法門で、凡人の想像を絶するものがあるのである。

 ただ一人、日興上人のみ、大聖人の正義を受け継ぎ、御本尊についても、「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(1606P) と決定なされております。 

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会い難き御本尊 (2)

 日蓮門下の高弟たる五老僧からして、御本尊のことが解からなかったと申し上げました。今回は在家の信徒について、その点を見てみたいと思います。

 御書を繙(ひもと)いて見ますと、富木常忍殿や四条金吾殿に与えられた御書に、釈迦の仏像を造立したという御書があります。入信以来、釈迦仏法は時に合わず謗法になると教えられてきましたから、何か腑(ふ)に落ちず違和感がありました。その仏像造立の御書を書き出してみます。
 
 真間釈迦仏御供養逐状(950P)    文永七年(1270年)九月  富木常忍  佐渡以前
 四条金吾釈迦仏供養事(1144P)   建治二年(1276年)七月  四条金吾  佐渡以後
 日眼女造立釈迦仏供養事(1187P)  弘安二年(1279年)二月  日眼女    〃
 四菩薩造立抄(987P)           弘安二年(1279年)五月  富木常忍   〃

 「佐前佐後」 という用語があります。佐渡流罪以前と佐渡流罪以後ということであります。
 『三沢抄』 に 「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(1489P) と仰せです。
 日蓮大聖人は、文永八年九月十二日、竜の口の法難で発迹顕本され、すなわち御本仏の生命を開顕なされました。それまでは、ただ題目の流布にとどまりましたが、佐渡以後は、御本仏として “御本尊の御図顕” とその流布につとめられました。

 したがって、富木殿・金吾殿は、誰よりもまっ先に御本尊を授与されていたと思います。ところが、佐渡以後においても、釈迦仏を造立したという報告があります。
 大聖人は、その造仏の報告を受けられて、「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや」(950P) ・ 「釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり」(1187P) 等々、いずれも造仏を讃嘆されています。

 大聖人が、造仏を讃歎された理由について、第二十六世日寛上人は次のように述べられています。
 一には、一機一縁の為の故なり、謂(いわ)く、此等の造立は皆一体仏なり。開山釈して云く 「一体の形像豈頭陀の応身に非ずや」 と云云。 一宗弘教の初めであり、取捨宜しきにしたがわれた。
 二には、弥陀造仏に対する故なり。謂く、日本国中一同に弥陀を以て本尊と為す。然るにその中に希(まれ)に釈尊を造立す、猶(なお)、曇華(どんげ)の如し、豈(あに)讃歎せざるべけんや。 架空の阿弥陀仏を廃し、此土有縁の教主釈尊を立てることを讃嘆されました。
 三には、内証の観見に約す。謂く、宗祖の観見に約すれば、並びにこれ己心の一念三千即自受用身の仏なるが故なり。(文段集・531P) 真の仏と映ぜられたからである。

 『四菩薩造立抄』 のほうは、造仏した報告ではなく、「本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、然れば聴聞の如くんば何の時かと云云」(987P) とありますように、久成の釈尊と四菩薩がいつ建立されるのかと、大聖人にご質問申し上げたことが伺われます。
 前々から “久成の教主釈尊を造り奉り、脇士には上行菩薩等の四菩薩を造立し奉る” と、再三お聞きしていたようです。
 御本尊を拝すれば、釈迦・多宝の二仏をはじめ、上行等の四菩薩が書き顕されております。この “造り奉り・造立し奉る” ということは、「十界の文字曼荼羅御本尊」 を書き顕すことを意味しております。
 
 富木殿は、曼荼羅の御本尊を拝しながら、“造り・造立” という言葉の故か、釈尊・その外の四菩薩の造立を、絵像・木像の仏像であると考えていたようです。
 富木殿に与えられた 『観心本尊抄』 に 「其の本尊の為体(ていたらく)本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居(こ)し …… 末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」(247P) と仰せられていますように、御本尊の相貌(そうみょう)をお説きになっています。富木殿はそれが末法の本尊たる 三大秘法の 「本門の本尊」 であることが理解できなかったようであります。

 また、『諸法実相抄』 に 「日蓮・末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗(ほぼ)ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給う多宝仏・涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先(まず)作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり、日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん」(1359P) と仰せです。

 日蓮大聖人は、「上行菩薩の弘め給うべき所の妙法」 と仰せのように、外用の辺は 「上行菩薩の再誕日蓮」 であり、内証の辺は 「久遠元初の自受用報身如来・即ち末法の御本仏」 であらせられます。
 この肝心のところが解からなかった富木殿は、日蓮大お聖人を目の前にして、“上行菩薩(四菩薩)は何時出現するのでしょうか” と、お聞きしてしまったと思います。ましてや、末法の御本仏であらせられることなど、夢にも思われなかったことでしょう。

 これも止むを得ないことであると思います。今まで、本果妙の釈迦仏法しか知らない者に、急に本因妙の日蓮仏法を信受しなさいと言っても、それは無理な話です。
 佐渡期の 『生死一大事血脈抄』 に、「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解(さと)りて ……」(1337P) との御金言があります。
 この御金言は、末法の御本仏・日蓮大聖人のことを 「久遠実成の釈尊」、南無妙法蓮華経の御本尊のことを 「皆成仏道の法華経」 と称して説かれています。この御書を正しく信解できたのは、当時・何人いたでしょうか。皆無に等しかったのではないでしょうか。
 当時の世の中は、信教の自由や人権思想など全く無い、封建時代であります。また、通信・交通機関も発達してなく、大聖人の御指導も伝え難く、広宣流布の困難な時代でありました。

 そのほかに、新しい概念を説明するのに、既成の概念・言葉を使って説明するしか、方法はないわけです。
 たとえば、末法の 「仏」 の概念を説明するのに、大聖人は“教主釈尊” や “釈迦如来” という言葉を多用されています。当時の聴聞していた信徒たちは、それが大聖人様のことだとは、夢にも思わなかったのである。
 『総勘文抄』 に 「語(ことば)も只同じ語なり文字も異ること無し斯(こ)れに由つて語に迷いて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云う」(560P) との重要な戒めの言葉があります。諸宗の元祖たちの陥った誤りが、ここに指摘されています。
 この権実の差別を分別するには、「法華経の心」 を会得した “正しい師” に随って教えを受けなければなりません。それは己心の智慧のみでは、法華経の極理は解からないからであります。

 日蓮大聖人が、末法の “御本仏” であり、法華経の説く “凡夫が仏” であるという仏法哲理や 「十界の文字曼荼羅御本尊」 を、一般大衆が信受できるまでには、立宗(建長5年・1253年)から、じつに 約七百年の時の経過が必要であったのである。
 この妙法広宣流布の大事業は、歴代会長のご指導のもと、創価学会の出現によって、初めて実現されたのである。

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会い難き御本尊 (3)

 日蓮大聖人の五老僧という高弟からして、大聖人の下種仏法がなかなか信解することが出来なかったと述べました。
 もともと、仏法に会い、仏様に会うことは、非常に難しいことなのであります。その会い難きことを、法華経の説法に見てみたいと思います。

 『法華経方便品第二』 に 「諸仏世に興出したもうこと 懸遠(けんのん)にして値遇(じぐ)すること難し 正使(たとい)世に出でたもうとも 是の法を説きたもうこと復難し 無量無数劫にも 是の法を聞くこと亦難し 能(よ)く是の法を聴く者 斯(こ)の人亦復難し 譬えば優曇華(うどんげ)の 一切皆愛楽(あいぎょう)し 天人の希有(けう)にする所として 時時に乃(いま)し一たび出ずるが如し 法を聞いて歓喜し讃(ほ)めて 乃至(ないし)一言をも発せば 則(すなわ)ち為(こ)れ已に 一切三世の仏を供養するなり」
 『安楽行品第十四』 に 「是の法華経は 無量の国の中に於いて 乃至名字をも聞くことを得べからず 何に況や見ることを得 受持し 読誦せんをや」 とあります。

 方便品には、そもそも、仏がこの世に出現することからして難しいのであると。だからその時に生まれ合わせて、仏に会えることは非常に困難である。たとい世に出現されたとしても、法華経を説くことは極まれなのである。(説法)
 たまたま、法華経を説法したとしても、それを聞くことすら困難なのである。(聞法)
 さらに、この法門を聞いても、能く聴く即ち、信受することは、ますます難しいことなのである。(信受)
 安楽行品には、名字(名前)すら聞くことが出来ないと、すなわち、法華経の “説法・聞法・信受” の困難さと、それ故に、どれほど偉大な福運があるのか、想像すらできないのであると説かれている。

 『法華経題目抄』 に 「さればこの経に値いたてまつる事をば三千年に一度華(はな)さく優曇華・無量無辺劫に一度値うなる一眼の亀にもたとへたり、大地の上に針を立てて大梵天王宮より芥子(けし)をなぐるに針のさきに芥子の・つらぬかれたるよりも法華経の題目に値う事はかたし、此の須弥山に針を立ててかの須弥山より大風のつよく吹く日・いとをわたさんにいたりてはりの穴にいとのさきの・いりたらんよりも法華経の題目に値い奉る事かたし」(941P) と仰せです。

 大聖人様も、“優曇華・一眼の亀・針と糸” の譬えをもって、いかに法華経の題目の会い難きことか、どれほどの大功徳なるかを御指導なされています。 (“一眼の亀” の譬えは、『松野殿後家尼御前御返事』(1391P)に詳しく述べられています)

 日蓮大聖人は、末法の広宣流布の時に、巡りあうことの喜びを述べられています。
 『顕仏未来記』 に、法華経の第七に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云、予一たびは歎(なげ)いて云く仏滅後既に二千二百二十余年を隔(へだ)つ何なる罪業に依って仏の在世に生れず正法の四依・像法の中の天台・伝教等にも値わざるやと、亦一たびは喜んで云く何なる幸あって後五百歳に生れて此の真文を拝見することぞや、(505P) と仰せです。

 大聖人は、仏の在世に生れなくて釈尊にお会いすることが出来なかったことを、一たびは歎かれています。また一たびは、末法に生まれ合わせて 「後五百歳・広宣流布」 の真文を拝見できることを喜ばれています。

 私も初信の頃、“鎌倉時代に生れて大聖人様にお会いしたかったなぁ” と思ったことがあります。でもしかし、鎌倉時代に日蓮門下となることは、実に命がけのことなのでありました。
 実際に “小松原の法難” では、工藤吉隆・鏡忍房が大聖人をお守りして討死しました。“竜の口の法難” では、四条金吾は殉死の覚悟でお供しました。“熱原の法難” では、農民信徒の神四郎・弥五郎・弥六郎が、退転を拒否し、妙法に殉じました。「其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう(過料)等かずをしらず」(1189P) と述べられ、また 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(1282P) と指導されています。
 
 このような厳しい時代状況の中での信仰に、正直いって、自分は耐えられるだろうかと危ぶまれます。今日の信教の自由が保障された時代とは、天地雲泥の差です。
 富木殿をはじめ当時の弟子たちは、日蓮大聖人の大慈悲あふれる仏のご境涯に触れて、みな命を惜しまぬ修行をいたしました。その功徳による即身成仏は、絶対に間違いないのであります。

 しかし、鎌倉時代は広宣流布の上から言えば、“逆縁広布” の時代です。大聖人から 「広宣流布の大願も叶うべき者か」(1337P)、「大地を的とするなるべし」(1360P) と、お聞きしていても、広宣流布への実感は湧いてこなかったと思います。
 それに比して、現在は創価学会三代会長の死身弘法の戦いによって、“順縁広布” の時代は切り拓かれ、広宣流布が世界192カ国まで進展いたしました。

 大聖人は 「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(1337P) と仰せです。“すべての人を成仏させよう” との “仏の心” とは、“広宣流布の大願” そのものであります。
 この “広宣流布の大願” を教えて下さったのが、創価学会であり、御歴代の会長・なかんずく池田先生であります。そして、広宣流布の大願、異体同心の信心・組織、師弟不二の実践のあるところ、成仏の血脈が流れることを教えて下さいました。

 今や我々は、創価学会のお蔭で 「会い難き仏法」 に会えて、「会い難き御本尊」 を信受することが出来ました。そしてまた、「何なる幸あって 『後五百歳中 広宣流布 於閻浮提(後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して)』(薬王品) の此の真文を拝見することぞや」 の御金言を、この身で読めることに感謝いたします。
 この報恩感謝のためには、来たる都議選・参院選には全員当選を勝ち取り、池田先生に “創価完勝” のご報告を申し上げますことをもって、創価学会総本部完成を慶祝いたします。
  
 『寂日房御書』 に 「夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり」(902P) と、末法に生を受け、「会い難き御本尊」 にお会いすることができた身の福運を感謝し、「世界広宣流布」 の戦いに、池田先生のご指導のもと、「青年学会 勝利の年」 を勝利して参ります。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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