四度の大難(松葉ヶ谷の法難)

 前のブログで、戸田先生の獄中の受難について、概略、述べてみました。そこで感じたことは、看守が、ごく些細なことで権力を傘にきて、自分の感情のまま、囚人たちを殴打していることである。
 戸田先生は、初めは訳もわからず、ただ驚くばかりであった。しかしそうした中で、法華経を読み、題目をあげ抜いていったとき、これは自分の罪業を消すために撲ってくれているのだ、ということが解かりました。
 三回目の難の後、… 「今日で三度目…」 (そうだ! もう一度、撲られるぞ! 四度目に撲られたら、それは帰れる時だ!) と思いました。
 その通りになった四度目の時、先生は心の内で、(罪が終わった! 四回目がきて、罪が終わった!) と喜び、叫びました。  (戸田先生の 『人間革命』 より)

 「四度の難」 ということで思い出すことは、日蓮大聖人が、『開目抄』 において、
 「既に二十余年が間・この法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(200P) と仰せられていることです。
 「大事の難・四度なり」 とは、すなわち、
 一度は、文応元年八月二十七日、御年三十九歳のとき、鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがやつ)の御法難。
 二度は、弘長元年五月十二日、御年四十歳のとき、伊豆伊東の御流罪。
 三度は、文永元年十一月十一日、御年四十三歳のとき、安房小松原の御法難。
 四度は、文永八年九月十二日、御年五十歳のとき、竜の口の頸の座、それにつづく、佐渡の御流罪。

 以上の四つであります。大聖人様の御法難と比べることは、恐れ多いことですが、四度という回数の一致は、何か、不思議な関係性、相似性があるように思われます。

 大事の難の一度目は 「松葉ヶ谷の法難」 です。
 文応元年(1260年)八月二十七日、鎌倉の松葉ヶ谷の草庵で、大聖人が念仏者達に襲われた法難である。
 松葉ヶ谷とは、大聖人が鎌倉において折伏の拠点として草庵を結ばれていた所の地名である。

 『下山御消息』 に、「先ず大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻注したりしを故最明寺の入道殿に奉る御尋ねもなく御用いもなかりしかば国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科(とが)あらじとやおもひけん念仏者並に檀那等又さるべき人人も同意したるとぞ聞へし夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかんがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ」(355P) と仰せです。

 その頃、正嘉の大地震や飢餓・疫病が蔓延し、庶民は塗炭の苦しみに喘(あえ)いでいた。日蓮大聖人は、その真因が真言・念仏・禅・律宗などの僧が、法華経を誹謗する故であると喝破なされました。
 文応元年七月十六日、宿屋左衛門尉を仲介として、北条時頼に一刻も早く念仏などの誤った宗教を捨てて、正法に帰依するように諫めた、国主諫暁の書 『立正安国論』 を提出した。
 しかし、このことについて、幕府の権力者は用いない許りか、怒りを成し、また念仏者をはじめ諸宗の僧達も大聖人に恨みを懐き、翌月二十七日、北条重時ら念仏を信仰していた権力者を後ろ盾とした念仏者達が、深夜に松葉ヶ谷の草庵を襲撃した事件である。
 大聖人はこの難を辛うじて逃れ、一時、鎌倉を出て下総国の富木常忍のもとに身を寄せられた。以後、幕府側は大聖人に対して、さまざまな迫害を加えっていくのである。

 引きつづき、「然れども心を合せたる事なれば寄せたる者も科なくて大事の政道を破る」(355P) と仰せです。
 北条時頼が、大聖人の大慈悲の諫言を用いないと知ると、念仏者達は時の執権北条長時の父・極楽寺重時を後ろ盾として、多くの民衆を扇動して、大聖人を殺害せんと企てたのである。しかし、このような不法な暴力行為を行った側には、その後、何の咎(とが)めもなかった。
 このことについて、「されば人のあまりににくきには我がほろぶべきとがをもかへりみざるか御式目をも破らるるか」(355P) と仰せです。

 “御式目” とは、幕府が法制化した武家法典の 「御成敗式目」(貞永式目) のことである。
 幕府側は、自らが制定した法律を、自らが破るという、誤りを犯しているのである。道理をもって世を治めようとした貞永式目の精神は踏みにじられたのである。 これによって、大事の政道は曲げられ、「国は安穏なるべからず」(356P) と成るのである。

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四度の大難(伊豆伊東の流罪)

 大事の難の二度目は、「伊豆伊東の流罪」 です。
 日蓮大聖人は、前の松葉が谷の法難を避けられて、一時、下総国(千葉県)の富木常忍のもとに身を寄せられ、下総方面の折伏を進められた。翌弘長元年の春、再び鎌倉の地に戻られました。
 これを知った念仏者らの訴えによって、時の執権・北条長時は権力を使って、大聖人を理不尽にも伊豆に流罪したのである。時に弘長元年(1261年)5月12日、大聖人御年四十歳の時である。
 伊豆伊東の流罪については、『船守弥三郎許御書』 を拝したいと思います。
 
 「日蓮去る五月十二日流罪の時その津につ(着)きて候しに・いまだ名をもき(聞)きをよびまいらせず候ところに・船よりあ(上)がりく(苦)るしみ候いきところに・ねんご(懇)ろにあたらせ給い候し事は・いかなる宿習なるらん、過去に法華経の行者にて・わたらせ給へるが今末法にふなもり(船守)の弥三郎と生れかわりて日蓮をあわ(愍)れみ給うか、たとひ男は・さもあるべきに女房の身として食をあたへ洗足てうづ(手水)其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし、ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや、かかる地頭・万民・日蓮をにく(憎)みねだ(嫉)む事・鎌倉よりもす(過)ぎたり、み(見)るものは目をひき・き(聞)く人はあだ(怨)む、ことに五月のころ(頃)なれば米もとぼ(乏)しかるらんに日蓮を内内にて・はぐく(育)み給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわな(川奈)と云うところに生れかわり給うか、法華経第四に云く 「及清信士女供養於法師(ぎゅうしょうしんじにょ くようおほうし)」 と云云、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとこ(男)となり或は女となり形をかへさまざま(様様)に供養してたす(助)くべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女(しじょ)と生れて日蓮法師を供養する事疑なし」(1445P) と仰せです。

 流罪の理由については、「日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」(355P)・「上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし 故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」(1413P) などである。
 要するに、“理不尽に” とあるように、評定(裁判)にもかけず、私怨を抱いて流罪に処するとは、「大事の政道を破る」(355P) ことになるのである。

 大聖人は、小舟で相模灘を護送され、伊豆の川奈の津に降ろされ、疲労の極に達せられて一人で苦しんでおられた。
 そこに通りかかったのが、漁師の船守弥三郎であった。弥三郎は、大聖人を我が身の危険を顧みず、妻とともに30日間かくまい外護し続けたのである。
 「日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもすぎたり、みるものは目をひき・きく人はあだむ」 というように、住民が憎悪するなかを弥三郎夫妻は、大聖人を護り、遂には自ら法華経を信ずるようになったのである。

 日蓮大聖人は本書で、この夫妻の清信の外護を賞賛されている。
 まずは、船守弥三郎に対して 「いかなる宿習なるらん」 と、前世からの何らかの深い因縁があるに違いないと述べられている。
 次に、弥三郎の妻も、献身的な世話をしてくれたことについて 「食をあたへ洗足てうづ其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし」 と述べられ “不思議” としか言いようがないと、女性の力を絶賛されている。
 そして、弥三郎夫妻そろって 「ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや」 と述べられ、法華経への信仰を讃嘆されている。
 そのうえ、「ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・はぐくみ給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生れかわり給うか」 と、大聖人の父母が弥三郎夫妻と生まれかわったのであろうか、と言われている。

 更に、『法華経法師品第十』 の 「及清信士女供養於法師」 の文から、「法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし」 と、仏の遣いとしての清信士女であると断言されている。これは、法華経との因縁という面を言われたと考えられる。
 更に、本書の最後には 「しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」(1446P) と述べられ、教主釈尊の生まれ変わりであろうか、とまで絶賛されている。
 このような船守弥三郎夫妻への讃嘆の言葉を拝するとき、伊豆流罪における弥三郎夫妻の役割が、いかに大きかったかを知ることができる。

 後に、地頭の伊東八郎左衛門尉が重病に陥り、大聖人に病気平癒の祈願を依頼しました。その際に、大聖人は伊東に移られ、地頭の屋敷の近くで過ごされました。
 このとき大聖人は、その依頼に応ずべきかどうかを思案されたのである。と言うのは、地頭の伊東八郎左衛門尉は念仏の信者であって、法華経の信者でなかったからである。正しい仏法の祈願とは、あくまでも願主の信心が大切となる。願主に妙法への信がないのに師が祈っても、それは無益なのである。
 そこで、「然れども一分信仰の心を日蓮に出し給へば法華経へそせう(訴訟)とこそをも(思)ひ候へ」(1445P) とある通り、地頭が大聖人と法華経への信心を起こして始めたので、病気平癒の祈願を行ってあげました。
 この祈願の結果、「ついに病悩な(癒)をり・海中いろ(鱗)くづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事・此れ病悩のゆへなり、さだめて十羅刹女のせめなり、此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし」(1446P) と仰せです。

 病苦から救われた地頭は、大聖人に深く帰依したのはもとより、お礼のしるしに、漁師が海中より引き揚げたという立像の釈迦仏を大聖人に奉納した。
 この海中出現の釈迦仏を、大聖人は終生、身から離さず所持されたと伝えられている。
 末法においては、インドの釈尊の教えは無益であり、釈迦仏を本尊とすることはない。にもかかわらず、なぜ大聖人御自身、釈迦仏の像を所持されたのであろうか。
 その意義については、日寛上人が、『末法相応抄下』 で、三つの意義を示されている。

 「一には猶是れ一宗弘通の初めなり是の故に用捨時宜に随うか、二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適(たまたま)釈尊を造立す豈(あに)称歎せざらんや、三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり」(六巻抄・172P) と述べられている。

 一つには、立宗弘通の初めであることから、まず釈迦仏を借りて一機一縁・その用捨は時の宜しきに随われた。
 二つには、当時の日本国中、みな阿弥陀仏など爾前経の諸仏を本尊としていたので、まずそれを廃し、法華経の釈迦仏を造立したことは称歎された。
 三つには、大聖人の仏の境界の眼には、立像の釈迦仏がそのまま、久遠元初の本仏と映られたということである。
 このような深い理由があって、大聖人は釈迦一体像を所持されたのであり、決して他門流の言うように、釈迦像を本尊として崇めてよいと言うことではないのである。
 その後、弘長3年(1263年)2月22日、流罪を赦免され、鎌倉へ戻られました。

 「伊豆伊東の流罪」 は、後の 「佐渡流罪」 と合わせて、『勧持品第十三』 の 「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」(数数(しばしば)擯出せられん) とありますように、日蓮大聖人はこの経文通りに、二度までも王難の流罪の大難に遭われた。
 経文を身読することは、法華経の行者の証明、即ち、日蓮大聖人は 「末法の御本仏」 であります。

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四度の大難(小松原の法難)

 大事の難の三度目は、「小松原の法難」 です。
 文永元年(1264年)11月11日、日蓮大聖人が安房国東条郷松原大路(千葉県鴨川市広場付近)で、地頭の東条景信の率いる念仏者らから襲撃を受けた法難で、「東条の難」 ともいう。

 伊豆流罪から戻られて間もない文永元年の秋、大聖人は、病気中の御生母を見舞うため、また、故御父の墓参のため、十一年振りに故郷の安房に帰られました。御生母は重体であったようだが、「されば日蓮悲母(はは)をいのりて候しかば現身に病をいや(治)すのみならず四箇年の寿命をのべたり」(985P) と仰せられております。

 清澄寺での立宗宣言の時、念仏を破折した大聖人に対して、念仏強信の地頭・東条景信はそれを聞きつけて、その日のうちに迫害を加え、清澄寺から追放させた。このとき、兄弟子の浄顕房と義浄房の手解きによって、辛うじて難を逃れることが出来ました。

 また、景信は、清澄・二間の両寺の支配権をめぐって、大聖人が若き日に両親ともどもに、お世話になった恩人である領家の尼と争って、訴訟をたびたび起こしていた。
 その訴訟に、大聖人は、領家の尼への恩返しのためにも関わられた。そして、一年も経たないうちに、領家の尼の勝利で決着した。
 自分から仕掛けた訴訟で敗訴した景信は、どれほど怒り、悔しがったことか、景信はこれを逆恨みしていたのである。
 かかる状況のなか、父の墓参と母の見舞いに帰省された大聖人を、景信らは大勢で襲撃したのである。
 この法難について大聖人は、約1ヶ月後の 『南条兵衛七郎殿御書』 において、次のように仰せられています。

 「今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉(さるとり)の時・数百人の念仏等にま(待)ちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・もの(物)の要にあふ(合)ものは・わづ(僅)かに三四人なり、い(射)るや(矢)はふ(降)るあめ(雨)のごとし・う(討)つたち(太刀)はいなづま(雷)のごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のて(手)にて候、自身もき(斬)られ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・う(打)ちもらされて・いま(今)までい(生)きてはべり、いよいよ法華経こそ信心まさり候へ」(1498P)

 その日、大聖人は、西条花房から、天津の工藤吉隆邸へ向かわれます。その途中、東条の松原という大路で、申酉(さるとり)の時といいますと、現在の暦では、十二月八日の夕方五時ごろに当たります。もう辺りはすっかり暗くなっていたと思われます。
 大聖人の御一行は十人ばかりで、大勢の暴徒は数百人と認識されています。応戦できるのは、わずか三、四人。弟子の鏡忍房はその場で討ち死にした。急を聞いて駆けつけた工藤吉隆は、重傷を負い、程なくして亡くなったと伝えられています。
 大聖人は、「頭にきずをかほり左の手を打ちをらる」(1189P) とありますように、刀の切っ先があと数ミリ長かったら、お命に及ぶような、まさに危機一髪、九死に一生を得られたのである。

 日蓮大聖人は、「而(しか)も此の経は如来の現在すら猶(なお)怨嫉(おんしつ)多し況や滅度の後をや」・「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」 等の経文をひかれて、
 「法華経の故にあやまたるる人は一人もなし、されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあ(値)わせ給はず唯日蓮一人こそよみはべれ・我不愛身命但惜無上道(がふあいしんみょう たんじゃくむじょうどう)是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(1498P) と仰せられ、「法華経の行者」 としての御自覚を披歴されています。

 在世、釈尊は法華経のゆえに、「九横の大難」を受けられました。その中に 「調逹が山を推(お)す」(966P) と言って、提婆達多が釈尊を怨んで殺そうとし、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)から釈尊目がけて大石を落とした。小片が散って釈尊の足の親指を破って血を出したという難がある。
 釈迦滅後、正像時代では、天台・伝教といえども、ただ悪口罵詈ばかりである。勧持品第十三の 「及加刀杖者(及び刀杖を加うる者有らん)」 の 「刀杖」 の難を身で読まれたのは、日蓮大聖人が最初であります。
 
 池田先生は、「小松原の法難」 をのり越えられたことについて、次のように述べられています。
 いずれにせよ、「日本第一の法華経の行者」 との大聖人の御確信が、諸天を動かし、危難を脱されたのでしょう。「心の固きに仮(よ)りて神の守り則(すなわ)ち強し」(1220P) の仰せの通りです。  (御書の世界2巻・69P)

 法難の三日後、旧師の道善房が見舞いに訪れます。道善房は自身の来世を気にかけ、“念仏を信仰して五体の阿弥陀仏を作った。自分は無間地獄に堕ちるのか” と大聖人に質問しています。
 大聖人は、昔を懐かしみ、いたわり、おだやかに申すことが礼儀とは思ったけれど、「生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、…… 哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(889P) と、いま言っておかなければと、強強に訓戒なされました。
 道善房は一時、法華経の信仰に目覚めましたが、大聖人の佐渡流罪の時、心臆して、領家の尼等とともに退転してしまったようです。

 『報恩抄』 に、「其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便(ふびん)なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさど(佐渡)の国までゆきしに一度もとぶ(訪)らはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし」(323P) と仰せです。
 信じていると言っても、態度・行動の上に現れなければ、それは空ごとになるのである。「行体即信心」 と言われる所以である。

 池田先生は、「故郷に長年巣くってきた念仏信仰を打ち払い、題目の声が響く故郷を築こうとの思いが込められた御書です。念仏勢力に打ち勝った勝利宣言の御書といえるのではないでしょうか。
 すべては、万人成仏の道、幸福の道を開くためです。その大慈悲と勇猛果敢な行動に感謝し、私たちも広宣流布の闘争で勝ち続けていきたい」
 と指導されています。   (御書の世界2巻・71P)

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四度の大難(竜の口の法難)

 大難の四度目は、「竜の口の法難と佐渡流罪」 であります。
 佐渡流罪は、竜の口の法難に引き続いて起こりましたので、この場合は、一つの難として数えます。
 
 文永八年(1271年)九月十二日、日蓮大聖人が竜の口(鎌倉幕府の刑場)で、斬首刑に処せられようとした法難のことである。この法難については、文永五年から建治二年まで九か年間の御自らの御振る舞いを 『種種御振舞御書』(909P) に詳しく述べられています。
 特に、この九か年間は、大聖人御一生のなかで、大聖人の法華経の 「身業読誦」 と 「発迹顕本」 の御姿を通し、御本仏としての御振る舞いを示されました。

 身業読誦(しんごうどくじゅ)とは、「身・口・意」 の三業のうち、身をもって経文を読むことをいう。その代表的な経文が、法華経勧持品第十三の 「二十行の偈(三類の強敵)」 の文である。
 『勧持品』 に、「諸の無智の人の悪口罵詈(あっくめり)等し及び刀杖を加うる者有らん」(224P) とあります。
 日蓮大聖人においては、“刀の難” は 「小松原の法難」 と 「竜の口の頸の座」 の二度も遭われており、少輔房(しょうぼう)に法華経第五の巻で顔を打たれたことが代表的な “杖の難” に当たります。

 当時の社会情勢は、文永五年(1268年)正月十八日、大蒙古国より従わなければ兵を用いるという牒状が到来した。これは、文応元年の 『立正安国論』 で予言した 「他国侵逼(しんぴつ)の難」 の適中である。
 幕府は、大聖人の諫言を用いようともせず、なす術も知らず、ただ諸宗に命じて敵国調伏の祈祷をなすばかりの無策ぶりであった。

 大聖人は十月十一日、幕府の権力者並びに諸大寺に十一通の書状を送って、国を救うため正邪を決せんとして、公場対決を要請した。
 これに対して、表面上は何の反応も示さなかったが、裏では極楽寺良観をはじめ七大寺の僧らは、周章狼狽し、権力者や上臈(じょうろう)・尼御前たちに対して、大聖人を不当な讒言(ざんげん)をもって訴えた。
 幕府は蒙古対策に苦慮しており、内部を固めるために、いわゆる悪党鎮圧に乗り出していた。
 大聖人に対しては、安国論の国家諫暁以来、幕府に楯突き、世間を乱す不逞の僧侶という認識であり、折あらば、逮捕し無きものにしょうと企てていたのである。

 かくして、文永八年九月十二日午後四時ごろ、松葉ヶ谷の草庵に平左衛門尉が直接、数百人の兵士を率いて逮捕しに来たのである。その様相は、たった一人の身に寸鉄も帯びてない僧侶を捕えるのに、あたかも謀叛人の徒党に向かうような、法に過ぎたものであった。

 「さて平左衛門尉が一の郎従・少輔房と申す者はしりよりて日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出しておもて(面)を三度さいな(呵責)みて・さんざんとうちちらす、又九巻の法華経を兵者(つわもの)ども打ちちらして・あるいは足にふみ・あるいは身にまとひ・あるいはいたじき(板敷)・たたみ(畳)等・家の二三間にちらさぬ所もなし、日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら(殿原)但今日本国の柱をたをすと・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をく(臆)して見ゆべかりしに・さはなくして・これはひが(僻)ことなりとや・をもひけん、兵者どものいろ(色)こそ・へんじて見へしか」(912P)

 大聖人は、第五の巻で顔を打たれ、他の経巻類も家中、打ち散らして、あるいは足で踏み、身にまとったりして、散々狼藉(ろうぜき)を働いた。
 当時は今よりも、文字を書いている文物は大事にされていた。特に、仏教の経文・経巻は、崇拝の対象にもされていたほどの貴重なものである。それを足蹴にするとは、“平左衛門尉が・ものにくるうを見よ” と一喝されたように、正気の沙汰ではないのである。
 そして、お前たちの行業は、“但今日本国の柱をたをすと” の大聖人の確信ある大音声に触れた、兵者たちは “これはひが(僻)ことなりとや・をもひけん、兵者どものいろ(色)こそ・へんじて見へしか” と、自分たちは間違ったことをして地獄へ堕ちるのではないかと思い、顔色が蒼白になったのである。

 そして一瞬、静まったところで、ゆうゆうと平左衛門尉に向かって強く諫めたのである。
 『撰時抄』 に、「日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦(はしら)を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやき(焼)はらいて彼等が頚をゆひ(由比)のはま((浜)にて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(278P) と仰せです。
 これが、二度目の 「国家諫暁」 のときであります。

 法華経・第五の巻について、『上野殿御返事』 には、
 「杖の難にはすでにせうばう(少輔房)につら(面)をうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり、されば・せうばうに日蓮数十人の中にしてう(打)たれし時の心中には・法華経の故とはをもへども・いまだ凡夫なればうたて(無情)かりける間・つえ(杖)をも・うば(奪)ひ・ちから(力)あるならば・ふみをり(踏折)すつべきことぞかし、然れども・つえ(杖)は法華経の五の巻にてまします」(1557P)

 第五の巻には、勧持品第十三が含まれている。勧持品には如来の滅後末法において、法華経を弘通するとき 「諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん …… 悪口し顰蹙(ひんじゅく)し数数(しばしば)擯出(ひんずい)せられん」(224P) と、二十行の偈文をもって 「三類の強敵」 が出現することを予言している。
 ゆえに、“うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり” と、不思議なる符合であり、非常に感慨深いことであると仰せです。
 したがって、日蓮大聖人にとって 「刀杖の難・流罪の難」 ともに、勧持品の予言を 「身・口・意」 の三業で読まれたということは、末法の 「法華経の行者」 すなわち、「御本仏」 であることの証明である。

 『御義口伝』 に、「勧とは化他・持とは自行なり南無妙法蓮華経は自行化他に亘(わた)るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり」(747P) と仰せです。
 
 この勧持品の精神は、勧とは折伏(化他)、持とは唱題(自行)である。全世界の人々に一日でも早く、“南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり” と、世界広宣流布の実践に尽きるである。 
 『富木入道殿御返事』 に云く、「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(955P) と。

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四度の大難(頸の座)

 日蓮大聖人は、松葉ヶ谷の草庵にて逮捕され、その後、「日中に鎌倉の小路をわたす事・朝敵のごとし」(1525P) とありますように、謀叛人に対するのと同じような処遇で連行されました。
 そして、何の裁判もなく、いきなり佐渡流罪の処分が決められていた。しかし、「外には遠流と聞えしかども内には頚を切ると定めぬ」(356P) とありますように、内内では大聖人を斬首する意向であった。

 子の刻(午前零時頃)、秘密裡に大聖人は、馬に乗せられ武装した兵士に囲まれて、竜の口の刑場に連行されます。
 その途中、若宮小路に差し掛かった折、「日蓮云く各各さわ(騒)がせ給うなべち(別)の事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまこと(実)の神か」(912P) と、“法華経の行者・日蓮が、このような大難に遭っているのに、八幡大菩薩の守護がないのは如何なる訳か。釈尊との誓いを踏みにじるのか” と、烈々と叱咤したのである。

 鶴岡八幡宮といえば、源頼朝公以来の鎌倉幕府の守護神である。その八幡大菩薩を叱り飛ばしたのである。聞いていた兵士たちは驚愕(きょうがく)した。
 しかも、平左衛門尉さえ止めさせることも出来ないほど、堂々とした威厳のある振る舞いである。
 昨夕来の平左衛門尉の “ものにくるう” 態度と眼の前の大聖人との対比は、どちらが正か邪か、兵士たちに動執生疑(執着の心を動かせて疑いを生じさせる)のに十分であった。兵士たちは、何かを思い悩むようになった。
 それは当時、一般的に “僧侶を殺せば無間地獄に堕ちる。後々七代までも祟(たた)る” 等々、後生のことが、真に信じられていたのである。
 ここに至って、竜の口への一行の様相は、大聖人は、馬上で堂々として主導権を握り、警護の兵士は、“屠所の羊” のような姿ではなかったかと思われる。まさに主客転倒である。

 やがて、由比ヶ浜に出ます。そして、「しばし・とのばら・これにつ(告)ぐべき人ありとて、中務三郎左衛門尉と申す者のもとへ熊王と申す童子を・つかわしたりしかば・いそぎいでぬ、」(913P) とありますように、これから起こるであろう宗教的現象の現認者として、信心堅固な四条金吾を呼び出します。
 急を聞き兄弟と共に、徒(かち)はだしで駆け付けて来た金吾は、馬の轡(くつわ)に取り付いて、殉死の覚悟でお供しました。

 いよいよ刑場に着いた時、金吾は感極まって、
 「左衛門尉申すやう只今なりとな(泣)く、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそく(約束)をば・たがへらるるぞと申せし時、江のしま(島)のかたより月のごとく・ひかりたる物まり(鞠)のやうにて辰巳(たつみ)のかたより戌亥(いぬい)のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ(昧爽)人の面(おもて)も・みへざりしが物のひかり月よ(夜)のやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥(ふ)し兵共(つわものども)おぢ怖れ・けうさ(興醒)めて一町計りはせのき」(913P) とありますように、“月のごとく・ひかりたる物まり(鞠)のやうにて辰巳(東南)のかたより戌亥(西北)のかたへ・ひかりわたる” という不思議な現象が起き、幕府権力をもってしても、大聖人のお命を奪うことは出来なかった。

 この 「光り物」 については、2013年2月15日、ロシアでの隕石落下が、一応、参考の一つになるのではないかと思います。
 ロシアの場合は、地上まで落下しましたが、竜の口の場合は、一瞬、人々の顔もハッキリ見えほど強く光り、あとは大気圏内で消滅したか、海へ落下したかのどちらかであろうと思います。
 何れにせよ、大聖人の頸が斬られようとした 「その瞬間」 に、現れたという事実こそが大事なことであります。
 大聖人は、「三光天子の中に月天子は光物(ひかりもの)とあらはれ竜口の頚(くび)をたすけ」(1114P) と、諸天善神の月天子が 「光り物」 として現れたと仰せになられています。
 「竜の口の法難」 について、池田先生は次のように指導されています。
 
 名誉会長  「これほどの悦びをば・わらへかし」 です。
 こうした大境涯が、どうして形成されるのか。人間は、かくも偉大になれるのか。
 不思議といえば、これ以上の不思議はありません。私は、これが誓願の力だと確信する。深き誓いと正しい理想に生きた時、人間の心は無限大に広がります。
 仏法で説く 「久遠の誓い」 とは、無明を破り、法性のままに生きる心を確立していくことです。具体的には、自他共の幸福を願う心であり、広宣流布の大願です。
 この本願の誓いに目覚めた人間の心を阻むものは、何もありません。身は斬られても、心を切り裂くことはだれもできない。これが、慈悲に生き切る人間の力です。ただ一人、地獄のような境遇にさらされても、何も怖いものがない。反対に、このように恐れるものが何もない人間に対しては、周りが、本当の意味で怖さを感じます。
 日蓮大聖人の大難また大難の御一生は、人間の研ぎ澄まされた魂の力が不滅であることを証明した御生涯であられた、と言えるでしょう。
 “人間は、かくも偉大なり” ということを全生命を通して宣言されている。
   (御書の世界2巻・101P)

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四度の大難(発迹顕本)

 「竜の口の法難」 において斬首されようとした事件は、仏法上から見ますと、甚深の意義があります。それは、「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)」(迹を発(ひら)いて、本を顕す) ということで、仏が垂迹(仮の姿)を開いて、本地(本来の境地)を顕わすことであります。

 釈迦仏法では、法華経如来寿量品第十六で、釈尊は十九歳で出家し、三十歳で成道したというのは、衆生を教化するために迹を垂れたものであり(始成正覚)、その本地は五百塵点劫以来、三世常住の仏(久遠実成)であると明かしたことをいう。
 末法における発迹顕本は、日蓮大聖人が竜の口の法難によって、凡身の迹を開かれて、“久遠元初の自受用報身如来” という本地を顕されたことをいう。

 『開目抄』 に、「日蓮といゐし者は去年(こぞのとし)九月十二日子丑(ねうし)の時に頸(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて返年(かえるとし)の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをく(贈)ればをそ(畏)ろしくて・をそ(怕)ろしからず・み(見)ん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」(223P) と仰せられています。

 ここで、実際に頸をはねられたわけではないのに、「頸はねられぬ」 と仰せられているのは、それまでの “上行菩薩の再誕” というお立場は終わったという意味の表現です。
 そして、新しいご境地すなわち、「魂魄」 というものを感得なされました。このことについて、日寛上人の 『開目抄愚記』 に、次のように指導されています。

 一、子丑の時に頸はねられぬ文。
 「子の時」 は鎌倉を引き出(いだ)し奉る時なり。…… 夜半は即ち子の時なり。
 「丑の時」 は正しく頸の座に引き居(す)え奉るなり。……
 今 「子丑」 というは、これ始終を挙(あ)ぐるなり。
 「頸はねられぬ」 とは、只この義は頸を刎ねらるるに当るなり。…… これ則ち 「及び刀杖を加う」 の文に合するなり。
 「魂魄・佐土の国にいたりて」 とは、「数数(しばしば)擯出(ひんずい)せられん」 の文に合するなり。故に蓮師は 「不愛身命、但惜無上道」 の法華経の行者なること、誰かこれを疑うべけんや。仍(なお)これ附文の辺なり。
 問う、元意の辺は如何。
 答う、……
 この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身(しんしん)の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり。(文段集・191P)

 問う、その謂(いわれ)如何。
 答う、凡(およ)そ丑寅の時とは陰の終り、陽の始め、即ちこれ陰陽の中間(ちゅうげん)なり。またこれ死の終り、生の始め、即ちこれ生死の中間なり。……
 宗祖云く 「相かまへて相かまへて自他の生死はし(知)らねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・むか(迎)いにまいり候べし、三世の諸仏の成道はねうし(子丑)のをわり・とら(寅)のきざ(刻)みの成道なり、仏法の住処・鬼門(きもん)の方に三国ともにたつなり此等は相承の法門なるべし」(1558P) 等云云。
 故に知んぬ、「子丑の時」 は末法の蓮祖、名字凡身の死の終りなることを、故に 「頸はねられぬ」 というなり。
 寅の時は久遠元初の自受用身の生の始めなり。故に 「魂魄」 等というなり。(同・192P)

 一、をそろしくて・をそろしからず文。
 今謂(いわ)く、経に云く 「濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖(くふ)有らん乃至身命を愛せず、但無上道を惜しむ」 と云云。この文の意なり。…… 良(まこと)に濁劫悪世の中に多く諸の恐怖あらん、故に一往は怖しきに似(に)たり。
 然りと雖も、日蓮は 「不愛身命、但惜無上道」 の法華経の行者なり、何の恐怖かあらん。故に 「をそろしくて・をそろしからず」 と云云。
 「み(見)ん人いかに・をぢぬらむ」 とは、「不愛身命」 の志の決定せざる人なり。(同・193P)
 

 以上、少々長くなりましたが、下手に現代語や解釈を加えて冗長になるよりは、“そのまま” 引用した方が良いように思いました。
 “三世の諸仏の成道はねうし(子丑)のをわり・とら(寅)のきざ(刻)みの成道なり” と、丑の刻(午前二時ごろ)は陰の終わり・死の終わり、寅の刻(午前四時ごろ)は陽の始まり、生の始まりを意味し、丑寅の刻(午前三時ごろ)は陰陽生死の中間であり、諸仏の成道する時刻とされるのである。
 釈尊の明星の耀う菩提樹下における成道も、日蓮大聖人が竜の口の頸の座で発迹顕本されたのも、この丑寅の刻であった。

 平左衛門尉が、私怨をもって貞永式目を破り、真夜中に、秘密裡に斬首しょうとした悪業も、仏法の成仏の眼から見れば必要であったのである。
 ゆえに、「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿(こうどの)ましまさずんば争(いかで)か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(917P)
 「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(509P)
 とまで仰せられました。
 法華誹謗の悪業ゆえに、無間地獄に堕ちなければならない者たちに、“最初に之を導かん”、 救ってあげたいと大慈悲をくだされたのである。

 名誉会長  日寛上人は、この 「開目抄」 の一節を次のように解説しています。
 「この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり」
 つまり、日蓮大聖人が竜の口の法難の時に、名字凡夫という迹を開いて、凡夫の身のままで久遠元初自受用報身如来という本地を顕されたことをいいます。
 言い換えれば、凡夫に身のままで、宇宙本源の法である永遠の妙法と一体の 「永遠の如来」 を顕すということです。
 この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としての御立場に立たれます。すなわち、末法の御本仏として、万人が根本として尊敬(そんぎょう)し、自身の根源として信じていくべき曼荼羅御本尊を御図顕されていきます。
 また、ここで注意しなければいけないのは、「発迹」 の 「迹を発(ひら)く」 という意味です。「発(ほつ)」 は 「開く」 ことです。


 斉藤  ここが誤解されやすい所ですね。
 「迹を発く」 からといって、何か別物になるというわけではないということですね。確かに、「迹」 と 「本」 では天地雲泥の違いはあります。そこだけ注目すると、全く別物に見がちです。

 名誉会長  どこまでも凡身のうえに、自受用身の生命が顕現していくのです。ここを見誤ると、成仏とは、人間を離れた超越的な存在になることだという誤解が生じる。
 日蓮大聖人も凡夫の身を捨てられたわけではない。凡夫の身そのものに久遠の仏の生命が赫々(かくかく)と顕れている。
 もう一つ、大事なことを言いたい。それは、この原理は私たちにとっても同じである、ということです。
 苦難を超(こ)えて、信心を貫き、広宣流布に生き抜く人は、発迹顕本して、凡夫身のままで、胸中に大聖人と同じ仏の生命を涌現することができるのです。
 日寛上人は次のように仰せです。
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」 (『日寛上人文段集』)
 「人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり」(同)
 「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」(同)
 
 ありがたい仏法だ。超越的な別な理想人格がゴールだったら、私たち今世で幸福になることはありえなくなる。

 ………
 名誉会長 私たちの一生成仏の手本を、大聖人が身をもって示してくださったのです。いかなる苦難も越えて、無明を打ち破り、法性を現していくいく自分を確立することが発迹顕本です。大難を受けるほど、仏界の生命は輝きわたっていく。そういう自分を確立することが、一生成仏の道です。
 真の意味の人間性の練磨は、難をのり越える信心のなかにあるのです。
   (御書の世界2巻・105~108P) 

 “凡夫の身そのものに久遠の仏の生命が赫々と顕れている”・“この原理は私たちにとっても同じである” と、すなわち、人間を離れて 「仏」 も 「仏性」 も何もないのである。そして、現に我が身が、「仏」 に成ることができるのである。
 何と有り難いことか、これほど素晴らしい教えや仏法が、他に有りますでしょうか。

 他宗教は、有りもしない架空の仏や神を立て、極楽だ天国だと、これら架空の楽土を憧れさせ、少しばかりの道徳論と功徳論を信じ込ませ、そして多くの衆生を惑わし誑かせて、苦悩の淵に沈めさせているのである。
 大聖人は、「六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり」(1046P)・「我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん」(509P) と仰せです。
 この法理を信ずる我らは、“未だ死せざる已前に此の大善を進めん” と、民衆救済・国土安穏を願って、仏の大願たる法華弘通に精進するのみである。

 池田先生は、捨てるべき迹とは 「弱気」 です。「臆病の心」 です。大聖人は、「勇気」 の本地の御姿を示すことで、発迹顕本を万人に示された。
 この大聖人の 「勇気」 の御心を、自身の決意として、あらゆる困難に莞爾(かんじ)として立ち向かっていくことが、今度は私たちの発迹顕本につながる。 (同書・110P)
 とご指導されています。

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四度の大難(佐渡流罪の意義)

 竜の口の法難の後、日蓮大聖人は依智(厚木市の北部)にある本間六郎左衛門尉の邸へ護送された。幕府内では、赦免すべきだとの意見もあったが、処分がなかなか決まらず、佐渡へ出発するまでの約一カ月近く、依智にとどめ置かれた。
 その間に、鎌倉では不審火や人殺し事件が頻発した。持斎念仏者らが、自ら計事をして置きながら 「日蓮が弟子共の火をつくるなり」 と讒訴したために、幕府はこれを口実に、「さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人し(記)るさる、皆遠島へ遣(つかわ)すべしろう(牢)にある弟子共をば頚をはねらるべしと聞ふ」(916P) と、大聖人一門を弾圧し、根絶やしにしょうと謀ったのである。

 そして結局、佐渡流罪の処分が下された。十年前の伊豆流罪は、大聖人お一人が受けた難であったが、今度の法難は弟子・檀那全体に及ぶ弾圧であった。それだけに、大聖人一門の勢力が拡大していたと言えよう。
 したがって、弾圧によって日蓮門下は 「かまくら(鎌倉)にも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」(907P) という壊滅的な状況であった。

 北国の佐渡の配所は、「同(文永八年)十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著(つき)ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたま(板間)あはず四壁はあばらに雪ふ(降)りつも(積)りて消ゆる事なし、かかる所にしき(敷)がは(皮)打ちしき蓑(みの)うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪(ゆき)雹(あられ)雷電(いなずま)ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐ(住居)なり」(916P) と、また念仏者らに昼夜を分かたず、お命を狙われるという、非常に厳しき状況であった。

 この 「佐渡流罪」 について、何点かに亘ってその意義を述べてみたいと思います。
 第一に、『三沢抄』 に、「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前(にぜん)の経とをぼしめせ」(1489P) と仰せられています。
 佐渡以前は、上行菩薩の再誕として、釈尊を立てて法華経を弘通するという 「迹」 のお立場であった。
 竜の口・佐渡以後は、「迹」 を開いて凡夫の身のままで、「久遠元初の自受用身如来」 という 「本地」 を開顕されたところの 「末法の御本仏」 としてのお振る舞いであります。
 このことは、竜の口・佐渡流罪によって、法華経の経文を身読されたことで 「末法の御本仏」 としての確証を得られました。
 『勧持品第十三』 に、「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」 とあります。“数数(しばしば)擯出せらる”とは、二度以上に亘って追放・流罪されることをいう。大聖人は二度までも流罪に遭われた。一度目は 「伊豆伊東への流罪」、二度目は今回の 「佐渡流罪」 であります。
 かつて池田先生が入獄された頃、戸田先生が、次のようなことを仰ったと聞いたことがあります。
 それは、「私に資格があるならば、もう一度牢獄に入ることができる。しかし、入れないだろう。経文に “数数見擯出” とあるが、数数と二度も流罪に遭うのは、御本仏様だけである。(趣意)」 というお話でありました。

 第二に、佐渡流罪によって、門下の信心の純・不純が問われ、真実の弟子が育成され、「師弟不二の信心」 すなわち 「大聖人と同じ実践」 「不惜身命の信心」 を身に付けさせて、反転攻勢の第一歩とされた。
 大聖人は、「本因妙の教主」 として成仏への道を、難に打ち勝つという御自身の実体験を通して(難即悟達)、門下の弟子たちを指導してくださいました。
 『撰時抄』 に、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(287P) と仰せのように、「不惜身命」 の真の弟子の育成である。
 いくら、外的な幕府権力の弾圧をもってしても、仏法は滅びることはない。むしろ、仏弟子たちが滅ぼすのである。
 佐渡流罪では、大聖人の仏界の御生命に縁した者たちは、次々と入信者となり、協力者となって大聖人を庇護し、かえって遠く離れた北国の小島まで、教勢を拡大することになったのである。

 第三に、竜の口の時、平左衛門尉に対して強く諫暁した二難のうち 「自界叛逆(ほんぎゃく)の難」 の予言が、配所の十一月から僅か百日余りで的中した。文永九年二月十一日、北条一門の同士討ちの乱で、「二月騒動」 と言われる。
 「日蓮はなが(流罪)されずして・かまくら(鎌倉)にだにも・ありしかば・有りし・いくさに一定打ち殺されなん」(1164P) と仰せられていますように、戦乱の地に在れば、どさくさ紛れにお命は奪われたでしょう。佐渡流罪も、諸天善神の加護と言えます。

 第四に、「而(しか)るに去(いぬ)る文永八年九月十二日の夜たつ(竜)の口にて頚をは(刎)ねられんとせし時より・のち(後)ふびんなり、我につきたりし者どもにまこと(真)の事をい(言)わざりけるとをも(思)うて・さど(佐渡)の国より弟子どもに内内申す法門あり」(1489P) と仰せです。
 “内内申す法門” とは、『開目抄』 の人本尊開顕と、『観心本尊抄』 の法本尊開顕を意味しています。このように、発迹顕本なされた大聖人は、溢れんばかりの生命力で、甚深の法華経の観心の法門について、御遺誡の思いで執筆なされています。
 これらの甚深の法門は、外的な関係やまた弟子たちの出入りの激しい鎌倉よりも、誰ひとり訪う者もない雪中の配所の方が、ご不便であっても、ご思索やご執筆には良かったと思います。
 事実、長編の 「開目抄」 は、御書で五十二ページもあり、十一月からご構想を練られ、塚原問答(明けの一月十六日)の後、ひと月にも満たない期日で書かれています。
 そのほか主な御書は、「開目抄」 をはじめ 「観心本尊抄・生死一大事血脈抄・草木成仏口決・佐渡御書・祈祷抄・諸法実相抄・如説修行抄・顕仏未来記・当体義抄」 等々、四十編余りに上っていて、今日の日蓮教学の基本となっております。

 第五は、竜の口の発迹顕本の後、佐渡流罪のとき、“久遠元初自受用身如来” の御境地を、「御本尊」 として顕してくださいました。
 池田先生は、御本尊について次のように指導されています。

 斉藤  大聖人の内なる御本尊を、皆が拝せる御本尊として顕すことですね。

 名誉会長  そう。なぜ顕す必要があるのかを拝察するならば、一つは、佐渡に流されていつ帰ることができるかわからないし、また、佐渡では御命が狙われている。
 当時の弟子たちのためにも、末法における正しい法華経信仰の規範を示す必要があられたと拝したい。
 また、もう一つは、より重要なことですが、御入滅後の令法久住・広宣流布のために、大聖人が凡夫として成就された仏界涌現の道を正しく残す必要があった。
 ゆえに、「観心本尊抄」 では、南無妙法蓮華経こそが法華経の肝要であり、南無妙法蓮華経を受持していくことが、大聖人と同じく凡夫の身で仏界を顕していくための根幹であることを示されていくのです。いわゆる受持即観心の法門です。
 「観心」 とは己心に十界の生命を見ることです。特に、現じがたい仏界の生命を己心に涌現することです。そのために本尊とすべきは妙法蓮華経の五字であると、「法」 を明示されているのです。


 斉藤  「開目抄」 では、「法華経の行者」 としての全人格的な御振る舞いを通して、妙法と一体の大聖人の御内証が指し示されます。これに対して、「観心本尊抄」 では、大聖人の御内証に明らかになった本尊の核心が、妙法蓮華経の五字であることを示されているわけです。
 ………
 名誉会長  いずれにせよ、「開目抄」 「観心本尊抄」 の両方が、ある意味では補いあうことによって、末法の御本尊御図顕の意義が鮮明にされている。
 両書によって、日蓮大聖人の仏としての化導の意義がはっきりします。

 ………
 名誉会長  一言で言えば、日蓮大聖人が、久遠元初自受用身如来を証得されていくまでの戦いの御姿が示されているのが 「開目抄」 です。そして、久遠元初自受用身如来の御境地にある末法の御本仏として、全人類の救済のために御本尊を御図顕していくことを示されているのが 「観心本尊抄」 です。   (御書の世界2巻・140P)

 以上、概略述べてみましたが、四度目の 「竜の口・佐渡流罪」 の大難は、日蓮大聖人の御生涯の中で、一番厳しい暗黒の時である。しかしまた、一番充実した意義のある時であった。
 御本尊をはじめ、広宣流布への基盤が形成されていった時であり、未来への可能性を秘めた希望の時代でもあった。
 世界広布新時代の時を迎え、今再び大聖人の大難を偲び、法華弘通の大願成就へ、勇気をもって開拓して行きましょう。
 「遠国の島に流罪せらるるの人我等が如く悦び身に余りたる者よも・あらじ、されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為(た)るべし」(1343P) と仰せられ、御本仏としての大境涯と大歓喜のお姿(仏の生命)を教えてくださいました。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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