「21世紀文明と大乗仏教」を読む(1)(序文」から)

 先日、壮年部主催の仏法セミナーがありました。担当の講師の方の講演の中で、池田先生の 「21世紀文明と大乗仏教」 を通してのお話がありました。
 その中で、その宗教が “人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか” という判断を誤ってはならないと話されていました。久しぶりに聞きまして懐かしく思い、また、あらためて読みなおして見ようと思いました。

 「21世紀文明と大乗仏教」 の講演は、1993年9月24日、アメリカの ハーバード大学で行われました。丁度、2年前にも 「ソフト・パワーの時代と哲学」 という題名で講演されており、今回で 2度目でありました。(2度も招かれることは、希有なことであります)
 池田先生の海外諸大学・学術機関での講演は、全部で 32回にも及んでいます。その全てが、その国を代表する世界有数の名門校であります。

 池田先生は、海外諸大学講演集 『21世紀文明と大乗仏教』 の 「序文」 のなかで、
 「講演は、大変に骨の折れる仕事で、一回、一回、思索と熟考を重ね、力を尽くした。 私には、学いまだ成らずで、大きな荷物を背負っている感があり、講演が終わるまで、生命をすり減らすような作業であった。 しかし、戦争の世紀の終局と次の世紀を前に、いま語らずしていつ語るのか――という気持ちが、苦労や困難を乗り越えさせてくれた」 と述べられています。

 先生は、“生命をすり減らすような作業であった” と、そして “戦争の世紀の終局と次の世紀を前に、いま語らずしていつ語るのか” という気持であったと語られています。先生のこの思いに、襟を正さねばならないと思います。

 この講演は、もう既に20年以上も経っていますが、決して色褪せるものではありません。それどころか、21世紀になって、ますます混迷の度を増している現在、求めるべき重要な指針であると思います。
 この問題の解決の道は、大乗仏教なかんずく、“日蓮仏法” 以外にないと確信している者の一人でありますが、しかし、何せ、度忘れの多くなってきた脳味噌では、海外講演のすべてを研鑚するには頭がパンクして仕舞いそうです。
 したがって、講演集の書名にもなっている 「21世紀文明と大乗仏教」 の講演だけでも、学ばなければ申し訳ないことだと思っています。

 日蓮大聖人は、「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(1361P) と仰せです。
 この御金言の如く、一人たりとも対話に励んで、広布の指導者・池田先生とその思想を教え広げていきたいと思います。  

 講演 : 「21世紀文明と大乗仏教」 ―→ ここから

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「21世紀文明と大乗仏教」を読む(2)(「死を忘れた文明」)

 20世紀は、第1次・第2次と二度も世界大戦が起き、大量の破壊と殺りくが繰り返され、「戦争の世紀」 であったと言われています。この反省のうえから 21世紀は、人類にとって光輝ある 「生命の世紀」 「平和の世紀} にしなければなりません。
 池田先生は、既に 20数年前 ハーバード大学にて、21世紀文明に貢献しうるであろうと思われる思想を、大乗仏教に求めて講演してくださいました。

 大乗仏教といえば詮ずるところ、日蓮大聖人の “南無妙法蓮華経である” と我われ学会員は分かりますが、お題目を一度も聞いたことも、唱えたこともない海外の方々に、いきなり “南無妙法蓮華経が最高だ” といっても理解し難いのであります。
 そこで先生は、誰人たりとも人生の最重要課題である “四苦(生老病死)”、とくに 「死」 の問題を蔑(ないがし)ろにし死を忘れた現代文明を、大乗仏教の生命観・生死観を用いて批評し、法華経の教えの優越性を述べられています。
 一神教(キリスト教等)の生命論しか知らなかった人は、目から鱗(うろこ)が落ちる感がしたのではないかと思われます。
 では、先生の ハーバード大での講演の一部分を引用させて頂きます。 (21世紀文明と大乗仏教・19P)

 なぜ、人間にとって死がかくも重い意味をもつかといえば、何よりも死によって、人間は己(おの)が有限性に気づかされるからであります。 どんなに無限の 「富」 や 「権力」 を手にした人間であっても、いつかは死ぬという定めからは、絶対に逃れることはできません。 この有限性を自覚し、死の恐怖や不安を克服するために、人間は何らかの永遠性に参画し、動物的本能の生き方を超(こ)えて、一個の人格となることができました。 宗教が人類史とともに古いゆえんであります。

 ところが 「死を忘れた文明」 といわれる近代は、この生死(しょうじ)という根本課題から目をそらし、死をもっぱら忌(い)むべきものとして、日陰者の位置に追い込んでしまったのであります。 近代人にとって死とは、単なる生(せい)の欠如・空白状態にすぎず、生が善であるなら死は悪、生が有(う)で死が無(む)、生が条理で死が不条理、生が明(めい)で死が暗(あん)、等々と、ことごとに死は マイナス・イメージを割り振られてきました。
 その結果、現代人は死の側から手痛いしっぺ返しを受けているようであります。 今世紀が、ブレジンスキー博士の言う 「メガ・デス(大量死)の世紀」 となったことは、皮肉にも 「死を忘れた文明」 の帰結であったとはいえないでしょうか。

 近年、脳死や尊厳死、ホスピス、葬儀の在り方、また、キューブラー・ロス女史による 「臨死医学」 の研究などの関心の高まりは、等しく死の意味の、のっぴきならない問い直しを迫っているように思えてなりません。 やっと現代文明は、大きな思い違いに気づこうとしているようです。

 死は単なる生の欠如ではなく、生と並んで、一つの全体を構成する不可欠の要素なのであります。 その全体とは 「生命」 であり、生き方としての 「文化」 であります。 ゆえに、死を排除するのではなく、死を凝視(ぎょうし)し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、二十一世紀の最大の課題となってくると私は思います。 
 

 死を忌むべきものとして排除した現代文明は、目的のためには 「生命」 をも手段として軽視して仕舞い、その無残な結末が 「メガ・デスの世紀」 となったと。
 そして 「死」 とは、「決して忌むべきではなく、生と同じく恵みであり、嘉(よみ)せらるべきこと」 であり、「信仰の透徹(とうてつ)したところ、生も喜びであり、死も喜び、生も遊楽であり、死も遊楽である」 と、法華経の深く 且(か)つ深遠なる生命観を述べられています。

 「戦争と革命の世紀」 の悲劇は、人間の幸・不幸の決定的要因が外形のみの変革にはないという教訓を明確に残しました。 次なる世紀にあっては、従 ってこうした生死観、生命観の内なる変革こそ第一義となってくるであろう と、結局、「人間革命」 する以外に、解決の道はないのであります。

 したがって、池田先生は “死を排除するのではなく、死を凝視し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、二十一世紀の最大の課題となってくる” と述べられています。

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「21世紀文明と大乗仏教」を読む(3)(「平和創出の源泉」)

 池田先生は、“「戦争と革命の世紀」 の悲劇は、人間の幸・不幸の決定的要因が外形のみの変革にはないという教訓を残した” と述べられ、従って21世紀にあっては、“こうした生死観、生命観の内なる変革こそ第一義となってくるであろう” と確信され、その上で “大乗仏教(日蓮仏法)が二十一世紀文明に貢献しうるであろう” と考える視点を、下記の三点に要約されて講演されました。

 その三点とは、第一に 「平和創出の源泉」、 第二に 「人間復権の機軸」、第三に 「万物共生の大地」 という三視点であります。私はこの三つを見まして、先生は 「妙の三義」 を展開されて講演されたのではないのかなぁ と思いました。

 「妙の三義」 とは、① 「妙と申す事は開と云う事なり」 ② 「妙とは具の義なり具とは円満の義なり」 ③ 「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり」 (法華経題目抄より・943P) のことであります。
 そこでもう少し、よく知りたいと思い 『仏教哲学大辞典(第三版)』 で 「妙の三義」 という項目を、探して見ましたが有りませんでした。次回の改訂版を出す時には、是非とも入れて頂きたいと思います。

 一番目の 平和創出の源泉 でありますが、仏教が平和のイメージに彩られている宗教であり、それは押しなべて、暴力を排し、対話や言論を徹底して重視しているからであると述べられています。  (21世紀文明と大乗仏教・21P)
 そして平和の反対、争いごとの起こる原因として、釈尊の 「一本の矢」 の話をされています。

 釈尊の言葉に 「私は人の心に見がたき一本の矢が刺さっているのを見た」 とあります。 「一本の矢」 とは、一言にしていえば “差異へのこだわり” といってよいでしょう。 当時のインドは、大いなる変革期で、悲惨な戦乱が相次いでいました。 釈尊の透徹した眼は、その争乱の根底に、何よりも部族や国家などの差異へのこだわりを見いだしていたはずであります。
 ………
 「民族」 であれ 「階級」 であれ、克服されるべき悪、すなわち 「一本の矢」 は、外部というよりまず自分の内部にある。 ゆえに、人間への差別意識、差異へのこだわりを克服することこそ、平和と普遍的人権の創出への第一義であり、開かれた対話を可能ならしむる黄金律なのであります。 また、そうあってこそ、相手の性分や能力に応じて法を説く “対機説法” という自在な対話も可能なのであります。
  

 人が争う原因は、人の心に突き刺さった 「見がたき一本の矢」 であった。その 「一本の矢」 である “差異へのこだわり” を克服することが、平和創出のための最大の要点なのであります。
 人々はあまりにも、国籍・人種・宗教・地位・財産等々の “差異へのこだわり” の心が、民族・国家権力や宗教権威等に利用され、敵愾心をあおられ、自分と違う他者に対して、異端者として嫌悪し排除しょうとするのである。
 それゆえに、国家・民族間の紛争が起きてくる要因となるのである。
 
 先生は、“「一本の矢」 は、外部というよりまず自分の内部にある” と述べられ、“差異へのこだわりを克服することこそ、平和と普遍的人権の創出への第一義である” と、それを可能ならしむるものは “相手の性分や能力に応じて法を説く 「対機説法」 という自在な対話” の重要性を述べられています。

 その実例として、釈尊が隣国を征服しょうとする マカダ国の大臣に対し、戦争への意図を、言論による説得で思い止まらせております。
 日蓮大聖人も、邪悪な権力に対して一歩も退かず、竜の口・佐渡の法難においても、もっぱら言論・非暴力に徹して大勝利しました。
 
 「智者に我義やぶられずば用いじとなり」(「開目抄」御書232頁) と 。 まことに言論にかける信念の強固なるや金剛のごとし、であります。
 もし、こうした対話の姿勢が徹底して貫かれるならば、対決のおもむくところ、対立ではなく調和が、偏見ではなく共感が、争乱ではなく平和がもたらされることは間違いない。 けだし、真の対話にあっては、対立も結びつきの一つの表れだからであります。


 こうした 「真の対話」 があってこそ、「平和創出の源泉」 になり得るのである。
 そのためには、釈尊のような完成された人格の広大な境涯が、あらゆる ドグマや偏見、執着から解放され、「開かれた心」 による 「開かれた対話」 によって 「世界の平和」 が実現するのであります。

 実際に池田先生は、日中国交回復に尽力しました。また当時、中ソ間は一触即発の関係にあった。
 そのような状況の中、ソ連の コスイギン首相、中国の鄧小平副総理、米国の キッシンジャ―国務長官 らと会談し、「真の対話」 によって 「世界の平和」 の実現に貢献いたしました。
 現在、創価 SGI は、世界192ヵ国の民衆と連帯し、「平和・文化・教育」 の運動を展開して、世界広宣流布の大願成就を目指して戦っています。 

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「21世紀文明と大乗仏教」を読む(4)(「人間復権の機軸」)

 第二は 人間復権の機軸 という視点であります。  (21世紀文明と大乗仏教・25P)
 「復権」 とは、いったん喪失した権利や資格を回復することで、前世紀は偏狭なる ナショナリズムによって、あまりにも個人の人権が抑圧され無きに等しいものとされた。
 したがって、“人権の回復” と読み換えても、間違いはないものと思います。

 池田先生は、この章の冒頭から 「これを平易にいうならば、再び宗教の時代が叫ばれる今こそ、はたして宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか、という判断を誤ってはならないということであります」 述べられています。

 人間復権には宗教が機軸となるものであるが、その宗教は “人間を強くし、善くし、賢くする” ものでなければならない。しかし、宗教といっても色々なものがあり、中には マルクスの宗教阿片説的なものもあるので、その教えの勝劣・浅深の判定を誤ってはならないということです。

 先生は 「そのためにも、私は仏教でいう 「他力」 と 「自力」―― キリスト教流にいうと 「恩寵(おんちょう)」 と 「自由意志」 の問題になると思いますが、その両者の バランスの在り方を改めて検証してみたいのであります。
 ………
 その点 「自力も定めて自力にあらず」 「他力も定めて他力にあらず」(403P) と精妙に説く大乗仏教の視点には、重要な示唆(しさ)が含まれていると思います。 そこでは二つの力が融合し、両々相まって絶妙の バランスをとっていくことが慫慂(しょうよう=さそい勧める)されているからであります」
と述べられています。

 仏道修行には大きく分けて、自力と他力の二つの形態がる。
 「自力」 は、主に禅宗が標榜している。仏や経典を蔑視し、ただひたすら、禅定の修行を課することで、見性成仏するという。しかし、仏の教えに反し、いくら無明の己心を観じても仏身にはなれない。せいぜい増上慢になるだけである。
 大聖人は、「禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕(お)つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(152P) と仰せです。

 「他力」 は、主に浄土念仏宗である。偉大なる仏(阿弥陀仏)や神の力用を頼みにするため、衆生の主体性や生命力を損なうことになり、自己を卑屈な消極的な者に成りかねないのである。
 大聖人は、「善導と申す愚癡(ぐち)の法師がひろ(弘)めはじめて自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(1509P) と仰せです。

 以上のように、自力も他力もどちらか 片一方だけでは駄目なのである。
 大聖人は、“自力も定めて自力にあらず・他力も定めて他力にあらず” と申されて、自力と他力の中道を説かれたのである。
 池田先生は、“二つの力が融合し、両々相まって絶妙の バランスをとっていくことが慫慂(しょうよう)されている” と話されました。
 そして、先生は絶妙の バランス感覚をもって、その国(米国)の哲学者の デューイ博士の言葉を用いて講演を続けられました。

 少し立ち入って述べれば、かつて デューイは 「誰でもの信仰」 を唱え、特定の宗教よりも 「宗教的なもの」 の緊要性を訴えました。
 なぜなら、宗教がともすれば独善や狂信に陥りがちなのに対し、「宗教的なもの」「人間の関心とエネルギーを統一」 し、「行動を導き、感情に熱を加え、知性に光を加える」。 そして
「あらゆる形式の芸術、知識、努力、働いた後の休息、教育と親しい交わり、友情と恋愛、心身の成長、などに含まれる価値」 (魚津郁夫編 『世界の思想家20 デューイ』 平凡社) を開花、創造せしむるからであります。
 デューイは他力という言葉は使いませんが、総じて 「宗教的なもの」 とは、善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な生き方を鼓舞し、いわば、あと押しするような力用といえましょう。 まことに 「“宗教的なもの” は、自ら助くる者を助くる」 のであります。
 近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力をまっとうできない。 他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全にはたらく。 しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである―― デューイもおそらく含意していたであろう、こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺であると私は思うのであります。
 私は、仏教者に限らず全宗教者は、歴史の歯車を逆転させないために、この一点は絶対に踏み外してはならないと思います。 そうでないと、宗教は、人間復権どころか、再び人間を ドグマや宗教的権威に隷属させようとする力をもつからであります。


 仏教を知らない方々に、初めから自力や他力といっても、その イメージすら涌かないのではないのだろうかと思います。
 したがって、デューイ博士の “特定の宗教よりも 「宗教的なもの」” という言葉を借りて、自力と他力が “融合し、両々相まって絶妙のバランス” をとる、中道というものを教えようとなされたのだと思います。
 先生は、“こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺である” と述べられています。

 先生は、“他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全にはたらく。しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである” と述べられ、そして、その十全なる力を涌き出させる方法として、『御義口伝』 の 「一念に億劫(おくごう)の辛労(しんろう)を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(790P) の御金言を引用なされました。

 仏教は観念ではなく、時々刻々、人生の軌道修正を為さしむるものであります。 “億劫の辛労を尽くす” とあるように、あらゆる課題を一身に受け、全意識を目覚めさせていく。 全生命力を燃焼させていく。 そうして為すべきことを全力で為しゆく。 そこに、「無作三身」 という仏の命が瞬間瞬間、湧き出してきて、人間的営為を正しい方向へ、正しい道へ と導き励ましてくれる。

 “仏の命が瞬間瞬間、湧き出してきて” と、これこそ、我ら学会員が、朝夕・実践している唱題行そのものであります。
 したがって、創価学会が実践する人間革命運動は 「人間復権」 への戦いの最重要の 「機軸」 になり得るのであります。 

 参考:「他力と自力」 ―→ ここから

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「21世紀文明と大乗仏教」を読む(5)(「万物共生の大地」)

 第三は 万物共生の大地 という視点であります。  (21世紀文明と大乗仏教・28P)
 まず 「万物共生の大地」 の イメージを、法華経の薬草喩品第五の 「三草二木の譬え」 から説明されています。
 「共生」 とは、異種の生物が共に生活している状態で、相互に利益があるものを “共利共生”、片一方しか利益を受けないものを “片利共生” という。
 また、仏教では 「共生」 を 「縁起」 と説きます。「縁起」 とは、“因縁生起” ということです。

 池田先生は縁起について、「縁起」 が、縁りて起こると書くように、人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。 すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。
 一切の生きとし生けるものは、互いに関係し依存し合いながら、生きた一つの コスモス(内的調和)、哲学的にいうならば、意味連関の構造を成しているというのが、大乗仏教の自然観の骨格なのであります、
と述べられています。

 「共生」 について、その 「関係性や相互依存性を強調すると、ともすれば主体性が埋没してしまうのではないか」 と問題を提起されて、先生は原始仏典の 「己(おのれ)こそ己の主(あるじ)である。他の誰がまさに主であろうか。己がよく抑制されたならば、人は得難い主を得る」 「まさに自らを熾燃(しねん=ともしび)とし、法を熾燃とすべし。 他を熾燃とすることなかれ。 自らに帰依し、法に帰依せよ。 他に帰依することなかれ」 (『真理の花たば法句経』筑摩書房) 等を引かれて、埋没してしまうのではなく 「自己に忠実に主体的に生きよと強く促している」 と述べられています。

 ここでいう 「自己」 は、「エゴイズムに囚われた小さな自分、すなわち 「小我」 ではなく、時間的にも空間的にも無限に因果の綾(あや)なす宇宙生命に融合している大きな自分、すなわち 「大我」 を指しております」 と述べられています。
 大聖人は、「我とは仏界なり」(756P) と仰せです。 大我の確立とは仏界を開発することであります。
 「三草二木の譬え」 にありますように、種々の草木があっても、平等に降り注ぐ仏の慈悲の雨がなければ、草木の成長も、大我の確立も、「万物共生の大地」 も あり得ないのであります。
 
 大乗仏教で説くこの 「大我」 とは、一切衆生の苦を我が苦となしゆく 「開かれた人格」 の異名であり、常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げるのであります。
 こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる 「近代的自我」 の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平があるといえないでしょうか。 そしてまた、「生も歓喜であり、死も歓喜である」 という生死観は、この ダイナミックな大我の脈動のなかに、確立されゆくことでありましょう。


 『御義口伝』 に、涅槃経に云く 「一切衆生の異(い)の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦」 と云云(758P) と仰せです。
 あらゆる人々の苦を、ことごとく我が一人の苦として受けとめて、“抜苦与楽の行動を繰り広げる” ものこそ 「開かれた人格」 の人であり、“こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる 「近代的自我」 の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平があるといえないでしょうか” と述べられています。

 日蓮大聖人の 『御義口伝』 には、「(生老病死という) 四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(740P) とあります。
 21世紀の人類が、一人一人の 「生命の宝塔」 を輝かせゆくことを、私は心から祈りたい。
 そして、「開かれた対話」 の壮大な交響に、この青き地球を包みながら、「第三の千年」 へ 、新生の一歩を踏み出しゆくことを、私は願うものであります。 その光彩陸離たる 「人間と平和の世紀」 の夜明けを見つめながら、私の スピーチとさせていただきます。
  (1993年9月24日・ハーバード大学講演)

 大聖人の教えは、「生老病死」 という人生にとって避けて通ることのできない根本的な四つの苦しみさえ、“南無妙法蓮華経と唱え奉る” ことによって、我が身を “常楽我浄の四徳の香” をもって、荘厳することができるのである と仰せです。なんと素晴らしい、有り難きことではありませんか。
 この日蓮仏法の大哲理を、未だ知らない人々に一人でも多く教えて上げましょう。
 池田先生は、“21世紀の人類が、一人一人の 「生命の宝塔」 を輝かせゆくことを、私は心から祈りたい” と、弟子たちの 「開かれた対話」 の戦いに期待されています。
 これをお受けして、21世紀を 「人間と平和の世紀」 にするべき戦いを起こしましょう。

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「21世紀文明と大乗仏教」を読む(6)(あとがき・「世界宗教への王道」)

 「海外諸大学講演集」 刊行委員会による 「世界宗教への王道」 という、“あとがき” がありました。  (21世紀文明と大乗仏教・375P)
 この “あとがき” を読みましたところ、「21世紀文明と大乗仏教」 の 「人間復権の機軸」 のところが、少しですが説明されていましたのでご紹介いたします。

 はじめに、講演では、文字や思想、哲学など、必ずその国の誇る優れた精神的遺産に スポットが当てられ、そこから仏教哲理への共鳴音が奏でられていく。 宗教に非友好的な イデオロギーの国では、仏教哲理の異名といっていい人間主義への共鳴音が………。その国その民族の精神水脈のもっとも良質な部分が、ごく自然に、大乗仏教の精神と深く回路を通じていくのである。 と述べられています。
 アメリカの ハーバード大学では、デューイ博士の 「宗教的なもの」 との言葉を援用されて説明されています。

 特に、人間復権の機軸 たるべき座標軸を、特定の 「宗教」 や 「絶対者」 などの外形的なものに求めず 「宗教的なもの」(デューイ) としたのは、まことに思いきった、こういう言い方が許されるなら、大胆不敵ともいうべき問題提起であったといってよい。 内在的な精神性を意味するこの 「宗教的なもの」 を、SGI 会長は、端的に 「善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な行き方を鼓舞し、いわば後押しする力用」 である、と。 そして、この 「宗教的なもの」 の発展のいかんが 「宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺」 であり、世界宗教たりうる必須の要件としたのである。
 確たる宗教的信念が、このようなかたちで表白され、ハードにでなく ソフトに世に問われたことが、かつてあったであろうか。 宗教的信念の普遍性 (SGI 会長は、これを「内在的普遍」と呼ぶ) に、よほどの確信がなければ、なしうる業(わざ)ではないのである。


 なぜ、特定の 「宗教」 よりも 「宗教的なもの」 をと 話されたのかといえば、おうおうにして宗教は、何らかの “絶対的なるもの” を根本としているが ゆえに、独断的な ドグマ(教条主義)に呪縛されがちになるのである。
 たとえば日顕宗は、弘安 2年の御本尊を 「出世の本懐」 とし、その教義の独自性・絶対性を堅持するあまり、本来の目的である、人を救うという 「広宣流布」 への戦いを忘れ去り、権威主義的 ドグマに堕ちている。
 現代世界においても、ドグマの呪縛によって独善や傲慢(ごうまん)が横行し、宗教史にあるような、また現今の イスラム国のような 「宗教のため」 に人間同士が、傷つけ殺し合うという転倒が繰り返されているのである。

 SGI 会長がしばしば、「私は仏法者ですが 『仏性』 よりも 『友情』 や 『人格』 を信じます」 と語るのも、宗教的 ドグマのもたらしてきた弊害を知悉(ちしつ)しているからにほかならない。 また、マルローや桑原武夫を驚かせた 「私自身も、けっしていわゆる宗教家などではありません。 一個の社会人です」 との発言も、宗教史の光と影の交錯するなか、今後の世界の宗教の在り方へ、貴重な示唆(しさ)を投げかけている。 宗教といっても、「友情」 や 「人格」 に結実し、「社会人」 の資質向上を支えなければ、何の意味があるのか、と。

 池田先生の “「仏性」 よりも 「友情」 や 「人格」 を信じます」” とのお話に、私は目の覚めるような思いがしました。今まで、人生の目的は成仏することにあると。したがって、仏性や御本尊が第一であると思っていました。
 しかし考えてみれば、仏性や仏界と言っても、どこにも見当らない。己心にあるいっても、取り出すこともできない。では、無いのかといえば、縁に随って出てくるものです。
 それは、“釈尊の出世の本懐は人の振舞” と仰せのように、己身の 「智慧・慈悲・友情・人格」 等となって、その “人の振る舞い” のうえに顕れるものである。
 したがって、「人の振る舞い」 が、“「友情」 や 「人格」 に結実し、「社会人」 の資質向上を支えなければ、何の意味があるのか” と言われた所以である。
 ここに、創価の 「人間主義」 と、宗門の 「権威主義」 との違いがある。
 いまや、宗教(本尊や功徳等)を教えることよりも、「人間主義思想」 を教える方が難しいのである。
 ゆえに、「世界広布新時代」 にあっては、「人間主義思想」 を前面に押し立てて、具体的には、己身の人格の練磨と向上をもって、戦う以外にないと思います。
  
 池田 SGI 会長の渾身の言論活動は、まさにいうところの 「真の宗教的情況」、それなくして 「正義」 と 「平和」 は決して両立し得ないであろう、活性化された精神世界の構築目ざして、撓(たわ)まず屈せず、営々として続けられてきたのである。 それはまた、「生まれを問うことなかれ、行いを問え」 との釈尊の金口や 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) との日蓮大聖人の御金言の衣鉢(えはつ)を伝える大乗菩薩道の精髄であり、そこからは、一切の ドグマ性を払拭した真の世界宗教への王道が、豁然(かつぜん)と拓(ひら)けてくるであろう、と語って結ばれています。  

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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