夏季大学講座(2010年)

 8月28日、創価大学の第38回夏季大学講座に、初めて参加してきました。受講座名は、「法華経」 を読む(6)提婆達多品・勧持品 ―― です。講師は、文学部教授・菅野博史先生です。

 創価大学の夏期講座は、8月末の金・土・日の三日間にわたり、講座数は約 50を超え、広く市民に開かれており、受講者数は約1万人にも成るそうです。 参加して感じたことは、受講者の殆んどは中年のご婦人方で、中には70代・80代らしき方々も、数多く見受けられました。

 終了後に、20回(20年)以上の受講者に、「名誉学生証」 の授与式がありました。わが教室では3名のご婦人方で、最高は28回と言っていました。この学究の精神を、学ばなければならないと思いました。

 提婆達多について今まで、釈尊に敵対し、三逆罪を犯し、生きながら地獄に落ちた、大悪人であると教えられてきました。ところが、提婆達多を仏と崇拝する信仰集団があったと、法顕の 「法顕伝」 や玄奘の 「大唐西域記」 に報告されているそうである。

 もともと法華経では、提婆達多を悪人であると説かれてはいません。それどころか、過去世において、釈尊の師匠の阿私仙人であると、生々世々にわたる師弟不二の原理が説かれている。

 提婆達多を悪人とすることによって、大悪人の提婆達多でさえ成仏できるのであると、法華経の功徳の大なることが強調されているのである。このように見れば、提婆達多に対する見解も少しは変わってきました。

 一方の女人成仏であるが、竜女の成仏が 「変成男子」 すなわち、男子に変身して成仏したとされたころから、近年、フェミニストから、仏教は女性差別の宗教であると批判されています。

 しかし当時、女人が成仏することは信じがたく、時代的・機根的な制約の上からも、そのように説かざるを得なかったのである。決して、仏教は女性差別の宗教では無いのである。

 むしろ、女性が男性に変身できるということは、男女間の性差を固定的に捉える考え方を乗り越えたものと言えよう。 実際、釈迦在世においては、多くの女性が出家し、伸び伸びと修行し、男性に期して引けをとらず、悟りを開いたことが記せられております。

 今日の創価大学の キャンパスを埋め尽くす、創価の ウーマンパワーの姿を見たとき、「我大乗の教えを闡(ひら)いて、苦の衆生を度脱せん」 との竜女の決意を思い出しました。竜女の跡を承継するものは、真実、創価学会の婦人部の皆様方であります。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

無宗教と無宗派

 9月1日、創価大学の第 40回・夏季大学講座を受講しました。「人間学の扉 ――人間を探求するとはどういうことか?」 という講座名で、講師は文学部教授・山岡政紀先生です。

 「人間学」 といえば、私は “南無妙法蓮華経” と唱え奉ることが、自身を知る人間学の最直道であると確信はしていますが、それでは論理が飛躍しすぎて説得力はありません。そこで大学では、どのようなことを教えているのかなぁ と、思って受けてみました。

 午前90分、午後90分、計 3時間の授業で、スライドを使って分かり易い授業なのですが、何せ、頭が古くなっていて、あまり残ってない状態です。
 それにつけても、受講者の大部分が中年のご婦人の方々で、その向学心には、大いに学ばなければならないと思いました。中には三日間、続けて受講されている方もおります。
 
 はじめに、池田先生より教示された “文学部の三指針” を紹介されました。
 一、生命の尊厳の探求者たれ!
 一、人類を結ぶ世界市民たれ!
 一、人間主義の勝利の指導者たれ!


 昨今の大学を見ますと、卒業しても就職できなければ何もならないと、語学や技術などの実学を重要視する傾向にあるが、しかし、各界のトップの方々の一般的に共通していることは、文学・哲学・歴史等からよく学んでいて、造詣が深いと言うことでした。結局、何を学んできたかが問われているようです。

 つぎに、人間とは何か!動物との違いは何か!と言うことについては、色いろな定義があるが、どれが最も決定的な人間の定義なのかは未解明であるとのことでした。
 その中で、宗教的な人、宗教人について、スライドの画像を通して説明がありました。

 ある事故の現場で、花を手向けている人に “あなたの宗教は何ですか” と聞いたところ、“わたしは何も信じていません、無宗教です” と答えが返ってきた。
 この場合の “無宗教です” という言葉 は、“自分は特定の宗教をなに一つ信じていない” という意味である。すなわち “無宗派” である、ということであって、決して宗教心がない分けではない。それは、花を手向けるという行為自体が、もう既に、宗教的であるからである。
 また、“星に願いをかける” 少女がいたとする。何らかのものに願をかけると言うそのものが、宗教心のあらわれである。
 そのように考えると、人類・誰人と言えども宗教心のない、宗教人でない人間はいないのである。ここのところが、動物と違うところで人類が優れている点である。

 靖国問題で、よく “無宗教” の碑を建てようと言っているが、慰霊や碑は宗教的なものであるから、あれは “無宗派” の碑とすべきである、との指摘がありました。
 そこで、拙ブログの 「靖国と憲法」 の後半のところで、“第三に、新しい施設は、誰でも心置きなく追悼でるように無宗教の施設で ……” と書いていましたが、この無宗教を “無宗派” と訂正させて頂きますので、ご了承ください。
 ブログ 「靖国と憲法」 ―→ ここから

 そのほか、先生の「 トインビー対談」 や 「教育提言」 を通しての講義もありましたが、本を読んで見なければ思い出せませんので、後ほど、ご紹介できれば嬉しく思います。 

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

講座 「人間学の扉」

 夏季講座 「人間学の扉」 の テキストに、次のようにありました。

 生命の尊厳の探究
 トインビー 「人間は他の動物より遥かに大きな行動の自由を持っています。他の動物より悪いこともできるし、善いこともできます」
 池田 「善と悪を見極める規範がなかったならば、それはもはや人間の社会とはいえません」 (『二十一世紀への対話』より)

 人間には行動の自由があるからこそ、善悪の見極めが必要になります。自らの意思で善の生き方ができる人こそが 「幸福な人」 ではないでしょうか。そして、教育の最大の使命はそのような生き方を啓発していくことにあるのではないでしょうか。
 池田先生は 「学問・教育の本質は、生命の尊厳を教えることである」 と述べられています。そして、生命の尊厳は頭で論理的に理解するものではなく、五感をフル稼働して感じ取っていくものでもあります。その感性を涵養するのは宗教的精神です。その意味で学問・教育は本来、宗教的でなければならないというのが先生のご主張です。
 但し、先生は 「宗教性」 と 「宗派性」 の区別を明言されています。「創価大学では宗教教育を行わない」 とされたのは、厳密には 「宗派教育を行わない」 という意味です。宗派性を超えた普遍的な宗教性、即ち 「人間が誰しももっている生命の尊厳への宗教的感性」 を育てることは人間教育に不可欠な要素です。
 宗教性を育てる方途として、池田先生は、「①対話、②古典文学の精神的遺産に触れること」、この二つを挙げられています。

 以上のように、端的に教えて下さっています。

 生命の尊厳とは、生命は崇高にして侵すべからざるものである。
 生命の輝き・躍動感は数量化できない。ゆえに、人間の研究は、この方法では全く成り立たない。しかし、ありありとしたクオリア(質感・感覚質)がある。
 生命の尊厳のクオリアに、ストレートに アプローチする学問、それが人間学である。そして人間の尊厳を伝え行く教育を、人間教育のための人間学である、と指導されました。

 池田先生の教育提言 「教育力の復権へ――内なる『精神性』の輝きを」 から(抜粋)

 宗教的使命は、人間的・社会的使命と相即不離であって、前者は必ず後者へと昇華、結実していかなければならない。もし、両者を切り離してしまうと、宗教性は宗派性へと歪曲され、ともすると宗教は、人々に害を及ぼす反人間的、反社会的な存在に堕してしまいます。多くの カルト教団が陥りがちな迷妄が、ここにあります。
 私が強調する 「宗教性」 とは、「宗派性」 とは厳しく一線を画しております。人間的・社会的側面での価値創造に繋がっていかない宗教性は、その名に値せず、どこかに偽りがあるのであります。ゆえに、私はかつて「 創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を侵し続ける “力” に対する、内なる生命の深みより発する “精神” の戦いである」 と位置づけたのです。
 この 「“精神” の戦い」 とは、精神性、宗教性の掘り起こしの謂であります。

 宗派性を超えて、精神性、宗教性の普遍的な広がりをもちうるかどうかは、その宗教が21 世紀文明に貢献していくための試金石といってよい。それと同時に、話を教育次元、特に宗派性をもち込んではならない学校教育の場に戻せば、私は、子どもたちの荒れた内面を耕し、緑したたる沃野へと変えゆく古今変わらぬ回路は、そうした精神性、宗教性を豊かにたたえた芸術作品、なかでも書物に接していくこと、即ち読書だと思います。
 コミュニケーション不全の社会に対話を復活させるには、まず言葉に精神性、宗教性の生気を吹き込み、活性化させていかなければならない。その活性化のための最良、最強の媒体となるのが、古典や名作などの良書ではないでしょうか。
   
 こういう古典を熟読吟味することが、どれほど自分の精神世界を豊かに、分厚いものにしてくれるか――優れた精神的遺産を “宝の持ち腐れ” にしておいては、もったいない限りであります。
 トルストイに限りません。ドストエフスキーでもよい。ユゴーでも ゲーテでも、何十年、何百年という時間の淘汰作用を経て生き延びてきた古典や名作には、必ず “何か” が含まれているはずです。外国の大文学が重すぎれば、日本の近代文学、あるいは河合隼雄氏などが推奨している コスミックな児童文学の中からでも、いくらでも拾い出すことが可能でしょう。
 いくら “活字離れ” がいわれても、否、“活字離れ” の時代であればあるほど、私は、時流に抗して、古典や名作と一度も本気で格闘したことのない青春は、何と寂しく、みすぼらしいものかと訴えておきたいのであります。


 先生は “古典や名作と一度も本気で格闘したことのない青春は、何と寂しく、みすぼらしいものか” と指導されています。いまの若者たちは、電車の中までも スマートフォンに、夢中になって使っている姿を、多く見受けられます。貴重な青春時代を、無駄に過ごしているようで、実に残念でなりません。

 山岡教授が、学生たちに読ませている文学作品の中から
 ビクトル・ユゴーの 『九十三年』 と 宮田 輝の 『骸骨ビルの庭』 の二作品の大意を話され、生命の尊厳性について話されました。
 これからは 「人道的競争時代」 になる。“生命尊厳の思想を普及し、社会に実現していく力をより強くもった人々を、育て啓発する教育。その基盤となるのは宗教的信念” である、との御指導でした。
 
 先生の教育提言 ―→ ここから

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夏季大学講座(1)(2014年)

 8月29日、創価大学の夏季講座を受講してきました。講座名は 『法華経』 を読む(9)―随喜功徳品・法師功徳品・常不軽品― です。講師は、菅野博史教授であります。

 ここのところは、法華経の流通分であり、寿量品を聞いて随喜した者の功徳を説いている章である。そして、寿量品について、三点に亘って話された。
 第一に、釈尊が成仏したのは、五百塵点劫というはるか遠い過去であり、合わせて未来も不滅であると説くことで、釈尊の仏としての寿命の長遠を説いている。

 第二に、寿命が長遠であるのに、如来はどうして涅槃するのか、という問題がある。寿量品には 「方便現涅槃」 とある。即ち、衆生を救済するために、あえて方便として涅槃を現ずるのであるという。 
 方便品は、方便の力を讃えている。仏は智慧と慈悲をもって救う。智慧に裏づけされた慈悲である。智慧があっても方便がなければ救えない。譬喩品の “三車火宅の譬え” のように、羊・鹿・牛の三車の方便をもって救ったのである。

 第三に、涅槃された仏を見仏、即ち、信仰のある者は仏を見る、仏と出会うことができるという。 今までの瞑想から心の現実性へ、「時に我れ及び衆僧は俱に霊鷲山に出ず」 と。故に、信ずる者の眼前に出現するという功徳を説いている。

 随喜功徳品
 五十展転の功徳、法華経を聞いて随喜して人に伝え、段々として第五十番目の人の功徳は、計ることもできないほど優れている。

 法師功徳品
 法華経を、受持・読・誦・解説・書写する、いわゆる五種法師の得る、眼・耳・鼻・舌・身・意根の六根清浄を説いている。
 受持とは、本来は暗記することであり、伝持の法師が重要視された。

 その他、六根清浄など、いろいろなお話があったが、先生の講義が滔々として淀みなくお話しされるので、ノートする間がなく、途中で止めました。
 受講中は分かるような気がしたが、後になると思い出せなくて、すっかり忘れてしまいました。
 断片的な単語でもよいから、ノートしておけば思い出すことの糧になるだろうと思いました。  

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夏季大学講座(2)

 講義は午前の部が、10時~11時30分、昼休みが2時間、午後の部が、13時30分~15時までです。
 午後のはじめに、シルクロードを旅して伝えられた法華経の物語の “創価VOD” が、約 20分間放映されました。菅野先生もこの製作に携われて、解説者として出演されています。

 次に、受講生から質問を受けて、その解答が14時30分までありました。この部分の講義が自分にとって、一番面白く感じました。しかし、ノートを取らなくて思い出せず記憶に残った分を、私の考えも交えて少々述べてみたいと思います。

 南無妙法蓮華経 を中国語の発音では、どの様になるのかと言うのがありました。先生は早口で一回だけ言われましたが、ハッキリと聞き取れませんでした。今の我々の発音とは、少し違うようです。
 大聖人は 南無妙法蓮華経 を、当時の音読を使って読まれた とのことでした。
 同じ漢字の音読でも、日本語の発音と中国語の発音とでは、少しずれがあろうし、時が経てば違いも出てくるであろうと思いました。

 また、時によって修行の方法は違って来る。昔は方便品の長行まで読誦していた。これだけでも寿量品の三倍位はある。我々も前は、五座三座をやっていた。今は SGI に習って、方便・自我偈一回限りである。
 経文の読誦も 「爾時世尊 従三昧(にじせそん じゅうさんまい)」 では意味が分からない。宗派によっては、(爾の時に世尊 三昧より…)と訓読させている。海外では英語で読誦させているところもあるという。
 そのように、南無妙法蓮華経の唱題行は根本として堅持するが、助行の勤行は時代や国によって違って来るのである。
 仏教には、随方毘尼(ずいほうびに) という考えがあり、あまりハッキリものを言わないのである。

 日本国は自分自身から、なかなか変革しない。勤行の一つをとっても、SGI からの輸入である。
 こんな調子では、日本国民は、創価学会や池田先生・池田思想の偉大さや素晴らしさを、外国の人から教えられるまで分からないのかも知れない。謗法の執情の深き故であろうか。そうならない為にも、我々が頑張る以外にないと思った。

 葬儀を執り行う宗教は、滅亡しないという話があった。このような、見かたや考え方があるのだなあ と思った。
 釈尊は弟子たちに、“葬儀に係わる必要はない、修行に専念せよ” と説いた。当時、葬儀を行っていたのはバラモン教であった。
 後に、イスラムの侵攻を受け、仏教・バラモン共に破壊されたが、葬儀を執り行っていた バラモンや ヒンドゥー教は蘇生した。
 日本でも、明治維新の廃仏毀釈や戦後の戦勝国の宗教の風圧をはね返し、葬式仏教と揶揄されながらも、しぶとく生き残っているのである。

 仏の生命は長遠であるのに、釈尊は80歳で入滅された。80歳ということで、先生はご自身の体験を話されました。
 それは、東南 アジアからの研究生三人と会食した。奢ってやらねばならないから、高級なところには行かれないので、チョット安いところに行った。
 マグロの刺身が出された。先生は一口食べて、これはどうかなと思った。後は、三人の生徒に食べて貰った。その後、先生はあたって下痢された。早速、生徒たちに如何だったのかと尋ねたが、別に何もなかった。

 このことから、同じものを食べても、あたる人とあたらない人がいる。釈尊は食中毒で亡くなったと言われているが、御供の弟子たちも、同じものを食べている筈である。
 釈尊の場合は、80歳という御高齢であることを考えてみるべきである と言う お話でした。

 私はあと 2年で、80歳になります。釈尊にあやかって少なくとも、80歳までは講義に参加しょうと思います。これから、足腰の老化をを防ぎ、食中毒や熱中症に中らないように、気を付けて参ります。 

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夏季大学講座(3)

 次に 「常不軽菩薩品」 でありますが、菅野先生のお声が 「ジョウキョウ菩薩・ジョウキョウ菩薩」 と聞こえまして、私は一瞬 「ジョウギョウ(上行)」かなと思いましたが、いや 「常不軽菩薩」 の 「フ(不)」 の字音が聞こえなかったのだと納得いたしました。
 それにいたしましても、「常不軽菩薩」 のことを 「ジョウキョウ(常軽)菩薩」 という場合があるのだろうかと、そんなこと思っていましたら、あっという間に時間が来てしまいました。
 そこで、講義資料を頂いていますので、復習してみたいと思います。

 「常不軽菩薩品」 は、釈尊が徳大勢菩薩に対して、常不軽菩薩の物語を通して、『法華経』 を受持するものを悪口し、罵詈(ののしること)し、誹謗するものの罪の報いと、信じるものの六根清浄の功徳を説いている。

 威音王仏の像法時代、増上慢の比丘が勢力を振るっていた時代に、常不軽という出家の菩薩がいた。
 なぜ、常不軽というのかと言うと、自分と出会う上慢の四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)に向かって、彼らを礼拝し、褒め讃えて 「私は深く貴方たちを尊敬する。軽んじて侮ったりしません。なぜならば、貴方たちはみな菩薩の修行を実践して、当に成仏することができるからです」 と、大きな声で言って人毎に礼拝した。
 この菩薩は経典を読誦することに専念せず、ただ専ら礼拝を行うだけであった。常にこのような言葉を語ったので、増上慢の四衆は、彼を “常不軽菩薩” と呼んだのである。

 これは、すべての人間が将来において菩薩の修行を実践して仏に成ることができるという、最も人間を尊厳視した 『法華経』 の思想と実践である。
 この礼拝行を一生涯実践した常不軽菩薩は、六根清浄の功徳を獲得した。そして釈尊は過去世において、この常不軽菩薩こそ、釈尊自身であることを打ち明けるのである。
 釈尊は、常不軽菩薩の物語を通して、諸の菩薩摩訶薩に対して、「如来の滅後に於いて、常に応(まさ)に是の経を受持し、読み、誦し、解説し、書写するべきである」 と述べ、『法華経』 の五種法師の修行を勧めているのである。
 他に、プリント一枚の資料を頂きまして、その中に 「常不軽菩薩の実践の思想的意義」 と題するのがありますので、引用させて頂きます。

 この物語によれば、常不軽菩薩の礼拝行と 『法華経』 とは直接の関係がないことになる。なぜならば、常不軽菩薩は臨終のときにはじめて 『法華経』 を聞いたことになっているからである。
 しかし、一仏乗、つまりすべての衆生が平等に成仏できるとする思想が 『法華経』 のもっとも中心的な思想であることと、『法華経』 の成立の歴史を想像すると、初期の 『法華経』 の信仰者 グループの実践は、あらゆる人の成仏を訴える、この常不軽菩薩の授記のようなものではなかったかと推定される。この 『法華経』 信仰者の実践に対する周囲の冷ややかな反応もまた、常不軽菩薩品に描かれるようなものだったのではないであろうか。

 日本の日蓮(1222~1282)、あるいは後の弟子が常不軽菩薩の語りかけた、二十四文字(我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏。) と、妙法蓮華経の五字 とを類比対照させたこと、つまり常不軽菩薩の語りかけが 『法華経』 の思想そのものであると捉えたことは、常不軽菩薩の実践こそが 『法華経』 に対する信仰と実践であることを洞察したからにほかならなかったからであろう。
 (『崇峻天皇御書』、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P)
 『教行証御書』、「彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり、得道の時節異なりと雖も、成仏の所詮は全体是れ同じかるべし」(1277P) を参照。)

 日蓮の思想の影響を受けた宮沢賢治(1896~1933)の有名な詩に 「雨ニモマケズ」 があり、これは常不軽菩薩の実践に着想を得たものであることはよく知られている。
 日本の文壇では、彼の死後、この詩の文学的価値に関する議論があったが、そのような議論は結局、賢治にとってはむなしいものと映ったはずである。なぜならば、この詩は文学ではなく、賢治の誓願文であるからである。自分も常不軽菩薩のように生きたいという彼の誓いの言葉なのである。

 このように見てくると、常不軽菩薩の実践は、とりもなおさず 『法華経』 の中心思想の一つである一仏乗の思想、つまりすべての衆生が平等に成仏できるという思想を、ドラマの形で生き生きと表現したものであることがわかる。


 日蓮大聖人は、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) と仰せです。
 常不軽菩薩の礼拝行に見られる 「人を敬う」 という実践が、法華経の修行の根本であり、末法今時に於いては、学会員さんたちが実践する 「折伏行」 こそが、自身にとって 「出世の本懐」 となるのであります。

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夏季大学講座(2015年)

 創価大学の夏季講座を受講しました。昨年に引き続き、菅野教授の 「法華経」 を読む(10) ―如来神力品・嘱累品・薬王菩薩本事品― であります。
 教授はこの講座も、後 2~3回で終るだろうと、丁度その頃、御自身も定年を迎えると言われていました。 
 来年私は、80歳になりますので、どうしょうかなぁ と、一瞬思ったこともありましたが、上京の車中で読んだ大白蓮華の池田先生の御指導のなかに、
 「人生、最後の最後まで戦いきった人は、美しい。
 ですから、生涯、青春の心と行動が大切なのです。“自分は年をとったから、ほどほどにしてもいいだろう” などという逃げの人生であってはならないのです」
とありました。  (大白・2015-9月・100P)
 この “ほどほどにしてもいいだろう” というのが、なかなかの曲者であるようで、この弱い心に妥協しないようにしなければ成りませんす。私は途中からの受講でしたが、最後まで受けたいと思っています。

 まずはじめに、『法華経』 の中心思想についてのお話がありました。
 1、一仏乗の思想。
  「開三顕一」(方便品)。三乗方便、一乗真実を顕す。三乗とは声聞・縁覚・菩薩のことで、
  声聞は四諦の法を修行し、阿羅漢の境地を。縁覚は十二因縁を修行し、壁支仏を目指す。
  菩薩は六波羅蜜を修行し、仏果を目指す。三乗は一仏乗に統合されて、共に仏果を目指す
  菩薩として、平等の存在であることが明かされた。
  このほか、「一大事因縁(開示悟入)」 「常不軽菩薩の礼拝行」 等のお話がありました。

 2、久遠の釈尊の思想。
  「開近顕遠」(寿量品)。始成正覚を開いて久遠実成を顕す。
  「五百塵点劫」 何回も繰り返すことで久遠を教えている。
  「方便現涅槃」 生命は永遠であるが、方便して涅槃を現ず。一種のショック療法である。
  このほか、「良医病子の譬喩」 等のお話がありました。

 3、地涌の菩薩の思想。
  願生の菩薩。願生とは過去世の誓願によって、今世に生まれること。「願兼於業」。
  「自ら清浄の業報を捨てて……衆生を愍むが故に……此の経を演ぶるなり」(法師品)。

  人を救うために、使命を自覚して出現したのが地涌の菩薩である。

 〔1〕 如来神力品 21 (別付嘱) 
 1、地涌の菩薩の 『法華経』 弘通の誓い
  涌出品の地涌の菩薩の出番がこれまでなかったが、この品では、釈尊に
  「私たちは仏が涅槃に入った後に、世尊と分身仏のいる国土の中の(仏が)涅槃に入った
  場所で、この 『法華経』 を敷衍して説くでしょう。その理由は何か。私たちも自らこの真実・
  清浄で偉大な法を得、受持し、読み、誦し、解説し、書写して、これを供養しょうと思うから
  です」
と地涌の菩薩の弘通の誓いを申し上げる。

 2、釈尊と分身仏の神通力
  地涌の菩薩たちが誓いを述べたとき、釈尊は昔から娑婆世界に住む大衆の前で、偉大な
  十種の神通力を示す。
  はじめに、広長舌を出して梵天まで到達させる。仏の説く内容に虚妄のないことを示す。
  その他、毛穴から光を放って、十方世界を照らすとか、通常我々の考えの及ばない現象で
  あるが、これも、妙法の偉大さを示して、その当体を地涌の菩薩に付嘱せんがためである。

 3、地涌の菩薩への 『法華経』 の付嘱  
  『法華経』 を付嘱するために、この経の功徳を説いても、まだ説き尽くすことはできない。
  『法華経』 の内容を 「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法と、如来の一切の
  自在の神力と、如来の一切の秘要の藏と、如来の一切の甚深の事とは、皆な此の経に
  於いて宣示顕説す」
という四句の要法にまとめて、地涌の菩薩に付嘱するのである。

 〔2〕 嘱累品 22 (総付嘱) 
  嘱累品においては、一切の菩薩たちに対して、総じて 『法華経』 を付嘱する。
  この品より後は、学会教学では馴染の薄い品ですので、省略させて頂きます。
  ただ、法華経の品の構成に異論があるとのことですので、テキストを引用させて貰います。
  「嘱累品は一般的には、経末に置かれるものなので、鳩摩羅什訳においてこのように中途
  に置かれることは奇妙な印象を与える。ただし、多宝如来の塔もここで本の場所に帰るよう
  勧められているが、後の妙音菩薩品や観世音菩薩普門品にも また登場している。
  嘱累品がこの位置に置かれてことに関して、『法華経』 の成立史を推定する場合、嘱累品
  がここにあることは、『法華経』 の発展のある段階においては、『法華経』 はここまでしかな
  かったのではないかと推定された」

  このことは、嘱累品より後の六品は、後人の付加したものであろうとのことである。

 〔3〕 薬王菩薩本事品 23  
  この品に有名な広宣流布の文証があります。
  「我が滅度の後、後の五百歳の中(うち)に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、
  諸天竜、夜叉、鳩槃荼等に、其の便りを得せしむること無かれ」
の文です。
  この 「薬王菩薩本事品」 は、もともと独立したものであるとの説があるそうです。                     
  「この品の中には 『薬王菩薩本事品』 という品名がしばしば出てきて、奇妙な印象を与え
  る。というのは、建前としては品名は後の経典編集者が付けたものとされるからである。
  ところが、この品では釈尊の説法の中に品名が出ているのである。そこで、『法華経』 の
  成立を推定する研究者の中には、このように自らの品名を出す品は元来は独立単行されて
  いたもので、後に 『法華経』 の中に組み込まれたのであろうと推定する者もいるが、真偽の
  ほどは未確定である」
ということでありました。 

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夏季大学講座(A)(2016年)

 創価大学の夏季講座、本年も菅野博史教授の 「法華経」 を読む(11) ―妙音菩薩品・観世音菩薩品・陀羅尼品― であります。
 本年は27日、台風の影響で雨になりましたが、無事受講することができました。
 この 「法華経」 を読む シリーズも、あと 妙荘厳王本事品 と 普賢菩薩勧発品 の二品であるが、教授は来年には何か予定があるそうで、開講できないだろう とのお話がありました。

 まず序論として、「法華経」 の三つの中心思想 について論じられました。
 1) 一仏乗の思想
 2) 久遠の釈尊の思想
 3) 地涌の菩薩の思想

 以上のことは、昨年にも論じられており、中には何度も同じことを聞いたと言われる方もおられるが、“仏法は実践が大事である。実践するには何度も聞くことも大切である。(趣意)” とのお話でした。
 私もこの頃は、御書や大白蓮華を読んで勉強しても、殆んど記憶に残りませんが、勉強したという行為(業)は、自身の生命に善業となって積まれているのだと信じ、心慰めております。

 〔妙音菩薩品〕
 釈尊の眉間白毫相から放つ光によって、浄華宿王智仏の浄光荘厳世界が照らされ、そこに妙音(どもるもの、口ごもるものの意であるが、妙音とはまったく一致せず、不明)菩薩がいた。
 妙音菩薩は、三十四種類の身に変身して 「法華経」 を説き、娑婆世界の衆生を救済するのである。
 さらに華徳菩薩が、妙音菩薩の住する三昧の名を質問すると、釈尊は現一切色身三昧に住していると答える。またの名を普現色身ともいい、衆生救済の力を持ち、三十四種類とはあらゆる身に変身できることを示している。


 ここで、菅野教授の講義ではありませんが、『法華経の智慧』 から該当の部分を引用させて頂きます。

 斉藤 妙音菩薩は、薬王菩薩や観音菩薩と同様、「現一切色身三昧」 を体得しています。
 民衆を救うためならば、どんな姿にでもなって行動していこうという境涯です。
 遠藤 経典には、あるいは梵天王の身を現じ、あるいは帝釈の身を現じ、あるいは自在天の身を現じ……とあります。
 ………
 斉藤 大聖人は、こう仰せです。 「所用に随つて諸事を弁ずるは慈悲なり是を菩薩と云うなり」(774P)

 名誉会長 相手にあわせて自在です。自由自在であり、自由奔放(ほんぽう)です。
 人を鋳型にはめて、ロボットのような人間を作るのが宗教ではありません。 ロボットのように縛られた生命を解放するのが仏法です。
 妙音の三十四身とは、創価学会が、社会のあらゆる分野で、多角的に、また立体的に行動している正しさの証明です。
 分野は違っても、すべて 「慈悲」 です。 「人間主義」 です。 「悩める人の最大の味方になっていこう」 という炎が燃えていなければならない。 それがなくなれば 「妙音」 ではりません。


 斉藤 かつて ヤコブレフ博士(ペレストロイカの設計者)が、池田先生の行動を見て、こう言われていました。 ドストエフスキーの 「美は世界を救う」 という言葉について、この 「美」 とは 「人間主義」 のことではないか ―― と。
 「人間主義」 で、社会のなかへ、社会のなかへ入っていくことですね。

 名誉会長 それが 「美」 です。 それが 「妙音」 です。 それが 「法華経」 です。 学会の行き方は絶対に正しい。  (法華経の智慧6巻・86P)

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ジャンル : 学問・文化・芸術

夏季大学講座(B)

 午後からの講義は、恒例になっている質問会です。
 * 釈迦仏法の成仏の境涯とはどういうものかという趣旨であった思う。
 法華経の迹門では、二乗の未来の成仏を説いている。これらは所詮歴劫修行である。
 また、提婆達多品では、竜女が直ちに成仏したことが説かれている。
 釈迦仏法では、娑婆世界は穢土といわれている。三悪道は想定外として、人界以上を浄土としている。

 * 釈迦仏法は、どうして西方の中東やヨーロッパに広まらなかったのでしょうか。
 一つには、交通の便・不便という問題があるのではないか。
 釈迦仏法が、世界へ広まったのは大乗仏教の時代になってなってからである。その時には、イエス・キリストも出現している。

 その他、多くの質問があり、時間も 30分以上に亘った。概して、質問の内容が難しかった。(聞き取り難かった点も含めて)
 質問者は信仰者の立場で問い、先生は仏教学者として答えられ、その間において多少の ズレが感じられた。
 時間の制約もあるでしょう、日蓮仏法との関連性についての解説がありませんので、質問者によっては、回答が腑に落ちないと感じられた方も居られるのではないかと思われます。

 〔観世音菩薩普門品〕
 普門品は、独立単行されて 『観音経』 と呼ばれる。観世音菩薩の名を唱えるならば、観世音菩薩はすぐにその衆生の唱える声を聞いて、衆生を苦難から救済してくれることを説く。すこぶる現世利益的な内容なので、中国・日本において、広く観音信仰が流行した。
 観世音の語源は、Avalokitesvara であり、直訳的には、後に玄奘が訳したように 「観自在」 が正しい。
 では、なぜここでは観世音と訳されたのであろうか。 これには、Avalokitasvara (svara は音の意) が原語だったのではないかとする説 (この場合 Avalokita が観世と訳されたことになり、lokita が loka = 世間と混同された可能性があるとされる)。
 観世音菩薩は衆生の苦しみの音声、救いを求める音声を観察して、救いの手を差し伸べるという働きを持つことから、観世音と訳したのだという説などがある。


 観世音菩薩の名号受持の功徳について、
 ① 大火に入っても、観世音菩薩の名を心にとどめれば、火も焼くことができない。
 ② 大水の流されても、観世音菩薩の名を唱えれば、浅い所にたどり着く。

  ………
 等々の九つの功徳を説いている。
 このように、観世音菩薩の名を唱える偉大な功徳を列挙した後に、釈尊は無尽意菩薩との問答によって、六十二億恒河沙の菩薩たちの名を受持(記憶する意)し、一生涯、飲食物・衣服・寝具・医薬を供養する功徳はとても多いが、観世音菩薩の名を記憶し、短い間でも礼拝・供養する人の功徳はこれとまったく等しく、百千万億劫という長い時間でもなくならないほどであることを明かす。
 
 『御義口伝』 に、観音妙の事について、
 「妙法の梵語は薩達摩(サダルマ)と云うなり、薩とは妙と翻(ほん)ず此の薩の字は観音の種子なり仍(よっ)て観音法華・眼目異名と釈せり、今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり」(776P) と仰せです。

 『法華経の智慧』 を参照いたしたいと思います。

 斉藤 大聖人は 「観音法華・眼目異名」 という天台宗の言葉を挙(あ)げておられます。
 観音と法華は名前は違っているが、その眼目は同じであり、妙法そのものであるということです。

 名誉会長 じつは、観音菩薩とは、寿量品で示された久遠の本仏の生命の一分です。 宇宙と一体の本仏の 「限りない慈愛」 を象徴的に表したのが観音です。 だから久遠の本仏を離れては、観音菩薩の生命はない。 魂のない抜けがらのようなものです。

 遠藤 妙法を信受しないで、観音を拝んでも本末転倒であるということですね。

 名誉会長 久遠の本仏の生命――御本尊はのなかに、観音菩薩も含まれている。
 御本尊の――妙法の功力の、ごく一分が観音菩薩の働きなのです。
 古来、観音品ほど多く論じられてきた品もない。 「観音経」 として独立して信仰されてきた歴史もある。 今なお、各地で 「観音菩薩像」 が次々に建立されている。 また日本では特に人気のある 「般若心経」 も、観音が説法する経典です。
 しかし、その割には、「観音」 の力の源を多くの人が誤解している。 その 「力の源」 とは 「妙法」 です。 妙法を釈尊滅後に弘めていきなさいというのが法華経の 「流通分」 であり、観音品もその一つです。
 観音品は、あらゆる仏典の中で、観音菩薩が登場した一番古い経典です。 ここで、ちゃんと位置づけられている。 観音菩薩も妙法――寿量文底の南無妙法蓮華経――によって、人を救う 「力」 を得ているのです。


 遠藤 根源の 「妙法」 を離れて、「観音」 を拝んでも、意味がない。 かえって観音の願いに背いてしまうということですね。  (法華経の智慧6巻・98P)   

 〔陀羅尼品〕
 薬王菩薩と勇施菩薩、毘沙門天王、持国天王が順にそれぞれ呪文を説いて 「法華経」 を読誦する法師を守護することを誓い、最後に十羅刹女が鬼子母とその子、仲間たちとともに呪文を説いて、「法華経」 を読誦する法師を守護することを誓う。
 陀羅尼は dharani の音写で、総持と漢訳される。もともと経典を記憶する力、善を保持する力を意味するが、ここでは仏の教えの エッセンスで、神秘的な呪力があるとされる、比較的長い呪文の意である。


 『御義口伝』 に、陀羅尼の事について、
 「陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり、其の故は陀羅尼は・諸仏の密語なり題目の五字・三世の諸仏の秘密の密語なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは陀羅尼を弘通するなり捨悪持善の故なり」(777P) と仰せです。

 陀羅尼とは、呪文と訳する。三世諸仏の秘密の中の秘密の言葉とは、“南無妙法蓮華経” のことである。
 南無妙法蓮華経と唱え、折伏していくのは、この陀羅尼の意義(捨悪持善)を、事実の上で弘めていることになるのである。ゆえに、何も意味は分からなくても、自然のうちの護られて、幸福境涯になっていくのである。 

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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