異教と異端

 月刊雑誌 『第三文明』 に、「創価学会とは何か」 というテーマで、日本を代表する知性・佐藤優氏と、日蓮研究などを専門とする僧侶・松岡幹夫氏との対談が連載されています。
 その “5月号” に 「異教」 と 「異端」 について、佐藤氏が述べています。
 異教とか異端という言葉は、キリスト教的用語であると思って無関心でありましたが、この文章を読んでみて、少し興味がわきましたのでご紹介したいと思いました。

 佐藤氏は、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省に入省、在ロシア日本大使館に勤務し、主任分析官として活躍しました。その後、無罪に等しい背任と偽計業務妨害容疑で逮捕され、約500日間服役しました。
 現在は、作家・評論家として活躍。特に創価学会を深く理解され、池田・トインビー対談、海外諸大学講演などを解説し、雑誌等に寄稿され、また 『創価学会と平和主義』 という著作もあります。

 佐藤氏は、プロテスタントの キリスト教徒でありますが、仏教団体の創価学会を応援してくださるのは、氏が物事を正しく見る見識の士であるからである と思います。
 それまでには、大使館在任中、池田先生と ゴルバチョフ大統領との会談がありました。それを近くで見聞きして、池田先生の偉大さを感じられた、のではないかと思います。
 会談の数日前、桜内氏(衆院議長)を通して、大統領の訪日を要請したが、それが頓挫(とんざ)してしまい、外務省は困り果て、池田先生に依頼しました。そして先生のお力添えで、やっと初来日が実現できたのである。
 しかし外務省は、池田・ゴルバチョフ会談のことは公式記録に記せず、外務省の失態を隠蔽(いんぺい)してしまった、 ということである。
 次に外部の方々は、通常、創価学会を褒め称えることはありませんが、佐藤氏は自身が服役したことによって、名誉も何も剥ぎ取られ、何も捨てるものがなくなった極限の境地を体験されて、毀誉褒貶(きよほうへん)に左右されない強き自由人になられたと思います。
 それから戦時中、キリスト教をはじめ全ての宗教団体が、不当なる国家権力に屈したその中で、創価学会だけが屈せず、初代牧口会長が殉教なされたことを高く評価されています。

 佐藤 勝  キリスト教神学では、「異教」 は キリスト教以外の宗教を指します。異教と キリスト教のどちらが正しいかを判定するためには、「弁証学」 が用いられます。それに対して 「異端」 とは、同じ キリスト教のなかで考え方が違う一派を指します。「異端」 との間で行われるのは 「弁証学」 ではなく 「論争学」 になります。本来 「異端」 との間のほうが距離は近いはずですが、「異教」 とのほうが併存しやすい。「異教」 に対しては 「無関心・無関係」 を保ちやすいからです。しかし相手が 「異端」 となると、無関心ではいられず、いろいろと面倒くさいことになるわけです(笑)。

 松岡 幹夫  いわゆる 「第二次宗門事件」 をめぐる経緯のなかで、宗門が創価学会を 「破門」 したわけですが、それはまさに彼らが学会を 「異端」 扱いしたわけです。異教ではなく異端だからこそ、衝突が起きた。

 佐藤  そうですね。不思議なのは、破門してもう関係ないのなら無関心を決め込めばよいものを、あの人たちは破門後も学会から信徒を奪い取ろうと画策してきたことです。それは私から見ると、「お前のことは勘当(かんどう)する。しかし、お前が息子であることに変わりはないのだから、親の言うことを聞け。親には仕送りをしろ」 と言っているように聞こえます(笑)。 (第三文明・2015-5月号・52P)

 佐藤氏は、異教は無関心・無関係でいられるが、同じ宗教内で似て非なる異端は、無関心ではいられず、色々と面倒くさい問題が生じてくると言われています。
 実際、学会と宗門との関係もそうなっています。また、イスラム教の シーア派と スンニ派のことはよく分からないのですが、同じ “アッラー” の神を信じながら、共に不倶戴天の仇敵である、といっている。宗教が持っている、ある一面の怖さを感じます。ゆえに、宗教の正邪を正さなければならないのである。

 松岡  まさに 「内ゲバの論理」 で、自分に近い存在ほど エキセントリックに排撃するわけです。 (エキセントリック…常軌を逸した、奇矯な)
 それから 『宗教改革の物語』 のなかに 「『超越性に対する感覚』 を失うと、信仰は単なる世界観になり、寛容性を失って、自分たちの世界観を他者に押し付けるようになる」 という一節があって、本当にそのとおりだと思いました。
 宗教改革とは、要するに 「宗教の原点回帰」 のことであるわけですが、どのように原点回帰すればよいかというと、それは 「超越性の感覚を取り戻す」 ということに尽きると思うんです。そのような宗教改革の本質を、見事に摘示(てきし)された文章だと感じました
。 

 佐藤  宗門は 「超越性に対する感覚」 を失ってしまったわけですね。 (同誌・53P)

 ここに 「超越性に対する感覚」 という分かり難い哲学的な用語があるが、「超越性」 すなわち、通常を超えたものとは、我々にとっては 「御本尊」 になると思います。
 したがって、それに対する感覚と言えば、“御本尊に対する瑞々しい信仰心” であると思います。その信仰心を取り戻すことが、“宗教改革の本質” である、と述べられている。

 松岡  そうなんです。宗門の僧侶は、江戸時代の檀家制度によって 「職業化」 してしまいました。本来は生き生きとした宗教活動であるはずが、ただの 「僧侶という職業」 になってしまった。その結果、宗門の僧侶から 「超越性に対する感覚」 がどんどん失われてしまった。佐藤さんのご著書にある言葉を借りれば、「自己保全のビジネス」 と化してしまったんですね。

 佐藤  しかも、宗門には 「僧が上、信徒が下」 という ヒエラルキーがあって、なおかつ、僧のなかにも細かい クラス分けがなされていますね。まるで中世の硬直した カトリック教会のようだと感じます。 (ヒエラルキー…階級制度)

 松岡  私が宗門と論争していたころ、相手の言い分のなかでいちばんあきれたのが、「法主(ほっす)だけは本仏の境地にある」 という意味のことを言い出したときです。法主も一人の信者であるはずなのに、彼らにとってはまず何よりも僧俗差別と法主絶対主義があるわけです。そこまで硬直化した世界観を持っているからこそ、その世界観以外の考え方は認めない。そして、創価学会のように 「似て非なるもの」 ほど、自分たちの アイデンティティーを脅(おびや)かす存在となるため、必死になって排撃するわけです。 (アイデンティティー…存在の自己証明) (同誌・53P)

 松岡氏は、“宗門の僧侶は、江戸時代の檀家制度によって 「職業化」” したと述べています。その結果、僧侶たちは御本尊に対する信仰心を失ってしまった。
 職業化は宗教の中に、封建時代の身分感覚をそのまま持ち込み、“僧が上、信徒が下” と、その上に “法主だけは本仏の境地にある” という 「法主本仏論・法主絶対主義論」 を唱え、徳もない信用に値しない法主・日顕の権威づけのために利用しているのである。
 それゆえに、日顕の相承疑惑についても、“日顕が血脈を受けた、と言っているから受けたのだ(趣意)” と、答にもならないことを言っている。このように、法主が “白と言えば白、黒と言えば黒” になる と主張するのである。理屈もへったくれも何もないのである。

 要するに、日顕宗は御本尊と御書を信ずるよりも、法主を信ずる 「法主信仰宗」 なのである。
 そして僧侶らは、御本尊を利用して、然も尤もらしいことを言って、信徒の純真な信仰心を食い物にするのである。このような悪侶を 「食法餓鬼」 というのである。騙(だま)されないように気を付けましょう。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

原理主義

 『第三文明 5月号』 で佐藤優氏は、異教よりも異端の方が、いろいろと面倒くさい問題が生じてくると言われています。
 そこで思い出しますことは、「原理主義」 という言葉です。「原理主義」 とは、原理・原則を厳守して、その徹底をはかろうとする立場である。これの対極にあるのが 「修正主義」 である。

 かつて 1960年代頃、中ソ論争が起きて、喧しく遣り合っていたことを思い出します。
 現在は IS (イスラム国)が出現し 「イスラム原理主義」 を唱え、イスラム世界の西欧化・世俗化を否定し、原点に帰ってイスラム法の適用された国家・社会を築こうとしている。
 IS の行動規範は、敵対する者は武力によってでも殲滅するという 過激なもので、過日、日本人二名を拘束し殺害して、世界を震撼(しんかん)させた。
 「原理主義」 と 「修正主義」 を比較した時、どうも 「原理主義」 の方が ドグマ(教条主義) 的であり、それによって反社会的な問題行動を起こすようである。
 
 宗門は、御書・日寛教学を厳守して、その徹底をはかろうとする立場であるから、あえて言えば 「原理主義」 といえよう。
 御書・日寛教学を基本としていると言えば、日蓮仏法の正統派のように聞こえるが、ご多分に洩れず ドグマ によって思考停止に陥り、硬直化し役に立たなくなってしまった。

 ゆえに、教義条項の解説に 「日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺の法主が続き、疲弊(ひへい)した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある」 と述べられている。  (大白2015/4月・94P)

 この点について、『第三文明4月号』 の対談の中で、松岡幹夫氏の論点を主にご紹介したいと思います。
 松岡  今回、その日寛教学のなかの時代的制約がある部分については再検討し、普遍的な部分についてはしっかり受け継いでいく…… 「時代的制約がある部分」 は、言いかえれば 「普遍的ではない」 ということになりますが、学会はそのことを 「悪い」 と言っているわけではないんです。
 ………
 ただ、そのような時代的制約がある部分について、二一世紀の今になって固執(こしつ)することは間違いです。宗門はまさに、時代的制約がある部分に固執しつづけてきた。それゆえに、現代の人々を救えない宗教になっているのです。
 ………
 その原理自体は普遍的で変わらないわけですが、原理の表現 ―― Expression の仕方が、宗門と現在の学会では異なっているのです。
 日寛教学においては、日蓮大聖人が弘安二(一二七九)年に御図顕された御本尊に求心性を持たせる表現の仕方をしてきました。特に宗門の正統性が問われた時代には、各人の信仰を深めるうえでも、大石寺の御本尊の意義を強調する必要がありました。
 しかし、日蓮仏法が世界中に広まった今は、そうした求心性の段階を経て、むしろ平等性や民衆性が求められる段階に入っています。布教のうえでも、平等性・民衆性を前面に出すやり方でなければいけないでしょう。 教学部の解説で “世界広布の伸展に対応して教義解釈の見直しを行う” と発表されたのは、そういう意味からだと思います。


 佐藤  同感です。私も 『潮』 の連載 「新時代への創造」 のなかで、今回の改正について、「これによって教義においても創価学会は日蓮正宗から完全に決別した。その結果、日本という ナショナルな枠組みにとらわれない世界宗教として発展していくことになる」 と書きました (『潮』 二〇一五年二月号)。   (同誌4月号・54~55P)

 世界広宣流布の時代が来り、御本尊の意義・絶対性を強調することよりも、布教のうえでは 平等性・民衆性や尊厳性を前面に出すやり方でなければ、世界には通用しないのである。
 宗門は僧侶の職業化によって、「大願とは法華弘通なり」(736P) の御遺命を忘れ、弘安二年の大御本尊の唯一絶対性を称え、御本尊の袖の下に隠れて供養を窺(うかが)っている計りである。

 涅槃経に云く 「我れ涅槃の後・像法の中に当に比丘有るべし持律(じりつ)に似像(じぞう)して少(わず)かに経典を読誦し飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)して其の身を長養せん袈裟を服(き)ると雖(いえど)も猶(なお)猟師の細視(さいし)徐行するが如く猫の鼠を伺(うかが)うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善(けんぜん)を現し内には貪嫉(とんしつ)を懐く唖法(あほう)を受けたる婆羅門等の如く実には沙門に非ずして沙門の像(かたち)を現じ邪見熾盛(しじょう)にして正法を誹謗(ひぼう)せん」等云云(228P) とあります。まさにこの経文通りなのであります。

 要は 「原理主義」 と言われ、「修正主義」 と呼ばれようとも、どちらが正統派なのか 
 宗祖日蓮大聖人の御遺命を奉じて、大聖人の仏法を世界へ広宣流布したのは誰か 
 それは 「創価学会」 なのであります。なかんずく、池田大作先生であります。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

三代会長を語る(上-1)

 月刊誌 『第三文明』 に連載中の 「創価学会とは何か」 という テーマの “佐藤・松岡対談” は、いま 〔三代会長を語る(上)――三代会長が成し遂げたこと〕 という項目のところである。   (第三文明・2015-10月・52P)

 囲碁について “岡目八目” という俚諺(りげん)がある。これは、当事者よりも第三者の方が、かえって物事の本質・是非が分かりやすいという譬えである。
 佐藤氏は、同志社大学院神学研究科を修了した、筋金入りの プロテスタントの キリスト教徒である。外務省国際情報局で主任分析官として、対ロシア外交を担う。鈴木宗男事件に連座し失職。現在、作家・評論家として活躍している。
 松岡氏は、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士。大石寺で得度し僧侶となる。その後離脱し、青年僧侶改革同盟を結成。現在、東日本国際大学教授、同大学東洋思想研究所所長である。
 上記のような異色のお二人が、三代会長をどのように評するのか、興味深く感ずるものである。

 まずはじめに、〔「師弟」 のなかにこそ、生きた信仰が流れ通う〕 という項目があります。そのなかで、
 松岡  ……生きた仏法というものは、生きている師のなかに超越性――すなわち仏を見て、自らも仏を目指すという 「師弟不二」 の信仰に立ちます。つまり、三代会長を単に 「指導者」 としてのみとらえてしまうと、大切な何かがこぼれ落ちてしまう気がします。
 ………
 松岡 幹夫  信仰において、ただ単に法や教義を学べばよいというのは抽象論であって、真の信仰は生身(なまみ)の人間のなかにこそ躍動しているものです。それを師の姿を通じてつかみとることが、法華経における信仰のありようだと私は思うんです。

 佐藤 勝  ……「創価学会には、真実の宗教性がある。この宗教性は、池田大作創価学会名誉会長という一人の人間の人格に体現されている」 と、……創価学会の信仰と池田会長という人格は分かち難く結びついていて、分離して論ずることはできません。池田会長、ひいては三代会長を理解せずに、創価学会を理解することは不可能なんです。
 
 つぎの 〔三代会長は仏教の実現者〕 の項目には、 
 松岡  まず、「仏教史のなかに三代会長をどう位置づけるべきか?」 を考えてみます。
 釈尊が説いた仏教の確信は、「すべての物事は互に関わり合い、支え合って存在している」 とする 「縁起の理法」 です。それを大乗仏教では 「空」 という形で理論化し、竜樹などがさらに精緻化した 「中論」 を説いた。そしてそれが、天台に至って、「一念三千」 という存在論として結実します。その 「一念三千」 の理論を、「三大秘法」(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)からなる 「救済のシステム」 として大成したのが日蓮でした。

 ………
 松岡  そして、日蓮が作り上げた三大秘法という 「救済のシステム」 を、広く日本中、世界中に流布していったのが、三代会長であり創価学会でした。釈尊は仏教の創始者、日蓮は完成者、三代会長は実現者であると言えましょうか。三代会長は、釈尊から日蓮に至る仏教史の、いわば 「総仕上げ」 の役割を担ったのです。

 松岡氏は、釈尊は仏教の “創始者”、大聖人は三大秘法という 「救済のシステム」 の “完成者”、三代会長はそれを広く世界中に流布していった “実現者” であり、仏教史の いわば 「総仕上げ」 の役割を担った と述べられています。

 佐藤  「総仕上げ」 を担ったのが出家者でないという点が興味深いですね。

 松岡  もちろん、日蓮宗や日蓮正宗といった僧侶集団がずっといたわけですが、彼らは七〇〇年の歴史のなかで日蓮の教えを形骸化させました。時の権力に迎合したり、聖職者とは呼べないほど世俗化したりして、三大秘法が 「救済のシステム」 として機能しなくなっていた。その システムを現代において再生させ、実際に民衆救済のために広く用いていったのが、三代会長でした。私が 「仏教史の総仕上げの役割を担っていた」 というのは、そういう実現者の意味です。

 佐藤  よくわかります。私も 『地球時代の哲学』 のなかで、「池田氏の出現によって、日本と世界の仏教の歴史は質的に変化したのである」 と書きました。その 「質的な変化」 を別な言葉で言い換えるなら、松岡さんが言われるように、「形骸化してしまっていた日蓮仏法の救済 システムを、現代に再生させた」 ということになると思います。
 そして、三代会長による 「仏教史の総仕上げ」 とは、「日蓮仏法の世界宗教化」 とも言えます。私は 『地球時代の哲学』 で、「池田氏は、『西洋の危機も東洋の苦境もともに救いきれる宗教、現在から未来にかけての一切の問題に、人類が一体となって取り組むのに役立つ宗教』 を創価学会の ドクトリンに体現した」 とも書きました。日本に生まれた宗教である日蓮仏法を、世界中どこでも通用する形に普遍化していったのが池田会長だと思います。
 もちろん、世界宗教的な側面は日蓮仏法そのもののなかにもあったし、牧口会長、戸田会長も、世界宗教化を視野に入れていたでしょう。しかし、それが具体的に実現されていったのは池田会長時代です。池田会長はたとえば、「人権」 とか 「自由」 などという ヨーロッパ由来の概念を、日蓮仏法の観点からとらえ直し、普遍化していったのです。
 (ドクトリン……教義)

 佐藤氏は、“「仏教史の総仕上げ」 とは、「日蓮仏法の世界宗教化」 とも言えます” と。
 日本に生まれた日蓮仏法を、世界中どこでも通用する形に、“言い換えれば、池田先生が仏法的観点から光を当てることによって、「人権」 や 「自由」 といった価値は普遍性を獲得したのです” と述べられています。

 佐藤  そして、三代会長による 「仏教史の総仕上げ」 が、「此岸(この世)性」 の追求のなかで成し遂げられてきたことは、大きな意義があると私は思います。
 創価学会/SGI は、「彼岸(あの世)性」 よりも 「此岸性」 を重んじる教団です。現実のなかでわれわれが直面するさまざまな苦難――病気や経済苦、家庭不和など――に対して、具体的な解決を与える。……
 現世において御利益がないような宗教は、来世のことに関わる “入場券” すら持っていないのです(笑)。悩み苦しんでいる人々を具体的に救うことを何よりも重視し、「此岸性」 を追及してきた点でも、三代会長は 「仏教史の総仕上げ」 を担ったと評価するにふさわしいと思います。

  
 彼岸の本来の意味は、生死・煩悩の迷いの世界を 「此岸」 とし、解脱・成仏の悟りの境涯を 「彼岸」 という。この此岸から彼岸に到ることを 「到彼岸」 といい、そのためには仏道修行が必要とされる。
 浄土宗では、西方極楽浄土を彼岸とし、死んで彼岸にゆくことを願うのである(欣求浄土)。
 このような浄土思想によって、一般世間では、死んだら成仏するという 間違った考えが広まり、彼岸を “あの世” のことと、間違った認識をしてしまった。この悪思想こそが、社会を害する根源の一凶である。
 日蓮仏法では、現実のこの世界、この身のままで、即身成仏(到彼岸)することができるのであります。 

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

三代会長を語る(上-2)

 前の ブログの続きで、〔三代会長の哲学の根底にある 「因果俱時」〕 の項目には、
 松岡  「創価学会は現世で解決を与えられる宗教である」 と……仏教はもともと、因果――原因と結果の関係性をとことん追求してきた宗教でした。
 ………
 松岡  牧口初代会長は、その点に仏教の魅力を感じたようです。原因と結果の探求によって人を苦しみから救おうとする点に、科学の研究にも通ずる合理性を見いだしたのです。しかも、科学は現世だけの原因・結果を追求しているのに対し、仏教は過去世と来世までも視野に入れて原因・結果を追求している。したがって、仏教は最も包括的な因果論であり、仏教の視座に立ってこそ科学などの因果論も正しく活かすことができる、というのが牧口会長の結論でした。  
 ……来世の救いを待たずとも、現世で苦しみを解決できる。「此岸性」 を創価学会が重んじている背景には、この 「因果俱時」 の教理があるのです。
  (第三文明・2015-10月・56P)

 「因果俱時」 とは、原因と結果が同時に生ずるということです。我われの生活感覚からいえば 「因があって果がある」 という、その上に、過去になした業因は変えることができないと思っています。
 このような見方に対して、佐藤氏が大学受講の時の挿話(そうわ)についてお話をしています。 

 佐藤  私は同志社大学で 「阿毘達磨」(仏教の注釈書)の講義を受けた時、そのなかに出てくる一つの挿話に強い印象を受けました。それは、“ある船が嵐で難破した際、一人だけ死なずに助かった。なぜ助かったかといえば、将来、悟りを開いて仏となる人だったからだ” という話です。つまり、未来において仏になるという 「結果」 が、現在において命を救われる 「原因」 となっているわけで、因果の時系列が逆転しているのです。それを教えてくれた教授は、「仏教における因果というものを、単純に時系列で考えてはいけないということだ」 と解釈してくれました。

 松岡  そうですね。因果俱時は、「因果は一体であり、時間を超越している」 ということでもあります。だから、因果の時系列が逆転していても矛盾ではないのです。そのような因果俱時の教理が、三代会長の哲学の根底にある。だからこそ、世界を単純に時系列でみることに慣れた世間の人からは、時に理解しにくい面もあるわけです。

 “因果一体であり” とは、「仏因」 自体が 「仏果」 であるということです。すなわち、南無妙法蓮華経が 「因」 でもあり、「果」 でもあるということになります。ここにおいては、因と果の間に時間の経過は有りませんので “時間を超越している” といっている訳です。
 御書に、「此の経を持ち奉る時を本因とす其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり」(808P) と仰せです。
 したがって、「因果俱時不思議の一法」 の “南無妙法蓮華経” を唱え奉れば、過去世の業因さえも変えられ 「人間革命」 することができるのである。

 〔牧口会長の獄中闘争を支えた信念〕 という項目には、
 佐藤氏は、牧口初代会長の 「尋問(じんもん)調書」(不敬罪および治安維持法違反の容疑で逮捕され、獄中にあった時の特高警察による調書)をあらためて読み直したと言われています。

 佐藤  牧口会長について……獄中でも動じなかったその強さは、現世だけでなく過去世・来世までも見据える賢者であったがゆえなのだと、今回の対談であらためて感じました。
 たとえば 「尋問調書」 には、「憲法は現世に於ける処の日本国を統治する法でありまして……政体が変わって将来憲法も改正されたり廃止される様な事があるかも知れません。憲法は大法の垂迹であります。然るに法華経の法は宇宙根本の大法でありまして過去・現在・未来の三世を通じて絶対不変・万古不易の大法であります」 という一節があります。


 松岡  「国家を相対化する視点」 が見て取れますね。

 佐藤  ええ。“憲法は現世だけの、一国・一時代だけのものだが、自分はそれよりもはるかに包括的な、三世を貫く宇宙の不変の真理に従って生きているのだ” と、特高に向かって堂々と宣言しているわけです。すごいことだと思います。

 松岡  「憲法は大法の垂迹」 という言葉は、憲法を軽んじていたわけではなく、法華経の真理を根底に据えることによって憲法を活かしていけるという意味だと思います。

 佐藤  そうですね。安保法制をめぐる憲法論議のなかでも、公明党議員の皆さんには、ぜひ牧口初代会長のこの姿勢を範として頑張ってほしいと思います。

 戦時中の過酷な獄中にあって、牧口先生は “憲法は大法の垂迹であります” と自らの信念を堂々と披歴し、その信仰に殉じたお姿は学ぶべきであります。牧口先生は “現世だけでなく過去世・来世までも見据える賢者であった” と佐藤氏は語られています。
 政治や憲法という相対的な移ろい易きものに心を奪われることなく、絶対的な日蓮仏法の 「宇宙根源の一法」 を信じ奉り、それを生活の規範として行かねばならないと思います。 

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

三代会長を語る(中)

 三代会長を語る(中)には、〔三代会長と創価思想の広がり〕 という サブ・タイトルが付いています。  (第三文明・2015-11月・52P) 

 そして、〔池田会長は 「創価思想の完成者」〕 という項目には、 
 松岡  創価学会の三代会長――牧口常三郎初代会長・戸田城聖第二代会長・池田大作第三代会長――は、それぞれの時代に応じた役割を担ってこられました。その役割を 「時代への応答」 とlとらえるなら、牧口会長は戦時下の忍耐の時代に 「罰論」 として、戸田会長は戦後の復興期に 「利益論」 として、池田会長は成熟社会の時代に 「生き方論」 として、創価思想を展開したと見ることができます。
 ………
 松岡  そして、三者とも基本線としては、創価思想を 「生き方論」 として展開したといえるでしょう。その意味で、池田会長は 「創価思想の完成者」 と見ることができます。

 牧口先生は、“美・利・善” という価値論を用いて折伏されました。御本尊を信ぜずして、「罰」 という反価値の現象に苦しまぬよう警鐘を鳴らしました。
 戸田先生は、戦後、広く庶民が塗炭の苦しみに喘ぐ中、その一切の苦しみ等の克服の道が、仏法にあると訴え、御本尊の 「功徳」 をもって折伏されました。
 池田先生は、成熟社会の時代には、自分自身をつくる、つまり、人間革命することを 「生き方論」 として、広く社会に、世界に展開されました。つまり、永遠の生命を説き明かした仏法の生死観が、クローズアップされる時代が来ているのだと。
 そして、SGI が世界に広がったという事実が、池田会長は 「創価思想の完成者」 と言えるのであります。

 佐藤  池田会長の人物としての スケールは、「一国のリーダー」 などという レベルの話ではないですからね。私は自著 『地球時代の哲学』(潮出版社)のなかで、「池田氏は悟りを得たという点では仏であるが、すべての衆生を救うためにわれわれの世界にとどまっている菩薩なのである」 と書きました。つまり、一国の リーダーたちがむしろ教えを乞うべき相手だと思うのです。 

 その他に、佐藤氏は、“「池田会長は創価思想の完成者である」 という視点を、はっきりと前面に打ち出すことではないでしょうか”
 “「個人崇拝と見られるんじゃないか」 などと気にすることなく、堂々と池田会長の重要性を打ち出すべきだと思います”
 “「池田教」 などという言葉で学会を揶揄(やゆ)する輩は、もう相手にすべき段階ではないでしょう”
 等々と。
 上記のように、創価学会の正義を、堂々と宣言すべきであると語られています。

 〔「存在論的平和主義」 の基本に立ち返れ〕 という項目に、
 「三代会長論」 という テーマから少し外れますが、この 「存在論的平和主義」 という言葉は、あまり聞いたことがありませんので、どのようなものか、聞いてみたいと思います。

 佐藤  私は、「公明党は安保法制に反対して連立政権を離脱すべきだ」 という意見は的外れだと感じています。「今いる立場で平和のために闘う」 というのが、松岡さんが名付けられた創価学会の 「存在論的平和主義」 のありようだと思うので。

 松岡  そうですね。「存在論的平和主義」 とは何かを一言で説明するなら、「『平和を叫ぶよりも、平和を生きる人が増えていくこと』 を重視する平和主義」 ということになるかと思います。「平和を叫べば平和がやってくる」 と考えるような、理想論的平和主義とは似て非なるものなのです。

 佐藤  「公明党は自民党に対する ブレーキにならず、むしろ アクセルになっているのではないか」 との意見もありますが、私は今でも十分 ブレーキになっていると思います。……
 
 松岡  日蓮仏法の平和に対する考え方は、「ダメなものでもよく変えていく」 「悪をもよく味方につけていく」 ということが基本だと思うんです。日蓮の御書にも、「法華第三に云く 『魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る』」(1242P) との一節があります。「十界互具」 である以上、善と悪は不可分ですから、相手が今は悪人であろうと、魔の働きであろうと、仏法を護り、平和を守る働きに少しずつ変えていこうとする――その姿勢が 「存在論的平和主義」 です。マックス・ウエーバーが 『職業としての政治』 で言う 「責任倫理」(「心情倫理」の対義語)を果たすべく、公明党は政権のなかで、あの手この手で闘っていくしかないと思います。

 佐藤  そうですね。公明党の頑張りで 「新三要件」 などの歯止めはかかっていますし、近未来において自衛隊が出動するような事態は、まず考えられません。安保法制の問題は、反対派が言うほど重大な問題ではないと私は思います。この程度のことで公明党・創価学会から離れていく人は、それだけの人ですよ。むしろ今は、「本当の味方かどうか?」 を見極めるいい機会と言えるかもしれません。

 佐藤氏は、“この程度のことで公明党・創価学会から離れていく人は、それだけの人ですよ” と言われています。
 安保法制のこともそうですが、「学会会則の教義条項改正」 についても、会則が改正されたと言っても、我々の家庭の御本尊が変わるわけでもなく、実際の信心修行上において、何一つ変わったものは無いのである。
 それを、日顕宗の者が、「変えた、変わった」 と言いがかりを付けてきたものを真に受けて、学会から離れていく人は、佐藤氏の言われるように、ただ “それだけの人ですよ” になります。
 そのようにならない為にも、「師弟の道」 を説いている 『人間革命』 『新・人間革命』 を、シッカリと研鑚しましょう。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

三代会長を語る(下)

 三代会長を語る(下)には、〔世界宗教への飛翔と三代会長〕 という サブ・タイトルが付いています。  (第三文明・2015-12月・56P)
 松岡氏は対談のなかで、戸田先生は戦時中、逮捕された獄中において、「われわれは、法華経に説かれた地涌の菩薩である」 という自覚に達しました、と述べられています。
 
 〔創価学会は 「国家の枠」 を初めから超えていた〕 という項目には、
 松岡  「地涌の菩薩」 とは、混迷を極める末法の世に、大地から湧き出てくるように世界中に無数に現れ、人々を仏にするために闘う菩薩です。世界中に現れるということは、すでに国家の枠を超えていて、「仏教的コスモポリタニズム」 の萌芽(ほうが)が見られるわけです。そのような戸田会長の自覚が戦後創価学会の出発点であるからこそ、世界の SGIメンバーは、「自分はアメリ人である」 「日本人である」 などという アイデンティティーよりも先に、「自分は地涌の菩薩である」 という共通の アイデンティティーを持っています。 

 戸田先生の 「獄中の悟達」 が、創価学会の原点であり出発点である。ゆえに、会内各員は 「自分は地涌の菩薩である」 という共通の アイデンティティーを持つことができたのである。
 この創価思想は、国家の枠を超えて、宗教的な コスモポリタニズム(全世界の人々を自分の同胞ととらえる思想。世界市民主義)を形成していくのである。そして、日蓮仏法は 「世界宗教」 として、今や、世界 192ヵ国にまで拡大し、“世界広布新時代” を将来しているのであります。
 さらに松岡氏は、「SGI のなかに実現した 『宗教的コスモポリタニズム』 は、戦争に対する現実的な抑止力として機能している」 と述べられています。

 〔「仏」 を初めて肯定形でとらえた戸田会長〕 という項目で、
 松岡  世界に通用する普遍的宗教としての スタイル、また、多種多様な SGI メンバーがそれぞれの立場から少しずつ世界を変えていくというありようが、どこから生まれたのか? そのことをあらためて考えてみると、やはり戸田第二代会長の 「仏とは生命なり」 という 「獄中の悟達」 が、決定的な重要性を持っていたと思います。というのも、戸田会長以前には、仏という存在は否定形でしか語られてこなかったわけです。
 たとえば 「無量義経」(法華経の開経) には、「其身非有亦非無(その身はあるものでもなければないのでもない)」、「非方非円非短長」(四角くも丸くもなく、短くも長くもない) などと、謎かけのような 「三十四の非」 によって仏という存在が表現されています。戸田会長は獄中でこの 「三十四の非」 について思索し抜き、最後に 「仏とは生命なり」 という結論に達したわけです。


 佐藤  否定形でしか語られてこなかった 「仏」 という存在を、戸田会長が初めて肯定形で語ったわけですね。

 松岡  ええ、仏教の長い歴史のなかでも画期的な出来事だったと思います。そのとき初めて 「仏教の存在論」 が成り立ち、「存在論的平和主義」 の核ができたのです。

 佐藤  なるほど、その点に戸田会長の 「生命論」 の真価があったわけですね。牧口初代会長の 「価値論」 と戸田二代会長の 「生命論」 には当然連続性もあるわけですが、一方では断続性もある。その断続性――言い換えれば戸田生命論の何が画期的であったのかが、今のお話でよくまかりました。

 松岡  三代会長の思想の 「連続性」 ないし共通性は、合理主義的思考にあると思います。牧口会長は入信するときに、“日蓮仏法は現代の科学に照らしても何の矛盾もない” と、その合理性に感銘して入信を決意しています。
 ………
 松岡  戸田第二代会長も、数学者でもありましたし、その合理主義的思考を受け継いでいます。もちろん、池田第三代会長にも受け継がれています。創価学会は一貫して、理性を重んじる仏教団体であり続けてきたわけです。しかし、宗教団体である以上、理性だけでは成り立たないわけで、どこかで理性を超えた究極の立場を会得しないといけません。それが成し遂げられたのが、戸田会長の 「獄中の悟達」 であり、そこに端(たん)を発した生命論だったのだと思います。

 佐藤  「心」 というと主観的になりますが、「生命」 であれば客観的になりますね。また、生命は全人類に共通であるから、創価学会の世界宗教性の土台にもなる。そう考えると、戸田会長の 「獄中の悟達」 が決定的に重要だったという松岡さんのお話が、すんなり理解できます。それと同時に、学会と宗門の決別はやはり決定的だったのだと、今のお話であらためて思いました。

 松岡  戸田会長の生命論が仏の悟りを万人に開いていこうとするものであるのに対し、宗門は逆に仏という存在を自分たちが独占しょうとしていますね。ベクトルが逆なんです。

 佐藤  牧口初代会長の 「価値論」 と戸田二代会長の 「生命論」 を アウフヘーベン(止揚)して、世界宗教にふさわしい形で日蓮仏法のなかに再編していったのが、池田第三代会長であった。しかしその プロセスのなかで、相容れない考え方を持った宗門との決別は、必然的に起きた。そう言えるのではないでしょうか。
 ………
 佐藤  ともあれ、結果として宗門との決別が池田会長の時代に起きたのは象徴的ですね。前回論じたとおり、池田会長こそ 「創価思想の完成者」 であり、創価学会の世界宗教化の 「実現者」 なのですから……。世界宗教への飛翔の過程で必然的に起きた宗門との決別は、池田会長の歩みのなかでも重要な出来事だったのだと思います。 

 経文には、「仏」 という存在は否定形でしか説かれていない。それを、戸田先生は初めて 「仏とは生命なり」 と肯定形で語ってくださいました。このことにより、始めて仏法を見聞きする海外の方々にも、日蓮仏法や池田思想を容易に理解することができたのだ と思います。
 それは創価学会が、牧口初代より合理主義的思考を受け継ぎ、一貫して理性を重んじる仏教団体であり続けてきたからである と。
 佐藤氏は、“生命は全人類に共通であるから、創価学会の世界宗教性の土台にもなる” と。
 松岡氏は、“戸田会長の生命論が仏の悟りを万人に開いていこうとするのに対し、宗門は逆に仏という存在を自分たちが独占しょうとしている。ベクトルが逆なんです” と。
 したがって、その方向性が真逆の宗門とは、決別に至るのは必然的なことであったのである。
 この対談を通して、戸田先生の 「獄中の悟達」 が、どれほど偉大な、尊貴な、仏教史上未曽有の画期的な業績であったのか と、改めて感慨を深めました。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

創価学会の未来展望

 「創価学会とは何か」 というテーマの “佐藤・松岡対談” は、第12回の 〔創価学会の未来を展望する〕 という サブ・タイトルで、最終回となりました。
 あっ という間の一年間だったという感がします。  (第三文明・2016-1月・52P)

 〔今は創価学会の大きな転換期〕 という項目のところで、
 佐藤氏は、“学会がいよいよ本格的に世界宗教として離陸する時期だと、また、池田SGI 会長一人が指揮を執る時代から、ある種の合議制、「集団指導体制」 への移行期だという意味でも” 、今は学会の大きな転換期だと思いますと、その転換期だからこそ、会則の改正などの変化についていけない人も現れる と語られています。

 佐藤  私には二つの不協和音が表裏一体のものに見えます。学会員で教義条項改正に反発している人と、平和安保法制に反対している人――両者には共通して 「今の学会執行部は暴走して、池田先生のお心に反したことを行っているに違いない」 という言い方をする人がいました。そういう論法は問題を孕(はら)んでいると思います。「私は学会員だが、安保法制には反対だ」 と政治的意見を表明するのは自由ですが、そこに池田会長うんぬんを持ち込むのは筋違いだと思います。
 ………
 佐藤  そのような微妙な時期に政治的異議申し立てをするにあたって、何を主語にして語るべきなのか? たとえば、キリスト教徒が政治的異議申し立てをすることも当然あるわけですが、その場合に 「それはキリストの教えに背いている」 などと言うのは、信仰のぎりぎりの問題以外に使ってはいけない論法です。たかだか安保法案程度の話に、信仰の核にある大切なものを持ち出すべきではない。私は一人の宗教人として、安保法案反対に軽々しく池田会長の名を持ち出す人たちに、強い違和感を覚えました。

 佐藤氏は、“「私は学会員だが、安保法制には反対だ」 と政治的意見を表明するのは自由ですが、そこに池田会長うんぬんを持ち込むのは筋違いだと思います” と言われてます。まったくその通りだと思います。
 御書に、「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」(869P) とあります。
 我らにとっては、仏法・信仰等は 「本」 であり、変わらない、変えてはいけないものである。
 一方、会則や政治・経済等は、時代やそのときの状況によって変化する 「迹」 である。批判する人たちは、この問題の 「本・迹」 が分からず、ごっちゃ混ぜにして同等に考えているから、おかしくなってしまうのである。
 たとえ、先生の言葉でも過去のご発言を持ち出して、“今の執行部は池田先生のお心に反している” 等と言うのは、往々にして、単なる幹部批判が、組織批判になり、先生並びに学会批判になり、遂には退転してしまうという危険性があるのである。心しなければならない。

 〔「資本主義の論理」 とどう向き合うか?〕 の項目では、「世俗内禁欲」 という用語が出てきます。  
 佐藤  「世俗内禁欲」 とは、裏返せば、ビジネスやお金儲け自体は肯定しているということですね。「お金儲けを否定はしない。しかし、世俗の倫理に染まり切ってしまうのではなく、きちんと歯止めをかけますよ」 というのが世俗内禁欲です。
 
 松岡  ……創価学会は 「此岸性の宗教」 ですから、欲望は否定するのではなく 「活用」 しょうとします。消費社会に背を向けるのではなく、消費社会のなかに入って、内側から浄化しょうとする指向性と言いますか。
 ……… 
 松岡  そのように、「世俗内禁欲」 志向が組織全体に浸透していることと関連するのですが、創価学会/SGI には強制的な道徳律がありません。……
 ではなぜ、SGI が強制的道徳律を持たないかといえば、それは日蓮の考え方に由来しています。「今は、欲望が盛んで機根の低い衆生が生まれてくる末法の世である。ゆえに、戒律を科してもその欲望を消すことはできない。戒律で押さえつけるのではなく、仏の生命を保つことによって、おのずと道徳的な生活を送らせるようにすべきだ」 というのが、日蓮仏法の基本的な考え方なのです。


 「末法無戒」 と言われますように、今どき戒律を持している者なんか 一人もいないのである。伝教大師は、 「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」(341P) と言われています。
 松岡氏は、“戒律で押さえつけるのではなく、仏の生命を保つことによって、おのずと道徳的な生活を送らせるようにすべきだ” と、唱題行による仏界の湧現、すなわち、人間革命することが、自然体のままで人倫の道に達することになるのである。
 
 〔世界宗教にふさわしい教学の完成を目指して〕 の項目に、
 佐藤  創価学会の場合は池田会長という卓越した指導者がいて、池田氏による日蓮解釈がきちんと整理されているわけですから、その意味では世界宗教として飛翔するための教学的準備はすでにできているとも言えます。

 松岡  そうですね。仏教には 「知者の教えに従って経典を読む」 という伝統があります。日蓮が天台の教えに従って正しく仏典を読み、創価学会は日蓮の教えに従って 『法華経』 を読んだ。そして今、学会員は池田会長の教えに従って正しく日蓮の御書を読んでいると言えます。「智者」 である池田会長が認めた日蓮の御書は、すべて真正 テキストと認めてよいというのが、私の考えです。

 佐藤  ええ。神学の行き詰まりを突破するために発達してきた 「解釈学」 の教えるところによれば、「解釈者」 というものは、原 テキストをより深く解釈することができるのです。池田会長は、まさに日蓮のよき 「解釈者」 と言えるでしょう。

 佐藤氏は、“文献の科学的真贋と教義との距離関係というのは、非常に難しい問題です” と言われています。
 例えば、開経の 『無量義経』 は偽経であるという説もある。しかし、大聖人は 「四十余年 未顕真実」 の文を用いて、法華経真実の証明とされている。しかも、『法華経』 自体、釈尊滅度 4~500年後の成立であると言われている。
 要は、誰が編纂したものであれ、釈尊の精神・法華経の哲理を、正しく展開したものであれば 「宗教的真実」 として、信じ持って行かねばならないのである。
 
 〔創価学会に対する期待と注文〕 の項目には、お二方のご意見があります。
 佐藤  私は、創価学会の今の方向性は正しいと考えていますから、今歩んでいる道を自信を持って進んでほしいと思います。そのうえで、今の創価学会の問題点はただ一つ――これは前から言っていることですが、自分たちの力の過小評価です。過大評価も危険ですが、過小評価にも危険性があります。学会が自らの力を等身大で正しく評価をすることが、今後いっそう重要になってくるでしょう。
 それと、学会に対する注文を言うなら、外部から 「池田教」 などと揶揄(やゆ)されたとしても、もうそんな輩を相手にしている段階ではないのですから、池田会長をしっかりと中心に据えて進んでいってほしいですね。組織的にも、世界広布においても、教学的にも、……。


 松岡  私自身の期待としては、創価学会の 「人間主義」 をもっと世界に広めてほしい、ということに尽きます。「人間主義」 とは一言で言えば 「人間の生命を究極と見る思想」 ですから、あらゆる文化の基底にあるものです。したがって、人間主義は イデオロギーや文化の壁を越えて、諸文明を統合し得る思想であると言えます。人間主義による世界の統合という一大事業に向けての歩みを、創価学会/SGI には着実に進めてほしいと思います。
 
 以上のほかに、佐藤氏の奥様が 「あなた、創価学会の人と会う日は楽しそうね」 と言われたそうです。氏は 「新たな世界宗教が生まれていく過程を間近に見ることができるのですから、こんなに胸躍ることはない」 と、その楽しみを語っています。
 我らは池田先生の弟子として、「世界広布新時代」 の当事者として、歓喜と決意をもって、明年の 「拡大の年」 をお迎えしたいと思います。


にほんブログ村

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
FC2ブログへようこそ!

北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


仏教 ブログランキングへ

最新記事
カテゴリ
最新コメント
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR