公明党を支援する理由①(『人間革命』 展開の章より)

 1月度の人間革命池田塾の教材は、「人間革命第9巻・展開の章」 であります。
 「展開の章」 は、昭和30年(1955年)4月の統一地方選挙において、東京都議会・区議会その外・若干の他の市議会に、初めて候補者を立てて戦った時のことが述べられています。
 この選挙戦に面食らったのは世間ではなく、その地域の学会員たちであった。選挙といえば、買収や供応という暗いイメージしかなく、大多数の会員たちは選挙活動などしたこともなかった。
 このような中で、公明選挙で行くという方針を強く打ち出し、多くの有力な対立候補者を相手にして必勝を期するためには、ただ一つ、不可能を可能にする信心しかないことを教えたのである。
 そして戸田先生の広宣流布のご構想を、池田先生が述べられたのが、この章である。

 広宣流布とは、仏法(三大秘法の御本尊)を広く世界に弘め伝えることによって、平和な社会を築くことをいう。 この点について
 「広宣流布は、創価学会の会員の拡大だけを意味するものではない。御本尊を受持して信心に励んだ人は、まず、人間として自己自身を革命することは当然のことだ。革命された個人は、自己の宿命をも変え、家庭をも革新する。このような個々人の集団というものは、地域社会にも、一つの根本的な変革をもたらすはずである。いや、地域社会ばかりではない。それらの個々人は、あらゆる社会分野に英知の光を放ち、変革の発芽をもたらしていくであろう。
 政治の分野でも、経済活動の分野でも、生産活動の部門でも、教育や文化や、科学、哲学の分野でも、自らの生命を革命した、わが学会員の日々の活動というものは、その才能を十二分に発揮した蘇生の力となるにちがいない。それは、社会に大きな波動を与え、やがては新世紀への斬新な潮流となって、来るべき人類の宿命の転換に偉大な貢献を果たす時が来よう。
 これが妙法の広宣流布の活動というものだ」
と、戸田先生は心に期していました。
  (ワイド人間革命9巻・展開・171P)

 そして、「もともと広宣流布の活動は、宗教革命を基本として、それによって、広く遠く人類社会に貢献する活動である。日蓮大聖人の仏法が、行きづまった現実の社会を見事に蘇生させることを目的とする以上、この宗教活動が、いつか社会化していくことは必然の道程であった」 と述べられています。  (同書・179P)

 広宣流布は、ただ単に政治の改革のみを目指しているのではなく、社会全般にわたる改革(総体革命)である。
 しかし、政治の腐敗堕落は、直接に民衆の日常生活の幸・不幸と結びついているが故に、戸田先生はこの現状を、座視することが出来なかったのである。
 昭和30年といえば戦後10年、まだまだ戦後の混乱期を完全に脱してなく、政治的には左・右の勢力は国民不在の政権抗争に明け暮れ、国民の政治不信は募るばかりであった。
 保守系の政党は大企業の資本家ばかりを擁護し、革新系の政党は大きな労働組合の利益ばかりを優先した。
 そのような政治対立の谷間で、組合もない中小企業で働く大多数の庶民は、政治の恩恵から置き去りにされていた。
 戸田先生は、このような国民不在の政治を国民の手に取り戻すために、政治権力を内奥から変革することを、広宣流布の一活動として取りあげられたのである。 
 そして、「私は政治のための政治をしているのではありません。あくまでも日本の民衆の福祉のために戦うのです。政治は、そのための一つの手段です(趣意)」 と言われました。

 池田先生は、広宣流布とは 「総体革命」 のことであると述べられています。したがって、「総体革命」 について先生の指導を引用させて頂きます。
 「それは、日蓮大聖人が示された 『立正安国』 と同じ意義であり、その現代的な表現といえます。
 つまり、どこまでも人間を原点とし、仏法によって社会建設の主体である人間を変革する、人間革命が根本となります。人間こそ、社会を形成する基盤である。ゆえに、人間の生命が変革されれば、それは、人間社会の営みのすべてに反映されていきます。
 たとえば、一人ひとりの人間が、生命の尊厳を自らの生き方として確立すれば、教育、科学、政治、経済、芸術等々、あらゆる分野で、生命を尊重し、人間を守るための方策や制度が、必然的につくられていくことは間違いありません。
 人間を蘇生させ、さらに、文化と社会を蘇生させていくことが総体革命であり、それが、広宣流布の一つの定義なのであります」

 さらに、伸一は、総体革命は武力や暴力による人間の外からの革命に対して、人間の内側からの自発的、能動的な革命であると強調した。
 そして、外からの革命が、破壊をともなう急進的な革命であるのに対して、総体革命は、どこまでも平和的であり、漸進的な革命であると述べ、こう訴えた。

 「この総体革命は、宗教による精神の革命を機軸にして、初めて可能となるのであり、そこに私ども創価学会の、宗教運動の意義があることを知っていただきたい」 
 (新・人間革命16巻・24P)

 “総体革命は武力や暴力による人間の外からの革命に対して、人間の内側からの自発的、能動的な革命である” と、また、“宗教による精神の革命を機軸にして、初めて可能となる” と、人間の内側からの革命と言われても、おおむね他人様のことと思い、自分自身からやるべきことなんだとは、なかなか気づかないし、信じられないようである。
 それだけ広宣流布の戦いは、平和的で崇高な革命であるだけに、世の人々の理解し難いものがある。しかし、難事中の難事であっても、勇気をもって仏法対話に励み、日蓮仏法を人々に伝えて行かねばならないのである。

公明党を支援する理由②

 創価学会の目的は 「広宣流布」 であると申し上げました。また、「総体革命」 とも言います。
 それは、政治・経済・文化等々、全ての分野に亘って、人間主義を基調とした社会の建設を目指しております。先ず、その第一歩として、政治腐敗の改革から手掛けたのであります。
 民衆の物心両面にわたる幸福について、その責任を自らに課した戸田先生は、現代の政治の病根を深く洞察していました。そのことについて、池田先生は、次のように述べられています。

 ―― 私利に走り、党略に没頭して、権力の争奪に専念する政治家たち、そのような政治家の徒党集団と化していく政党。そして政治から置き去りにされ、その犠牲となるのは、常に民衆である。戸田は、民衆の怒りを肌で知っていた。しかし、権力悪の根源を見抜いていた彼は、民衆の怒りを、直接、政治勢力化して行動を起こしたとしても、それだけでは、真の民衆のための政治の実現という根本的な変革からは、ほど遠いことも承知していた。
 戸田城聖の覚めた心は、彼の半生の結論として、政治の世界に巣くう権力の魔性の存在を、疑うことができなかった。本来、民衆の平和と幸福に奉仕すべき政治が、いつの間にか民衆を苦しめる魔力と化していく ―― その現実を鋭く見抜いていた彼にとって、政治の根底的な変革とは、魔性との戦いにこそ、その焦点があることは明白であった。

 一つの政治権力を打倒され、新たな別の政治権力が登場しても、その魔性は消滅しないことも、彼は知っていたのである。十九世紀から二十世紀にかけ、世界では、さまざまな政治体制の国々が生まれた。しかし、依然として民衆は、政治権力の魔力から解放されたとは言いがたい。どう政治体制が変わっても、いつしか民衆を苦しめる魔性に支配されていく。その愚かな権力の流転の歴史を、戸田は思わずにはいられなかった。この途方もない愚劣さからの脱出 ―― それこそ、民衆が心底から渇望しているものであろう。それは、もはや政治の次元で解決のつく問題ではないのだ。

 民衆の平和と幸福のためになるのであれば、どんな政治形態であっても差し支えないだろう。彼は、政治形態を批判していたのではない。政治そのものに巣食う魔力が、問題の焦点であった。それは、政治権力を握った者、政治家の内にこそ潜(ひそ)んでいることは理の当然である。魔は、自由主義体制や社会主義体制に潜んでいるのではない。それらを支えている政治家、その人間の内部に巣くう魔の力が、それらの体制をむしばんでいることを、彼は問題の帰結としたのである。
 すべての人間は、十界を具しているとする仏法の真理に照らす時、魔の正体は初めて明らかになる。政治権力の魔力も、人間生命に焦点を合わせた時、発生の根拠を初めて知ることができる。
 
 世間の人びとは、この事実に全く気づいてはいない。そればかりでなく、仏法の原理をもって迫っても、耳さえ貸そうとしない。そして、今も権力をめぐる争いのなかで、多くの民衆は、いたずらに犠牲となっているだけだ。これ以上の人類の愚行はないはずだ。しかも、愚行の歴史は数千年にわたっている。
 彼は、立正安国の大事業たるゆえんを、思い返した。そして、この大事業の責任の重さと至難さとを、孤独の心に、いやでも自覚し、自らに鞭(むち)打っていたのである。
  (ワイド人間革命9巻・189P)

 “政治の根底的な変革とは、魔性との戦いにこそ、その焦点がある” と、また、“もはや政治の次元で解決のつく問題ではない” とも。
 要は、民衆の幸福の実現に挺身する政治家を育てる以外にないのであります。“帰するところは人間である。行動の主体者である人間のいかんが、すべて行動を規制している” と述べられています。

 戸田は、あらゆることの帰結として、人間に焦点を絞らなければならなかった。人間、この厄介(やっかい)なるもの ―― この厄介なものは、掲げた理想にもかかわらず、政治悪をも生み出すのである。そして、時に、悪魔にも、天使にもなり得るのが人間である。
 問題は、まともな人間としての政治家を、いかにして育成するか。現代の政治の退廃を思う時、まず、この命題から出発しなければならない。
 いくら民衆の幸福と平和を願ったとしても、権力志向の政党という政党は、ひとたび政治権力を握ると、権力に潜む魔性を発揮して、民衆を犠牲にして恥ずるところがなかった。この魔性こそ、権力に潜むように見えて、実は、人間の生命に、もともと潜在するところのものだ。

 権力は縁にすぎぬ。政治の改革は、政治的次元で事足りるように思われているが、政治体制が政治をするのではなく、根源的に言って、人間の行為に発するところのものである。しかも、政治力が人間をも改革するといった、思い上がった錯覚は、現代政治家のいだく通弊(つうへい)となっている。
 政治の退廃は、この辺にあると、戸田は考えた。つまり政治の退廃は政治家の退廃であり、人間の退廃にほかならぬ。
 この退廃は、現代の社会現象のすべての分野に通じるものとはいえ、権力をもつ政治の世界の退廃は、それが民衆の日常生活の幸・不幸に直接、影響を及ぼすゆえに、戸田城聖は、まず、そこに重大な関心を払わざるを得なかった。
  (同書・207P)

 少々長い引用になりましたが、要するに、広宣流布の目ざす政治改革は、制度や政策という皮相的な環境面の改革だけではなく、より本源的に、政治家自身の生命次元からの変革(人間革命)でなければならない。これなくして、いくら外界の改革を叫んだとしても、砂上の楼閣にしか過ぎないのである。

 この 「権力の魔性」 も、人間の生命にもともと潜在しているものだ。この魔性は、理性や道徳では抑止できないのである。「魔」 に勝つ力は、同じく生命にもともと潜在している 「仏界」 の生命を顕現させる以外にないのである。
 大聖人が 「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(751P) と仰せのように、信心の利剣で打ち破る以外にない。
 そうすることで、妙法の土壌から育った人材は、政界の魔力と闘う力を備えているはずである。そうだとしたら、歴史上まったく新しい政治家の誕生と言わなければならない。

 広宣流布がどんどん進んで行けば、創価学会は社会のあらゆる分野に、人間革命した多くの人材を送り出して行くであろう。そうなると、いわば創価学会は、壮大な教育啓蒙的母体として、それにとどまらず、人類の平和と文化の不可欠な中核体となって行くであろう。
 ここに創価学会が、妙法を受持している公明党の候補者を、支援する理由があるのである。 

「政教分離」の原則

 『新・人間革命』 第5巻の 「獅子の章」 に、「公明政治連盟」(公明党の前身) の結成当時の模様が記されています。
 創価学会が、政界に有能な人材を送り出して以来、常に 「政教一致」 ではないかとの批判がなされてきました。公明党も発足してすでに 50年が過ぎ、自民党と連立を組んでいる故か、この頃は、かかる 「政教一致」 等の批判も少なくなっています。
 しかし、純真に民衆のため、国のため、世界の平和を願い務めている創価学会に、何か政治的な野心があるのではないかと邪推する人も、少なからず居ると思いますので、この際、参議院選挙も近づいていますので、確認のためにも 「政教分離の原則」 を学んでみたいと思います。

 1962年(昭和37年)1月17日、参院本会議場での開会式の終了後、記者クラブで 「公明政治連盟」 という政治団体を発足させる旨の発表があった。その席上、公明政治連盟の “基本要綱” と “基本政策” が発表され、このなかで 「参議院の自主性確立」 という政策があった。
 本来の二院制の使命である、衆議院の行き過ぎを是正し、不足を補充する役割を果たすための政策である。ところが現状は、どの党も党利党略に走り、あたかも衆議院の延長のようになっていたのである。
 先生は、政治団体結成に踏み切った理由について述べられています。

 山本伸一が 「公明政治連盟」 という政治団体結成に踏み切った最大の理由は、創価学会は、どこまでも宗教団体であり、その宗教団体が、直接、政治そのものに関与することは、将来的に見て、避けた方がよいという判断からであった。いわば、学会として自主的に、組織のうえで宗教と政治の分離を図っていこうとしていたのである。
 本来、宗教団体が候補者を立てることも、政治に関与することも、憲法で保障された自由であり、権利である。宗教団体であるからといって、政治に関与することを制限するなら、「表現の自由」 「法の下の平等」、さらには 「信教の自由」 をも侵害することになる。

 憲法第20条には 「政教分離」 がうたわれているが、ここでいう 「政」 とは国家のことであり、「教」 とは宗教、または宗教団体をいい、国と宗教との分離をうたったものである。つまり、国は、宗教に対しては中立の立場を取り、宗教に介入してはならないということであり、宗教が政治に関与することや、宗教団体の政治活動を禁じたものではない。
 憲法にうたわれた 「政教分離」 の原則とは、欧米の歴史をふまえつつ、戦前、戦中の、国家神道を国策とした政府による宗教弾圧の歴史の反省のうえに立って、「信教の自由」 を実質的に保障しようとする条文にほかならない。
 したがって、創価学会が政界に同志を送り出すことも、学会自体が政治活動を行うことも自由である。

 宗教も、政治も、民衆の幸福の実現という根本目的は同じである。しかし、宗教が大地であるならば、政治はその土壌の上に繁茂する樹木の関係にあり、両者は次元も異なるし、そのための取り組み方も異なる。
 たとえば、核兵器の問題一つをとっても、核兵器は、人類の生存の権利を脅(おびや)かすものであり、絶対に廃絶しなければならないという思想を、一人ひとりの心に培(つちか)っていくことが、宗教としての学会の立場である。それに対して、政治の立場は、さまざまな利害が絡み合う国際政治のなかで、核兵器の廃絶に向かい、具体的に削減交渉などを重ね、協調、合意できる点を見出すことから始まる。

 また、宗教は教えの絶対性から出発するが、政治の世界は相対的なものだ。
 そうした意味から、やはり、宗教団体のなかでの政治活動と宗教活動との、組織的な立て分けが必要であると伸一は結論したのだ。そして、政治活動は政治団体が主体的に行い、学会は、その支援をするという方向性を考えてきたのである。
   (新・人間革命5巻・302P)

 創価学会が、直接、議員を選出させても、憲法で保障された自由であり、権利である。しかしながら、「政教分離の原則」 を勘違いして誤認識している人や、あるいは、あえて意図的に誹謗中傷する人も中には居るのである。
 したがって、学会組織内から直接的に選出させれば、紛(まぎ)らわしくなり 「政教一致」 との批判がなされるようになるであろう。ゆえに、政治活動は別団体にして、宗教活動との組織的な立て分けが必要になるのである。

 「学会の目的は、民衆の幸福の実現です。そして、そのためには、世界の平和を築き、社会を繁栄させていかなくてはならない。すると、必然的に私たちは、政治、経済、教育、平和運動など、広い意味での文化を推進する活動を展開していかざるをえない。

 それらの文化を創造する主体である人間を育み、社会建設の土壌を開拓していく母体が、宗教団体である創価学会です。この学会という母体から育った人材が各分野で、必要であれば、それぞれ団体や機関をつくり、社会に貢献していくべきであるというのが、私の考えです。それは、何も政治の分野だけでなく、音楽・芸術や学術の分野でも、また、教育や平和研究の分野でも同じです。
 今回、政治団体を結成するということは、その突破口を開くことになる」
 ………
 「ただ、勘違いしてもらっては困るのは、この政治団体は、学会のためのものではない。
 私は、そんな小さな考えではなく、広く国民の幸福を願い、民衆に奉仕していく、慈悲の精神に貫かれた新たな政治団体をつくろうとしているんです。
 私の願いは、政治団体がスタートしたならば、一日も早く自立し、民衆の大きな信頼と支持を得るものにしていってほしいということです。

 学会は、その母体として今後も選挙の支援はしていきます。しかし、具体的な政策については、皆でよく話し合い、すべて決定していくんです。やがては、学会が支援などしなくても、この政治団体の政策と実績に、多くの国民が賛同し、また、一人ひとりの議員が幅広い支持と信頼を得て、選挙でも、悠々と当選するようになってもらいたい」
   (同書・308P)

 池田先生は、“この政治団体は、学会のためのものではない。私は、そんな小さな考えではなく、広く国民の幸福を願い、民衆に奉仕していく、慈悲の精神に貫かれた新たな政治団体をつくろうとしているんです” と仰っています。
 この先生の思いを、今回の公明党への支援活動を通して、広く国民の皆様にお伝えして参りたいと思います。よろしくお願いいたします。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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