戸田先生の講義 (上)

 昭和33年(1958年) の新年勤行会での席上、戸田先生は 「寿量品の三妙合論」 のお話をなされました。特に 「本因妙の仏」 と 「本果妙の仏」 の違いについて述べられています。講義の抜粋ですが、引用させて頂きます。

 「三妙とは、本因の妙、本果の妙、本国土の妙のことであり、妙とは、思議しがたいことをいいます。……」
 「本果の妙をあらわしているのは、寿量品の 『如是。我成仏以来。甚大久遠』、…… の文であります。…… では、その仏は、どこにいるのか。……… 寿量品にいたって、仏は娑婆世界にいると説くのです。つまり、仏は、凡夫と一緒に、菩薩や声聞、縁覚、また畜生、餓鬼などとともに、娑婆世界に同居していることが明かされる。それが本国土妙を示す 『我常在此。娑婆世界。説法教化』、我常に此の娑婆世界に在って説法教化すという文なのです。文底からこれを広く深く論じれば、南無妙法蓮華経の生命は、久遠以来、大宇宙とともにあるということです」

 「大事なことは、仏は現実の世界以外にはいらっしゃらないということなのです。五濁(ごじよく)悪世の世の中にいてこそ真実の仏なのであります。さて、釈尊が仏の境界を得るには、その根本原因があった。それを明かしているのが本因妙であり、『我本行菩薩道 ……』、我れ本(もと)、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命 …… という箇所であります。

 では、仏が行じた菩薩の道とは何か ―― 。その法は、五十二位の中の本因初住の文底に秘沈されている大法であり、それこそが南無妙法蓮華経です。末法の私たちには、この南無妙法蓮華経という仏の悟りを直接信じて仏になるのです。この成仏の根本原因を説くのに、釈尊はすでに成道した仏、すなわち本果の立場で説いている。ですから、寿量文上の釈尊を本果の仏と称するのであります。

 しかし、大聖人は、御内証は御本佛でありますが、仏自体の立派な姿を現わされることはなく、凡夫の立場で仏になる本因の菩薩道を説き、行じられた。ゆえに、大聖人様は本因の仏となります。御書のどこを拝しても、大聖人は、私はすでに仏なのだから、みんなを救ってやろうなどとは、おしゃっておりません。大聖人が生まれながらにして御本仏の体を現わし、御本仏の行を行じられたとしたならば、それは菩薩道ではなくなってしまう。ここに、本果妙の釈尊の仏法と、本因妙の教主釈尊、すなわち、日蓮大聖人の仏法との大きな相違がある。……」

 この指導は、戸田城聖がこれまで行ってきた方便品・寿量品講義の、締めくくりともいうべき話となった。 (人間革命第12巻・後継の章)

 釈尊は、本果の立場すなわち、成仏した素晴らしい姿や力を示して、衆生を教化する仏である。これに対し衆生は、ただ仏を仰ぎ見て、その姿にあやかろうと願って修行するのである。これを 「従因至果 (因より果に至る)」 と云い、爾前・権教と同じ立場になり、因果異時の法であります。したがって、修行は長きにわたり (歴劫修行) 行じても、真の成仏は得られないのである。

 『開目抄』 に、「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(202P) と仰せられています。

 日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経のご当体の 「末法の御本仏」 でありますが、一切衆生を救わんがために、大慈悲をおこされて、我われと同じ “凡夫のお姿” で御出現なられました。
 戸田先生は、“仏になる本因の菩薩道を説き、行じられた” と仰っています。それは成仏を阻む、三類の強敵を一手に引き受けられ、小松原・竜の口の刀の難、伊豆・佐渡の流罪等・種々の大難を忍ばれて、末法の衆生に成仏とはどういうものか、その方程式ともいうべきものを、身をもってご指導して下さいました。

 日蓮仏法は、因果俱時の法であり、「名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し」(566P) と仰せられるように、御本尊を受持して即座に得られる仏界(果)を根底にしつつ、衆生救済のために現実の九界(因)の場へ向かう、「従果向因 (果より因へ向かう)」 の仏法であります。
 
 これこそ、じつに広宣流布を大願とする、われら創価学会の如説修行の信心であります。これを 「本因妙の仏法」 と云い、日蓮大聖人を 「本因妙の教主」 と申し上げます。

追記 : 戸田先生の 「新年の講義」 について、池田先生のご指導です。

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戸田先生の講義 (下)

 前のブログで紹介しました、戸田先生の新年勤行会の講義の続きです。

 戸田の話は、難解といえば難解であった。参加者の多くは、戸田が何を言わんとしたのか理解しかねていた。
 彼は、日蓮大聖人は本因妙の仏であることを説くとともに、この娑婆世界にあって、折伏行に励む同士こそ大聖人の末弟として菩薩の道を行ずる人であることを、教えておきたかったのである。

 同士の多くは、病苦や経済苦など幾多の苦悩を背負いながら、日々、広布に悪戦苦闘していた。しかし、戸田はそこに尊い仏子の輝きを見ていたのだ。妙法広布に生きるわれわれの菩薩道の実践は、そのまま娑婆世界を仏国土に転ずる仏の行となる。そして、それを行ずる同志は、一人ももれなく地湧の菩薩であり、その内証は仏にほかならない。―― それこそが、七十五万世帯の折伏を成就した戸田城聖の不動なる大確信であった。彼は、諸仏を仰ぎ見る思いで、居並ぶ弟子たちに視線を注いだ。
 (人間革命第12巻・後継の章)

 “彼は、諸仏を仰ぎ見る思いで、居並ぶ弟子たちに視線を注いだ” と述べられています。昭和33年当時、この法華経の心が解かっている方は、戸田・池田両先生は別格として、学会内では余り居なかったのではないかと思われます。

 それは、折伏・拡大の真っ最中の学会草創期にあたり、広布の流れも激流の時でした。今から考えると非常識なところも少なからずありました。地方の男子部の幹部の中には、すぐ “バカもん”・“バカたれ” 等と言うものもおりまして、ずい分 “はっぱ” をかけられたものです。

 これらの傾向性は、昭和45年の言論出版問題の時まで続いたと記憶しています。先生は前々から、社会性を持して、常識ある行動をとのご指導をされていましたが、内からはなかなか変革できず、外部から言論問題として指摘された学会は、より開かれたものとして 「変毒為薬」 することが出来ました。

 法華経には、一切衆生に仏性ありとして、お互いに尊敬し会うべきことを教えています。また、日蓮大聖人は、より深く徹底して次のように述べられています。

 『御義口伝』 に、「最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲(ゆず)り給うなり、八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり、…… 当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり、…… 但此の八字を以て法華一部の要路とせり」(781P) と仰せです。

 「当起遠迎当如敬仏」 の八字は、別しては、末法の法華経の行者・日蓮大聖人を、御本仏と仰いで尊敬すべきであるとの意であります。その上にたって、この文を以て法華経総体の肝要であり、「最上第一の相伝」 すなわち、法華経の中で一番大事なことであると云われているのです。

 「不軽(ふきよう)菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174P) と仰せです。

 成仏と云い、南無妙法蓮華経と云っても、具体的には 「人の振る舞い」 の上に現れるものであると云うことです。ゆえに、仏法の目的は、その 「人の振る舞い」 を説くことにあります。それは不軽菩薩が、一切衆生を礼拝したように、「人を敬う行動」 に尽きる訳です。

 と言うことは、人を敬うということを、自身の日常生活の行動規範としていかなければならない。しかるに、現実の自分自身はどうなのかと思うとき、まさに汗顔の至りである。信心とは、一面から言えば、自身の内なる傲慢な生命との戦いであると思います。

 戸田先生のように、一切衆生を 「仏」 と敬うことのできる人を 「仏」 というのである。ゆえに、御本尊を受持し、広宣流布に邁進する創価学会員の皆様を 、「当に仏を敬うが如く」 お互いに、尊敬し会わなければならないのであります。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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