公明党と共産党の違い

 雑誌 『第三文明』 には、佐藤 優氏の “「公明党50年の歩み」 を読む” が連載されています。
 第3回目にあたる 4月号には、ここ1~2年の平和安全法制や軽減税率をめぐる与党内の交渉は、殆んど公明党の案が採択された。このことは、政権内での公明党の持つ 「力」 が大きくなった証拠である。
 2014年の結党 50年までを 「助走期」 とすれば、2015年から、いよいよ本格的な 「飛翔期」 に入ったと。そして、結党 100年を迎えるまでには、公明党首班政権が必ず誕生するとまで言われています。

 次に、〔公明党と共産党の本質的差異とは〕 という項目には、
 共産党は公明党に激しい対抗意識を燃やしてきたのは、なぜだろうかと。それは、“共産党は 「共産主義という名の宗教」 を奉ずる宗教政党だからである” と。歴史学者の トインビー博士も同じ趣意の言葉を述べられています。   (トインビー博士の関連記事 ―→ ここから
 共産党の人たちは、共産主義が異種の宗教であるとは、夢にも思っていないと思います。それどころか、マルクスの “宗教アヘン説” の方を信じ、宗教を蔑視している人が大半であると思う。
 そのようにして、同じ宗教政党として、公明党を異端視するが故に、敵愾心(てきがいしん)を燃やすのでないかと思われます。

 佐藤氏は、クリスチャンとしての独自の理論を展開し、いろいろ説明されていますのでご紹介いたしたいと思います。
 キリスト教においては、「原罪説」(アダムとイブがエデンの園で犯した神に対する罪が、人間の本性を損ねってしまったとする思想)が、信徒たちが自らを律する重要な 「歯止め」 の役割を果たしている。つまり、「自分たちが絶対正しい」 という唯我独尊に陥らないための歯止めとなるのだ。
 創価学会の場合、「原罪」 にあたる考え方はないが、師弟不二の思想、師匠との誓いというものが、信徒が自らを律する歯止めとなっているのだろう。
 それに対して、“宗教としての共産主義” には歯止めがない。だからこそ、どこまでも唯我独尊で突き進んでしまう怖さがある。

 20世紀を代表する キリスト教神学者の一人である ディートリッヒ・ボンヘッファーの、究極的なもの究極以前のもの という概念がある。この概念をふまえて考えると、公明党と共産党の本質的な差異が理解できる。
 共産党にとっては、政治が 「究極的なるもの」 である。しかし、公明党にとって政治は 「究極以前のもの」 である。そこが、両党のいちばん根本的な違いなのだ。
 公明党にとって、ひいては創価学会員にとって、政治も学問も仕事も 「究極以前のもの」 である。「究極的なるもの」 は、宗教的真実のなかにあるのだ。


 我ら学会員にとって、宗教的真実とは、「久遠の法」、すなわち 「妙法」 そのものであろうと思います。「妙法」 を信ずるとは、言い換えれば “因果の理法” を信ずることである。公明党の議員は、この根本法規を持しているから、わが身を律することができるのである。

 政治が究極ではないからこそ、公明党は政治において、妥協すべきときに適切に妥協できる。「妥協」 というと、よい イメージではないかもしれない。だが、ドイツの鉄血宰相 ビスマルクに 「政治とは妥協の産物であり、可能性の芸術である」 という名高い言葉があるとおり、妥協は政治に不可欠である。妥協すべきときに妥協できることが、政治家の最重要の資質とも言えるのである。
 だが、共産党にとっては政治が究極であり、政治自体が目的になってしまっている。だからこそ、彼らには柔軟な妥協ができない。「何でも反対」 のその姿勢は、彼らが適切な妥協ができない政党であることを示している。
(第三文明・2016-4月・55P)

 共産党は、共産主義を究極として、その政権樹立を目的としている。目的のためには、人間生命までも手段として利用し、暴力行為をも是認する 恐ろしい思想を、内に秘めているのである。
 この前の1月、天皇陛下を迎えての国会開会式に、突如、出席したり、一人区で選挙協力をすると言い出したり、この頃の ソフト路線には、騙(だま)されないように気を付けねばならない。
 そして、世の中の極悪を打ち破り、創価学会と公明党の勝利の旗を打ち立てよう

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

「言論問題」について

 佐藤 優氏の “『公明党50年の歩み』 を読む” の四回目は、〔「言論問題」 に真正面から向き合った党史〕 であります。
 佐藤氏は、以前からしばしば “創価学会の問題点の一つは、自分たちの力を過小評価している” という趣旨の発言をされています。この点に関連して、この 『公明党50年の歩み』 では、画期的な点として、
 ① 党創立者である 池田 SGI(創価学会インタナショナル)会長の貢献をきちんと位置づけたこと、
 ② 「言論問題」 と 「政教一致批判」 に真正面から向き合ったこと――
の二点を挙げています。  

 佐藤氏は、この 「言論問題」 の “後遺症” として、結果的に 「過度の政教分離」 になってしまったと。そして、このような状況は、“創価学会員ではない人々から見ると、「公明党が創価学会との関係を隠そうとしている」 かのような 「うさんくさい印象」 を与えていた。つまり、公明党の イメージを大きく毀損(きそん)していた マイナスポイントであったのだ” と。
 しかし、『50年史』 は、そうならなかった。同書は第6章で 「言論問題」 に言及し、第14章で 「政教一致批判」 を論破していることによって、党史としての価値は格段に上がった と言われています。  (第三文明・2016-5月・53P)

 〔「言論問題」の経緯と本質を若い学会員も知るべき〕 という項目に、
 「言論問題」 は、“今なお学会・公明党の ネガティブな イメージの一因にもなっているのだから、若い学会員もことの経緯と本質について知っておくべきであろう” と言われ、問題の要点が述べられています。
 「言論問題」 とは、1969年に政治評論家の藤原弘達氏が、『創価学会を斬る』 という本を出版するに当たり、学会側が著者の藤原氏に対して 「事実でない中傷をするのはやめてほしい」 と要望したことを指す。そのことが 「言論・出版の自由」 を侵した 「弾圧」 に当たると見なされ、国会や マスコミを巻き込んだ騒動に発展していったのだ。ちなみに、「言論問題」 は学会・公明党側からの呼称であり、一般には 「言論・出版妨害事件」 の名で知られている。  (同誌・54P)

 そもそも、「弾圧」とは、統治者や国家機関によって行われるもので、民間団体である創価学会に対し、学会が 「弾圧した」 という言葉を用いること自体がおかしいのである。
 この 『創価学会を斬る』 という書物は、事実に基づかない ヘイトスピーチ(憎悪表現)的な誹謗中傷に満ちたひどいものであった。大学教授で有名な政治評論家ともあろう者が、このような本しか書けないのかと、みんな呆れるほどの代物である。
 それは同年の12月に衆議院の解散・総選挙が行われたが、明らかに公明党に対する選挙妨害を意図したものであった。ヘイトスピーチ的な内容が、電車の中吊りに予告された時、学会側は “事実ではない中傷はやめてほしい” と、当然の要望をしただけである。
 学会側の秋谷総務(当時)との話し合いの場で、藤原氏は机の下に隠しマイクを設置し、これを収録するという、じつに意図的・悪質的なものであった。
 これを証拠にして 「脅された」 「買収工作を受けた」 と主張していたが、後になって、収録テープの全容が発表されたが、そこには “脅しや買収” に当たる発言は無かった。
 この 「言論問題」 において、学会はむしろ 「言論の暴力」 の被害者であったのに、あたかも加害者であるかのように扱われてきたのである。

 〔「戦術的退却」 の見本のような 池田会長の講演〕 の項目には、
 1970(昭和45)年5月3日の学会本部総会において、池田先生は 「言論問題」 について言及され、“世論の動きをふまえ、苦渋の選択として謝罪の講演を行い、「戦術的退却」 をする道を選んだのである” と述べられている。
 会長講演の一部です。
 「今度の問題は「正しく理解してほしい」という、極めて単純な動機から発したものであり、個人の熱情からの交渉であったと思う。ゆえに言論妨害というような陰険な意図は全くなかったのでありますが、結果として、これらの言動が全て言論妨害と受け取られ、関係者の方々に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまったことは、まことに申しわけなく、残念でなりません。
 たしかにこれは、それ自体として法律に抵触するものではなかったと思う。しかし私は、法に触れないから、かまわないというような独善的な姿勢ですまされる問題ではなく、まさに道義的に考えなければならない、最も大切な問題だと思うのであります。
 今回の問題をめぐって幾多の新聞・雑誌に、フランスの ボルテールの次の言葉が引用されておりました。それは 「私は、お前のいうことに反対だ。だが、お前がそれをいう権利を、私は命にかけて守る」 という有名な言葉であります。私は、これこそ言論の自由の根本だと思う。
 かくも言論の自由が尊重されるゆえんは、それが人間の権利の欠くべからざる要素であり、あらゆる人が自己の主義・主張をなんら拘束されることなく、表現できることが、民主主義の基盤であるからであります。
 その点からいえば、今回の問題は、あまりにも配慮が足りなかったと思う。また、名誉を守るためとはいえ、これまでは批判に対して、あまりにも神経過敏になりすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。今後は二度と、同じ轍(てつ)を踏んではならぬ、と猛省したいのであります。
 私は、私の良心として、いかなる理由やいいぶんがあったにせよ、関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直におわび申し上げるものであります。もしできうれば、いつの日か関係者の方におわびしたい気持ちであります」

 
 この日、池田先生は、熱のあるお体で一時間以上にもわたる、立ちっぱなしのご講演であったとのことです。私たち弟子の至らぬ行動のために、関係者並びに、国民の皆さんに対しておわびしたのであります。まことに申し訳なく思っています。

 佐藤氏は、“池田氏のこれまでの歩みを振り返ると、「一度は戦術的退却をするものの、態勢を立て直して二度目に勝利する」 という パターンがたびたびあることに気づく” と述べられている。
 たとえば、「大阪事件」 においては、一度は戸田先生を護るため罪を認めるが、二度目の法廷闘争で、見事に無罪を勝ち取った。
 「宗門事件」 においても、一度目の第一次宗門事件では会長辞任という形をとったが、第二次宗門事件では言論闘争で挑み、宗門に勝利して決別を果たした。
 しかし、「言論問題」 だけは、明確な 「二度目の勝利」 は訪れていない と述べられている。

 しかし、『50年史』 が 「言論問題」 を真正面から取り上げ、“われわれこそが 「言論の暴力」 の被害者だったのだ” と主張することによって、公明党は長年の懸案事項に決着をつけようとした。当時は学会に対する世間の偏見があまりに強く、戦術的退却をせざるを得なかったが、四十数年を経て学会・公明党への理解も進み、決着できるだけの土壌が整ったのだ。
 そして、『50年史』 における 「言論問題」 の記述について、政界や マスコミからの表立った批判は皆無に等しい。そのことによって、ようやく池田氏にとっての 「二度目の勝利」 が訪れたのだと、私は思う。
  (同誌・56P)
 佐藤氏は “ 『50年史』 が 「言論問題」 を真正面から取り上げたことにより、「二度目の勝利」 が訪れたのだ” との見解を述べられています。

 このような 「言論問題」 が起きた背景にあるのは、日本社会にある根強い 「政教分離主義」 である。その主義・思想による 「宗教団体は政治に口を出すべきではない」 という考え方が、知識人・マスコミ人を含む多くの日本人に共有されている。
 より一層これからは、“宗教人は政治に口を出すな” ではなく、宗教こそ、政治・経済・文化など全てのものの基礎であり、ひいては、世界人類の平和と幸福にとって肝心要なものであることを、強く訴えて行かなければならない。

 5・3 「創価学会の日」 第17回 本部幹部会における、原田会長の講演を一部引用いたします。
 カトリックの信徒団体の クァットルッチ事務総長は宗教と政治の関係性を、こう論じています。
 「政治家の良心を保つための薬こそ、『宗教』 であることを断言したい」 「日本では、いまだに、“宗教家は政治に口出しするな” ということを言う人がいるようですが、それは、国家の成長を妨げる浅薄な言論です。宗教的思想を根本に、自らを律し、正義の信念に生きる者こそ、より積極的に政治に関わるべきです」 「その意味においても、学会には、一層、政治に積極的に関わっていただきたい」 と。
 学会の在り方は、まさに世界宗教にふさわしい 「世界基準」 の前進なのであります。
 私どもは、正々堂々と政治に参加し、断じて勝利してまいりましょう(拍手)。
  
  (聖教・2016-4/22・4面) 

 原田会長は、“宗教的思想を根本に、自らを律し、正義の信念に生きる者こそ、より積極的に政治に関わるべきです” また “正々堂々と政治に参加し、断じて勝利してまいりましょう” と指導されています。
 来る大法戦は、「言論問題」 における 「二度目の勝利」 を確実にし、名実ともに、この問題の決着をつける戦いであると思います。
 大勝利して、池田先生にご報告してまいりましょう。

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ジャンル : 学問・文化・芸術

「公開情報」 を論拠とする

 佐藤 優氏の “『公明党50年の歩み』 を読む” の五回目は、〔外交でも重要な役割を果たしてきた公明党〕 であります。  (第三文明・2016-6月号)

 〔外交重視の姿勢を強める公明党〕
 一般的に公明党と言えば 「福祉や教育に力を入れてきた政党」 という印象が強い。しかしながら、公明党は50年を超える歴史のなかで、日本の外交に重要な役割を果たしてきたのである。
 特に昭和47年、日中国交正常化への道筋において、野党でありながら、先駆的な役割を果たしたことは記憶に生々しい。
 対中外交だけでなく外にも、ロシアや韓国、中東各国、アメリカなどとの関係においても、それぞれ重要な役割を果たしてきた。
 これら公明党の外交はすべて、党の創立者である 池田SGI 会長の民間外交が土台になっている言っても過言ではない。
 
 佐藤氏は、“今の公明党が外交を重視するのは、もちろん一つには世界平和を重視するゆえだが、もう一つには、支持母体の創価学会がいよいよ世界宗教化してきたからだ。……
 そのように、「創価学会の世界宗教化」 の プロセスが進めば進むほど、公明党の役割もより グローバルなものに変化していく。その変化の一つの表れが、公明党の外交重視の姿勢なのだと思う。……
 そして、自民党との連立で与党となって以降、その役割の重みはいっそう増している”
 と述べられています。  (同誌・53P)

 〔公明党抜きに日本外交は語れない時代〕 のところでは、
 佐藤氏は、“当連載の第1回(2月号)で、私は 「公明党と創価学会の動きを見ていれば、日本政治の動向はわかる」 と書いた” と。
 そして、これらの論文を書くのに、“それは何ら難しいことではない。『公明新聞』 と 『聖教新聞』 をきちんと読んでいればよいのだから……。 問題は、その程度の労力すら惜しみながら、公明党について論じようとする半可通の論者がはびこっていることだ” と述べられている。
 小生はこの記事を読みまして、少しは ブログを書いている者として、関心が湧きましたので、続きの文を引用させていただきます。

 ちなみに、私は 『創価学会と平和主義』(朝日新書)を執筆するにあたっても、書籍などの公開情報のみを ソース(情報源)とした。しかも、内容の大半は、「聖教オンライン」(『聖教新聞』 のネット版)や創価学会公式サイト(SOKAnet)で読める記事を資料としていた。それはなぜかというと、検証可能性を担保しておくためである。「佐藤優はこう書いているが、本当だろうか?」 と思った読者は、ネットで検索すれば資料として用いた当該記事が読める。そのことが重要なのだ、 と述べられている。
 小生も ブログに引用した、御金言や先生の御指導は、その書籍名やページ数をすべて記入するようにしています。

 世の論者のなかには、私が 『創価学会と平和主義』 を公開情報のみによって書いたことを批判する向きもあった。「タテマエ的な公開情報だけ見ていては、創価学会の本質はわからない」 という主旨の批判であった。
 だが、私はそうは思わない。創価学会に限らず、巨大組織になればなるほど、「公開情報のなかで ウソをつくこと」 は難しくなっていくものである。組織防衛上の観点から表に出さない情報は当然あるとしても、虚偽の情報を出すことは リスクが大きすぎるし、組織が大きいほど矛盾も発覚しやすいからだ。
 したがって、「公開情報だけを見ていても創価学会の本質は理解できない」 というのは、短絡すぎる見方だと思う。公開情報だけで十分な基本分析ができる。
  (同誌・53~54P)

 佐藤氏は “虚偽の情報を出すことは リスクが大きすぎるし、組織が大きいほど矛盾も発覚しやすいからだ” と。
 確かに、この頃の我が国の超一流の企業と謳われた、“三菱自動車・東芝・東洋ゴム・旭化成建材・オリンパス” 等々、まだまだ沢山あります。
 これらはみな、“データ改ざん・不当表示・粉飾決算・巨額損失隠し” 等々、企業 モラルはどうなってしまったのかと聞きたい。いま企業・社会全般に、このような風潮が蔓延しているのだろうか? 嘆かわしい限りである。
 誰も見ていなければ分からないだろうと、不正に手を染め、いくら隠ぺいを図っても、お天道さん見ている、因果の理法は厳然とあることを肝に銘じなければならない。 

 では逆に、昔の週刊誌の創価学会批判記事のように、いわくつきの脱会者(元学会員)や匿名の 「事情通」 からの リーク情報を集めたら、「創価学会の本質」 とやらが理解できるのだろうか? むしろ、歪んだ プリズムによって本質が見えなくなってしまうだろう。
 だから、公明党や創価学会を批判するにしても、怪しげな裏情報によるのではなく、公開情報を論拠とすべきなのだ。それは、まっとうな批判をするための大前提だろう。


 小生は、個人や団体を批判するにしても、佐藤氏の言われるように “怪しげな裏情報によるのではなく、公開情報を論拠とすべきなのだ” というご意見は、真っ当なことで正論であると思っています。
 日蓮大聖人は、「但経文を以て勝劣の義を存す可し」(125P) と仰せです。
 釈尊の説かれた 「経」 を基本に用いて、五時八教の判釈にしたがい、法華経を最第一としなければならないのである。
 それを、途中の慈覚・智証・弘法・法然らの人師・論師たちが、自分勝手に爾前経を解釈し、己義・邪義を弘め、人々を悪道に落としめたのである。
 「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云」(957P) と仰せです。
 現在、日蓮仏法ならば、「御書」 を根本として、「法華経の心」 、「日蓮大聖人の御精神」 を体し、「世界広宣流布」 の指揮を執られている “池田SGI 会長” のご指導を基本とし、師事しなければならないのである。
 間違っても、世流布の怪しげな学会裏情報などに、惑わされ騙されてはならない。重々気を付けましょう。 

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公明党の「与党化」

 佐藤 優氏の “『公明党50年の歩み』 を読む” は、(最終回) 〔公明党 「与党化」 の意義を考える〕 であります。 (第三文明・2016-7月号)
 与党としての公明党は、1993年の細川連立政権参加によって始まり、1999年からは自民党との連立政権の樹立から本格化した。
 しかし、それ以前の野党時代にも、与党化に向けての地ならしとも言うべき局面があった。
 たとえば、1972年の日中国交正常化の際、中国と田中内閣の橋渡しをしたことは、その一つといえる。
 また、1994年の新進党への参加も、与党になるための トレーニングだったと考えられる。
 さらに、湾岸戦争での 100億ドル支援問題から PKO法成立までの経験は、野党ながら国の新しい生き方の決定に関わり、与党的な経験を積んだ。
 佐藤氏は、『50年史』 は、“「与党化」への軌跡を刻み付けた党史” とも言える、と述べられている。

 〔世界宗教の 「与党化」 は必然である〕
 佐藤氏は、“公明党の与党化は必然であり、何ら不思議なことでも意外なことでもない” と、それは、“「世界宗教と結びついた政党は与党であるのが当たり前」 であり、野党であるほうがむしろ不自然なのだ” と述べられている。
 歴史的に見ても、キリスト教は、313年 ローマ帝国から公認され 「与党化」 した。現代でも、ドイツの 「キリスト教民主同盟」 など、「世界宗教の与党化」 の例はたくさんある。
 “つまり、創価学会の本格的な世界宗教化と公明党の与党化は、コインの両面のように密接に リンクしているのだ” と述べられている。

 ではなぜ、世界宗教の 「与党化」 は必然なのだろうか 、との問いを設けて 答えられていますので、引用させていただきます。
 一つには、世界宗教というものが、「反体制的ではなく既存の社会 システムを認めたうえで “体制内改革” を進めていく」 という共通の特徴を持っているからである。
 創価学会もしかり。 「人間革命」 という キーワードが誤解を招きがちだが、創価学会に反体制的性質はまったくない。 「人間革命」 は体制転覆の革命ではなく “人々の心のなかからの革命” を指すのであり、創価学会はあくまで “体制内改革” を目指す教団なのである。
 各国の SGI 組織のありようを見ても、その国の国体(国の基礎的な政治の原則)に触れるような行為は決して行わず、既存の社会の システムにすんなり溶け込んでいる。
 そして、世界宗教が体制内改革を標榜するものである以上、その改革を進めるためにいちばん力を持った存在である与党と結びつくのは必然なのだ。
 現実への影響力という点で、野党と与党には天地の差がある。与党になってこそ、日本一国を大きく動かす力を得ることができるのだ。そのことは、野党時代の公明党と、与党となってからの公明とを比べるだけでも一目瞭然だろう。
  (同誌・53P) 

 人間の幸・不幸は、金があるとか・地位があるとかで決まるものではない。また、政治体制や経済機構の違いによって決まるものでもない。どんな社会体制の中にあっても、貧乏人もおれば・金持ちもおる。病人もおれば・健康体の人もおる。
 これらの違いは、どこから来たのであろうか? 社会体制や環境のせいでないのなら、所詮、個々人の生命境涯(宿業)の違いに帰するのである。
 そうであるならば、宿命転換すなわち、「人間革命」 する以外に “絶対的幸福境涯” になれる道はないのである。
 ゆえに、佐藤氏は「創価学会に反体制的性質はまったくない。…… あくまで “体制内改革” を目指す教団なのである」 と述べられている。

 〔与党だからこそ 持ち得た 「影響力」 の例〕 という項目のところでは、三点にわたって示している。
 第一に平和安全法制成立までの経緯において、公明党が果たした 「歯止め」 の役割である。
 この歯止めとは、閣議決定に盛り込まれた 「武力行使の新3要件」 のことである。この安全法制を 「戦争法」 と呼んで批判するものもおるが、むしろ、以前より戦争につながるような動きは封印された。
 佐藤氏は、“あえて言えば、公明党は単に 「歯止め」 をかけたにとどまらず、自衛隊をめぐる 「構造」 そのものを変化させたのだ” と述べられている。

 第二に、昨年(2015年) 8月14日に発表された、安倍晋三首相の 「戦後七〇年談話」 である。
 あの談話の最大のポイントは、「満州事変以後の日本の歩みは誤っていた」 との歴史認識の表明である。
 誤った時期を明確に特定した点で、前の村山談話よりも、むしろ安倍談話のほうが踏み込んだ内容になっている。これは、首相が連立 パートナーの公明党に配慮したからにほかならない。
 “公明党が与党であることによって持ち得た影響力の、実例の一つと言える” と述べられている。

 第三に“軽減税率導入決定までの経緯である。結果的には、公明党の主張をほぼ丸のみにする形で、自民党も軽減税率導入に同意した。これも、公明党が与党であるからこそだろう” と述べられている。

 このように、“安全保障・歴史認識・財政” という三つの分野において、公明党が自民党に大きな影響力を及ぼしてきたのである。 「与党化」 とは、現実の政治において、これほどの力を持つということなのである。

 〔すべての人々を守る 「人間主義」 を掲げて〕
 佐藤氏は、「公明党は結党以来、その姿勢にまったく ブレがない」 ということである、と述べられている。 

 公明党は常に 「大衆にとっての最善」 を考えて行動してきたのであり、その一点においてまったく ブレがないのだ。
 公明党は、「国民」 よりも 「大衆」 という言葉に重きを置いてきた。なぜ、「国民」 ではなく 「大衆」 なのかといえば、「国民」 は 「日本国籍を有する者」 という意味になり、「日本国籍を持たずに日本に住んでいる人」 ――在日外国人や無国籍者を排除する ニュアンスを孕(はら)むからだろう。
 ………
 それでも基本的には、政治の主体は 「その国に住むすべての人」 なのである。
 同様に、「生活者」 という言葉を最初に全面に出した政党も、公明党だ。
 国民ではなく、「大衆」 「生活者」 ――公明党の用いる ワーディング(言い回し)には、国籍にかかわらず、そこに住むすべての人々を守っていこうとする姿勢が感じられる。
 一部の人ではなく、すべての人のための政治。日本一国のみならず、世界のための政治。そのような 「人間主義」、世界市民的な視野を持った政治を、公明党は半世紀余にわたって貫いてきたのだ。
  (同誌・57P)

 佐藤氏は、公明党は “「大衆」 「生活者」 という言葉を最初に全面に出した政党だ” と、そして “すべての人のための政治、そのような 「人間主義」、世界市民的な視野を持った政治を、公明党は半世紀余にわたって貫いてきたのだ” と、じつに正しい 的を射た評価をしてくださっています。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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