「希望の源泉」(1)(宇宙的 ヒューマニズム)

 雑誌 『第三文明』 に、作家・佐藤 優氏の 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) が新しく連載されました。
 第 1回 は、〔『法華経の智慧』 に見る 「民衆宗教」 と 「人間主義」〕 であります。

 『法華経の智慧』 は、当ブログにも数多く引用させてさせて頂いています。法華経を学ぶためには無くてはならない、池田先生の代表的著作の一つであると思っています。
 佐藤 優氏は、同志社大学大学院神学研究科を修了された、歴とした プロテスタントの宗教学者であります。佐藤氏の眼から見て 『法華経の智慧』 を、どのように評価してくださるのか、興味の湧くところである。
 
 〔「宗教改革の書」 でもある 「法華経の智慧」
 まず冒頭に佐藤氏が、『池田大作全集』 全150巻を買いそろえました とのこと、1~2年かけて全巻通読に チャレンジしていくと決意を披歴しています。お忙しい身で、全巻読破もさることながら、全150巻をそろえることは並大抵のことではありません。すごいことで、今後のご活躍を願っています。
 この新連載の 「希望の源泉」 は、司会者とわかりやすい対話形式で進められています。大聖人の 「立正安国論」 も問答形式で書かれており、池田先生の思想を読み解くうえでふさわしい スタイルだ、と語られています。

 佐藤 優  『法華経の智慧』 の連載が開始されたのは1995年。……1991年 ソ連崩壊で共産主義という一つの価値観が崩壊し、世界に巨大な思想的空白が生まれた。 その空白を埋めるため、ナショナリズムという危険な思想が世界に蔓延(まんえん)しかかっていた。 そのような節目の時代にあって、人類が ナショナリズムの方向に進まず、平和な 21世紀を生きていくための 「人間主義の思想書」 として構想されたのが、『法華経の智慧』 だったのではないでしょうか。
 と同時に、『法華経の智慧』 は、今まさに本格化している 「創価学会の世界宗教化」 の、基盤となり得る書物だと思います。
  (第三文明・2016-8月・53P)

 21世紀に入り、大国の国家間の紛争はなくなったようですが、民族・宗教・地域紛争・テロ暴力事件・自然災害等は、ますます盛んに頻発しております。未だ世界は、この問題の解決への道を見い出していません。
 大聖人は、「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」(1467P) と仰せです。“平和な 21世紀を生きていくための 「人間主義の思想書」” としての 『法華経の智慧』 の重要性は、ますます高まっていくと思います。

 〔生命への畏敬から生まれた 「人間主義」
 この項で、池田先生が “宇宙的 ヒューマニズム” と発言されたことが述べられています。

 佐藤  『法華経の智慧』 は、池田会長の 「人間主義」 の思想が本格的に、また多角的に論じられている書物だと思います。 たとえば…… 会長が次のように述べるくだりがあります。
 「共産主義も資本主義も、人間を手段にしてきたが、人間が目的となり、人間が主人となり、人間が王者となる―― 根本の人間主義が、『経の王』 法華経にはある。 こういう法華経の主張を、かりに 『宇宙的人間主義』 『宇宙的ヒューマニズム』 と呼んではどうらろうか」 (上巻・25P/「普及版」による)
 従来のあらゆる政治思想・経済思想が人間を手段視してきたのに対し、池田会長の掲げる人間主義は、人間が目的となる、というのです。
 また、「人間主義」 は英語の直訳すれば 「ヒューマニズム」 ですから、従来の ヒューマニズムとどう違うのかがわかりにくかった。その点をふまえ、池田会長は 「宇宙的ヒューマニズム」 という新しい言葉を作られた。
 従来の ヒューマニズムは、「人間中心主義」―― つまり、「地球の自然は人間が利用するためにある」 と考える傲慢(ごうまん)さを孕(はら)んでいました。 それに対して、池田会長の人間主義、ひいては法華経の人間主義は、地球という狭い枠にとらわれない宇宙的視座からの ヒューマニズムだというのです。 地球においては人間が覇者(はしゃ)ですから、「人間がいちばん偉いのだ、特別なのだ」 という傲慢に陥(おちい)りがちです。 しかし、宇宙的視座から考えれば、人間は宇宙の覇者ではないし、地球も宇宙の中心ではありません。したがって、宇宙的 ヒューマニズムは単純な人間中心主義ではあり得ないわけです。


 ―― 従来の ヒューマニズムが陥った 「人間中心主義」 は、生命軽視が生んだものですね。 動植物を人間が生きるための手段として捉えてしまったのですから……。 それに対して、池田会長の人間主義の根底には、すべての生命のなかに仏性があるとする法華経の思想をふまえた 「生命至上主義」 があります。

 佐藤  よくわかります。 「生命の尊厳を根底に据えた人間主義」 であるからこそ、池田思想は環境破壊や、他者の生命を蹂躙(じゅうりん)する戦争には結びつかないのです。 そして、他者の生命の尊重が根底にあるから、池田会長は宗教間対話においても相手を最大限に尊重して対話に臨むことができる。相手の生命の奥底にある仏性を見据えての対話であるからでしょう。
  『法華経の智慧』 が、「二十一世紀の宗教を語る」 という副題を持つことは象徴的です。 「宇宙的人間主義」 を掲げた SGI こそ、二十一世紀において異なる宗教を結ぶ役割を果たし得るという自負が、この副題から感じ取れる気がします。
  (同誌・57P)

 「人間中心主義」 と言えば聞こえはよいが、“「人間がいちばん偉いのだ、特別なのだ」 という傲慢に陥りがちです” と言われるような危険性があるのである。 そこからは、人間が主人公になり、動植物や環境まで利用して当然とする考えになってしまった。その結果が、現世の混沌とした世情の姿である。
 これを正すには、“すべての生命のなかに仏性があるとする法華経の思想” すなわち、「法華経の人間主義」 「宇宙的 ヒューマニズム」 の思想を基盤としなければならないのである。 

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

希望の源泉(2)(すべての思想を生かしていく)

 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第 2回 は、〔すべての思想を生かしていく 「法華経の智慧」〕 であります。
 はじめに、宗教の悪魔的な一面について述べられています。

 〔多文化主義を再生させる 「人間主義」
 佐藤 優  「序論」 で、池田会長は次のように述べています。 
 「宗教は、使い方によっては “悪魔” となる。 人々を結びつけるべき宗教が、利用され、かえって分断をあおっている。 これほどの不幸はない。
 どこまでも 『人間のための宗教』 が根本とならねばならない。 『宗教のための人間』 では絶対にない。 『二十一世紀の宗教』 の、これは根本原則です」
 (「普及版」上巻・19P)

 そして、宗教が 「悪魔」 となってしまった例として、キリスト教徒は指で十字を切って祈るが、二本指(カトリック教徒・クロアチア側)か、三本指(正教徒・セルビア側)かの違いによって人々を分断し、ボスニア紛争期には、相手の捕虜の指に針金まで入れて強制したとのことである。
 現在の I S (イスラム国)が行っている残虐な テロ行為にも、同じような ファナティズム(狂信)が感じられます。 I S のような反・人間主義的な宗教集団の跋扈(ばっこ)が、21世紀に入ってからも起きてくることを、『法華経の智慧』 は予見していたと言えるかもしれません、 と述べられ、宗教の ドグマ(教条主義)による不幸な民族間分断の実態を語られています。
 そして “多文化主義” について、多文化といってもすべての文化を無条件で認めることではない と述べています。

 ――  池田会長の 「人間主義」 が異なる宗教を結び付ける役割を果たすといっても、単なる 「多文化主義」(マルチカルチュラリズム=異なる文化の価値を等しく認め、その共存を推進していこうとする考え方) ではないと思います。……

 佐藤  そのとおりです。 多文化主義が異なる文化の価値を等しく認めるものであるなら、たとえば ナチズムのような思想にも価値を認めていいのか?  いいはずはないわけです。 では、尊重すべき異文化と、認めてはならない悪しき異文化を分かつ基準を、どこに置くべきか?  池田会長は、その基準を 「人間のため」 という一点に置かれたのだと思うのです。 多様な文化は尊重すべきだが、ナチズムや現在の I S が陥(おちい)っている ファナティズムのように、人間の価値を軽んずる思想は決して認めるわけにはいかない……という一線をを引いた。
 創価学会と日蓮正宗宗門の決別 以来、池田会長が一貫して宗門と戦ってきたのはなぜかと言えば、宗門にはびこる “思想” ―― たとえば僧俗差別主義や法主絶対主義 ―― が、人間主義に反しているからでしょう。 反・人間主義的な宗門の価値観を放置していたら、創価学会全体の価値観・生命観・人間主義にも、大変な悪影響を与えかねない。 だからこそ、池田会長は宗門を批判し続けざるを得なかった。 創価学会と宗門の対立を、単なる権力闘争のように捉えている人が多いですが、実は人間主義と反・人間主義の闘争であり、「人間のための宗教」 と 「宗教のための宗教」 の闘争であったのです。
  (第三文明・2016-9月・53P)
 
 現代は、むしろ宗教が人々の幸福に寄与するどころか、不幸の原因になっている。現に シリア内戦によって大量の難民が発生し、悲惨な状況下に置かれている。
 紛争の原因は、いろいろ複雑多岐にわたり一概に言うことはできない。単なる宗教戦争でもないようだが、当事者の心の奥底には、一神教の影響があるように思われる。 

 キリスト教・イスラム教等は、天地創造の唯一絶対神を信じている。唯一絶対神とは、他の一切の神の存在を許さないと言うことになる。それゆえか、もともと同じ思想から発生した同根の宗教であるのに、各々宗派が異なると言うだけで対論ができず、往々にして殺し合いの抗争になるのである。不倶戴天の仇のように見るのは、一神教の弊害であると思う。

 一方、仏教は多神教であり、多くの仏・菩薩や神を認めています。特に法華経は、一切衆生に仏性有りとして、人びとを仏と見る思想である。宗派間の論争で武力を使ったことはないのである。
 創価学会と日蓮正宗との対立も、学会側は話し合いを求めたが、宗門側はそれには一切応じず、一方的に、学会と広宣流布の破壊を企てたので、決別に至ったのである。
 その真因は、佐藤氏の言われるように “実は人間主義と反・人間主義の闘争であり、「人間のための宗教」 と 「宗教のための宗教」 の闘争であった” のであり、悪思想の邪義は、徹底して闘い撲滅しなければならないのである。

 ――  ドイツの アンゲラ・メルケル首相が、2010年に 「多文化主義は完全に失敗した」 と発言して大きな話題となったことがあります。……

 佐藤  多様な文化の尊重だけでは ダメで、普遍的価値に基づく確固たる線引きがなければならない。 その線引きになり得るのが、池田会長の人間主義でしょう。 メルケルの発言が象徴するように多文化主義が行き詰まっている昨今ですが、池田会長の人間主義と結びつくことによって、多文化主義も再生すると思います。
 「異なる宗教の平和的共存」 という二十一世紀社会の重要な課題に、『法華経の智慧』 は一つの答えを提示していると思います。
  (同誌・54P)

 〔法華経が 「諸経の王」 である理由
 ――  法華経は 「諸経の王」 と呼ばれていますが、この呼び方には少し誤解されている面があると思います。 「法華経だけが優れていて、ほかの諸経は無価値である」 という独善とは似て非なるものだからです。 池田会長は 「序論」 で、その点について次のように述べています。
 「法華経は 『経の王』 です。 王とは、他を否定するのではなく、一切を生かしていく立場です」 (上巻・23P)
 つまり、法華経という フィルターを通すことによって、ほかのあらゆる宗教や思想も正しく生かされていくからこそ、法華経は 「諸経の王」 だというのです。

 佐藤  わかります。 確かに 『法華経の智慧』 には、キリスト教や イスラム教などの他宗教、マルクス主義などの思想、科学の先端的知見などが自在に織り込まれ、その意義が法華経の視座から再解釈されています。……   (同誌・56P)

 ――  アインシュタインが 「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である」 と言ったように、一流の科学者は往々にして宗教の意義も認めているものです。 また、無神論者であったとしても、「生命への畏敬の念」 は抱いているものだと思います。

 佐藤  私もそう考えます。 その点、法華経は生命の尊厳を根底に置いているからこそ、生命軽視、人間軽視には決して陥らない。 だからこそ、宗教・政治・科学など、あらゆる分野の思想を統合しゆく中心軸になり得るわけですね。  (同誌・57P)

 行き詰まっている多文化主義 や その他 すべての思想を生かしていけるのは、「諸経の王」 である 「法華経」 以外にはありません。生命尊厳主義・人間主義・文化主義・平和主義を根底として、あらゆる分野の思想を生き生きと活用させていけるのであります。 

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

希望の源泉(3)(「危機の時代」を予見する)

 佐藤 優氏の 「希望源泉」 (池田思想を読み解く) の第 3回は、〔今の 「危機の時代」 を予見していた 『法華経の智慧』〕 です。

 〔仏法の智慧を現実社会へと展開
 佐藤 勝  『法華経の智慧』 は、常に現実社会との関わりのなかから法華経を捉えようとしていますね。 「序論」 だけでも、ボスニア紛争、ソ連崩壊後のロシア社会の混乱、生命科学の最先端などの問題が俎上(そじょう)に載ります。 そして、そのような連載当時の アクチュアル(現実的)な問題に対する言及が、約 20年後の現在も古びておらず、21世紀の社会についても深く考えさせるものとなっている。 そこが、この本の大きな特徴です。
 ………
 佐藤  そして、法華経を政治や経済など、社会の問題と結びつけて語れるからこそ、池田思想は 「生きた思想」 なのだと思います。 宗教者が宗教という枠のなかに閉じこもり、「社会問題についてはよくわかりません」 と社会から目を背けるようでは、それは 「死んだ思想」 なのです。
 池田会長自身が次のように述べています。

 「現実の社会を離れて仏法はありません。 仏法即社会です。 社会即仏法です。(中略)仏法の心、仏法の智慧を、つねに社会へ、世界へと ダイナミックに展開していく。 それでこそ真実の仏法です。 宗教の世界に閉じこもるのは宗教の自殺行為です」 (「普及版」上巻・119P) (第三文明・2016-10月・53P)

 この 「序論」 の冒頭のところで、池田先生は、次のように述べられています。
 自分が、また社会が 「どこへ」 「何のために」 進めばよいのか。 それを教えてくれる智慧を求めている。
  あるいは、戦乱の旧 ユーゴ諸国で。
  あるいは、飽食の先進国の社会で。
  あるいは、混乱の旧・社会主義国で。
  あるいは、貧困と戦う第三世界で。
 ………
 何かが間違っている。 何かが必要だ。 科学でも幸福はない。 社会主義でも資本主義でも救われない。 どんなに会議を開いても、道徳を訴えても、心理学を講じ、哲学を講じても、何かが欠けている。
 今、人類の心の情景は、このようなものではないでしょうか。
 と問題提起をなされています。
 この問題の解決への道は、一人の人間の 「生命の変革」 が一切を変えていくという、“法華経の智慧” に求めなければならないと思います。

 〔「法華経の智慧」 を今読むべき理由
 佐藤  なぜ、私のような学会員ではない人間が、『法華経の智慧』 という書物を今読むべきなのか? 
 その問いに対する一つの答えは、「今世界にとって大きな危機の時代・大変革期であり、その危機の時代を生きるための智慧が、ちりばめられた本だから」 ということです。
 ………
 『法華経の智慧』 は、約 20年前に作られた本ではありますが、現在のような 「危機の時代」 にこそ光彩を放つ書物だと思います。 そしてそれは、創価学会自体が 「危機に強い宗教」 であることの反映なのでしょう。 もちろん、学会は平時においてもきちんとした活動をしてきました。 そのうえで、平時よりは危機の時代にこそ、その真価を発揮する教団だと思うのです。
 (同誌・55P)

 なぜ、「危機に強い宗教」 なのかといえば、「難」 の捉え方に一つの要因があると述べています。
 司会者は、「きちんと信心をしていけば、それを妨げる難が起きるのは仏法上の必然であり、その難を乗り越えてこそ成長できるし、宿命も転換できる」 というのが学会の指導性です と言われています。
 佐藤氏は、苦難や危機を避けるのではなく、むしろ喜んで迎え撃つ、よい意味での 「戦闘性」 が学会にはある。だからこそ危機に強い。SGI が各国の社会に受け入れられているのは、一つにはそのためでしょう と、称賛と期待感を述べられている。

 〔「危機の時代」 のための思想
 佐藤  『法華経の智慧』 が連載された 1990年代後半は,今とは違って、「世界が危機の時代に突入した」 などという認識はなかったと思います。 局地的な紛争は当然あったにせよ、「第三次世界大戦の危機が間近に迫っている」 などと考える人はほとんどいなかったはずです。……
 要するに 90年代後半は 「もう戦争は起きない」 という楽観が世界を覆(おお)っていた。 「21世紀は危機の時代になる」 などとは、ほとんど誰も思っていなかったのです。……
 たとえば、「序論」 における ボスニア紛争への言及は、現在の シリアで当時の ボスニアとよく似た状況が現出していることを予見していたとも言えます。……
 しかし、99年に 『法華経の智慧』 の連載が終わったあと、世界は急激に 「危機の時代」 へと向かいます。 2001年の 「9・11」 同時多発テロと、03年からの 「イラク戦争」 が、その暗い幕開けでした。 そこから十数年がたった今、世界は明日さえも見えないような、混沌とした 「危機の時代」 のただ中にあります。…… 約 20年前に現今の 「危機の時代」 を予見していた点に、鋭い先見性があるのです。
 そのことを、あえてキリスト教の語彙(ごい)を用いて 「預言者的」 と評したい気がします。…… 池田会長の未来を見通す慧眼(けいがん)は、私には 「預言者のようだ」 と感じられるのです。


 ――  日蓮にも、『顕仏未来記』 のような 「未来記」、すなわち “予言の書” のような著作があります。 といっても、それは オカルト的な予言ではなく、仏ならではの 「三世(過去世・現世・来世)を見通す」 慧眼で世界が進みゆく方向を考えたとき、おのずと浮かび上がってくる ビジョンなのでしょう。

 佐藤  ええ、池田会長の場合も同じだと思います。 仏法を究(きわ)めた人ならではの鋭敏な認識力・直観力によって、未来を見通すのでしょう。……

 日蓮大聖人は、「三世を知るを聖人という余に三度のかうみよう(高名)あり」(287P) と仰せです。
 三度の高名とは、一には文応元年七月十六日・立正安国論をもって、二には文永八年九月十二日・平左衛門尉に向かって、三には文永十一年四月八日・佐渡赦免後、平左衛門尉に語って云く と。以上三回にわたって、国家諌暁を行い、自界叛逆(ほんぎゃく)難、他国侵逼(しんぴつ)難の二難が起こると警告され、それがことごとく 的中したことを言う。
 また、『顕仏未来記』 には、「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(507P) と仰せです。
 現在、池田先生のご指導のもと、大聖人の御予言のごとく、世界 192ヵ国にまで、創価の世界広宣流布は拡大しております。世界広布の業績を考えても、現今の 「危機の時代」 を見通す慧眼に対しても、池田先生は聖人の一分にあたられると思います。

 ――  『法華経の智慧』 も、現在の世界を見通した 「予見の書」 として読むことができるのですね。

 佐藤  そうです。 人類が 「危機の時代」 を乗り越える方途が、深い次元から考察された書だと思います。 (同誌・57P) 

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

希望の源泉(4)(法華経は直説か創作か)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第4回は、〔超越性と現実の間を往還する思想〕 であります。
 今回から、法華経の 「序品」 についての章に入ります。

 〔法華経は釈尊の 「直説」 か
 佐藤 優  この章で池田会長は、いわゆる 「大乗非仏説」(法華経など大乗仏教の経典は釈尊の 「直説(じきせつ)」 ではなく、後世の 「創作」 であると捉(とら)える説) の問題に踏み込んでいますね。 会長は次のように述べています。
 「(法華経においては) 革新となる釈尊直説の思想が、編纂(へんさん)当時の時代状況、思想状況に応じて、一つの形をとったと考えられます。
 時代が釈尊の思想を希求し、釈尊の思想が、時代を感じて出現してきた。 『感応道妙(かんのうどうみょう)』 (仏と衆生が互いに通じあうこと) です。 普遍的な思想とは、そういうものです。 真実の思想の生命力と言ってもいい。 形態は新たになったとしても、時代状況のなかでは、それが、より、その思想の 『真実』 を表しているのです。 その意味で、私は、直説か創作かと問われれば、直説だと言いたい」
 (「普及版」上巻・85P)
 時代状況に応じて表現形態は変わっても、釈尊直説の思想がその核心にある以上、法華経を直説と捉えてよい、というものです。  (第三文明・2016-10月・53P)

 古来から、「大乗非仏説論」 というものはありました。以前のブログに、戸田先生が、ある東大生語られた指導がありますので、お読みくだされば幸いです。
 拙ブログの過去記事 ―→ ここから

 池田先生は、“真実の思想の生命力は、形態は新たになったとしても、時代状況のなかでは、それが、より、その思想の 「真実」 を表している” 以上、釈尊の 「直説」 と捉えてよい と指導されています。

 〔思想の 「編集」 という大切な営為
 この項目のところで佐藤氏は、キリスト教神学を駆使しながら次のように述べています。

 佐藤  要するに、文献批評をどれだけやっても、聖書ほど古い文献になると、確定的なことはめったに言えないのです。 蓋然(がいぜん)性(確からしさ)を追求することしかできない。 それは、仏典についても然りだと思います。……
 そういうこともありますから、信仰者である以上、学問的成果を絶対視すべきではない。 それよりも、カール・バルト(スイスの神学者)が言うように、「霊感説」 的な信念と直感がもっと重視されるべきだと思います。

 
 佐藤氏は、“信仰者である以上、学問的成果を絶対視すべきではない” と言われています。
 この点は、非常に重要な事であります。些細な違いにこだわって、信心の本筋を踏み外さないように気を付けなければなりません。

 佐藤  それから、私が 「序品」 の章で強い印象を受けたのは、池田会長が、法華経について次のように述べる部分です。
 「それにしても、法華経編纂者の編集能力は素晴らしい。文字や暗誦で伝えられてきた仏説の中から、釈尊の思想の核心を選びとり、見事に蘇(よみがえ)らせている。 編纂者のなかに、釈尊の悟りに肉薄し、つかみとった俊逸(しゅんいつ)がいて、見事に リーダーシップを発揮したとしか思えません」 (上巻・87P)
 この言葉は、イエス・キリストと パウロの関係や、釈尊と日蓮の関係、ひいては日蓮と創価学会の三代の会長の関係にも当てはまると思います。 イエスの思想を、イエスの死後に信仰に入った パウロが 「編集」 し、釈尊の思想を日蓮が 「編集」 し、日蓮の思想を池田会長らが 「編集」 して、後代に蘇(よみがえ)らせた …… そのような構図が、世界宗教のなかには共通してあるのです。 (同誌・54P)

 佐藤 氏は、“釈尊の思想を日蓮が 「編集」 し、日蓮の思想を池田会長らが 「編集」 して、後代に蘇らせた” と述べられている。
 前の 「創価学会とは何か」 という テーマの対談者である、 (同誌・2016‐1月より)
 松岡幹夫 氏は、“牧口初代会長の 「価値論」、戸田第二代会長の 「生命論」 を、池田第三代会長が 「人間主義の哲学」 として完成させた。
 そして今、学会員は池田会長の教えに従って正しく日蓮の御書を読んでいると言えます。「智者」 である池田会長が認めた日蓮の御書は、すべて 真正テキストと認めてよいというのが、私の考えです” と述べられている。
 佐藤 氏は、“「解釈者」 というものは、原テキストをより深く解釈することができるのです。池田会長は、まさに日蓮のよき 「解釈者」 と言えるでしょう” と述べられている。
 池田先生 は、“革新となる思想が、当時の時代状況、思想状況に応じて、一つの形をとった。…… 普遍的な思想とは、そういうものです。 真実の思想の生命力と言ってもいい” と述べられている。

 戦時中、宗門は国家権力に屈し、神札を祀るという大謗法を犯し、日蓮仏法は滅亡の状態になった。
 日蓮大聖人の大慈大悲は、戸田先生の 「獄中の悟達」 となって顕わされ、滅亡の危機から救われたのである。
 それまでは、「仏」 といえば絵像・木像の イメージしかなかったものが、戸田先生の 「仏とは生命なり」 の悟りによって、現実の我が身のうえに生命実感として把握することができるようになった。
 池田先生は、「仏界・仏性」 といえども、それは己身の “人格や友情や慈悲心” となって、その “人の振る舞い” のうえに顕われるもの と教えてくださいました。
 今や、創価学会は、生命尊厳の 「人間主義」 を標榜して、世界広布新時代を拡大し、世界の平和と人類の幸福のために、戦っている 教団であります。
 そして、法華経の精神に則っている 創価の 「人間主義」 は、大聖人の 「直説」 であると言っても過言ではないと思います。 

テーマ : 創価学会
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「希望の源泉」(5-a)(危機を乗り越えるために)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 5回は、〔生命論として 「諸法実相」 を読み解く書〕であります。

 今回からは、いよいよ法華経の 「方便品」 についての章になります。
 ところで拙ブログを開いてみたら、冒頭部分に スポンサーの広告が挿入されていました。何やら一か月以上、更新しないと挿入されるそうで、この点は知りませんでした。
 ここのところ、雑用やら気が乗らないやらで、もたもたしていたら もう一か月も経っていたんですね。早く消せるように頑張りたいと思います。

 〔「クライシス」 としての危機を乗り越えるために
 まず、章の冒頭にある池田先生の言葉が記されています。
 「今は乱世です。思想も社会も乱れている。
 そうしたなか、心ある人々は、日本と世界の行く末を真剣に考え始めた。 このままでは、柱のない家のように、人間も社会も崩れていくのではないか ―― そういう危機感を強く抱いているようです。……」
 (普及版」上巻・127P)  
 今は 「危機の時代」 であると、この時こそ、まさに “危機の時代を生きる羅針盤” として 『法華経の智慧』 は読まれるべき書だ と述べられている。 

 そして佐藤氏は、危機について説明されている。
 佐藤 勝  一口に危機といっても、さまざまな性質と次元の危機があります。 英語には 「リスク」 「パニック」 「クライシス」 など、危機を表す単語がいろいろあり、危機の性質によって使い分けがなされます。
 「リスク」 は、「リスクマネジメント」 という言葉があるように、「マネジメント(管理)できる危機」―― つまり計量可能で対処しやすい危機を意味します。
 「パニック」 は、ギリシャ神話の 「パーン」 という牧神が恐慌(きょうこう)に陥(おちい)った エピソードが語源になっているように、個人や集団の恐慌状態が引き起こす危機を指します。つまり、精神科医や社会心理学者が主に対処すべき危機と言えます。
 三つ目の 「クライシス」 は、最も対処が難しい危機です。 クライシスの語源となった ギリシャ語 「クライシス」 は、「峠(とうげ)・分かれ道」 という意味です。 つまり、大きな転換点にさしかかったときに選ぶ道を誤ることがもたらす危機が、「クライシス」 なのです。
 (第三文明・2016-12月・53P)

 池田先生が、論じられている 「危機」 とは、まさに 「クライシス」 としての危機なのであります。
 佐藤氏は、“クライシスは リスクや パニックとは違い、一般的な危機管理の技法で対処するのは難しい。 だからこそ、時代の先を見通す慧眼(けいがん)を持つ優れた宗教者や思想家が、「炭鉱のカナリア」 としての役割を果たして、広く社会に クライシスへの警鐘(けいしょう)を鳴らすべきなのです” と そして、池田先生に期待を寄せられています。

 〔主体性を失わず運命に立ち向かう姿勢
 佐藤  池田会長の危機の捉え方の特徴として、「危機は必ず乗り越えられるし、乗り越えることによって宿命転換し、大きく成長できる」 というある種の楽観性が挙げられます。 それは、日蓮仏法の特徴でもあるのでしょう。 ………
 言い換えれば、人間が自らの主体性を失わないまま、宇宙の法則性などの面から運命の意味を深く考えさせるのが、世界宗教の役割の一つなのです。 「主体性を失わないまま」 とは、運命をただ甘受するのみならず、そこに主体的に関わっていくということです。 ここに創価学会員の強さが主体的に表れています。
 と述べています。 (同誌・54P)

 司会者が、池田先生の運命の捉え方を象徴する エピソードを紹介しています。
 ――  日蓮の 『撰時抄』 は 「世界広宣流布の未来記」 と言われる重書であり、「予言の書」 と見なされることが多い御書です。 そのなかに、「前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし」(259P) との一節があります。……
 この一節について、そこにいた教学部の幹部が 「第三次世界大戦が起こるという意味ではないでしょうか?」 と言ったのに対して、池田会長は厳然と次のように言ったというのです。

 「われわれは、第二次世界大戦をもって、『前代未聞の大闘諍』 と決定しょう。 どんなことがあっても、第三次世界大戦は起こさせない。 そのことを御本尊に強く願い、死身弘法を誓おうではないか」 (上巻・182P)
 
 佐藤  私もその個所に感動しました。 意志の力によって宿命を打開しょうとする、池田会長の姿勢を象徴するエピソードですね。

 ここで 佐藤氏は、「予言」 と 「預言」 の違いについて述べられている。
 「預言 」 とは、「神の言葉を預かる」 という意味です。 「予言」 が不特定多数に対してなされるのに対し、「預言」 は常に個人に向けてなされます。 預かった側は、神の言葉を受け入れて行動するか、拒んで神の道から外れるかという、究極的な二者択一を迫られます。

 佐藤  しかし、御書の言葉の受け止め方において、池田会長には預言者のような イメージがあります。 つまり、日蓮から自分が使命を託されたかのように受け止めている、と私には感じられるのです。 (同誌・55P) と述べられています。

 池田先生は、すでに 20年以上前から、今日の 「危機の時代」 を予見されています。キリスト教などのいう 「預言者」 に当たると思います。
 今年、イギリスは EU から離脱を決定しました。その外にも 民族主義による紛争などにより、世界は分離・分裂の混沌たる現状である。
 そのうえ、ロシアの プーチン大統領は、クリミア半島併合の時、核兵器の使用を考慮したと発表した。
 アメリカの トランプ次期大統領は、米国は核能力を大幅に強化する必要があるとの見解を示した。 オバマ現大統領の 「核なき世界」 の ビジョンは何処へ行ったのだろうか、憂慮すべき事態である。
 今や、小国の北朝鮮までも核兵器を保有し、核拡散は世界中に広まりつつある。今後、地球の何処においてでも 核兵器が使用される可能性がある。これを切っ掛けとして、第三次世界大戦が勃発しないとも限らない。まことに憂慮すべき事柄である。

 日蓮大聖人から世界広宣流布の使命を託された我ら学会員は、“地涌の菩薩” であることを自覚し、池田先生の “どんなことがあっても、第三次世界大戦は起こさせない。 そのことを御本尊に強く願い、死身弘法を誓おうではないか” とのご指導を体し 実践するのみである。

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

「希望の源泉」(5-b)(諸法実相)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 5回は、〔生命論として 「諸法実相」 を読み解く書〕 であります。
 前回の第 5回から 「方便品」 に入っていますが、方便品は何と言っても 「諸法実相」 を論じなければ、画竜点睛を欠くことになるし、片手落ちになりますので、2回に分けての記載となります。

 〔「実相」を「宇宙生命」と捉える視座〕
 「諸法」 とは森羅万象のことで、「実相」 とは 「ありのままの真実」 という意味になります。
 『法華経の智慧』 での池田先生の指導が引用されています。

 ――  「戸田先生は、『宇宙生命それ自体が、南無妙法蓮華経なのです』 と言われていた。(中略)
 現代人に分かりやすく、まとめて言えば、『諸法』 は個々の生命、その諸法の 『実相』 は一つの大いなる宇宙生命、と表現することも可能でしょう」
 「『実相』 という永遠の生命の世界は、いつ、どこにあるか。 『いま』 『ここに』 ある。 それを悟れば仏、悟らなければ九界です。 ゆえに、菩薩界が仏界に近いのでもなければ、地獄界が仏界から遠いのでもない。 平等に、自己に即して仏界を開くことができるのです」
 (上巻・191~192P)

 佐藤  そのように、「諸法実相」 の 「実相」 を、宇宙生命=南無妙法蓮華経=仏界と捉えて点が、創価学会の独創性なのでしょうね。
 私は語らいのなかで、斉藤(当時教学部長)さんが 池田会長に次のように応じている点に、強い印象を受けました。

 「多くの哲学が 『現象の奥に』 真理を見ようとしたり、『現実の根底』 に根源の一者を立てたりしました。 しかし、法華経は、そうではないのですね」 (上巻・193P)
 「『現象の奥に』 真理を見ようとしたり」 「『現実の根底』 に根源の一者を立てたり」 とは、言い換えれば、「諸法」 と 「実相」 の間に越えられない壁を設定するということですね。 それに対して法華経は、現象がそのまま根源的真理であり、諸法が即実相そのものだと捉える …… というのが、ここで展開されている池田会長の解釈です。

 池田先生は、“真理(実相)と言っても、どこか遠い別世界にあるというのではない。 具体的な現象(諸法)から絶対に離れず、あくまで、この具体的な現実((諸法)の真実の姿(実相)に、英知を集中させている。
 寿量品第十六にも 「如来は如実に、三界の相を知見す」(法華経・499P) とあります。 三界とは現実世界です。
 現実世界(諸法)から決して離れない決心 ―― これが仏の心です。
 同時に、現実世界(諸法)の表面にとらわれず、そこに秘められた偉大なる真実の姿(実相)をとらえ、教え、開いていく ―― これが仏法の智慧です。
 「諸法実相」 という言葉のなかに、仏法の徹底した 「現実主義」 と、「現実を超えていく智慧」 が込められているのです”
 と指導されています。

 ここで、当時流布していた 「天台本覚思想」 について語られています。
 ――  ただ、日蓮在世当時の日本の天台宗に生まれた 「天台本覚思想」 のように、“衆生は本来、そのままで仏なのだから、どんな欲望も、どんな現実も、そのまま肯定していいのだ” という 「諸法実相」 の曲解に陥りかねない危険性もあります。

 佐藤  そうですね。 そのような曲解は ニヒリズム(虚無主義)つながるでしょうし、戦争肯定にもつながりかねません。 池田会長が次のように仰っているとおりです。
 「諸法即実相 と言っても、あくまで仏が見た究極の真理です。 迷いの凡夫が見る現実とは隔(へだ)たりがある。 ゆえに 『人』 は 『真理』 の実現に向かって、絶えず近づかねばならない。 それが 『修行』 です。 諸法実相という 『理想』 に向かって、絶えず 『現実』 を超えていかねばならない。 それが 『変革』 です。
 この挑戦を忘れると、諸法実相という立派な法理を隠れミノ にして、人は現実に埋没して無気力になってしまいます。 これは恐ろしいことです」
 (上巻・203P) と指導されています。

 仏法では、「凡夫 即 極」 や 「煩悩 即 菩提」 など、「即」 の字を用いて多くの法理を説明しています。「諸法 即 実相」 の 「即」 を 「イコール(等しい)」 と とってしまったのが 「天台本覚思想」である。
 大聖人は 「即の一字は南無妙法蓮華経なり」(732P) と仰せです。
 「即の一字」 はあくまでも、御本尊に南無妙法蓮華経と唱題修業して、はじめて “凡夫が仏” となり “煩悩が菩提” へと変革できるのである。

 池田先生は、次のように指導されています。
 人間革命は即、社会革命・環境革命になる。
 諸法実相抄で大聖人は、妙楽の 「依報正報・常に妙経を宣(の)ぶ」(1358P) との釈を挙げられています。 依報(環境世界)も、正報(主体となる生命)も、常に妙法蓮華経を顕していると。
 天台も言っている。“国土にも十如是がある” と。
 依報も正報も、別々のものではない。 不二です。 ここから、人間の変革が国土・社会の変革に通じるという原理が生まれる。
 諸法実相という仏眼(ぶつげん)から見れば、森羅万象は、ひとつの生命体です。 正法だけの幸福はありえない。 依報だけの平和もありえない。 自分だけの幸福もなければ、他人だけの不幸もない。 人を幸福にした分、自分も幸福になるし、だれか一人でも不幸な人がいる限り、自分の幸福も完全ではない。 こう見るのが諸法実相であり、ゆえに、「現実変革への限りなき挑戦」 が、諸法実相の心なのです。
 大聖人は、立正安国論を著された御心境を 「但偏(ひとえ)に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず」(35P) と述べられています。 どんな大難の嵐も、この民衆救済への炎を消せなかった。
 この御精神を受け継いで、「立正安国」 の旗を高く高く掲げ、牧口先生は獄中に殉教なされた。 戸田先生は、敗戦の荒野に一人立たれた。
 「法華の心は煩悩即菩提 生死即涅槃なり」 「一念三千は抜苦与楽なり」(773P)
 民衆を苦悩から救うために仏法はある。 創価学会はある。 人類を幸福にするために創価学会は戦う。 それ以外に存在意義はありません。
 その学会とともに進む人生は、どれほど偉大か。 どれほど尊いか。
 諸法実相の眼(まなこ)で見れば、「いま」 「ここ」 が、本有(ほんぬ)の舞台です。 本舞台なのです。 「此(ここ)を去つて彼(かしこ)に行くには非ざるなり」(781P) です。
 「宿命」 とも思えるような困難な舞台も、すべて、本来の自己の 「使命」 を果たしていくべき、またとなき場所なのです。
 その意味で、どんな宿命をも、輝かしい使命へと転換するのが、諸法実相の智慧を知った人の人生です。
 そう確信すれば希望がわく。 出会う人々、出あう経験のすべてが、かけがえのない 「宝」 となる。
 (法華経の智慧1巻・237P)

 本年、まことに有り難うございました。 2017年、“世界広布新時代 青年拡大の年” も、世間がどう動こうとも、御本尊にお題目をしっかり唱え、広布拡大に頑張りましょう。

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「希望の源泉」(6)(秘妙方便と師弟不二)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く)の第 6 回は、〔『法華経の智慧』 は世界に向けて開かれた書〕 であります。
 1月号は、カラーページでなく モノクロページに記載されています。

 〔法華経方便品の 「秘妙方便」 とは〕
 引き続き、法華経方便品の 「方便」 について語られています。
 佐藤 勝  衆生を 「真の教え」 へと導くための 「仮の教え」 …… 『法華経の智慧』 では、池田会長が 「要するに 『方便』 とは、衆生を成仏へと導く 『教育』 の方法であり技術です」 (「普及版」上巻・134P) と述べています。

 天台大師は 『法華文句』 で、次の三つの方便を説いています。
 ① 法用(ほうゆう)方便 とは、衆生の機根に合わせて種々の法を説き、その法の働き(用)で、人々に応じた利益を与える教えです。これは当面の利益を与える面と言えます。
 ② 能通(のうつう)方便 とは、真実に入る門となる教えを言います。通り過ぎる門なので能通(よく通る)といいます。これは真実へと導く面と言えます。
 ③ 秘妙(ひみょう)方便 とは、一切衆生が仏であるという真実は、仏のみが知っていることで 「秘」 である。
 その真実は秘められているにもかかわらず、縁にふれて顕現する。そうした不思議な生命の実相を 「妙」 という。「方便品」 の方便 は、この 「秘妙方便」 をいうのである。捨てるべき方便ではなく、そのまま 「真実」 であるとする方便である。 
 戸田先生は、「われわれが、ただの凡夫でいるということは秘妙方便であり、真実は仏なのであります。 すなわち御仏壇にある御本尊即私たちと信ずるところに、この信心の奥底があります」 
 池田先生は、「凡夫がそのまま仏である。 これは不思議です。 思議し難い。 『妙』 です。 法華経を信じない人には、とても分からない。 『秘』 です」 と述べています。このようなことを 「秘妙方便」 といいます。 
 
 〔「師弟の道」 と 「師弟不二の道」〕
 ここでは、「師弟の道」 と 「師弟不二の道」 の違いについて語られています。
 佐藤  法華経以前の経典では二乗(声聞・縁覚)は成仏できないとされていたから、仏と弟子の間には超えられない壁があり、師弟は 「不二」 ではあり得なかった。それに対して、法華経では 「十界互具」 が説かれるため、弟子もまた成仏を目指すことができ、「師弟不二の道」 が初めてそこで可能となった …… という論理展開ですね。
 少し長くなりますが、池田会長がその点について語られた部分を引用しましょう。

 「『三乗』 の中の菩薩は 『二乗不作仏』 という差別を残した菩薩です。 『十界各別』 であり、ゆえに菩薩が衆生を救うこともできず、菩薩自身が仏になることもできない。
 それに対し、仏の願いは一切衆生を仏にすることにある。
 師弟の境涯の違いはいたしかたないとしても、師と弟子の 『心』 が、『願い』 が、『哲学』 が、根本的に違っているのです、
 一方、『開三顕一』 された後の菩薩は、“蘇生した声聞たち” も含め、すべての衆生が平等に成仏できるという 『十界互具』 の法理に立っている。
 そして、この大哲学の上に、すべての人々を仏にしょうという大闘争の軌道に入った。 そこで初めて、仏が歩んでいるのと同じ道に入った。 根本の一念において、師弟が目的を同じくする同志となり、『不二』 の道歩む先輩と後輩の関係になった。 そのように進んでいくのが、真の師弟なのです」
 (上巻・171~172P)

 ――  そう考えると、法主一人だけに特別な血脈が流れ通うと考える 「法主絶対主義」 に立つ現在の日蓮正宗宗門は、法華経の師弟不二を根本的に理解していないというか、法華経以前の段階にとどまっていると言えますね。

 佐藤  また、池田会長は 「現実社会という “海” に飛び込み、民衆一人一人をを幸福への “大船” に乗せていく ―― この戦いにおいては、仏もまた菩薩なのです」 (上巻・172P) と、仏も弟子と同じ立場で民衆救済の戦いを続けていくと語っています。

 師の心は 「如我等無異」 です。すなわち方便品に 「一切の衆をして 我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」(法華経・176P) とある。すべての衆生に、仏と不二の境涯を得させようという慈悲です。これが仏の 「本誓願」 である。
 法華経以前の三乗の仏弟子たちも、仏を信じてついてきて、それなりに 「師弟の道」 歩んできた。しかし、そこには自分は自分、仏は仏という断絶の心があった。すなわち師の心を知らなかったのである。 
 方便品で 「開三顕一(三乗を開いて一仏乗を顕す)」 が開顕され、すべての衆生が平等に成仏できるという 「十界互具」 の法理が説かれた。ゆえに、「開三顕一」とは、「師弟の道」 から 「師弟不二の道」 へと、弟子の一念、弟子の生き方を、根底から変革させるものであった。
 ここで初めて、一切衆生救済という目的を同じくする 「師弟不二の道」 がひらけたのである。「不二」 とは “合一” ということである。

 池田先生は、「師弟不二」 こそ法華経の魂であり、日蓮大聖人の仏法の真髄です。その一番大事なものを壊し、切り離そうとする。
 それが 「摩=奪命者」 の特徴です。
 「不二の道」 の否定は、十界互具の否定、人間の平等に対する冒瀆(ぼうとく)にほかならない。 この一点に、日顕宗の本質が顕れている。
 (法華経の智慧・1巻・201P) と述べられています。

 〔世界宗教化を見据えたテキスト〕
 この項目で 佐藤氏は 『法華経の智慧』 について少々述べられています。
 * 『法華経の智慧』 が “民衆に開かれた教学書” になっている。言い換えれば、学術書の体裁をとっていない。
 * そもそも座談の形式で作られていること自体、一般民衆に読みやすいものになっている。
 * 世界宗教化を見据えていたからこそ、学術書にしなかった。インテリにしか理解できないなら、世界宗教の テキストにはなり得ない。
 * 『法華経の智慧』 は、民衆に開かれた本であると同時に、学会員以外にも開かれた本です。
 そして、末尾のところには、
 佐藤  「学会内部だけに向けた “閉じた教学” ではなく、民衆に向け、世界のあらゆる宗教・文明の人に向け、法華経を解説する開かれた書であること ―― それが、『法華経の智慧』 という書物の大きな特徴と言えるでしょう」 と語られています。

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「希望の源泉」(7)(宗教と科学)

 「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 7 回 は、〔『法華経の智慧』 に見る 宗教の全体観の重要性〕 であります。
 
 〔宗教と科学 全体観と部分観〕
 「方便品」 の章の続きです。今回は、宗教と科学の関係について論じられています。
 佐藤 優  個々の生命が、実は大いなる宇宙生命と一体なのだという、「諸法実相」 の現代的解釈をふまえた部分ですね。一つの D N A (デオキシリボ核酸)の中に、身体全体の遺伝子情報がすべて入っていることが、「個に全体が含まれていることを示す科学的知見」 (「普及版」上巻・212P) の例として挙げられているあたり、興味深く読みました。 と語られています。

 私も解り難かったが、興味深く読みました。
 池田先生は、“自然も人間も同じ宇宙生命の部分であり全体である。自然と人間は一体です。 自然を破壊することは、人間を破壊することです。
 大聖人は 「生住異滅の森羅三千の当体悉く神通之力の体なり」(753P) と仰せです。 消滅し、変化してやまないすべての現象は、それ自体、如来の神通の力であると。
 変化、変化を続ける万物も、実は、そのまま常住であり、中道であり、実相であり、如来なのです”
と述べられています。

 そして、これらの現象について 「こと」 と 「もの」 という言葉で説明されています。
 名誉会長  諸法とは現象と訳せる。 仏法では、物質をも、固定化した “もの” ではなく、生滅変化する現象、すなわち “こと” の次元で見ているのです。 生命も同じく生滅変化する “こと” です。
 “こと” というのは、私たちが普通、ものを見るときのように 「有る」 と言って固定化してみると間違いになる。 だからといって 「無い」 のでもない。 「有」 でもなく 「無」 でもない。 しかし場合によっては、「有る」 と言ってよい時もあるし、「無い」 と言ってよい時もある。 こう見るのを 「中道」 といいます。 「有」 「無」 のいずれにも、とらわれないので 「中道」 です。 ありのままに正しくとらえた 「実相」 と同じです。


 遠藤  …… 空・仮・中 の三諦にも応用できそうです。
 物質でいえば、“こと” であって “もの” ではないという真理(諦)を 「空諦」 といい、しかし仮に “もの” として見ることもできるので 「仮諦」 といい、どちらにもとらわれないのを 「中諦(中道)」 という。 天台は、この三つの面から総合的に諸法の実相を把握し、欠けることがないことを 「円融の三諦」 と呼び、これをもって 「実相」 としています。

 名誉会長  すべては “こと” であり、生住異滅、つまり生成し、安定し、変化し、消滅していくのです。 その一時の安定期の姿を、物質については仮に “もの” と言っているわけです。  (法華経の智慧1巻・251P)

 以上のところは、「希望の源泉」 には記載されていませんが、興味が湧きましたので取り上げました。
 現代人は往々にして、全体を部分に還元し、部分観を全体観に押し広げようという誤った 「科学信仰」 「還元主義」 におちいりがちである。 先生は次のように述べられています。
 「科学信仰におちいらないためには、生命の全体観を示した真の哲学が必要でしょう。 科学には本来、部分観を部分観として示す節度があると思う。 また、真実に迫ろうという要求が科学の根底にあるから、それまでの部分観が行き詰まれば、それを打ち破って、より深く実在に迫る創造的な新理論が発見される。 つまり “科学革命” がなされる」 (上巻・221P)

 〔宗教否定は 「科学の自殺行為」〕
 ――  “科学の健全性” が損なわれるもう一つのありようとして、科学の知見によって宗教を全否定してしまう、ということが挙げられると思います。 宗教の全体観は本来、科学の部分観で推し量れるものではないのに、部分観・分析知に執着することによって、「科学で宗教のすべてが否定できる」 と思いあがってしまうのです。

 佐藤  私は、科学による宗教否定は 「科学の自殺行為」 であるとすら思います。 というのも、科学史上の画期的な発見は、その着想の源に宗教的情熱があることも多いからです。

 そのたとえとして、条件反射で名高い ソ連の生理学者 イワン・パブロフは、敬虔なロシア正教徒であり、パブロフの科学者としての業績と信仰は、実に深い所で密接に結びついていた。
 また、古典力学の アイザック・ニュートンも キリスト教徒で、重力の原因を 「神の遍在」 に求めようとしていた。 ニュートンの研究の根底には、宗教的情熱があったのです、と語られている。
 池田先生は、アインシュタインについて次のように述べられている。
 「アインシュタインは自分の真理探究の情熱を支えたものを 『宇宙的宗教性』 と表現しています。 それは、この宇宙を 『ただ一つのもの』 『意義あるもの』 として、その 『全体を体験しょうと志す』 気持ちであり、自然の世界や思考の世界に、崇高さを感じ、驚くべき秩序を感じとる感覚です。 彼は、この 『宇宙的宗教性』 は、仏教にとくに強く表現されていると書いています」 (上巻・222P)
 
 科学の世界しか知らない人には、科学の枠を超えた着想は持ち得ないのである。このことを、佐藤氏は 「回し車」 のたとえをもって説いています。
 佐藤  科学が分析知にとどまる以上、科学的思考のみになってしまうと考え方が偏ってしまいます。 それはたとえて言うなら、リスや ハムスターが カゴの中の 「回し車」 をいつまでもぐるぐる回しているようなもので、カゴの外の広い世界を見る視点はそこから生まれてこないのです。 なぜなら、科学というものは “常に視点を内部に置き、すべてを自己完結的に語りたい” という志向を持つ体系知であるからです。
 ゆえに、一方で宗教的全体観・宇宙観も持つ必要がある。 それがあってこそ、「この世界」 の外部、あるいは超越性に目を向けられるのです。


 アインシュタイン博士等・一流の科学者たちは宗教を持することによって、その宗教的全体観・宇宙観を信じ、科学史上・偉大な業績を残しております。
 戸田先生は、「科学が進めば進むほど、仏法の正しさが証明されるようになる」 と、よく言われていたそうです。
 池田先生は、アインシュタインは、科学と宗教が対立するとすれば、その主因は人格神の概念にあると考えていた。……
 仏法のような 「生命の法への謙虚な探求」 は、彼の見方からすれば、科学的であり、同時に宗教的でもある。
 仏法の立場から端的に言えば、仏法は生命の全体を対象にした総合知であり、科学は生命の 「仮有」 の面を対象にした 「仏法の一部」 とさえ言えるのではないだろうか。 ゆえに両者は、対立するものでは絶対にない。 一切世間の善論は皆これ仏法なのです。
 (同書1巻・254P) 
 まことに的確に、“仏法と科学” の関係について述べられています。

 21世紀に入り科学は、ますます長足の進歩を遂げております。しかし、思想・宗教、ひいては生命(正報)の乱れが、社会・国土(依報)の乱れとなり、世界は先の見えない混沌とした状態である。
 かかる世に科学の成果である、核・遺伝子・人工頭脳など、その使い道を誤れば、人類の・地球の未来も、無に帰してしまいかねないのである。
 これを救済する指導原理は、ただ一つ、日蓮大聖人の大生命哲学(南無妙法蓮華経)だけであると確信いたします。 

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

「希望の源泉」(8)(現実を変革する哲学)

  「希望源泉」(池田思想を読み解く) の第 8 回 は、〔『法華経の智慧』 と 「世界宗教の条件」〕 であります。 (雑誌・第三文明3月・52P)

 〔なぜ 「法華経の智慧」 だったのか〕
 佐藤 優  『法華経の智慧』 は池田会長が創価学会の 「世界宗教化」 を見据え、「S G I が世界宗教となった時代」 のために用意した書物であると、私は捉えています。 「世界宗教としての創価学会」 が、全編に通底する大きな テーマなのです、 と。
 そして、世界宗教化の途上にあるということを、日本の識者たちも少しずつ認めつつあるとの見解を示されています。

  その端的な例として 「朝日新聞」 に、原田創価学会会長への インタビュー記事(2016‐9‐22日付)が掲載された。
 佐藤  何が重要かといえば、第一に、“現在の創価学会は、原田会長をはじめとした執行部で相談して大きな方向性を定める 「集団指導体制」 になっている。 ただし、重要な問題については、執行部は池田会長に報告し、指導を受け、判断を仰いでいる” ということを明言している点です。
 これは、世間にはびこる無責任な噂(うわさ)を打ち破る発言だと思いますし、それを 『朝日新聞』 が掲載したことに大きな意義があります。………
 さまざまな客観的事実から、原田会長は真実を語っていると朝日が判断したからこそ、掲載された発言なのです。

 朝日新聞といえば、我が国一流の新聞社である。私はどちらかといえば、学会に対して非友好的な考えの新聞社であると思っていました。
 しかしその新聞社からして、創価学会の世界192ヵ国に亘る 「世界宗教化」 という現況を鑑みたとき、もうそれを無視することができない時代に入った、ということだろうと思います。

 第二に、原田会長の発言のなかに、「世界宗教」 という ワーディング(言い回し)がきちんと入っている点が重要です。 「(創価学会は)どのような行動原理なのですか」 という質問に対して、会長は次のように答えているのです。
 「(宗祖である)日蓮の思想には世界の民衆を救うという目的がある。 私たちが国内にとどまらず 『世界宗教』 を目指すのもそれが根本にあるからです」

 創価学会が、ただ単なる特殊的な日本の教団ではなく、普遍的な価値観を持ち、実践して、世界宗教になりつつあることを、偏見を持たず、“正視眼” で物事を判断できる優秀な編集幹部がいるということだと思います、と語られています。 

 ――  日蓮仏法の卓越性を訴えるためには、『法華経の智慧』 ではなく、ストレートに 『日蓮の智慧』 『日蓮仏法の智慧』 などとしたほうが、ある意味で 「手っ取り早かった」 かもしれません。 との問いに、

 佐藤  私は思うに、あえて 『法華経の智慧』 を テーマに据えたのは、日蓮仏法よりも釈尊と法華経のほうが、現時点での世界的知名度・浸透度が大きく上回っているからでしょう。 つまり、釈尊と法華経を表に出したほうが、世界の人々にすんなり受け入れられやすかった。………
 ただ、これだけの消極的な アプローチだけではなく、
 むしろ、釈尊と法華経という入り口から入り、そこから日蓮仏法へと論を展開していくからこそ、釈尊と日蓮の関係性や、「正法・像法・末法」 という仏教史的 スケールにおける日蓮と創価学会の位置づけ、「地涌の菩薩」 の意義などが、くっきりと浮かび上がる構成になっているのです。

 釈尊の法華経は、末法では “時と機” が違い役に立たないと切り捨てしまえば、日蓮仏法はその存立基盤が失われることになります。日蓮仏法といえども、法華経を根底として打ち立てられた法門なのである。
 日蓮大聖人は、法華経の文の底に秘し沈められていた大法、久遠元初の妙法を “南無妙法蓮華経” と名付けて、我ら衆生に与えて下さいました。
 これを証明するためには、法華経に説かれている、“久遠j実成” “上行菩薩” “虚空会” 等々の法理を援用することが必要である。 ゆえに、「日蓮仏法の智慧」 より、『法華経の智慧』 のほうが、的を射ているように思います。

 〔「現実変革の哲学」 としての法華経〕
 佐藤  私が学会員の皆さんと接するなかで、大きな魅力の一つとして感じるのは、決して極端に走らない バランスのよさです、 と語られています。
 ………
 池田会長の次のような発言を読んで、学会員の皆さんの 「バランスのよさ」 は、法華経そのものが内包する志向性の反映なのだなと感じたからです。
 「“この世に埋没する” 現実追従。 “この世に目をつぶる” 現実拒否。 “あの世に逃げる” 現実逃避――。 大聖人は、旧来の天台宗を、また禅宗・念仏宗を強く批判された。 それらはすべて 『諸法の実相』 に背いているのです」 (「普及版」上巻・206P)

 「現実追従」 は天台宗に対応している。天台本覚思想によれば、人間の本性は仏そのものなのであり、成仏を目指しての修行は何ら必要なかった。現実のすべてをありのままに受け入れ、変革の努力を放棄したところに宗教思想としての堕落の面を見ることができる。
 「現実拒否」 は禅宗である。戒・定・慧の三学のうち、特に定を強調している。坐禅入定の修行によって、我が身が即仏する(即身即仏)というもので、仏祖にもよらず、画像木像をも否定し、教外別伝・不立文字といって仏典をも否定する。仏の所説に従わないのは、魔の所為以外の何ものでもない。ゆえに、大聖人は 「禅宗は天魔の所為」(1073P) と喝破されている。
 「現実逃避」 は念仏宗である。浄土の三部経以外の一切経を 「捨・閉・閣・抛(しゃへいかくほう)」 といって、“聖道を捨て……定散の門を閉じ……聖道門を閣(さしお)き……諸の雑行を抛(なげう)ち” して、現実の娑婆世界を穢土として厭い、在りもしない弥陀の西方十万億土を欣求するとは、実に はかなく虚しい宗教である。
 日蓮仏法における現実との向き合い方は、このいずれでもないのである。

 佐藤  池田会長は同じ個所で、次のように言葉を続けています。
 「法華経の諸法実相は 『現実を変革する』 哲学です。
 運命論には従わない。あきらめにも同調しない。それ等の無力感をはね返す “ばね” を開発する。 『だからこそ変えていくのだ』 と闘志を奮い立たせる。 そして 『自分は今、何をすべきか』 と問い続ける責任感を呼び起こすのです」
 (同)
 この一節にはまさに、運命の波浪のなかでも自分の使命というものを決して忘れない。 学会員の皆さんの 「強さ」 と 「バランスのよさ」 が、見事に表現されていると感じます。

 「現実を変革する」 まさに、“人間革命” のことであります。引き続き、先生のご指導がありますのでご紹介します。  (「法華経の智慧1巻・237P)
 池田先生は人間革命は即、社会革命・環境革命になる。
 ………
 依報も正報も、別々のものではない。 不二です。 ここから、人間の変革が国土・社会の変革に通じるという原理が生まれる。
 諸法実相という仏眼から見れば、森羅万象は、ひとつの生命体です。 正法だけの幸福はありえない。 依報だけの平和もありえない。 自分だけの幸福もなければ、他人だけの不幸もない。 人を幸福にした分、自分も幸福になるし、だれか一人でも不幸な人がいる限り、自分の幸福も完全ではない。 こう見るのが諸法実相であり、ゆえに、「現実変革への限りなき挑戦」 が、諸法実相の心なのです。
 ………
 民衆を苦悩から救うために仏法はある。 創価学会はある。 人類を幸福にするために創価学会は戦う。 それ以外に存在意義はありません。
 その学会とともに進む人生は、どれほど偉大か。 どれほど尊いか。
 諸法実相の眼で見れば、「いま」 「ここ」 が、本有の舞台です。 本舞台なのです。 「此(ここ)を去つて彼(かしこ)に行くには非ざるなり」(781P) です。
 「宿命」とも思えるような困難な舞台も、すべて、本来の自己の 「使命」 を果たしていくべき、またとなき場所なのです。
 その意味で、どんな宿命をも、輝かしい使命へと転換するのが、諸法実相の智慧を知った人の人生です。
 そう確信すれば希望がわく。 出会う人々、出あう経験のすべてが、かけがえのない 「宝」 となる。
 

テーマ : 創価学会
ジャンル : 学問・文化・芸術

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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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