相模原事件に思う(1)(宗教を失った社会)

 神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設 「津久井やまゆり園」 に、元職員だった男が侵入し、入所者らを刃物で次々と襲い、男女 19人が殺害され、重軽傷者も 27人に上った。この種の事件で、これほどまでの大惨事は過去にもなかったとのことである。

 加害者の男は、取り調べに 「障害者なんていなくなればいい」 という供述をしているという。
 また、「障害者は生きていても周りに迷惑をかけるだけ、無駄に税金をかけるより、その分を子育て等に有効に使った方が国のためになり、国を救うことになる」 という趣旨の発言をしているという。
 このような考えが、世のためになると一種の正義感を持って、事件を起こしているようである。実に、思想ほど恐ろしいものはないのである。

 こんな思想は、まったくもって 道理を弁えない身勝手な独りよがりの暴論という外はない。
 誰もが障害者になるかもしれない。否、誰もが必然的に誰かの手を借りなければならない時が来る。そのように考えれば障害者の問題は、じつは自分自身の問題なのである。
 高齢化社会に突入して、ますますこの問題の重要性が増してきております。自分には関係ないと無関心を決め込むのではなく、自分から主体的にかかわって、いまの社会をみんな仲良く・安心して暮らせる・生きていて楽しい、という世の中を建設していきたいと思います。

 今年の 8月6日は、非常に意義ある日である。
 8 時より、71回目の広島原爆死没者慰霊式典が挙行された。
 同じ時刻に、ブラジルの リオ 2016 オリンピックの開会式も挙行された。
 本日の聖教新聞の連載小説 「新・人間革命(清新45)」 には、池田先生の 「宗教を失った社会」 についての指導がありますのでご紹介します。  

 近代 インドの思想家 ビベーカーナンダが 「宗教を人間社会から取り去ったら何が残るか。 獣類のすむ森にすぎない」 と喝破(かっぱ)したように、宗教を失った社会も、人間も、不安の濃霧のなかで、欲望という荒海に翻弄(ほんろう)され、漂流を余儀なくされる。 そして、人類がたどり着いて先が、科学信仰、コンピューター信仰、核信仰、拝金主義等々であった。
 だが、際限なく肥大化した欲望の産物ともいうべき、それらの “信仰” は、精神の荒廃や空洞化をもたらし、人間不信を助長し、公害や人間疎外を引き起こしていった。
 科学技術も金銭も、それを人間の幸福、平和のために使っていくには、人間自身の変革が不可欠であり、そこに宗教の役割もある。
  (聖教・2016-8/6-3 面)

 現代は、宗教を必要とする人が少なくなり、心が宗教から離れつつある情況である。これは、憂慮すべき問題である。
 ウィルソン教授は 「本来、宗教は人間にとって必要不可欠なものです」 と言われております。
 宗教を失った社会は、欲望という荒海に翻弄され、その産物ともいうべきもの(結果)が、“精神の荒廃や空洞化をもたらし、人間不信を助長し、公害や人間疎外を引き起こしていった” と指導されています。
 相模原事件は、「宗教を失った社会」 の深刻なる様相の一断面を映し出しているものであると思います。
 したがって、絶対に宗教は必要なのである。その正しい宗教によって、個人は 「人間革命」 をし、社会は 「広宣流布」 をする以外に、これらの問題の解決の道はないのであります。 

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相模原事件に思う(2)(万法は己心に収まりて)

 前のブログで、人は必ず年を取って死を迎える。そのように考えれば障害者の問題は、じつは自分自身の問題なのである と書きました。
 これらの見解は普通一般的なもので、誰にでも分かるものですが、人はややもすれば自身の若さや健康なるをもって、老齢者や障害者を嫌悪し、蔑視・差別化してしまいがちである。
 この事件の加害者も、このような考えのうえに、人の生命を金銭と天秤にかけ、効率主義・成果主義の風潮に流されたのではないか、と思われる。したがって、「障害者なんていなくなればいい。税金の無駄遣いになる」 等々の発想が生まれたのではないのかと思う。
 詰まるところ、生命の実相を知らず、生命の軽視が生んだ弊害ではないかと思います。

 池田先生は、米国のハーバード大学での講演で、「死を忘れた文明」 について述べられたところがあります。ご参考になると思いますので、是非お読みくだされば幸いです。
 講演 「21世紀文明と大乗仏教」 ―→ ここから

 仏法では人間の生命は、宇宙生命と同等であるとする、生命至上主義ともいうべきものをとなえています。
 日蓮大聖人は、「万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり」(1473P) と仰せです。

 私はこの御文を、初めて拝したとき、“九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり” とは、なかなか理解できませんでした。自分の頭脳で想像できるからだ と思ったりもしたが、そんな思考の次元の問題でもないようだ。
 通常、私達は、自身と山川草木・日月・衆星などの森羅万象とが別々に存在していると、分けて考えている。この対立的・分割的な思考に、そのうえ自分を中心に考えると、日月・衆星などが己心に収まるとは、とうてい理解できないのである。

 仏法では、「無量義は一法より生ず」(無量義経) と説いている。
 法華経は人間や日月・衆星などの全てが、この 「一法」 から顕現したものであると説いている。そして、この 「一法」 こそ “南無妙法蓮華経” であり、“妙法” と称するものである。
 ゆえに、山川草木・日月・衆星などは、宇宙根源の 「一法」 から創出されたもので、したがって、その一法である “南無妙法蓮華経” の 「当体」 であるといえます。
 それと同じく、人間もこの根源の 「一法」 より生じたもので “南無妙法蓮華経” の 「当体」 である。
 「当体」 とは “事物そのもの” ということで、 “南無妙法蓮華経そのもの” が、そこに “ある・収まる・備わる” ことを示している。
 ゆえに、大聖人は “万法は己心に収まりて” と。 同じく、こん度は “九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり” と仰せられたのである。 

 涅槃経に 「一切衆生悉有(しつう)仏性 (一切衆生に悉く仏性有り)」 と説かれています。
 一切衆生に仏性有りということは、いかなる障害者にも尊極なる仏性が有るということです。
 我が己心に、障害者の命も、否、一切衆生をも収めているのである。なかなか理解し難く信じ難い法理でありますが、仏さまの智慧はそのように説いているのである。
 ゆえに、その人々を殺すということは、実は我が身を殺していることになる。因果の理法により、大罰の報いを受けなければならなくなるのである。

 上記の法理は、人間だけでなく、国土世間すなわち、環境面においても成り立つのである。通常は 「依正不二論」 として論じられており、教学的には有名な用語であります。
 依正とは、「依報」 と 「正報」 のことで、過去の行為の報い(果報)を受ける衆生を 「正報」 といい、正報の拠りどころとなる環境・国土を 「依報」 という。
 この依報と正報は、ともに一念(生命)のなかにあり、現象面では二つであるが、相互に深い関係性があり 「不二」 (二にして二ならずの意) となる。

 大聖人は 「天崩(くず)れば我が身も崩る可し、地裂(さ)けば我が身も裂く可し、地水火風滅亡せば我が身も亦滅亡すべし」(568P) と仰せです。
 したがって、生物の頂点に立つ人間が、自己の欲望を肥大化させて、地球環境を破壊して行けば、人類自身が滅亡することになる。
 その上に今時は、人間自らが作った核兵器により、人類滅亡の瀬戸際に立たされている。
 この危機を乗り越えるには、人類が日蓮大聖人の生命哲学を持つて、自身の欲望・怒り・無明の心を変革する、「人間革命」 を成し遂げていく以外にないと思います。

 相模原事件を縁として、話が大きくなってしまったが、所詮、個人であれ、人類全体であれ、自分自身の生命について無知なることが、この世の不幸の根源であると思います。
 宗祖大聖人曰く、「命限り有り惜む可からず、遂に願う可きは仏国也」(955P) と。 

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横浜・大口病院事件に思う

 また、悲しい事件が起こりました。横浜市神奈川区の大口病院で、患者の点滴に異物(界面活性剤)が混入され、寝た切りの二名の高齢者(88歳)が殺害されるという事件が起きた。
 この病院の 4階では、7~9月の 2か月間に 48人が死亡していたが、事件発覚後は死亡者は出ていないと言う。現時点では、犯人は特定されていないが、外部からではなく病院内の医療・介護の従事者の関与が疑われている。
 
 これに似た事件として、さきの相模原市の知的障碍者福祉施設での大量殺人事件、また、川崎市幸区の老人ホームでの転落殺人事件などが想起される。いずれも関係する介護職員が、弱い立場の無抵抗の高齢者を狙った卑劣な犯行である。
 これまでの犯人の言い分は、“役に立たなくなった高齢者・障害者は、いなくなればよい” という趣旨の考えを述べている。

 なぜ、このような考えになったのだろうか? 
 看護・介護の仕事は、人の生命を育み護る大変重要な・やりがいのある職場である。
 看護師・介護士になるには、それ相当の教育を受け、目的観・使命感を持して職務に就いたと思います。
 ところが理想と現実のはざまで、希望もやる気も段々と無くしていったのではないかと思う。
 そうなれば、不平不満が生じてきて、すべてを他人や環境のせいにして、ますます悪の スパイラル(渦巻)のなかに、自ら落ち込んだのではないかと思います。(推測)

 人のやる気を無くす一番のものは、目的や意義もなく 無意味なことをさせることだ と聞いたことがあります。
 労役に従事させるとき、たとえば、レンガ積みさせて出来上がったたら,一旦それを全部・取り壊し、また同じように積み上げさせる。これを何回も繰り返す。結局、無意味・無価値なことをさせていることになる。これは従事者にとって、一番・心身にこたえることになるという。
 
 このような状況が、いま医療・介護の現場で起きて来ているのではないのか と思われます。
 今回の被害者は、88歳の高齢者である。失礼ではあるが、通常このお年では元気になって、退院できる病状ではないと思います。いわゆる、人生の終末期に入られていると思います。

 このような患者に対しても、現在の病院医療は、若年・壮年と同じような施術を行っている。
 たとえば、食べられなくなったといって、胃に穴をあけて、チューブで流し込んだり、呼吸が困難だからと、すぐ人工呼吸器を取り付ける。
 私は知り合いのお婆さんのお見舞いに行って、顔を見たとき別人かと思った。それは人工呼吸器をつけていて、少し浮腫(むく)んでいるようで、顔色も悪く、男の人の顔のように感じられた。
 本人はかえって、苦しみを増しているのではないかと思われた。

 かつて、堀日亨上人と記憶するが、「わしは 四~五日・何も食べず、腹の中を空っぽにして死んでいくのじゃ(趣意)」 と仰しゃったという記事を読んだことがあります。
 私はその時、人は死に逝くときは腹の中を空っぽにしなければならないのだ なぁ と思った。
 すなわち、動けなくなる・食べられなくなる・呼吸が困難になることは、死に逝くときの プロセス(過程)であり、自然の摂理である。 
 
 ところが、この自然の摂理に反する施術をしているのが、今の日本の医療であり、病院経営である。(門外漢のお前が何を言うのか と怒られそうだが)
 前から世間で言われていたことであるが、医術なのか…算術なのかと。その一端が、検査漬け・薬漬けの医療である。先生は レントゲン写真と パソコンの画面ばかり見て、ろくに患者の顔も見ていない。私は整形外科を受診して、一回も患部を触診されなかった ことがあります。

 事件の犯人たちは、治りもしない患者に無駄な施術をしていると、しかも、社会福祉関係の国家予算は、いまや 40兆円にもなっている。介護の当事者として現場の裏事情をよく知る立場だけに、変な歪んだ正義感が燃え上がり、犯行に及んだのではないかと思う。
 犯人たちを擁護しているのではないが、このような重大事件の犯人が、医療・介護の現場の内部の者から出ているということは、そこに何か、矛盾点・問題点があるという ことではないのだろうか。
 この医療・福祉の問題点を捜し出し、関係者全員・いな国民全員も、危機意識を共有し真剣に考えて、改革し・解決して行かなければ、国の前途が危うくなると憂慮するものである。

 池田先生は ハーバード大学で 「生と死」 について、次のように講演されています。 
 近代人にとって死とは、単なる生の欠如・空白状態にすぎず、生が善であるなら死は悪、生が有で死が無、生が条理で死が不条理、生が明で死が暗、等々と、ことごとに死は マイナス・イ メージを割り振られてきました。
 ………
 死は単なる生の欠如ではなく、生と並んで、一つの全体を構成する不可欠の要素なのであります。その全体とは 「生命」 で あり、生き方としての 「文化」 であります。ゆえに、死を排除するのではなく、死を凝視し、正しく位置づけていく 生命観、生死観、文化観の確立こそ、21世紀の最大の課題となってくると私は思います。


 世間では、どこそこのお家で死者が出た時、“不幸なことが起きた” “不幸になった” などと よく言います。
 “死は不幸である” という考えから、医師より 「人工呼吸器をつけますか」 「胃ろうを施術しますか」 と問われた時、すぐに 「はい、お願いします」 と答えてしまうのである。
 “「死」 は決して 「悪」 でも 「不幸」 でもない” とする、この思想を広めなければ、この問題解決の端緒にも道筋にもならないと思います。それには、各人の生死観の変革が求められています。
 
 池田先生の “死を凝視し、正しく位置づけていく 生命観、生死観、文化観の確立こそ、21世紀の最大の課題となってくる” と仰しゃるように、正しい生命観、生死観を、日蓮大聖人の大生命哲学に求めなければならないのであります。

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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