立正安国論

 3月11日の午後、M9.0の東日本大震災が発生し、直後の巨大津波により甚大なる被害を被っている。残念ながら犠牲になられた方々に哀悼の意を表します とともに、被災された方々の無事安穏を心から念願申し上げます。

 地震といえば、日蓮大聖人の 『立正安国論』 が思い出されます。大聖人は 「正嘉元年八月二十三日戌亥(いぬい)の刻の大地震を見て之を勘(かんが)う」(33P) と、苦しみに喘ぐ民衆に同苦され、災難の由来を考えられました。

 その根本原因は 「世皆正に背き人悉(ことごと)く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還(かえ)りたまわず、是れを以て魔来り鬼(き)来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」(17P) と仰せられました。世の人々がみな正法(法華経) に背き、ことごとく悪法に帰している。それ故に、守護すべき善神は国を捨てて去ってしまい、聖人は所を辞して帰って来ない。このために魔神・鬼神入って来て、災難が起きるのである。

 また、仁王経に云く 「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る …… 若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」(19P)  と、ここでの鬼神とは思想と訳します。思想が乱れるがゆえに万民が乱れ、万民が乱れるがゆえに国土が乱れ災難が起こるのである。

 以上の法華経の哲理を 「依正不二」 とも言います。依報(客体・環境) と正報(主体・自己) とは各々別物ではなく、相互に関連しあって現実の世界を形成していて、両者の関係は 「二而不二(二にして而も二ならず)」 であり、相依相関性をなしているのである。

 この哲理を 「立正安国論」 から750年も経って、人類はやっと気付こうとしています。例えば、人間の欲望の肥大化による経済活動が、地球環境の破壊をもたらしている等のことである。

 人間生命の濁りである三毒によって 「壊劫の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり、又減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり、飢渇(けかち) は大貪(だいとん) よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚(しんに) よりをこる」(1064P) と述べられています。この三毒の煩悩は、間違った思想・間違った宗教に根本的原因があるのである。

 日蓮大聖人は、国や庶民にとって、幕府の為政者の誹謗正法の罪の悪影響は甚大なるによって、国のため一切衆生のために 「立正安国論」 を著して、執権北条時頼に対して提出しました。このことを 「国家諫暁」 と云います。

 しかし、幕府はこの諫暁を用いようとはせず、また後の時代の為政者も無視した。その結果約700年後、低級なる国家神道をもって、法華経を誹謗し創価学会を弾圧した。軍国主義国家による太平洋戦争の敗戦に、国民は甚大なる戦災を被ったのである。

 『立正安国論』 の結文のところは 「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰(おとろえ) んや、十方は悉(ことごと) く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微(すいび) 無く土(ど)に破壞(はえ)無くんば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞(ことば) 此の言(ことば) 信ず可く崇(あが)む可し」(32P) と仰せられています。

 この大震災に際して、いま再び 「立正安国論」 を学び実践しなければならないと決意するものである。それは依正不二の原理を説き明かし、災難の起る根源を示し、その解決策を明かした 「立正安国論」 こそ、“天下泰平・国土安穏・経世済民” の秘術まします書であるからである。

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災難の起る由来

 前回、立正安国論のことを少々述べてみました。そのとき災難が起きるのは、世の人々がみな邪宗邪義を信じているからであり、正法即ち日蓮大聖人の南無妙法蓮華経を唱えれば、災難を止めることが出来るのであると述べました。

 この種の趣旨のことは御書の各所にあり、特に 『如説修行抄』 の 「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝を鳴らさず、雨壤(つちくれ)を砕かず …… 現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(502P) と仰せられているところは有名です。

 以上のことを見聞きなされて、そんなバカなことが有るものかと、思われている方々が多々いると思います。私も初めの頃はそう思っていました。
 それは災害などは自然現象であり、人間の意志や観念などの及ぶところのものではないと思うからであります。しかし、仏法では 「一身一念法界に遍(あまね)し」(247P)、また 「依正不二」 と説いています。

 地震について述べれば、太平洋プレートが日本海溝で沈み込むときに、陸地側の北米プレートの端が巻き込まれて、歪みが蓄積され、やがて、耐えられなくなったプレートの端は反発して跳ね上がり、巨大な地震と津波を引き起こします。プレートは常に動いておるものですから、何十年かの間隔で必ず起こると言うのである。

 もう二十年位か前のことですが、テレビで見たことが有ります。それは海洋調査船が、日本海溝を調査したとき、ある程度の大きさの海底断層を発見しました。同じ船が5~6年前、同じところを調査したときは無かったとのことです。では、その間に地震があったかと言えば、それは無かったとのこと。ということは、5~6年かけて徐々に断層が形成されたと言うことです。
 地震は断層が瞬間的に動くから、大きなエネルギーとなります。上記の例のように、徐々に動くか、動いても震度2~3程度ならば、災害は発生しません。

 台風や集中豪雨についても同じことが言えます。どんなに強く豪雨が降ったとしても、海上であれば・また短時間であれば、人間に害はありません。これらのことについては、みな発生のメカニズムは、現代科学の力で解かってきました。しかし、いつ・どこで発生するのか、また、どれ程の大きさ・量か、何時間か・どんなコースをたどるのか・などのことは、科学の力を以てしても解かりません。その上に、人類の宿業ともいうべきものが関与して来ると、まだまだ不確定なものばかりです。

 『瑞相御書』 に 「夫れ十方は依報なり・衆生は正報なり、譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・又正報をば依報をもって此れをつくる」(1140P) と仰せられています。

 依報(客体) と正報(主体) すなわち、環境と自己との密接不可分な関係が述べられています。
 正報とは、生命活動の主体であり、依報とは、国土・宇宙であり、その正報の依る所となるものである。したがって、この正報と依報の関係は、正報を体とすると、依報はその影のようなものである。故に 「身なくば影なし正報なくば依報なし」 と言われているのである。しかし、では依報は、実在性のない幻のようなものであるかと言うと、そうではなく、依報によって正報は作られるのである。 「依報あるならば必ず正報住すべし」(1358P) と。

 正報がなければ、依報というものはあり得ない。然しながら、その逆に、依報によって正報は成り立つのであるから、依報のない正報もあり得ない。このような依報と正報の関係を 「依正不二」 と言います。

 『瑞相御書』 の御文を拝したいと思います。
 「衆生の五根破れんとせば四方中央をどろう(駭動)べし・されば国土やぶれんと・するしる(兆)しには・まづ山くづ(崩 )れ草木枯れ江河つく(竭)るしるしあり、人の眼耳等驚そう(躁)すれば天変あり、人の心をうごかせば地動ず」(1140P)
 「大地の動ずる事は人の六根の動くによる、人の六根の動きの大小によって大地の六種も高下あり」(1141P)

 「人の悦び多多なれば天に吉瑞をあらわし地に帝釈の動あり、人の悪心盛なれば天に凶変・地に凶夭出来す、瞋恚の大小に随いて天変の大小あり地夭も又かくのごとし、今日本国・上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり、此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり」(1142P) と。

 民衆が悪法を信じ心が三悪道・四悪趣の境涯に陥っていけば、貪・瞋・癡の三毒の煩悩が社会に国土にも充満し、人々を不幸へ突き落す働きが起きてくるのである。
 「瞋恚(しんに)増劇(ぞうぎゃく)にして刀兵起り・貪欲(とんよく)増劇にして飢餓起り・愚癡(ぐち)増劇にして疾疫起り」(718P)、大地が動き・洪水も起る。まさしく国土もまた、三悪・四悪趣の姿となるのである。

 今こそ、日蓮大聖人の立正安国の原理を、真摯にに学び、信順しなければなりません。 

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大悪起れば大善きたる

 『大悪大善御書』 に 「大事には小瑞なし、大悪をこ(起) れば大善きたる」(1300P) と述べられています。今回の東日本大震災は、大悪なる事件だと思います。“大善きたる” と言っても、何もしなくて手をこまねいていては、何も変わりません。

 近代日本史では、二つの大変革期があったと思います。一つは 「明治維新」 であり、もう一つは 「太平洋戦争敗戦」 の時だと思います。

 明治維新は、それまでの徳川幕藩体制を崩壊させて、天皇制の統一国家を形成した改革であった。封建社会から資本主義社会へ移行したが、主権はあくまで天皇にあった。天皇のもとにあっては国家主権が大事にされ、富国強兵策がとられ、国民は常に犠牲を強いられた。日清・日露戦争に勝利し、欧米列強に肩を並べるまでになったが、富国強兵策の行き着くところ、軍国主義化し、挙げ句の果ては太平洋戦争で敗戦の憂き目を見た。

 敗戦の結果、欧米より自由・民主主義思想が取り入れられ、天皇主権から国民主権国家へと改革された。個人の自由・権利は謳歌され、戦後経済は急速に回復し、短期間の内に先進国の仲間入りを果たした。国民は幸福に成ろうと一生懸命に働き、経済的には裕福になったが、それに反して心・精神面では貧しくなってしまった。

 かつて阪神・淡路大震災の被災者の方が “形のあるものは全て失った。残ったのは命だけだった。(趣意)” と語っていたというお話を聞いたことが有ります。今回の大震災においても、同じような思いをなされている方々も、多々居らっしゃると思います。
 このことは幸福とは、決して物や金で贖えるものではないことを物語っています。幸福とは、自身の生命の中に築き上げるものであり、己心の外に求めるものではないのであります。

 日蓮大聖人は 「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」(1173P)・「ただ心こそ大切なれ」(1192P) と、自身の生命の変革こそ、第一義であると仰せられています。

 以上の点を考えて見ますと、二つの歴史的変革は、日本国自らの変革ではなく、外国からの軍事的圧力による変革であった。明治維新では国民はみな、民族・国家に、戦後は金・地位・技術などに幸福を求めたが果たせなかった。

 東日本大震災は不幸な大変な災害ではあるが、わが国が三番目の歴史的変革を成し遂げる絶好のチャンスではないかと思います。天災とはいえ、自国で起こった事件である。仏法ではあらゆる現象は、人の心から起こると述べられています。今度こそ、自らの力で自国の変革を可能ならしめねばならない。

 日本民族の宿業の故か、世界で真っ先に火薬が使われたのが蒙古襲来の時である。原子爆弾もまた世界初である。今度は放射能災害まで起きた。今まで小規模のものはあったが、原発4基が同時に放射能漏れを起こすなんて世界初である。

 地震と津波と放射能災害の甚大さと悪影響の拡大さ思えば、日本沈没にもなりかねない国難級の災害である。そんな中で、ボランティアや義援金などの助け合いの心、被災者や停電のことを思い、節約や生活態度を改善しようとするなど、確かに国民の意識は変わりつつあります。この流れを善導して、最高の 「善の価値」 を、皆が求めるようにならなければならないと思います。

 ここで注意しなければならないのは、今のままの総理・政党では頼りないから、もっと強い指導者・政治・経済・技術力などに頼ろうとすることです。これらは己心の外にあるものであり、利用・活用こそすれ、これらに頼ろうとすることは、力のあるもの、すなわち、国家権力や集団の力に頼ろうとすることになります。これは独裁主義・全体主義・国家主義への道を開くことに成りかねません。かつて通って来た道であります。

 創価学会は、あくまでも 「人間革命」 が第一義であり、自身の生命の変革をもって、社会に貢献する団体であります。
 『小説・人間革命』 の主題は、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」 というものであります。  

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仏菩薩の歓喜

 5月号の “勝利の経典 「御書」 に学ぶ” は、『法華初心成仏抄』 です。唱題行について、種々の観点から重要なご指導がなされておりますので、何回も何回も熟読玩味し実践して参りたいと思います。

 講義の中で、私たちが唱題して得る功徳を、「諸天の加護」 と 「仏菩薩の歓喜」という二つの観点からご指導されております。
 
 まず、諸天の加護について 「梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ」 と仰せです。私たちが妙法の題目を唱えれば、必ず、諸天善神が呼ばれて私たちを守護するということです。諸天善神の守護とは、妙法の力用の顕現です。それが自身の仏性を呼び現す唱題の実践によって起こります。…… 
 諸天善神を動かすのは、どこまでも私たちの信心の一念です。
と、

 仏菩薩の歓喜が明かされています。 「仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ」 と仰せです。…… 
 ここで、仏や菩薩が歓喜するとは、唱題によって得る真の功徳であります。すなわち、広大にして一切を包む仏界の境涯、そして、どこまでも妙法蓮華経を求め、他の人にも伝えいく菩薩界の慈悲の生命が、生き生きと顕現し、躍動していくのです。………
 「自他共に喜ぶ」(788P) とあるように、慈悲の発露として、人々のため、社会のために行動していくことは、まさに仏や菩薩の行動です。一切の仏菩薩が歓喜し、賞讃しないわけがありません。
と以上のようにご指導されています。

 唱題の功徳の 「仏菩薩の歓喜」 を考えてみますと、その国土は常寂光土であり、「仏国其れ衰んや、十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや」(32P)・「吹く風枝をならさず雨壤(つちくれ)を砕かず」(502P) の世界であり、福島第一原発事故の根本的な解決の道は、これ以外には無いと思います。

 放射能という、目にも見えない・匂いもない・音もない・それでいて人間の命を奪う奪命者であり、まさに第六天の魔王の所業としか言い様がありません。

 では、第六天の魔王は何処から来るのでしょうか。大聖人は、「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ、元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997P) と仰せです。 元品の無明とは、南無妙法蓮華経を信じ切れないという、全ての人々の生命にもともと具わる根本的な迷いです。その迷いのゆえに、誹謗正法・即ち、謗法行為を犯し、三災七難を招いてしまうのである。

 想えば、阪神大震災の時の首相は、社会党の村山富市氏であった。今回の東日本大震災は、民主党の菅直人氏である。社会党・民主党は、「四月会」(反創価学会の広宣流布を阻止せんとする団体) の流れを汲む政党であり、その所属議員が首相となった時に、大震災に遭遇するなんて、ただ単なる、偶然の一致だけのことであろうか。私にはそうとは思えません。

 大聖人は、蒙古国の襲来について、「此等の経文のごときんば正法を行ずるものを国主あだみ、邪法を行ずる者のかたうどせば大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ」(313P) と。蒙古襲来も仏法上の観点から見れば、日蓮大聖人を迫害した北条幕府が、招き寄せた大難なのであります。

 それ故に、問題解決の方途は、元品の無明を 「元品の法性」 へと転換させなければなりません。大聖人は 「此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」(751P) と仰せられています。三大秘法の御本尊に唱題し、一切の仏菩薩の仏性が歓喜・躍動し、宇宙大の功徳力を満喫していく以外にありません。

 池田先生は、なぜ、諸仏が歓喜するのか。それは、三世諸仏も、妙法蓮華経の五字によって仏になっているからです。南無妙法蓮華経こそ、「三世の諸仏の出世の本懐」 であり、「一切衆生・皆成仏道」 の法です。
 ………
 御本尊への信仰が、生活革命、人間革命に直結し、更に社会の変革へと展開していくことを教えられたのが、牧口先生であり、戸田先生です。本抄に仰せのごとく、ひたぶるな唱題で 「仏になる道」 を厳然と歩み抜いている団体は、創価学会以外にありません。「題目第一」 「御本尊根本」 の信心は、学会の中に脈動しています。
 ………
 今こそ、「妙とは蘇生の義」 なりと、変毒為薬の功力を実証する唱題を
 今こそ、「大悪起れば大善来たる」 の原理を証明していく唱題を
 今こそ、わが国土を仏国土に変革しゆく 「立正安国」 の唱題を
 我ら創価学会は、妙法の音声を朗々と響かせながら、精神界の王者として、社会的使命を一段と果たしつつ、凱歌の創立100周年へ、勇躍、前進していきたい。
(同抄講義) とご指導されています。

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9.11を思う

 9月11日、ニューヨークにて同時多発テロ事件が起きて、早くも10年が経ちます。また、6ヶ月前の3月11日、東日本大震災が起きました。同じ “11日” という日にちの一致に、何か不思議なものを感じます。

 この間の10年、米国はテロ撲滅の名のもと、アフガニスタンとイラクに侵攻し、彼の地の独裁政権を倒したが、多大な混乱と損害を与えることに成ってしまった。また、自国の将兵も1万人以上の犠牲者を出し、経済までも、何やらおかしく成ってきた。
 テロ撲滅が出来たかと言えば、首謀者 ウサマ・ビンラディン容疑者を殺害したが、テロの脅威は一向に減っていません。

 釈尊は 「実にこの世においては、およそ怨(うら)みに報いるに怨みを以ってせば、ついに怨みの息(や)むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息む」(趣意) と述べています。そもそも、武力をもってテロ撲滅を図ろうとすること自体が間違いなのである。

 御書に 「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧(びる)の身土は凡下の一念を逾(こ)えず」(1358P) と仰せです。この御文は我々の生命は、「十界互具の当体」 であると説かれています。
 すなわち、怨みという心は、もともと生命に備わっているものであり、仏様でもこれを無くすことは出来ないのです。反対に、極悪人の一念(生命) といえども仏界を具しているのである。

 したがって、日ごろ潜在化している怨みの心は、縁によって顕在化するのであります。ゆえに、武力行使によって子供や親兄弟を殺された極普通の民間人が、テロリストに変身しないとは限りません。ゆえに、テロ根絶のための武力行使が、かえって、テロリストの醸成になるという認識を、持たねばならないと思います。

 「自他の隔意(きゃくい)を立て彼は上慢の四衆・我は不軽と云う、不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり、此に立って礼拝の行を成す時善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり」(768P) と仰せです。このご文は、彼は 「悪人」・我は 「善人」 であるというように、差別を立てる見解、差別観に執着する心は 「無明」 であるということです。

 「無明は明らかなること無しと読むなり、我が心の有様を明らかに覚(さと)らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う」(564P) と仰せです。無明とは、自分の生命の法理に暗いということです。これが迷い・混乱・不幸の根本です。

 テロリスト(悪人)と民間人(善人)という二種類の人間が居るのではない。これらのものが、一人の人間の中において共存する、すなわち、「十界互具の生命」 の認識もなく、生命の法則も解からないままで、事を推し量っても、うまくいく訳がありません。

 しかし、善悪、邪正と立ててはいけないという意味ではないのです。善悪、邪正の立て分けがなくなってしまったならば、それは混乱以外の何ものでもない。
 仏法の精神は 「善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり」 とありますように、善人も悪人も、邪も正も、ともに “南無妙法蓮華経” を根幹にしたときに、はじめて救われ、社会、人類に、価値を提供していくことが出来るのであります。

 池田先生は、二十世紀は 「戦争の世紀」 であった。二十一世紀こそ 「生命の世紀」 にしなければならない。それには、何があろうと 「殺すなかれ」(不殺生)という大原則を、人類の 「根本の正義」 にしなければならない。
 「自分の主義主張を訴える手段に、暴力を採用してはならない」 という共通思潮を世界に広げ、根づかせていかなければ、人類は 「二十世紀の教訓を、まったく学んでいない」 ことになろう。
 二十一世紀の真の戦いは、文明と文明の戦いでもなければ、いわんや宗教と宗教との戦いでもない。「暴力」 に対する 「非暴力」 の戦いである。それこそが 「野蛮」 に対する 「文明」 の戦いである。
 大悪おこれば、大善きたる。しかし、大善は、ひとりでに来るわけではない。大善をもたらすのは、常に勇気である。
 凡夫の慈悲に代わるものは勇気である。勇気をもって語っていくことが慈悲に通じる(趣意)。
と指導されています。

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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