凡夫が仏

 連載中の 「新・人間革命」 は、1977年 (昭和52年) を 「教学の年」 と定めて、『諸法実相抄』 講義をもって、スタートを切ったことが述べられています。

 本抄は、文永十年五月、佐渡御流罪中に、最蓮房日浄に与えられた御書である。法華経迹門の 「諸法実相、十如是」 の文から説き起こして、法華経の哲理の真髄を示し、その当体が妙法蓮華経、即、御本尊であると教えられています。また、この一書の中に、人本尊開顕の 「開目抄」 と、法本尊開顕の 「観心本尊抄」 の結論が包含されている重書であります。

 次いで、「凡夫こそ本仏」 「一切の衆生が妙法の当体」 とする日蓮大聖人の法理は、過去の仏法観を根底から打破するものであり、ここに、人間主義の偉大なる原理があることを強調した、と述べられています。

 ところで、ここのところの 『諸法実相抄』 の文を示せば、
 「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては候へ」
 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(1358P) 
 「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(1359P)
 と仰せです。

 「迹」 とは跡とか影とかいう意で、「本」 に対する語です。迹仏とは、衆生を利益するために仮の姿・形で説く仏のことです。用(ゆう) とは、働き・作用・功徳などのことで、爾前経の諸仏は、みんな妙法の働きや功徳を示すために説かれた、理想上の迹仏(仮の仏) なのである。

 ゆえに、爾前経の仏、すなわち、阿弥陀・大日・薬師仏などに執着している者を、天台大師は 「天月を識らずして但池月を観ず」(1211P) といって破折されています。

 では、本仏とは何方様か。大聖人は “本仏と云うは凡夫なり” と言っています。それは人間以外にいない訳です。人間が、一番尊貴なのです。仏と言っても、働きや作用のことであれば、実体はなく・架空の・理想上のもの (迹仏) でしかない。

 人間は体があり、現に実在している。神も仏も宗教も、もともと人間が創ったものである。創った方が 「本」 で勝れ、創られたものが 「迹」 で劣っているのが道理である。

 しかるに、今までの宗教は、神仏などの 「絶対なる存在」 が上、人間はその下と考えるのが普通です。それを否定して、大聖人は、凡夫が本仏であり、仏は用の迹仏にすぎない。“仏があって凡夫がある” と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある” と言うのだから、全宗教史上、驚天動地の宣言です。

 「神仏が上、人間が下」 としたところに、いまだ宗教のために、人間と人間とが殺しあっている。これを 「人間のための宗教」 に、価値転換しなければならない。

 大白蓮華に、池田先生が、昭和41年新春、高等部員に対して、本抄を講義されたことが記されています。ここの部分のところを、引用させて頂きます。

 「御本尊の威光がよく理解されるのは、凡夫がいるからである、迷える凡夫がいるがゆえに、御本尊の威光勢力が分かるのである――こうとらえても差し支えありません」
 そして静かに訴えた。「例えば、学校の先生がいて、その先生がどんなに偉くても、生徒がいなければ、偉さは分からない。生徒がいるがゆえに、学校の先生は必要であるし、価値を生ずるのです」
  (大白・2011・2月・33P)
 
 この定理を、社会全般に広げて行かねばならないと思います。特に政界においては 「大臣・議員が上、庶民は下」 の封建的思想を、早急に打破しなければならない。そのためには、正しき・力強い宗教が必要である。

 まさに 「宗教のための人間」 から 「人間のための宗教」 へと、価値転換できる大生命哲学が、日蓮仏法であり、創価思想なのであります。

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法身の四処

 鳩摩羅什の舌のエピソードを紹介しましたので、もう少し舌について述べてみたいと思いました。仏法に 「八相作仏」 というものがあります。仏が衆生を救うために世に出現し、成道(作仏) を中心として一生の間に示す八種の相のことです。

 それは 「下天・託胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃」 の八つの相です。このなかで、特に仏の成道にとって大事なところを、「四処」(仏の四種の住処) と言い、即ち 「生処・得道・転法輪・入涅槃」 です。

 日蓮大聖人は、この四処をわが身に当てて、お示しくださいました。
 「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉(のんど)は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき」(1578P) と、このことを 「法身の四処」 と言います。この御文を、要約して示せば、

  日蓮が  ……………………………… 法 身
  胸の間は諸仏入定の処  …………… 入涅槃
  舌の上は転法輪の所  ……………… 転法輪
  喉は誕生の処  ……………………… 生 処
  口中は正覚の砌なるべし  ………… 得 道
 
 以上の四処を見ますと、胸の外の三か処は、みな口に関係しています。舌の上が転法輪(仏の説法) にあたることは理解できますが、誕生と云うから出胎かと思えば喉であると、正覚(悟り) と云うから頭かと思えば口の中と仰せられている。何か、不思議で理解し難いように思われます。

 口に関するものと云えば、言葉・音声・発声などのことが思い出されます。ここでは “南無妙法蓮華経” と発する音声の中に、仏の誕生から・悟り・説法・涅槃まで、一生の間・即ち全身・全体があることになります。

 したがって “南無妙法蓮華経” とは、ただ単なる言葉だけでなく、仏の悟りの法であり、仏そのものであるということが出来ます。このような尊極の音声である “南無妙法蓮華経” は、喉から誕生して、舌と口の中で作られて発声されるわけです。
 また反対に、罵声や怒声という地獄界の音声を発することもあるわけです。ゆえに、“南無妙法蓮華経”と唱え奉ることが、どれほど素晴らしく、尊貴なる存在であることか計り知れません。

 日寛上人は 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、わが身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集・548P)  と仰せられ、題目を唱えれば、胸の間・即ち、わが身が・此処で・瞬時に、成仏できることを教えて頂きました。ゆえに、題目を唱えている者を 「仏」 と称するのであります。

 『御義口伝』 に、「声仏事を為す之を名けて経と為す」(708P) と、大聖人は 「声もをしまず唱うるなり」(328P) と仰せられました。生命力は、何よりも 「声」 に現れると云われています。

 創価学会のみが、惜しみない声また声で、世のため人のため、広宣流布と云う偉大な 「仏事」 を為している教団なのであります。

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事・理と人・法

 仏法に 「事と理」 という判釈があります。法華経本門は事の一念三千、迹門は理の一念三千である等と言います。一般的に、「事」 とは事実・実体・実践等を意味し、「理」 とは理論・法則・観念等を意味します。

 例えば、家の設計図は 「理」 である。それに対して実際に建てられた家は 「事」 となる。家が建てられて、初めて住むことが出来、そこに価値が生ずるのである。ゆえに、「理」 は真理観であり、「事」 は価値観に立ったものであると言えます。

 日蓮仏法では、「事」 とは妙法の当体の御本尊であり、「理」 とは妙法の哲理である。したがって、事は理を含むものであるから、事は理に勝れ、理は劣ると判ずるのである。ゆえに、空理空論の念仏宗など、打ち捨てなければならないのである。

 前回、六巻抄がなかなか解からなかったと言いましたが、そのなかの一つに次の文がありました。『三重秘伝抄第一』 の“第八に事理の一念三千を示さば”、のところで。(六巻抄・58P)

 「問う文底独一の本門を事の一念三千と名づくる意如何。
 答えて云く是れ唯蜜の義なりと雖(いえど)も今一言を以て之を示さん、所謂人法体一の故なり」
 とあります。

 ここで、どうして 「人法体一」 が、事の一念三千の意(こころ・所以) となるのか、なかなか解かりませんでした。日寛上人は、すべてお解りになられておられますので、当然のように、ただ一言 「人法体一の故なり」 と述べられ、あとは文証を示されただけで、詳しい説明はありません。

 日蓮仏法では、「人」(日蓮大聖人) と「法」(南無妙法蓮華経) は、別々のものではなく一体であることを 「人法体一」 又は 「人法一箇」 と言います。爾前・迹門の仏菩薩は、世情に随順する垂迹化他の虚仏であるため、法は勝れ・人は劣るのであり、これを 「人法勝劣 」と言います。

 ところで、「人法体一 」が事の一念三千ということで、「事」 について事実・事相・生活などを考える内に、ふと 「実在」 という語が思い浮かんできました。

 このことを踏まえて考えてみますと、「実在する」 すべての十界の衆生(物も含めて) が 「人法体一」 の当体、妙法の当体であると言うならば、では、「人法勝劣」 とは何か! それは反対に 「実在しないもの・架空のもの」 のことを示していると、言えないでしょうか。
 そのように考えますと、「架空のもの」 の話であれば、それは 「理論上のこと」 となり、すなわち、「理の一念三千」 となります。

 『諸法実相抄』 に、「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用(ゆう)の三身にして迹仏なり …… この釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云うは仏なり」(1358P)とあります。

 爾前・迹門の仏・菩薩は、所詮、南無妙法蓮華経から出た用(はたらき・つくろう・作用等) なるものであり、迹(影) にしか過ぎないとのことであります。

 したがって、迹仏は用(ゆう) すなわち、作用や影などであると言うことは、「実体がない」 と言うことであります。ゆえに、爾前・迹門の仏・菩薩は、架空の存在にしか過ぎないことになります。
 したがって、「人法体一」 は 「事の一念三千」 であり、「人法勝劣」 は 「理の一念三千」であることが、自分なりに解ってきました。

 今まで 「人法体一」 は、“三大秘法の南無妙法蓮華経であり”、「人法勝劣」 は、“爾前・迹門・脱益の仏法” などであると言うように、どちらかと言えば、「法」 の方へ軸足を置いて考えていたので、解からなかったように思われます。

 「人法体一」 とは、仏身に備わる 「法」 が、「体一」 であるのか・ないのか、言い換えれば、「境智冥合」 しているのか・いないのか、「成仏」 しているのか・いないのか、その身は「 事実の体」 なのか・「理論上の体」 なのか等を、見るものでは無いでしょうか。むしろ、「人(仏身)」 から観る方が良いように思えてなりません。そしてこれをもって、日蓮仏法と釈迦仏法との勝劣を判ずることが出来るのです。

 以上の点をふまえて、「人法体一(勝劣)」 を考えるうえでは、「実在(架空)」 という概念を当てはめて考えた方が、理解し易いように思いました。

 しかし老婆心ながら、「人法体一」 は、「自受用身即一念三千」 という日蓮大聖人の甚深のご境涯の意義を、とどめていることを申し述べさせて頂きます。

 所詮、「人法体一・色心不二・依正不二・境智冥合・因果倶時・諸法実相」 等々は、根底において、まったく、同じことを言っているのであり、すなわち、「南無妙法蓮華経」 のことなのであります。

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他力と自力

 世間では、弥陀の本願にすがって往生を願う念仏宗などを、「他力・他力本願」 という。
 一方、壁に向かって坐禅を組み自らの力で悟りを得ようとする禅宗などを、「自力・自力本願」 の宗派であると言われている。

 では、法華経ではどうなのかと云えば、他力でも・自力でもなく、その両方をも含んでいるのである。妙法の四力から云えば、自力とは修行者自身の持つ 「信力・行力」 であり、他力とは本尊の具えている 「仏力・法力」 である

 日蓮大聖人は、法華経の十界互具論の立場から、次のように仰せられています。
 「今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、されば今仏に成るに新仏にあらず」(御書403P)

 今の法華経は自力も単なる自力ではない。わが身に一切衆生の他の仏界も具えている。ゆえに我が身に本から自己の仏界も・他の仏界も具しているのである。ゆえに単なる自力ではないのである。
 だから今、仏に成るということは全く新しく別の存在として仏に成るということではなく、自己に本来具する自他の仏界を顕現することに他ならないのである。
 
 「又他力も定めて他力にあらず、他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり」(同403P)

 また、法華経は他力も単なる他力ではない。外道でいう自力から隔絶している他力ではなく、他の仏も我ら凡夫自身に具するゆえに単なる他力ではない。また他の仏も我ら凡夫と同じように、自らに仏界を具して顕現するのであります。

 上記のように法華経は、自力とか・他力とか言って、片一方に偏ることなく、円融・円満なる法理なのである。我らが御本尊を信じて唱題する仏道修行は、御本尊の 「仏力・法力」 と、衆生の 「信力・行力」 との境智冥合によって即身成仏するのである。

 たとえば鐘の音は、鐘がひとりで鳴るのでもない、撞木(しゅもく) が鳴るのでもない。両方がぶつかり合って、音が出るのである。信心も同じである。私どもの信力・行力に、御本尊の仏力・法力とが、相まって感応するから功徳が顕われるのである。

 池田先生は 円教とは、いずれにも偏ることなく、「自力と他力の一致を説き、その力に基づく人間変革を説く宗教」 と言えるでしょう。
 「自力と他力の一致」 とは、自分を超える力(他力) を自分のなかに見ることです。
 つまり、大聖人の仏法で説かれる 「仏界の内在と涌現」 が、それに当たります。これは、まさに日蓮仏法の真髄にほかなりません。
 (御書の世界第1巻・95P) と仰せられています。

 そのほかに、ご講演 「21世紀文明と大乗仏教」 の中に、他力と自力について、述べられているところがありますのでご参照ください。 ―→ ここから

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如来秘密 神通之力

 法華経の秘密は 『如来寿量品第十六』 に、「如来秘密 神通之力」(如来の秘密・神通の力) とあります。本当の如来秘密は、法華経のみにあるのです。
 その外の文証は、
 「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於て最も其の上に在り」(292P)
 「故に天台の云く二乗根敗す之を名けて毒と為す、今経に記(き)を得る即ち是れ毒を変じて薬と為す、論に云く余経は秘密に非ず法華は是れ秘密なり」(984P)
 等々、数多くあります。

 如来の秘密について、『三大秘法抄』 に、
 「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す、又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」(1022P) と仰せです。

 「三身」 とは、法身・報身・応身の三種の仏身を云います。
 爾前経では、「法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」(198P) と云われるように、三身が別々に説かれました(秘)。
 法華経にきて初めて、一身に三身を具し、かつ三身の無始・無終(常住)が説かれました(密)。
 また、「四十余年・未顕真実」 とあるように、仏は四十二年間、法華経を説かず(秘)。
 「唯仏与仏・乃能究尽・諸法実相」(唯、仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり) とあるように、仏のみが諸法の実相を知っている(密)、 のである。
 以上のことは、釈迦仏法(文上) の所談である。

 日蓮仏法(文底) では 『御義口伝』 に、「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり」(760P) と仰せられ、御本尊のことを指し示している。

 すなわち、如来秘密は、中央の 「南無妙法蓮華経 日蓮」 を現わし、神通之力は、「左右の十界三千の姿」 を現わしているのである。
 『諸法実相抄』 に、「如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし」(1358P) と仰せられ、本体及び心具の十界三千は、ともに日蓮大聖人の 「一身の当体」 であり、即・「三大秘法の大御本尊」 を現わしているのであります。

 池田先生は、「如来秘密神通之力」 を、南無妙法蓮華経(文底) から読まれて、次のように講義をなされました。
 南無妙法蓮華経を悟った境地こそ、あらゆる仏の本地です。その生命自体が、仏の本体であり、本仏なのです。
 南無妙法蓮華経の仏すなわち、「南無妙法蓮華経如来」 が文底の 「本仏」 なのです。
 この 「南無妙法蓮華経如来」 が文底の 「如来秘密」 となります。そして、久遠実成の仏による永遠の衆生救済の働きも、南無妙法蓮華経の働きととらえられます。これが、文底の 「神通之力」 です。
 したがって、文底では、南無妙法蓮華経が本仏であるのに対して、釈迦・多宝などの一切の諸仏は、南無妙法蓮華経の働きを表した迹仏となります。

 この文底の法門がなぜ大切なのでしょうか。
 それは、あらゆる仏を仏にした根源の一法、すなわち南無妙法蓮華経が明かされない限り、現実の凡夫が成仏する道が開けないからです。
 「凡夫の成仏」 こそ寿量品の核心です。
 寿量品一品の内容を示した 「如来秘密神通之力」 とは、“凡夫成仏の道” を指し示しているのです。
 (小冊子・方便品寿量品講義②・45P)

 『御義口伝』 に、「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり、此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり」(753P) と仰せです。

 大聖人は、即身成仏と開覚することを如来秘密神通之力と云うのである。すなわち成仏すること以外に、神通も秘密もあり得ないのである。このように成仏は、大御本尊に南無する “信の一字” をもって成就することができると仰せです。

 池田先生は、「人間の生命ほど不思議なものはない。尊いものもありません。凡夫がその身そのままで成仏できる。平凡な人間であっても、仏と同じように生命の奥底から満足しきった幸福境涯を確立できる。これ以上の秘密はない。神通之力はありません。
 あらゆる人々に、最高の幸福境涯を満喫させる力 ―― これが仏の 『如来秘密神通之力』 です。いわば 『全人類の境涯を高める力』 です。
 そして、これこそが、御本尊の偉大な功力なのです」
 (同書・51P) と指導されています。

 追記:「別釈」があります。

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仏法の大転換 

 もう少し 「本因妙の仏法」 について知りたいと思い、池田先生の 『生死一大事血脈抄講義』 を読んでみました。あらためて、先生の御講義はすごいなと思いました。私の感じたところですが、ご紹介したいと思います。

 池田先生は、次のように講義をなされています。
 「さて、本抄で釈迦・多宝から上行に付嘱された法として南無妙法蓮華経を修業すべきことを結論として強調されていることは、さらに甚深の意義を拝することができます。
 それは、この付嘱が、「本果妙の仏から本因妙の仏へ」、そして 「本果妙の仏法から本因妙の仏法へ」 の大転換を意味しているということです。
 すなわち、これは、単なる仏から菩薩への付嘱ではなく、仏法の大転換、そして教主の交代を意味しています」
と述べられています。 (講義・188P)

 法華経は、在世の衆生よりも、滅後の衆生、それよりも、より以上に末法の衆生の救済を、目的としていると云われています。それは、法華経の滅後の弘経の方軌を見ればうなずけると思います。

 釈尊は、『法華経見宝塔品第十一』 で、「諸の大衆に告ぐ 我が滅度の後に 誰か能く 斯の経を護持し読誦せん 今仏の前(みまえ)に於いて 自ら誓言を説け」 と、このような意味の御言葉を三度も発して、滅後の弘通の誓いの言葉を述べるよう諫めています。これを 「三箇の鳳詔」 と云い、滅後の法華経を持つことの難しさを、「六難九易」 の譬によって示している。
                         六難九易の記事 → ここから

 『提婆達多品第十二』 では、悪人の提婆達多と八歳の竜女(女人) の成仏を述べて、法華経功徳の深重なることを証明して、流通を勧めている。これを 「二箇の諫暁」 と云い、前の三箇と合わせて 「五箇の鳳詔」 と云う。

 『勧持品第十三』 では、「二十行の偈文」 をもって、滅後末法には法華経弘通の行者に 「三類の強敵」 が競い起ることを示しており、日蓮大聖人は、身・口・意の三業をもってこの勧持品を身読され、末法の御本仏としてのご確信に立たれました。
 
 『従地涌出品第十五』 では、迹化の菩薩たちが滅後の弘通を誓うが、しかし、釈尊は、「止みね善男子 汝等が此の経を護持せんことを須(もち)いじ」 とこれを止めた。その時、上行等の四菩薩を唱導の師とする六万恒河沙の菩薩が大地から涌出した。この地涌の菩薩たちを、釈尊は 「我久遠より来(このかた)是れ等の衆を教化せり」 と答えた(略開近顕遠)。弥勒菩薩は更に、釈尊成道より 「始めて四十余年を過ぎたり 世尊 云何ぞ此の少時に於いて 大いに仏事を作したまえる」 と疑問を提した(動執生疑)。この疑いに、回答したのが寿量品である。

 『如来寿量品第十六』 では、釈尊が成道したのは、「我実に成仏してより已来 無量無辺百千万億那由陀劫なり」 と久遠を明かした(広開近顕遠)。また、「我れ成仏してより已来 甚だ大いに久遠なり」 の文を “本果妙” とする。更に 「我れ本(もと)菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命 今猶未だ尽きず」 と “本因妙” が説かれ、「我れ常に此の娑婆世界に在って説法教化す」 と “本国土妙” が明かされる。この三妙が整足されて、本有常住の十界互具・百界千如・一念三千が明かされた。しかし、文上の寿量品では、釈尊の本因を 「我本行菩薩道」 としか説かれてない。如何なる “法” を修業したのか、それは末法の仏によって明かされるのである。 

 『如来神力品第二十一』 で釈尊は、妙法の当体を、上行菩薩に四句の要法をもって付嘱した。それは 「要を以って之を言わば 如来の一切の所有の法 如来の一切の自在の神力 如来の一切の秘要の藏 如来の一切の甚深の事 皆此の経に於いて宣示顕説す」 の文で、“結要付嘱” という。大聖人は、「日蓮慥(たしか)に霊山に於て面授口決せしなり」(760P) と仰せられています。

 以上、簡単に付嘱のところを見ましたが、迹化の菩薩に対し三度も呼び掛けていながら、結局、これを制止して、地涌の菩薩に付嘱するわけです。これは、末法に弘通する “法” は、始成正覚の 「本果妙の仏法」 ではなく、これをはるかに超えた久遠元初の 「本因妙の仏法」 でなければならないからです。それは 「本果」 は理想であり、「本因」 こそが現実です。その勝劣をハッキリと解からせるために、あえてこの様な方法をとったものと思われます。

 「付嘱」 という言葉の響きから、どうしても、仏から受ける・授与されるという感じがにじみ出てきます。そこのところを池田先生は、ハッキリと、これは “本果妙の仏から本因妙の仏へ”、“釈迦仏法から日蓮仏法へ” の大転換であると指導されました。

 釈迦仏法の阿弥陀や大日経を持している人々は、惑耳驚心(わくにきょうしん)する (耳を惑わし心を驚かす) ことでしょう。また、日蓮を名乗り、南無妙法蓮華経と唱えていても、身延や日顕宗のごときは、宗祖の教えに違背し、今だに、釈迦仏法の 「本果妙」 の考えに執着して居るのである。

 日蓮大聖人の仏法を、世界192ヶ国まで広宣流布し、その実証を示したのは創価学会です。今や仏法は、創価学会・創価思想の時代であると、声を大にして宣言するものである。 

 追記 : 「本因妙」 について、池田先生のご指導です。

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相対種の開会

 『生死一大事血脈抄講義』 の終りの方で、相対種の開会について、講義をなされています。「相対種」 とはあまり聞きなれない用語ですが、本質的に 「煩悩即菩提・生死即涅槃」 と同じことであります。

 『御義口伝』 に、「されば此の品には種相体性の種の字に種類種・相対種の二の開会之れ有り、相対種とは三毒即三徳なり種類種とは始の種の字は十界三千なり、類とは互具なり下の種の字は南無妙法蓮華経なり種類種なり、十界三千の草木各各なれども只南無妙法蓮華経の一種なり」(795P) と仰せです。

 「相対種の開会」 とは、衆生が本来もっている煩悩・業・苦の三道を、御本尊を受持し、題目を唱えることによって、そのまま法身・般若・解脱の三徳と転じて即身成仏する義である。日蓮仏法は、この相対種の開会を本意としているのです。
 
 衆生の生命は十界互具の当体であるから、十界のあらゆる境界を現わせる可能性はある。しかし、それにも拘わらず、九界を現わすことは出来ても、仏界はなかなか現われません。

 この仏界を現わすための因果の法則に、いわゆる因果応報の 「善因善果・悪因悪果」 の法則があります。すなわち、善い行いをすれば安楽の報いを受け、悪い行いをなせば苦悩の報いを受けると言うものです。これは常の因果の法であります。

 この通常の因果観から脱却できていないのが、権大乗教や小乗教の修行方法であります。このような小乗の修行では、生死を厭い、逃避する姿勢をもたらします。

 池田先生は、次のように指導されています。
 「なぜならば、煩悩を断ずるという修行は、『悪は悪を生む』 という一面的な因果観に基づいているからです。そのような因果観において、悪を断ずる修行といっても絶望的にならざるをえません。

 他方、大乗教では 『煩悩即菩提』『生死即涅槃』 という言葉は説きますが、実際の修行は、歴劫修行などに見られるように果てしない善行を積み重ねるか、絶対的な仏の救済を待つかのどちらかの道で成仏を期するものでした。

 しかし、このような大乗の修行や信仰も、結局は、生死を厭う逃避の姿勢に陥りやすいものです。なぜならば、結局は 『善は善を生む』 という一面的な因果観に立脚しているからです。自力の菩薩行を実践する人は果てしない未来の成仏を期するしかない。他力の信仰を実践する人は、阿弥陀仏などの絶対的な仏の力を借りて娑婆世界から離れた浄土に往生し、そこであらためて 『善は善を生む』 という修行をするしかありません。今の人生における修行の成就は保証されないのです。結局、これらは 『悪は悪を生む』 という因果観の裏返しに過ぎません。

 いずれにしても、煩悩の迷いと生死の苦しみに束縛されている現実の人々にとっては、煩悩と生死から解放された真の歓喜が得られないのは当然のこととして、成仏への確信や希望も持ちようがありません」 (同講義・210P)
 
 
 しかし、日蓮仏法は、より根源的な生命の因果の法則を明かしました。それは、己心に具わる内なる仏界・仏性を開き現わすことによって、煩悩・業・苦の三道が法身・般若・解脱の三徳と転じ、直ちに成仏の果を得ることが出来るという仏法です。
 
 大聖人は 『観心本尊抄』 に、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(246P)
 竜樹菩薩の大論に云く「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」(944P)
 伝教大師の 秀句に云く「能化所化倶に歴劫無く妙法経力即身成仏す」(1258P) と仰せです。

 池田先生は、「生命根源の次元からの変革を説き示したのが、十界具足を説く妙法の因果なのです。今、ここで、どのような境涯であったとしても、各人の生命の奧底には厳然と、最高の智慧にあふれた力強い仏界が具わっている。それを開きあらわせば、あらゆる困難をも乗り越えることができる ―― このことを可能にしたのが、因果倶時の蓮華の法なのです」 (同講義・58P) と指導されています。

 追記 : 「相対種」 について、池田先生のご指導です。

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断見と常見

 『生死一大事血脈抄講義』 の冒頭のところで、池田先生は 「生死」 について、世間の間違った考え方である 「断見」 と 「常見」 について述べられています。

 「断見」 とは、死ねば心身ともに無に帰するするとして、生命は生で始まり死で終わり、今世だけのものとする考えに執着する誤った見解のことである。
 「常見」 とは、死んでも不滅の霊魂が続くといい、今ここにあるものは常住不変であると執着する誤った見解のことで、犬はいつも犬、人はまた人となって生まれると説いて、因果を否定する生命観である。

 池田先生は、断常の二見について、次のように指導されています。
 これらは、「生まれたあとの自分」 を前提とした生死観、すなわち、今生きている自分の生死だけしか見ない考え方であり、また、死と生を対立するものとして捉(とら)えるにとどまり、生死をありのままに見た智慧とは言えません。
 自分の死を意識せざるをえない人間は、誰であれ、この二つの考えを何らかの形で持っているとも言えるでしょう。「断見」 は死への恐れや不安をもたらし、「常見」 はわが身を惜しむ生き方の一つの帰結です。…… 
(同抄講義・9P)

 「生まれてきたあとの自分」 を前提とする生死の考え方は、どうしても死後に今の自分が無くなるのか、続くのか、という 「議論」 になりがちなのです。これは、自分の死を鋭く意識しながら、自分自身では死や死後を経験できない人間にとって仕方のないことなのかもしれません。しかし、どう議論しても、最高の智慧とは言えないのです。
 なぜならば、死ねば無に帰するという断見では、死への恐怖や死に縛られた不安から永久に解放されません。
 
 他方、自分の霊魂は不滅であるという常見は、往々にして 「今の自分がそのままで不滅でありたい」 という安易な欲望の表現に過ぎないことが多い。結果的に、自分を高める智慧にはならず、かえって今の自分への執着を増し、迷いを深めるだけに終わりやすい。
  
 もちろん、東西の多くの宗教や思想では、今の自分を超える何らかの精神的なものの不滅を唱えています。そのような思想は、死について何らかの安心感を与える効果はあるでしょう。しかし、生き方を高める最高の智慧に行き着かなければ、先ほど述べた、自己執着の迷いと老苦・死苦に縛られた生き方に堕しやすいのです。
 (同抄講義・11P)

 日蓮大聖人は、『十法界事』 に 「又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念(おも) わく三惑を断尽して変易(へんにゃく) の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す、九界の色心の常住を滅すと欲(おも) うは豈(あ) に九法界に迷惑するに非ずや」(418P) と仰せです。

 「九界を滅すれば是れ則ち断見なり」 とは、念仏などの権大乗教では業・煩悩(貧・瞋・癡・慢・疑) 等によって、穢れた汚い心身を断じ尽くして、その後に涅槃の境地を得ようとするものです。

 このことを 『一代聖教大意』 に、「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す」(403P) と述べられています。

 権大乗教では、十界互具を説かないので 「厭離断九の仏」 となるのである。ここで、常住の九界の色心を厭い離れようとする点が 「断見」 である。

 「仏界に昇れば即ち常見と為す」 とは、法華経の十界本有常住論から言えば、仏界も九界も共に衆生の身心に常住しているのである。しかるに権大乗では、九界を滅し、仏界のみを常住と見ていく見解は 「常見」 である。

 『御義口伝』 に、「経に四導師有りとは今四徳を表す上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す、有る時には一人に此の四義を具す二死の表に出づるを上行と名け断常の際(きわ) を踰(こ) ゆるを無辺行と称し五住の垢累(くるい) を超ゆる故に浄行と名け道樹にして徳円かなり故に安立行と曰(い)うなり」(751P) と仰せです。

 “南無妙法蓮華経” と唱えることによって、「常楽我浄」 の四菩薩の徳用を表すことが出来るのである。
 「断常の際を踰ゆるを無辺行と称し」 と仰せのように、断見、常見等の邪見の生命観を超えて、永遠の生命観を会得したとき、一切の行き詰まりはことごとく打ち破られ、広々とした自由無礙なる心境に生きることが出来るのである。これが断常の邪見を超えることが出来る、“無辺行菩薩” の徳用である。

 池田先生は、「死苦からの解放がなければ、真の幸福はありません。そして、死苦からの解放は、観念ではなしえない。生と死が宇宙そのものの永遠にして大なるリズムであり、そのリズムを生きる大いなる自分自身を発見し、それをわが生命を支える根源的躍動として実感しえたときに、死苦を乗り越えることができるのです。その生命解放の道こそが、自行化他にわたる南無妙法蓮華経です」 (同抄講義・12P) と指導されています。

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血脈とは

 「血脈」 とは、師匠から弟子へ法門が受け継がれる様を、人体の血流に譬えたものである。
 日顕宗では日蓮大聖人の法門は、法主から法主へ 「唯授一人の血脈相承」 で流れるのであり、破門された創価学会には、血脈が途絶えているから、成仏の功徳はないと言っている。

 そこで、日蓮大聖人はどの様に仰せでしょうか。 『生死一大事血脈抄』 には 「血脈」 について、四点に要約して、ご指導されていますので拝したいと思います。

 一つ) 「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり」(1336P)
 日蓮大聖人の悟り、そして血脈として流れている悟りの法体は、南無妙法蓮華経であると仰せられています。

 二つ) 「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(1337P)
 日蓮大聖人と三大秘法の御本尊と我等衆生との三つに、全く差別がないと信じて唱題しなければならない。御本尊と我等衆生の生命に、差別があると思ったならば血脈は伝わらないのである。同じ十界互具の生命だから、唱題することによって、仏界の生命が共鳴しあって、生死一大事の血脈を受け継ぐことが出来るのである。
 
 三つ) 「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり」(同)
 一個の生命に伝わる血脈である。三世にわたる信仰の持続の大切さを言っています。ひたぶるに唱題する衆生の生命のなかに、血脈は流れるのである。

 四つ) 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(同)
 今度は横軸に広がって、一人一人が助け合って、仏の大願である広宣流布に進む和合僧団のそのなかで、“南無妙法蓮華経” と唱えるところに、御本仏の血脈は流れるのである。

 以上、簡単に見てきましたが、『生死一大事血脈抄』 のどこを捜しても、「唯授一人の血脈相承」 など書いてないのである。それどころか、大聖人は 「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに …」(1337P) と仰せです。

 大聖人のお心は、“一切衆生に仏に成る血脈を継がしめん” とする、即ち幸福にしてあげたいという、大慈悲心以外の何ものでもないのである。

 然るに日顕宗は、法主一人にしか血脈は流れないという。これは明らかに、大聖人の仰せに反する、師敵対の大謗法ではないのか。その上に輪をかけて、法主は “御本尊と不二の尊体” とまで言っている。日顕・日如らの行状のどこが、大聖人と一体なのか。聞いて “へそが茶を沸かす” とはこのことである。

 法華経の心は、一切衆生に悉く 「仏性」 が有ると即ち、「十界互具」 を説いています。しかるに、何か特別な “法水・血脈” というものがあって、法主だけが受けられるなんて、法華経の平等大慧の法理に反することになります。

 要するに、「信心」 と 「血脈」 と 「法水」 とは、実質的にはみんな “同じもの” なのです。御本尊に対する信心さえあれば、「いつも」 「どこでも」 「だれでも」 「この身のまま」 で、血脈はながれて成仏することができると説いたのが、革新的な日蓮大聖人の仏法なのです。

 本抄の結論として大聖人は、「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(1338P) と仰せです。

 池田先生は、“南無妙法蓮華経” の大法を万人に伝える真実の血脈は 「信心の血脈」 以外にないと指導され、次のように述べられています。 
 この最終の結論こそ、宗教の魂です。なぜならば、生死は人間の苦しみの根源であり、生死一大事血脈こそ、人間の苦しみの解決のための血脈だからです。その生死の苦を解決するためには、その人にとって何が鍵になるのかを教えなければ、どんなに素晴らしい法を説いたとしても、全ては画餅に帰してしまいます。

 「信心」 こそは、偉大なる法を伝える最も確かな道です。聖職者や儀式の権威などという、不確かな幻想によって伝わるものではない。

 真実の偉大なる法を伝えるのに最も大切なのは、まさに 「信心」 なのです。なぜならば、信心のみが、私たちの生命を覆う無明を打ち破って、本来具わる妙法の無限の力を現すことができるからです。一人一人に妙法の偉大な力が現れたとき、それこそが 「法が伝わる」 ということなのです。
  (同抄講義・223P) 

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プロフィール

谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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