命の変革

 新しく記事を書こうと思うが、なかなかスムーズにはいかない。年の所為かな? 私・谷 建二郎は、年74歳・男性です。

 創価学会に入会して、52年になります。入信の動機は病気です。その病気が完全に治ったかと言えば、そうでもなく、むしろ現在では、別のいろいろな病気が起きてきています。

 しかし若い頃、21世紀まで生きられるかなと思っていた自分が、人並みに生きられて、こうやって ブログでも書こうかなと、思えるようになれたのも、ひとえに、御本尊・創価学会・池田先生のお蔭である。真に、感謝申し上げるものである。

 50年間、いろいろな事を学ばせて頂きました。創価学会のこと、宗教とは、生命とは等々、私という フイルターを通してですが、少しでも、この ブログをお読みくだされば、望外の喜びであります。

 自身の生命を変革するには、二つの道があると聞いています。

 一つは、命に及ぶような大変な目に遭うこと。これは事に当たって真剣に命を懸けることでもある。例えば、明日も知れない大病を患う、大借財で倒産した、正義のために牢獄にぶち込まれた等々が、これに当たると思います。
 二つには、真剣にやらなくても長く続けることである。世間にも “習い性” という言葉があるように、性格や年恰好・行動までも変わるのである。これは良い面はなかなか分からないが、悪い面ではすぐに変わってきます。

 私はどちらかと言えば、真剣にやった方ではないが、50年も続ければ、世間では、もう真剣にやったことと同じことであると思われています。もはや、我が人生は、創価学会抜きでは語れないものに成っております。
 
 人生について真剣に考えれば、宗教に行き着くと言われております。
 本日8月24日は、池田先生の入会記念日です。戸田先生に初めてお会いしたとき、「正しい人生とは」 とご質問されて、入信なされました。
 このことにつきましては、下記の “正しい人生” をご参照ください。

 正しい人生 → ここから

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

古典を読む

 今年も政局は、波瀾含みの様相である。前々からそうであったが、民主党政権に成って特に感じることは、政治家たちの言動の軽さである。

 普天間問題・マニフェスト等々、政権奪取だけが目的の甘言を吐き、明確な国家ビジョンなど持ち合せていない。党首脳からして政治と金の問題を抱え、未だ解決の道さえ見えない。野党時代の威勢のいい言動は、何処へやってしまったのかと疑いたくなる。

 現今の大臣たちの写真と明治の元勲たちの写真を見比べたとき、元勲たちの方が、何となく威厳があり・尊く頼もしく感ずるものである。

 この違いについて、池田先生は 「今日の政治家たちは、古典を読んで無いからだ (趣意)」 というお話をされたと聞いたことがあります。

 洋の東西の古典は、長い間の年月に耐え、語り継がれた先人たちの珠玉の智慧であり、人類の宝とも言うべきものである。その古典に学ばないということは、人格が中々出来ないと言うことである。

 確かに議員一人ひとりを見れば、有名大学を卒業し、英語を話し、弁護士・税理士等の資格を持ち、政治・経済・法律・科学等の専門の知識は豊富であるが、人間としての徳育の無さ、人格の無さが、不正を正そうという気概もなく、見て見ぬ振りをして、無関心になっている。

 今までの日本人の心の規範としては、徳川時代・明治時代の頃までは武士道と言うものがあった。ゆえに、犯罪の件数は、今日と比べると極端に少なかった。一般の庶民の間にも 「お天道様に申し訳がない」 「ご先祖様に申し訳がない」 という規範があった。

 こういう己心の内発的な規範が、今日では皆吹っ飛んで、誰も見ていなければ分からないだろうと、不正に手を染めるのである。このような不祥事が、先生と呼ばれる世の指導者層に、起きているのである。実に嘆かわしきことである。

 古典と言えば、古典中の古典である 「法華経」 は、必ず繙くべきであると思います。法華経には因果の理法が説かれています。
 『御義口伝』 には、「蓮華とは因果の二法なり、悪因あれば悪果を感じ善因あれば善果を感ず、内証には汝等三因仏性の善因あり」(御書768P) と仰せです。

 法華経を信じるということは、この 「因果の理法」 を信じるということになります。反対に、善法 (妙法) を信じることなく、法華経を誹謗するものがおれば、世の中を乱す本因となります。 

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太陽会

 創価学会に、「多宝会」 という高齢者のグループがあります。その中の壮年で昼間に活動ができる方を、とくに 「太陽会」 と名づけており、“まだまだ若い者には負けられん”と、広宣流布に頑張っております。

 私は75歳までアルバイトをしており、今年8月に太陽会の一員になりました。定例会 (部員会) には、持ち回りで御書の勉強をしょうと決まり、10月は私がその担当を命じられました。

 教材は、その月の大白蓮華の池田先生の 「勝利の経典 『御書』 に学ぶ」 です。10月は 「阿仏房御書 (宝塔御書)」 です。先生の講義の中に、我われ太陽会のメンバーにとって、重要なご指導がありましたのでご紹介させて頂きます。

 先生の 『阿仏房御書』 講義より抜粋します。
大聖人は、南無妙法蓮華経と唱える者は、「我が身」 が 「宝塔」 であり、また、「我が身」 が 「多宝如来」 ですよと仰せです。
 「多宝如来」 と言われているのは、法華経の証明者であるということです。証明者とは、決して傍観者ではありません。法華経が説かれるところには必ず飛び込んでいくことを誓っている。法華経が最高真実の教えであり、仏に成る道であると証明してきたのです。
 私は、敬愛する多宝会、宝寿会、錦宝会の皆様方の英姿を想起せずにはいられません。
 戸田先生は、円熟の人生の友を、よく 「多宝の証明の方々」「多宝の尊き同志」 と讃えておられました。
 20年、30年、50年と純真に信仰を貫き、私と共に広布と人生の波乱万丈の山を乗り越えながら、「この仏法はすごい」「学会は正しい」 と叫び、身をもって証明してこられた皆様方です。たとえ無名であっても、仏法上、そして人間として最高に尊貴な大英雄です。
 その確信の一言の重さは、人生そのものの重さです。生きる姿そのものが妙法の証明です。
 (2011・10月大白・49P)

 先生は、太陽会 (多宝会) の方々は 「多宝如来」 であると称讃して下さいました。多宝如来とは法華経の証明者であると、また、傍観者であってはならないと指導されています。これからはより一層、広布の多宝如来の自覚で、日蓮仏法のすごさ、学会の正しさを証明して行きます。

 ご指導の中で、「その確信の一言の重さは、人生そのものの重さです」 の一文に、私は一番感銘を受けました。確信のことは常日頃言われていますが、「人生そのものの重さです」 に新たな思いがわきました。

 確かに、確信のある人生を歩むのか・どうかで、人生はずい分変わってきます。その確信を何に求めるのかによって、人生の幸・不幸が決まると言っても過言ではありません。

 大聖人は、「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」(1173P) と仰せです。
 財産・地位また技術・健康よりも、心 (生命) の中に正しき確信を打ち立てねばなりません。妙法を根本とした確信こそが、生死の苦しみを乗り越える力となることを確信します。

 『御義口伝』 に、「四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(740P) と仰せです。
 生老病死という人生の根源の苦しみさえ、南無妙法蓮華経と唱えることによって、わが身を荘厳する、常楽我浄の四徳の香と成るのである。

 『総勘文抄』 に、「我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り解も有り善悪も分別し折節を思知る、然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり、善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て、善知識に値(あ) うと雖(いえど)も猶(なお)草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止(もだ) せる謂(いわ) れ有る可きや」(574P) と仰せです。
 
 このような無心の草木でさえ、春の風雨にあえば芽も出て花も咲く、秋には実が熟れて、一切の有情を養育し、ついには成仏の徳用を顕わすのである。これを疑う者が居るのでしょうか。
 今生人界に生まれ、広宣流布の時に会いながら、なお草木にも劣って、我が胸中の仏性を顕わさずしまいになるなんて、黙って居られようか。“今生においてこそ、生死の紲(きずな) を切るべきである” という、大聖人様の大慈悲のお言葉であります。
 この世に、何のために生を受けたのか、もう一度、その意義を噛みしめたいと思います。

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人生の総仕上げ

 聖教新聞連載中の 「新・人間革命・共戦の章」 は、昭和52年の時の山口県指導が載っています。
 山口開拓指導 (昭和32年) から20年、共に戦った草創の同志も、大半の方々が六十代、七十代となり、人生の総仕上げの時代に入っていました。

 池田先生は、“総仕上げ” とは、いかなる生き方を意味するのかと仰せられ、指導されています。私も後期高齢者の仲間入りをし、人生の総仕上げの時に入りました。わが身につまされる問題で、感慨深く読ませて頂きました。そこで、抜粋ですが引用させて頂きます。

 「第一に、報恩感謝の思いで、命のある限り、広宣流布に生き抜き、信仰を完結させることです。正役職から退くことはあっても、信心には引退も、卒業もありません。“去って去らず” です。
 そうでなければ、これまでの決意も誓いも、人にも訴えてきたことも、結局は、すべて嘘になってしまう。後退の姿を見れば、多くの後輩が失望し、落胆します。そして、それは、仏法への不信の因にもなっていきます。
 『受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり』(御書1136P) と大聖人が仰せのように、最後まで、いよいよ信心の炎を燃え上がらせていくんです」
 (聖教・新人間革命25巻・共戦28)

 先生は 「正役職から退くことはあっても、信心には引退も、卒業もありません。“去って去らず” です」 と仰せです。私は正役職を退いていて、電話の数は極端に少なくなり、下手をすると連絡もなく、置いてけぼりを食らうことになります。
 “去って去らず” は当方の決意次第であり、「幹部だった人は、終生、同志の生き方の手本となっていく使命と責任があるんです」 とのご指導を、肝に命ずべきであると決意します。

 ある草創の高齢の同志の亡くなるお姿をとおして、 (詳しくは聖教新聞へ)
 「息絶える瞬間まで、法を説き、唱題し抜こうとする様子を聞き、私は感動しました。仏を見る思いがしました。まさに、広宣流布に生き抜いた、荘厳な、美しい夕日のような、人生の終幕といえるでしょう。
 そこに待っているのは、美しき旭日のごとき、金色に包まれた未来世の幕開けです。生命は永遠なんです」
 (同・共戦29)
 この様な素晴らしい臨終を迎えたいと思います。
 
池田先生は、「日蓮大聖人は、『須(すべから)く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧(すすめ)んのみこそ今生人界の思出なるべき』(467P) と言われています。つまり、一心に唱題と折伏に励み抜いていくことこそ、人間として生まれてきた、今世の最高の思い出となると、御断言になっているんです。
 私たちは、人間として生まれたからこそ、題目を唱え、人に仏法を語ることができる。
 一生成仏の千載一遇のチャンスを得たということです。ゆえに、地涌の菩薩として、今世の使命を果たし抜いていくんです」
 (同・共戦30) と、ご指導されています。

 日蓮大聖人は 「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」(1173P) と仰せです。
 本当の幸福は、「心の財(たから)」 を積んでいくなかにこそあるのだと、“一生成仏” の大切さを改めて確認しました。

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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