原水爆禁止宣言

 昭和32年(1957年)の9月8日、横浜の三ツ沢競技場において、創価学会青年部体育大会 「若人の祭典」 が開催されました。
 その席上、戸田城聖先生より 「諸君らに今後、遺訓すべき第一のもの」 と言われて、「原水爆禁止宣言」 が発表されました。そのご講演の一部をご紹介させて頂きます。

 「それは、核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、いま世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。
 それは,もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。
 なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります」
  (文庫人間革命第12巻・124P)

 この宣言がなされて53年になります。創価学会は、遺訓を胸に今や、世界192ヶ国に妙法の種を植えました。しかし、全世界からみれば、まだまだほんの一部分です。

 昨年、アメリカのオバマ大統領が、チェコのプラハで 「核のない世界を目指す」 と演説し、核兵器の削減に着手しましたが、まだ、緒に就いたばかりです。
 「プラハ宣言」 の後、核兵器削減の気運の盛り上がる中、核廃絶のリーダーたるべき被爆国・日本の首相は、アメリカの核の傘は必要であると、広島・長崎の被爆者の感情を逆なでする様な発言をしました。まだまだ、この問題の根の深さを思わずには居れません。

 池田先生は、「戸田は、原水爆の背後に隠された爪こそ、人間に宿る魔性の生命であることを熟知していた。そして、その魔性の力に打ち勝つものは、仏性の力でしかないことを痛感していたのである。
 原水爆をつくり出したのも人間なら、その廃絶を可能にするのも、また人間である。人間に仏性がある限り、核廃絶の道もかならず開かれることを、戸田は確信していた。
 その人間の仏性を信じ、仏性に語りかけ、原水爆が 『絶対悪』 であることを知らしめる生命の触発作業を、彼は遺訓として託したのである。
 以来、この宣言は、創価学会の平和運動の原点となっていった」
 と、仰せられています。 (同書・129P)

 この原水爆禁止宣言は、『小説人間革命・第12巻』 〔宣言の章〕 に、詳しく記されております。是非、お目をとおして頂ければ幸いに存じます。
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難信難解 (なぜ、公明を支援するのか)

 法華経に「難信難解」という語があります。法華経の理は、信じ難く理解し難いということです。

 公明党の全国比例票の得票数は、確か2003年の時、873万余だったと思うが、それから毎回のごとく減らして、今年の参院選では、763万余であった。

 難信難解を説明するのに、選挙の例題は適切か・どうか分からないが、少なくとも、創価学会の言わんとするものが、あまりにも分かってもらえないし、支持されていないのではないかと思う。

 創価学会が公明党を支援するのは、何もマニフェストが良いからだけではないのである。
 いくら良いマニフェストの政策が実現できても、ただ、それだけでは政治は良くならないのである。政治を行うのは、あくまでも人間であるからである。

 その人間が悪人であれば、制度を悪用し、政治悪・社会悪をも生み出し、国民は不利益を被るのである。
 現今の政治家の姿を見れば、名聞名利を求め、ただ、大臣に成るため、また、次の選挙で再び、赤ジュウタンを踏めるか・どうかが、一番の関心事になっている議員たちが、多いように思われます。

 政治の改革は、制度や政策という外的・皮相的なものを、いくら変えても不可能でしょう。より本源的には、政治家自身の生命の改革が必要不可欠なのであります。

 この視点は、政治の世界だけでなく、人間の営むあらゆる分野にわたる法則なのであります。
 ゆえに、あらゆる改革・行動の出発点は、妙法による 「人間革命」 を根本とすべきであると主張するものであります。これがまた日蓮仏法・創価思想・池田思想と言われるものであります。

 公明誕生以来、50年の長き支援活動を以ってしても、創価思想の流布は難事中の難事で、また 「難信難解」 なのであります。
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此経難持 (心の財)

 前回、妙法の難信難解を取り上げましたが、これに類似する語に、「此経難持」(此の経は持ち難し)というのがあります。

 如何して、持ち難いのかと申しますと、御書に 「此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり」(1136P)  と。また、別の御書には 「よ(善)からんは不思議・わる(悪)からんは一定とをもへ」(1190P) と、仰せられています。

 一般の人々は、なにか信仰をしょうとするのは、みな何らかの功徳を求めて行ずる訳であります。
 然るに、大聖人はそれとは真反対に、例えば、事故に遭ったり・病気になったりしても、当然であると心得て、ご本尊を受持し・信行に励めよ、とのことであります。

 このように言われましても、凡夫は “はい、そうですか、分かりました” と、素直には納得できません。この辺のところが、法華経は 「難解難入」・「此経難持」 と言われる所以ではないかと思います。

 事実、学会員の中でも、途中で止められた方は、数多くおります。御書に 「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136P)  と仰せです。
 大聖人は、信仰の目的とするところ 「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり・身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」(1173P)  と仰せられています。

 仏と凡夫は、この目的観が違う分けです。凡夫は、蔵の財・身の財を求め、仏は、心の財(信心・仏性・仏界)を目的としています。

 この 「心の財」 を積むために、絶対に必要不可欠なのが、難・煩悩・悪業・等であり、その苦悩の戦いの中でしか、仏性は生じないのであります。
 ゆえに、「難即悟達」 であり、信仰に徹するところ、難は喜びであり、歓喜の中の大歓喜と成るのであります。

 この仏法定理を 「煩悩即菩提・生死即涅槃」 とも言います。御義口伝に 「今日蓮等の類いの修業は妙法蓮華経を修業するに難来るを以て安楽と意得可きなり」(750P)  と仰せです。

 日蓮大聖人は 「凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091P)) と。 
 ゆえに、絶対に愚者にならぬよう自戒すると共に、一人でも多くの方々に、この仏法定理を知らしめんと願うものである。
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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