宗教教育

 法華経の 「六難九易」 の譬えのように、正しき宗教に出会い、それを信ずることは難しいことである。

 わが国では、自称・無神論者が多いいようです。では、いっさいの神仏を信じてないかと言えば、そうでもないらしい。ただ、特定の宗教を信じて、実践はしていないと言うことであろう。

 何も信じられなくてやっていないと言うことは、裏を返せば、何でも信じてやってしまうことになる。それは核となる宗教的信念を持ってないからである。

 クリスチャンでもないのに教会で結婚式を挙げ、正月には神社巡りをし、死者の弔い等お悔みごとは寺に頼む。その上、お祓いだ・厄除けだ・お守りだ・みくじだ・祈願だ・と言って、何でもかんでもやっている。これ等のものが、本当に功力のあるものであれば、一つあれば良い筈である。

 特に、この頃の若者たちの間では、星占い・相性・血液型・挙句の果ては霊魂・ゾンビ等・オカルトまがいのものまで、流行っているそうである。実に、嘆かわしく憂慮すべきことである。

 このような事態になったのも、わが国では宗教教育がなされていないからだと思っています。宗教教育と言えば、戦前のことを思いだし、タブー視する方もいますが、明治政府のやったことは、廃仏毀釈・国家神道の強制であり、宗教蔑視政策なのであります。

 明治政府の富国強兵・大国主義、戦後は経済・効率・成果中心主義に走り、宗教を蔑視し・忘れ去ったその結果が、今日の世相の親殺し子殺しのように、見るも無残な姿に成り果ててしまったと言えるのではないでしょうか。

 宗教教育と言っても、何も特定の宗派の教義を教えろ、と言っているのではありません。特定の宗派教育の弊害は、戦前の国家神道の強制で、否というほど身につまされた。

 人間と人間、人間と社会を繋ぐためにも、教育に全体性と精神性を復権することが必要であると言われています。宗教とは・人間とは・報恩とは・等々、極々基本的な事柄でよいですから、そして人生にとって、如何に正しい宗教が、絶対必要不可欠なものであるのかを教え・認識させるべきだと思います。

 大聖人は 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云い・はかなきを畜といふ」(1174P)
 「寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり」(215P)
 と仰せられています。

 同じ動物でも、畜生と人間は違います。人間は教育によって、人間となることになります。“才能ある畜生” とならぬためにも、よくよく思索すべきである。
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創価教育

 11月18日は、創価教育学会(現・創価学会) の創立の日です。昭和5年(1930年) のこの日、牧口常三郎先生と戸田城聖先生によって、「創価教育学体系」 第一巻が発行され、発行所として、「創価教育学会」 の名称が初めて世に出ました。そこで、この日を創立の記念日としています。

 牧口先生は、小学校の校長として教育の現場に身を処し、いろいろな問題点について思索を重ね、考え出された教育法が 「創価教育学」 であります。

 まず、教育の目的は、児童を幸福にすることであると考えました。これは、人生の目的とも一致するものです。人々は、みんな幸福になろうと思って、勉学に励み、汗水たらして働いておる分けです。

 幸せな生活を求めて仕事に励むのは、賃金という 「利の価値」 を求めている分けです。この様に考えますと、幸福とは 「価値を創造する」 ことになります。

 牧口先生の創価教育学は、児童たち自らが 「価値を創造する」 ことができる、自立した社会人の育成を目的としたものです。

 創価という名称は、牧口先生・戸田先生お二方の師弟の語らいの中で誕生したものです。「価値創造」 から創造の 「創」 と、価値の 「価」 を取って、「創価」 としたものです。
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利の価値

 創価とは 「価値創造」 と言うことです。価値の内容について、当時は、新カント派の 「真・善・美・聖」 の価値観が主流をなしていました。

 牧口先生は、真理の探求は、よりよい生活をするために知識を得るという意味で手段的なものであり、それ自体で価値とはならないとして 「真」 を価値概念から除外しました。

 そして、生活苦にあえぐ社会層の児童を教育していた経験から、生活を維持するための経済活動等から生まれる 「利」 という価値を、重視すべきであると主張しました。

 西洋思想では、経済活動の営利というものが、あまりにも世俗的な日常生活を対象とするため、否定的に評価され、哲学者の思索の対象とは、殆んどならなかったのである。

 牧口先生は、個人的価値の 「利」 を重視しましたが、これと同時に公益という社会的価値である 「善」 と調和すべきであると主張しました。

 また、「聖」 という宗教的価値の独自性を否定し、宗教も個人的 「利」 と社会的 「善」 をもたらさなければ、価値はないと主張しました。そして 「聖」 の価値を価値論の体系から除外しました。

 池田先生は、そして 「大善」 こそが宗教によって実現されるべき最高の価値であるとされました。 「大善」 とは、人間・社会に実現できる最高の価値です。この牧口先生の価値論には 「宗教は人間に奉仕してこそ真の宗教である」 という宗教観がうかがえます。(趣意)  と仰せられています。

 牧口先生は、新カント派の価値概念から 「真・聖」 を廃し、経済学上の 「利」 の概念を、肯定的に受け入れ、哲学に組み入れました。これは当時としては、画期的なことでありました。

 したがって、牧口先生の価値論の内容は 「美・利・善」 となり、これによって 「価値」 というものが、庶民の日常生活の場で、常に 「創造」 しゆくものとなり、人生の目的とも切り離せない哲学概念となりえたのであります。
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価値創造

 人生の目的は、幸福の追求であり、それは価値を創造しゆくことであります。

 ここでいう価値とは、評価主体(人間) と対象(客体) との間に生ずる情的関係性または関係力のことを言います。関係がなければ、価値は生じないのであります。
 したがって 「もの」 自体に価値があるものでもなければ、主体が一方的に決定するというものでもないのである。

 価値の内容は 「美・利・善」 である。
 「美」 の価値とは、いわゆる五根(眼・耳・鼻・舌・身) によって得られる感覚的で一時的な価値をいう。例えば、好きは 「美」 となり、嫌いは反価値で 「醜」 となる。

 「利」 の価値とは、個人がその生命を維持発展させるとき、対象との間に生ずる価値である。例えば、賃金を貰えば 「利」 であり、事故に遭って損すれば 「害」 である。

 「善」 の価値とは、「美・利」 は個人的評価であったが、これは一般社会の中にあって 「公益」 を 「善」 とし 「公害」 を 「悪」 とするのである。極端な例だが、泥棒すれば盗人には金品の 「利」 があるが、社会的には 「悪」 である。

 牧口先生は 「悪いことするのと、善いことをしないのは、どちらが悪いのか」 とよく尋ねられました。一般の人々は “善いことをしなくても、悪くない” と思われている方が多いようです。

 牧口先生は 「善いことをしないのは、悪である」 と強く指導されました。それは結果的に見て “悪いことをするのと、同じである” からです。そして 「善」 の価値を求めるように、それも 「大善生活」 を創造する道を指導されました。

 価値を、主体と客体との関係力としたとき、その評価主体たる人間を、問題にせざるを得なくなってきます。ここに人間生命を解明した、日蓮大聖人の大生命哲学に帰命したとき、最高の 「大善」 の価値創造の道が開示されたのである。

 その道とは、個人的には 「人間革命」 と言い、社会的には 「広宣流布」 と言うのである。これによって、未だかって成しとげたことがない、個人の幸福と社会の繁栄が一致する、理想社会が出現するのである。

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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