歴史の歯車

 12月8日は69年前、わが国の機動部隊がハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、太平洋戦争に突入した日である。

 今では、殆んど歴史の彼方へ忘れ去られ、人々の口の端にも上らない状況である。ただ、戦争を体験した70代以上の方々は、どうして、あんな無謀な戦争をしたのかと思っていることでしょう。私もその中の一人です。

 私は、このような結果になったのは、明治維新の改革のとき、歴史の歯車を逆回転させてしまったからだと思っています。

 政治上では、討幕派は尊王思想を掲げ、王政復古を成し遂げました。しかし、当時の世界の趨勢は、アメリカ独立宣言やフランス革命に見るが如く、王権から民権に確実に変わって行く時代でした。

 王政復古は、幕府を倒した後の政治を、簡単にいえば、鎌倉・武家政治の前の 奈良・平安朝の昔の天皇主権の政治に戻そうというのですから、まさに歴史の歯車の逆回転です。

 維新以後、先進諸国の思想や制度を学び、憲法を作り、選挙制度・議会開設等を成しました。しかし、制度や型は取り入れましたが、主権在民の思想までは行き着けませんでした。

 明治憲法に 「第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス・第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」 と定められ、すべては天皇のためのものであり、総理大臣や裁判官も天皇の任命であり、国民も臣民と呼ばれたのである。

 軍隊は、諸外国はその政府の指揮下に属しているが、これも 「第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」 とあり、内閣の統制が及ばないのである。

 ここから、満州事変の柳条湖・日華事変の廬溝橋事件の時のように、内閣は戦線不拡大を宣言したが、現地の将軍たちは、国際情勢に疎く・国民の苦しみも顧みず、勝手に天皇の軍隊を動かし、戦線を拡大させた。

 これを問い質すと “統帥権の侵害である” と噛みつき、虎の威を借る狐のように慢心を起こし、そのうえ、誰ひとりとして、その結果責任は取ろうとはしないのである。
 あたかも下り坂に、ブレーキのきかない自動車のように、歯止めもきかず、どんどん、戦争への道へ転げ落ちて行ったのである。

 孫子の兵法に 「彼ヲ知ラズ己レヲ知ラザレバ、戦ウゴトニ必ず危ウシ」 とあります。アメリカの実力も知らず、究明しょうともせず、慢じて自国のことも知らず、戦った結果、国民は多大な苦悩と損害を被ったのである。

 王政復古は、すべてが “天皇のため・国のため” であり、“国民のため” という目線は、敗戦という結末の時を待たねばならなかったのであります。
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神道の国教化

 明治維新の王政復古は、王権から民権へとの世界の流れに逆らったものであると述べました。その根本の原因は、これもまた、低級な思想・宗教(神道) を根底にしたことにあると思います。

 幕末の尊王思想は、日本古来の神道と日本独自の天皇制とが、結びついて出来上がったものである。これが明治期に入り 「国家神道」 へと変貌を遂げるのである。

 そもそも “仏教” と “神道” は、どちらの教えが高く深いのかと言えば、それは仏教である。神道は民衆の生活を指導することができるだけの教義は、全く無いのである。

 ただ、『古事記』 や 『日本書紀』 の 「豊葦原瑞穂ノ国ハ、我子孫ノ君タルベキ地ナリ。汝皇孫征(ゆ)イテ治メヨ。皇祚(こうそ)ノ隆(さか)エマサンコト、天壌ト倶ニ窮(きわま)リ無カルベシ」 という天照大神の神勅を、天皇親政の基本理念とした。事実ではない神話の話であり、神がかり的なものである。

 確かに、王政復古思想は、徳川幕藩体制を倒し、民衆を天皇のもとに統一して、欧米列強に対抗できる民族国家を樹立するのに、大いに力を発揮した。
 しかしそれがために、君主国家を樹立し、天皇を 「神」 とする必要性から 「国家神道」 なるものを作り、国教化を図った。
 そのために “神仏分離令” を発し、“廃仏毀釈(はいぶつきしゃく= 仏教を廃し、釈迦の教えを捨てる)” という強制的・暴力的手法を用いて仏教を弾圧した。これは信教の自由という世界歴史の流れから見て、逆コースなのである。

 日蓮大聖人の教えに 「教法流布の先後」 という教判があります。
 『教機時国抄』 に、「必ず先に弘まれる法を知って後の法を弘むべし、先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし、先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫(がりゃく)を捨てて金珠(こんじゅ)を取るべし、金珠をすてて瓦礫をとること勿(なか)れ」(439P) と仰せられ、すでに800年も前から、先に弘まった法より劣った法を、後から弘めてはならないと誡められています。

 明治政府は、低級なる国家神道を国家護持し、高等宗教たる仏教を捨てた。その故の太平洋戦争の敗戦という結果は、「国家神道」 の行き着くところの悲劇であったと言えるのではないでしょうか。

 『神国王御書』 に、「王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし、国のやぶるる事疑いなし」(1521P) との仰せの通りです。

 心して、「宗教」 の高低・淺深・善悪・邪正を、どこまでも研究し、取捨選択しなければならないのであります。
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己心の中の法

 時が経つのは早いもので、もう1年が暮れようとしている。今年も別に大したこともやってないが、あえて言えば74歳にしてブログを始めたことぐらいかなぁ!
 文を作るのが遅く、月に3~4編ぐらいしか出来ませんが、まぁ 呆け防止にはなると思って、続けて行きたいと思います。

 主な内容は、私が創価学会にお世話になって、法華経について、学んだこと・感じたこと等でありますので、あまり面白くは無いと思いますが、人生にとって宗教問題は非常に大事なものですので、ぜひ見に来て下さい。

 お正月には数多くの人々が、神社仏閣にお参りするでしょう。そのとき “厄除け・家内安全・所願満足” などとか言って、お札やお祓いなどを受けているが、本当に効果があると思っているのでしょうか?
 “気が安らぐ・運試しだ” など、また “個人の自由だ、心の問題だからとやかく言うな” と言われそうであるが、会社が商品を偽造し、効能を偽って言えば、偽証や詐欺罪が成立する。

 宗教だって道理は同じである。ただ、心に関する事柄であるだけに、紛らわしく解からないのである。消費者の立場にある民衆は、聖職者等の言動に騙されることなく、賢く道理を見極めなければならない。

 人々は往々にして、神仏等の力にすがり、救済を願い求めるものであるが、自身は何もせず、ただお札や聖職者から祈願して貰うだけで、“功徳があり、罪業が消滅する” と思うのは誤りである。
 本当の問題解決の力は、自身の生命の中にあるのである。この哲理を教えているのが 「法華経」 である。

 『一生成仏抄』 に、「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麁法なり」(御書383P) と仰せです。麁法(そほう) とは、不完全な法という意味です。

 己心の外に、何か解決の道があると思うのは法華経の信心ではないのである。“南無妙法蓮華経は我が己心の中にあり” と信じることが、全ての問題解決の基本である。
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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