躍進の年

 平成二十三年・明けましておめでとうございます。今年も幸多き年でありますよう祈る次第である。

 創価学会は、本年を 「人材・躍進の年」 と定め、前進を開始しました。「躍進の年」 は、50年前 (昭和36年) 池田先生が会長にご就任された翌年も 「躍進の年」 と掲げて、今日の世界広宣流布の発展の基盤を築きました。今からは、学会創立100周年へ向かって、新たなる決意で躍進を遂げていく時である。

 池田先生は 「躍進」 について、次のように述べられています。
 「躍」 の字は 「おどる」 と読む。身も心も躍り上がって進む――この勢いこそが躍進の姿である。「躍」 の字には 「足」 がある。拠って立つ大地を持つことが何より強い。それは家庭であり、地域であり、職場や学校である。幾重もの縁で織り成された人生という錦繍の大地だ。

 また、「躍」 の字の右側の 「翟(てき)」は、鳥が羽を動かして飛び立とうとする姿に由来するという。使命の舞台で思う存分に翼を広げ、舞い飛ぶのだ! 朗々たる題目を根本に、わが生活の上に 「躍進」 の二字を実証するのだ!

 御書に 「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をど(踊) りてこそい(出) で給いしか」(1300P) と仰せである。

 偉大なる創価青年学会の人材の陣列よ、広宣流布の新天地に、威光勢力を増して躍り出よ! 私は、その一点を、ひたぶるに祈り抜いている。  
     (聖教・2011・1・1)

 本年の元旦は、全国的に気象は荒れ模様で、初日の出を見ることができなかった。特に、山陰の鳥取地方では、豪雪で被害が出ていますが、一日も早い復旧を願うものである。これは何か、見通しのきかない現今の日本の姿を、象徴しているようで心配事でなりません。

 このような世間の中で創価学会は、前途洋々たる・希望あふれる新年の出発をすることが出来ました。これも三大秘法の大御本尊の御威光の賜でありますと共に、池田先生の御指導の御蔭であります。

 池田先生は、会員の成長と幸せを “ひたぶるに祈り抜いている” ありがたき師匠であります。人生にとって最大の幸福は、生涯の師をもつことだともいえる。また、どんなに有名になり、成功しても、師のいない人生は淋しいものであると言われています。

 私は創価学会に入会して、人生の師にめぐり会い、色いろなことを教えていただきました。真に有りがたき幸せなことであり、報恩感謝申し上げます。
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古典を読む

 今年も政局は、波瀾含みの様相である。前々からそうであったが、民主党政権に成って特に感じることは、政治家たちの言動の軽さである。

 普天間問題・マニフェスト等々、政権奪取だけが目的の甘言を吐き、明確な国家ビジョンなど持ち合せていない。党首脳からして政治と金の問題を抱え、未だ解決の道さえ見えない。野党時代の威勢のいい言動は、何処へやってしまったのかと疑いたくなる。

 現今の大臣たちの写真と明治の元勲たちの写真を見比べたとき、元勲たちの方が、何となく威厳があり・尊く頼もしく感ずるものである。

 この違いについて、池田先生は 「今日の政治家たちは、古典を読んで無いからだ (趣意)」 というお話をされたと聞いたことがあります。

 洋の東西の古典は、長い間の年月に耐え、語り継がれた先人たちの珠玉の智慧であり、人類の宝とも言うべきものである。その古典に学ばないということは、人格が中々出来ないと言うことである。

 確かに議員一人ひとりを見れば、有名大学を卒業し、英語を話し、弁護士・税理士等の資格を持ち、政治・経済・法律・科学等の専門の知識は豊富であるが、人間としての徳育の無さ、人格の無さが、不正を正そうという気概もなく、見て見ぬ振りをして、無関心になっている。

 今までの日本人の心の規範としては、徳川時代・明治時代の頃までは武士道と言うものがあった。ゆえに、犯罪の件数は、今日と比べると極端に少なかった。一般の庶民の間にも 「お天道様に申し訳がない」 「ご先祖様に申し訳がない」 という規範があった。

 こういう己心の内発的な規範が、今日では皆吹っ飛んで、誰も見ていなければ分からないだろうと、不正に手を染めるのである。このような不祥事が、先生と呼ばれる世の指導者層に、起きているのである。実に嘆かわしきことである。

 古典と言えば、古典中の古典である 「法華経」 は、必ず繙くべきであると思います。法華経には因果の理法が説かれています。
 『御義口伝』 には、「蓮華とは因果の二法なり、悪因あれば悪果を感じ善因あれば善果を感ず、内証には汝等三因仏性の善因あり」(御書768P) と仰せです。

 法華経を信じるということは、この 「因果の理法」 を信じるということになります。反対に、善法 (妙法) を信じることなく、法華経を誹謗するものがおれば、世の中を乱す本因となります。 
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文化の発信

 菅改造内閣が発足した。内閣発足後、七ヶ月で三回目の改造である。ここのところの安倍・福田・麻生・鳩山内閣は、一年と保つか保たないで替わっているのである。こうコロコロと替わったのでは、大して良い仕事など出来そうもない。

 その上もともと、民主党を厳しく批判していた、たちあがれ日本の与謝野氏を、経済財政相に引き抜いて来るなんて、党の人材不足は否めない。一年が来るまであと五ヶ月ほどあるが、それまで保つか・保たないのか、厳しく政治を監視して行きたいものである。

 前々から、日本の “政治は三流であるが、経済は一流である” と言われていた。その経済力で、時にはエコノミックアニマルと批判されながらも、ODA等で世界経済に貢献してきた自負はあるのである。ところが、その経済さえ、今や二流・三流となってしまった。

 これからの日本は、何をもって世界に貢献したら良いのでしょうか。

 思うに、戦前は軍事力を、戦後は経済力を発揮した。戦車や爆弾等、また、自動車や電化製品等、これ等はハード・パワーと称されるものである。軍事力は論外としても、いくら家やお金等のハード・パワーの充実で生活が良くなったとしても、人間の心までは充たされるものではない。ゆえに21世紀は、ソフト・パワーの時代と言われる所以である。

 したがって、これからの日本は、ソフト・パワーを発信し続けなければならないと思います。ソフト・パワーと言えば、わが国には日本伝統の文化があります。

 明治維新以後、西洋文明に目を奪われて、自国の伝統文化をないがしろにして来ました。ところが今ここにきて、西洋文明の行き詰まりが、リーマンショックや環境問題等の混乱となって現れてきています。ゆえにいま再び、日本文化や東洋の文明が見なおされて来ています。

 たとえば、江戸時代は完全なる循環型社会であり、地方分権型社会であった。庶民は家族愛で結ばれ、地域では助け合いの精神があった。何よりも信仰心が篤く、内発的な自己規律、自己制御の心を持っていた。現今の親殺し・子殺しの殺伐たる世相を見るとき、東洋の叡智から、何か知ら学ぶべきものが多々あると思うものである。

 日本の伝統文化と言えば、世界唯一の叡智・日蓮大聖人の 「南無妙法蓮華経」 の大生命哲学があります。

 20世紀、日本が世界に発信したものは、軍事力であり、精神的には苦悩や恐怖心であった。21世紀は、希望や歓喜や繁栄でなければならない。それが実現できるのが、日蓮仏法なのである。

 『御義口伝』 に、「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御書788P)
 「喜とは自他共に喜ぶ事なり、…… 然るに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(御書761P)
 と。
 これからの日本は、この “日蓮仏法” を世界に向かって、発信し続けることが大事であると思います。
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宗教

 宗教というものを考えてみたいと思いました。辞書を引いても、いろいろ多数の解説があり、中々まとめることができない。哲学という言葉も同じである。

 仏法には、信・行・学という仏道修行の基本がある。仏の教えを信じて、実践をし、その理を学ぶという事であり、これを繰り返し修行することが大切であるというのである。

 この三つの中で、「学」 すなわち理論だけの研鑚にとどまっておれば、それは 「哲学」 というものであろう。「信」 と 「行」 があって、はじめて 「宗教」 というものになると思います。

 信じて行ずるということは、何も特別なことでは無く、我々が日常茶飯事に行っておることである。食事をとるのに、毒が入ってないかと疑えば食事もとれない。乗り物に乗るのも、人と付き合うのも、一事が万事で、生活は 「信」 から成り立っています。

 そのように考えますと、信じることから成り立っている生活は、宗教的なものであり、いな、宗教活動そのものであると思います。ただ、あまりにも日常的な事柄でありますので、別段にそのことを信じているという意識は湧かないのである。

 世間でも “鰯の頭も信心から” という諺があるように、何を信じても宗教には成るが、それ故に、宗教の高低・浅深・邪正を厳しく正さなければならない。

 人を殺すことを教える、オウム真理教のような宗教もある。人を信じることは良いことではあるが、中には、詐欺・泥棒・殺人者もおるのである。これ等の者を信じれば、こちらが損害を受けるのである。

 宗教であっても、原理は同じである。中には、倫理・道徳論でお茶を濁したり、少々の通力を示し・功徳を謳い・詐欺まがいに信者を騙しておるのが大半である。

 宗教の 「宗」 の字は、おおもと、根本という意味であり、我々にとって根本とは、生命のことである。生命のことを、完全に解き明かしている宗教が、本当の正しい宗教である。それ以外は、みな淫祠邪教の類いなのである。ゆえに、宗教の正・邪によって、人の幸・不幸は決まるのである。

 法華経には、「十界互具・百界千如・一念三千」 という大生命哲理が説かれているのである。
 『観心本尊抄』 に曰く 「一念三千を識らざる者には、仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(御書254P) と仰せです。
 日蓮大聖人は、末代の凡夫のために大慈悲を起こして、「三大秘法の南無妙法蓮華経の大御本尊」 を顕わされたのである。

 なんと有り難きことでしょう。末法の衆生は、この正しき御本尊によってのみ、絶対的幸福境涯(成仏)を得ることが出来るのです。ただただ、報恩感謝申し上げるのみである。
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理を貴ぶ

 連載中の新・人間革命の中で、戸田先生の 「信は理を求め、求めたる理は信を深からしむ」 のご指導が載っていて、男子部時代のことを想いだして懐かしく感じました。

 1月度の拝読御書は 『日女御前御返事』 であった。別名を 『御本尊相貌抄』 といい、御本尊の御姿等の深義を明かされた御書です。この様な重書を、大檀越である南条時光殿や四条金吾殿ではなく、女性信徒の日女御前に授けられたということは、“仏教は男女差別の宗教である” と、巷間言われているようなことは、決して無いのである。それどころか、ただ一人 「聖人」 という尊号を授けられた日妙聖人も、これまた女性信徒なのである。

 引き続きこの御書には、日女御前に対し御本尊への信心の大切さについて、ご教授なされています。
 「南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」
 「円信と言うは理に依って信を起す、信を行の本と為す」(1244P)
 と指導され、法華経の信と言うのは、理論によって信心が生ずるのである。その信が修行の基本となる、と言うことであります。

 ところが、他宗においてはこの理論面が、はなはだいい加減なのである。たとえば、戦時中、靖国神社の歌を歌わされていた。歌詞は 「何にも言えず靖国の ……… そうだ感謝のその気持ち …… 揃う気持ちが国護る」 とこの様な歌だった。

 何にも言え無いなんて、理論・対話は無しである。そうだ感謝その気持ちとは、気分や感情ばかりである。その気持ちで国を護ると言うが、護れなかったことは皆知っている。

 一般的に神社仏閣等は、人と神仏の間に広い空間を設け、両側には樹木を植え、鬱そうとした森林の中を、内宮や奥ノ院に向かって、長い石畳の階段や玉砂利を踏んで歩けば、人は皆誰でも・清々しい・神々しい・何となく理屈抜きで有り難い・頭が下がる、と言う感情を懐くものである。境内は、この様な気持ちを起させる、舞台設定になっているのである。

 この様なことに、騙されてはいけない。何となく・理屈抜きでと言うことが、一番危ないのである。理屈抜きの思考停止で、国民は戦争への道を歩まされたのである。

 又止の一に云く 「何が円の法を聞き・円の信を起こし・円の行を立て・円の位に住せん」(1244P) と仰せです。 円とは、円融・円満の義で法華経を指します。如何にして正しい法華経の法を聞き、正しい信・行を立て、正しい位即ち成仏の位に住せんと願っているのである。ここでは常に、如何にしてと問いかけ、正しき論理・文義を求めているのである。

 一般的に日本人の宗教観は、先祖伝来の宗教だから、親・親戚から言われている、葬式など世間体があるから等々、主観的ではなく、ぜんぶ他人任せである。

 そのようなことでは無く、自らが主体的・能動的に、正しき法を求めなければならないのである。宗教は、自分にとって一番大切な 「生命」 を対象とした学問である、と言えるからである。
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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