宗教批判

 カール・マルクスは、「宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情けであるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民のアヘンである」 と云って、宗教を批判した。彼は西洋のキリスト教を対象としているが、一面の真理を言い得ています。

 日蓮大聖人は、すでに約760年前の鎌倉時代、世に流布していた代表的な四つの宗教を、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」(713P)  という 「四箇の格言」 をもって、批判し・破折を加えました。

 宗教と云っても、全て正しいことを説いているとは限りません。むしろ殆んど、間違った邪宗・邪義のものばかりなのである。
 『顕仏未来記』 に、「仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵(みじん)よりも多く、正法を行じて仏道を得る者は爪上(そうじょう)の土(ど)よりも少なきなり」(御書507P) と、仰せの通りなのです。

 池田先生は、この四宗は偏った宗教の四つの類型を示しているのではないだろうか、と述べられています。四宗によって示される四つの類型とは、以下の通りです。
 
(1) 絶対者の他力による救済を説く宗教。これは念仏宗に当たります。
 この種の宗教が、一番多いと思います。唯一絶対神を説く、キリスト教やイスラム教も、この部類に入ります。

(2) 自力のみによる悟りの獲得と悟りへの安住を説く宗教。これは禅宗であります。
 短絡的に自身を仏と見る傲慢な生命的傾向性がある。

(3) 呪術による現世利益を説く宗教。これは真言宗である。
 仏法には異質なシャーマニズムの一形態であり、健全なる理性を麻痺させ、仏法を得体の知れないものに歪曲させる危険性がある。

(4) 戒律・規範による外からのコントロールを説く宗教。これは律宗である。
 末法では、実践不可能な戒律を掲げる故に、偽善者を生み出すのが関の山である。現在では、この宗は殆んど残っていません。

 この様に、本来の仏教の精神をことごとく歪めていた。その欺瞞に満ちた仮面を引き裂いて、宗教が持つ魔性とも言うべきものを示し、大慈悲心の立場から、民衆救済のための他宗破折であります。それを独断だ・排他的だ・非寛容であるというのは、本質を知らない、余りにも浅薄な批判であります。

 これらの定理は、鎌倉時代のものですが、現代にも・未来にも通ずるものである。それは時代がどの様に変わろうとも、人間自身の 「生命」 は変わらないからです。民衆にとって、宗教の善悪・邪正を判断することは、非常に難しいことである。

 妙楽云く 「第三最も甚だし、転(うたた)識り難きが故に」(御書229P) と。宗教的善悪は、何が善で・何が悪か、紛らわしくて判らないのである。その分、幸福を妨げる思想・宗教を見破っていく智慧を持たねばなりません。

 池田先生は、次のようにご指導されています。
 円教(法華経) とは、この四つのいずれにも偏ることなく、「自力と他力の一致を説き、その力に基づく人間変革と現実変革を説く宗教」 と言えるでしょう。
「自力と他力の一致」 とは、自分を超える力 (他力) を自分のなかに見ることです。
大聖人の仏法で説かれる 「仏界の内在と涌現」 が、それに当たります。これは、まさに日蓮仏法の真髄にほかなりません。……

 四箇の格言の現代的意義は、単なる日本の宗派の破折という次元にとどまるのではなく、円満なる人間の生命の力の開花にあると言えるのではないだろうか。これが 「妙法蓮華」 であり、無限なる 「価値創造」 なのです。この大聖人の円教を立て、初めて社会に宣言したのが立宗宣言です。
大聖人は、そこに、永遠かつ根本的な人類救済の大道を示してくださったのです。
  (御書の世界1巻・95P)
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法の正邪

 日蓮大聖人の 「四箇の格言」(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊) について、少々述べて見ました。この四箇の格言に対して、独善的・排他的・非寛容的であるとかと言う批判が、古来からなされています。

 我々が仏法対話を致しましたとき、“人の家の宗教の悪口を言うな、自分が好んでやっているのだから干渉するな、信教は自由だ” 等々のことをよく言われます。しかし決して、独善的でも、排他的でもなく、むしろ理性的な批判であり、大聖人の慈悲と智慧の結晶なのであります。

 創価学会ほど、寛容的なところはありません。誰であろうと差別なく、この信仰を望む者は入会させています。今や、世界192ヶ国に “SGI” の友が、嬉々として信仰に励んでいる姿が、その証拠です。 

 仏法には 「人と法」 というものがあります。「人」 の寛容と 「法」 の寛容を分けて考えることなく、ごちゃ混ぜにして、何でも宗教には寛容の精神が大切であると思っているようです。人に対しては、どこまでも寛容でなければなりません。しかし、人の幸・不幸を左右する宗教の 「法の正邪」 に関しては、厳しく正して行かねばならないのである。創価学会を批判し、大聖人の御遺命たる広宣流布の破壊を企てる 「日顕宗」 のようなものは、断固破折を加えていくのは当然のことである。

 日蓮大聖人は、この世の中の 「不幸の原因は、みな邪宗邪義にある」 という趣旨のことを仰せられています。然れども、一般の方々は、宗教を信じて不幸になるなんて、信じられないし、夢にも思われないことである、と思っているようです。

 それはどの宗教でも、親に孝行・人には友情・信頼・慈愛を、全てのものに感謝など、すなわち、倫理・道徳を説いているから、別に悪いことでは無いし、宗教を信ずることは良いことである、と思っています。倫理・道徳を説くことが悪いのではありません。この様なことは宗教の一部分のことであって、宗教の本質的な役割は、人々を如何にして幸福にするかと言うことにあります。
 それには人間生命の解明が、絶対必要不可欠なのです。この 「生命の実相」 を説いているのが、法華経であり、日蓮大聖人の “南無妙法蓮華経” であります。

 法華経に云く 「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」(29P) とあります。
 法華経は、一切衆生に悉く仏性が具わっていると説いています。この法華経を信ぜず・誹謗を為すものは、「仏種を断ぜん」(譬喩品) すなわち、幸福への道を自らが塞ぐことに成るのであります。

 このように、宗教の高低・浅深・邪正を見極めることは、各人の人生にとって非常に重要ことであります。したがって、次回から四箇の格言の四宗について、一宗ごと取り上げて見たいと思います。
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念仏無間

 念仏宗は、法然を開祖とする浄土宗と親鸞を開祖とする浄土真宗に大別される。浄土宗の依経は、弥陀の三部経と云われる 『観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経』 である。

 これらの浄土宗の三部経は、釈尊一代聖教の中の方等部の経であり、法華経の開経である 『無量義経』 に 「四十余年未だ真実を顕さず」 と述べられている方便の教えに過ぎないのである。

 釈尊一代の経説を、「聖道門・浄土門」「難行道・易行道」「雑行・正行」 と分けて、浄土の三部経以外は、法華経を含め 「聖道門・難行道・雑行」 であるとした。聖道門を修業する者は、「未だ一人も得道した者はいない」 とか、「千人の中に一人も成仏する者はいない」 等と述べてこれを貶(おとし)め、浄土門は 「百人が百人とも往生できる」 等と述べ、それゆえに念仏に帰依せよと主張した。

 そしてこの世の中は 「穢土」 であり、死んで西方十万億土の極楽世界へ往生することを目的としている。浄土往生の根拠としているのは 「阿弥陀仏の名を称える者は誰人であれ、極楽浄土に迎える」 との無量寿経の法蔵比丘の四十八願の第十八である。

 そこには 「設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ。唯だ五逆と誹謗正法とを除く」 とある。ここでは往生するものも 「五逆罪と誹謗正法の者」 は除くと、わざわざ断わられているのである。

 日蓮大聖人は 「念仏の曇鸞法師の難行・易行、道綽が聖道・浄土、善導が雑行・正行、法然が捨閉閣抛の文、此等の本経・本論を尋ぬべし」(1279P) と仰せられています。

 釈尊の出世の本懐であり、皆成仏道の法華経を 「捨てよ・閉じよ・閣(さしお)け・抛(なげう)て」 ということは、釈尊が述べているのか、どの 「経文」 にあるのか、論師・人師の誰が言っているのか、法然以外の者は誰一人も言っていないのである。法然等の一派は、仏説に私の言を入れる、師敵対・誹謗正法の大謗法の者たちである。

 法華経の譬喩品に云く 「若(も)し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば則(すなわ)ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至(ないし)其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん」(427P) とある。ゆえに、無間地獄に落ちることは必定である。

 したがって、日蓮大聖人は四箇の格言で、「念仏無間地獄」 と断定なされているのであります。
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往生の空しさ

 浄土宗は、西方十万億土の極楽浄土に 「往生」 することを願っているが、この往生と我々が言うところの 「成仏」 との違いは何であるかと思いました。

 浄土宗の教えでは、我々の住むこの娑婆世界は永遠に苦悩に満ちた穢土であり、安楽な生活を送るためには娑婆世界を去って他の浄土へ生まれる以外にないとして、死んで阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることを 「往生」 又は 「往生成仏」 と言っている。

 したがって、浄土宗では往生することが目的であり、これが一般的に、仏法で言うところの 「成仏」 であると思っているらしい。そうしますと、死ぬことが成仏すると言うことになります。これほど、仏法の成仏観を歪め、自らを外道の法へと貶めるものは無いと思います。

 そもそも、自分自身が生活をしているこの娑婆世界を、煩悩と苦しみが充満する穢れた国土とし、厭い離れようととする心からは、何一つ建設的・価値的なものは生まれません。そこには消極的な諦めの人生しかありません。

 わが国では、毎年毎年・三万余人の自殺者が出ているそうです。これは世界の先進諸国の中でも、断トツの多さであるとの事です。これも念仏の哀音が、広く日本国民の生命の中に宿っている故であると思います。

 日蓮大聖人は 「念仏宗と申すは亡国の悪法なり、…… 善導と申す愚癡の法師がひろ(弘)めはじめて自害をして候ゆえに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(1509P) と仰せられている通りです。

 しかも、阿弥陀仏の極楽浄土は何処にあるのかと問えば、大宇宙の何処を捜しても無いのである。そこへ 「往生」 しょうとしても、たとえ死後の世界であっても、何もないところへは往生のしょうがないのである。

 また、阿弥陀如来そのものも権仏(仮の仏) であり、釈尊が真実の法 (法華経) へ導くための手段・方便として説いた経や仏である。言ってみれば、全てが譬え話であり、実体のない架空の話であり、絵に描いた餅にしか過ぎないのである。如何に、念仏が、そして 「往生」 が空しいものであるか、お解かり頂けたと思います。

 『法華経寿量品』 には、「娑婆世界・説法教化」 と説かれており、この娑婆世界こそ、久遠の仏の常住する本国土であり、「娑婆即常寂光土」 の原理が示されました。

 また、一切衆生に悉く仏性があります。ゆえに、成仏とは 『御義口伝』に、「成は開く義なり、法界無作の三身の仏なりと開きたり、仏とは此れを覚知するを云うなり」(753P) と仰せのように、自身の仏性を妙法の経力によって開き、凡身を改めること無く、直ちに仏果に至るという、直達正観の 「即身成仏」 が出来るのであります。

 日蓮大聖人の仏法では、「いま」・「ここ」 で、「わが身」 を離れて、成仏はあり得ないと言うことです。それは 「凡夫こそ本仏」 であることを宣言した、「人間主義の仏法」 なのであります。
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弥陀の本願・まことか

 浄土宗の信者さん達は、弥陀の本願を一片の疑いもなく、念仏を唱えれば極楽往生できると信じて居るようである。信ずることは良いことであると言っても、信じたものが間違っていれば、こちらは損害を被るのである。

 そもそも弥陀の三部経は、釈尊の一代聖教を判別した五時(華厳・阿含・方等・般若・法華) の内、方等時の経であり、『無量義経』 に 「四十余年・未顕真実」 と、『法華経譬喩品』 には 「不受余経一偈(余経の一偈をも受けざれ)」 と断わられた権大乗の経である。この判釈の大前提を、肝に銘ずるべきである。

 天台大師云く 「修多羅と合う者は録して之を用いよ、文なく義なきは信受すべからず」(219P) と述べられています。文なく義なき、即ち道理に反するものは信受すべからずである。阿弥陀仏や極楽浄土など、実体のない幻のようなものである。

 親鸞の教説と言われる歎異抄に、「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の……」 とあります。

 ここでは弥陀の本願(法蔵比丘の四十八願) を、無条件・無批判的に受け入れて、根本的・第一条件にしている。そもそも無量寿経(弥陀の本願) は、誰が説いたのかと言えば釈尊である。ならば、釈尊を第一義にして 「釈尊の説教まことにおはしまさば、弥陀の本願 ……」 とすべきである。それを、弥陀を第一義にする誤りを犯し、正反対に論じている。

 ところで、釈尊は無量寿経や弥陀経は、“真実を顕わしてない経だから捨てよ(四十余年・未顕真実)” と説いた。
 法然は、法華経は “機根に合わず、難しいから捨てよ” と言った。どちらの説をとるべきか。

 伝教大師云く 「仏説に依憑(えひよう) して口伝を信ずること莫(なか)れ」(219P) と。涅槃経に仏最後の御遺言として 「法に依って人に依らざれ」 と見えて候、人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候、(1155P) と仰せです。とうぜん、釈尊の説をとるべきである。

 法然は仏説に依らず、人師の曇鸞・道綽・善導の謬釈(びゅうしゃく)を取り入れ、あまつさえ拡大解釈して、真実の法華経を 「捨てよ・閉じよ・閣(さしお)け・抛(なげう)て」(選択集) と放棄させた。

 釈尊一仏の説が、法華経と爾前経で水火の違いのある場合は 「先判・後判の中には後判につくべし」(199P) と仰せのように、この場合は後判、すなわち、後から説かれた法華経を取らなければならないのである。

 また、浄土宗では阿弥陀如来が大宇宙の中の本師・本仏であり、釈迦如来は地球で阿弥陀の教えを弘める弟子だと言って、釈尊を見下している。釈尊は権大乗教のなかで、阿弥陀如来の外・薬師・薬王・大日等、数多くの十方の諸仏・諸菩薩を説いています。その中の阿弥陀如来だけが本仏で、釈迦如来は弟子などと、どの経典に書いてあるのか? 全部いい加減な・自分勝手な妄説なのである。

 ところで、阿弥陀如来を説いたのは釈尊で、言わば作者である。そこで説かれた阿弥陀如来は作品である。作品の出来ばえが素晴らしいからと言って、作者を見下す者が居るのでしょうか。
 たとえば、“鉄腕アトム” の作者は手塚治虫氏である。手塚先生に向かって、“鉄腕アトムは空を自由自在に飛べて素晴らしいが、貴方は空も飛べない唯の人だ” と言ったとしたら、聞くものは皆唖然とするだろう。これと同じことを、法然や親鸞は言っていることになるのである。

 あまつさえ、皆成仏道の法華経等を聖道門と名づけ、これを修行する者を 「群賊」 呼ばわりしている。しかれば、釈尊はじめ竜樹・天親・天台・伝教等の仏教史に輝く聖人方も、法然の手にかかれば群賊となってしまう。

 これほど、仏道の正師を悪口罵詈(めり)し、経を蔑(ないがし)ろにし、仏祖三宝尊を破却するとは、まさに 「悪鬼入其身(悪鬼その身に入る)」 の姿そのものである。かかるものの弟子とならん者は、五逆罪も作らずして、正法誹謗の与同罪による入阿鼻獄は疑いないものである。心しなければならないのである。
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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