易行道とは

 浄土宗は釈尊一代の聖教を、「聖道・浄土、難行・易行、雑行・正行」 に分け、浄土の教え以外は皆捨てよと説いて衆生を惑わした。その時に一番惑わされたのが 「易行道」 という言葉ではなかったかと思う。それは人は皆、同じものならば易く手に入る方を好むからである。

 『立正安国論』 に 「曇鸞法師往生論の注に云く謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く菩薩・阿毘跋致を求るに二種の道あり、一には難行道・二には易行道なり」(22P) とあります。阿毘跋致(あびばっち) とは、不退転のことである。

 十住毘婆沙論では、菩薩を二種類に分け、不退転の菩薩と退転の菩薩に分けている。不退転の菩薩は、そのままで何も問題はないのであるが、退転の菩薩は、発心の力が微弱でなかなか仏道に進まず、二乗凡夫に堕落し易いとされる。

 毘婆沙論 「易行品」 の難行道の意味するところは、この菩薩たちが二乗界 (爾前経では永不成仏) へ堕落することの警告のために説かれたのである。逆にいえば、それだけ利他を忘れ、我独り悟りの境界を楽しまんとする誘惑が大きいと言うことである。この誘惑を乗り越えることが、なかなか困難なことを 「難行道」 と言ったのであって、六波羅蜜修行の困難性を指しているのではない。

 では、ここでの 「易行道」 とは何か。竜樹は、菩薩の死である二乗界へ堕落しやすい難行道のほかに、たとえ地獄に堕しても、仏道を妨げることのないような菩薩の生きる道を求めたのである。
 何故なら、爾前経の説ならば、もし永不成仏の二乗界に堕すれば、成仏の種子を断つことになり、成仏の可能性がなくなってしまうのに対し、悪道の地獄の方は堕ちた場合でも、再び成仏への道が開かれているからである。

 つまり 「易行道」 とは、難行道を行じて二乗界に堕ちることよりも、地獄に堕ちても不退転に至る仏道として説かれたものなのである。すなわち、二乗界に堕落することを避けるあまり、堕地獄を覚悟のうえで、あるいは堕地獄と引き換えに選ばれた道と言ってよい。
 したがって、易行道の 「易」 とは単に修行が容易であるとか、悟りへ安易に達するという意味ではなく、二乗へ堕落する危険性のない道という意味を表していると捉えるべきであろう。
 故に 「易行道」 とは、発心微弱なる人々を、大乗菩薩道への本流へと導くための方便行に過ぎず、あくまでも竜樹菩薩は、不退転の菩薩の旺盛なる菩薩行の実践と菩提を求めているのである。
 
 では、「真の易行道」 とは何か。『守護国家論』 に 「釈迦如来五十年の説教に総じて先き四十二年の意を無量義経に定めて云く 『険逕(けんぎょう)を行くに留難(るなん)多き故に』 と無量義経の已後を定めて云く 『大直道を行くに留難無きが故に』 と仏自ら難易・勝劣の二道を分ちたまえり」(53P) と仰せです。

  すでに釈尊自らが、一代聖教を総括して無量義経において、爾前経は 「難行道」、“法華経は 「易行道」” と分類されているのである。それを、釈尊以外の人師・論師が、これ以外の難易二道を立て分けるのは外道魔王の説である。それ故に、竜樹の毘婆沙論における難易二道の分類は、法華経以前の権大乗教の内だけという限定つきのものである。

 ここに、中国の浄土教の開祖たちも踏み込んでないのに、勝手に拡大解釈して、難行道に法華経を含め、ひとり念仏のみを易行道と立てる、法然の自義が 「外道魔王の説」 に同じであることが分かる。

 『立正安国論』 に曰く 「是れ偏(ひとえ)に法然の選択(せんちゃく)に依るなり、悲(かなし)いかな数十年間百千万の人、魔縁(まえん)に蕩(とろ)かされて多く仏教に迷えり、傍(ぼう)を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや、円を捨てて偏(へん)を好む悪鬼便りを得ざらんや、如(し)かず彼の万祈(ばんき)を修せんよりは此の一凶(きょう)を禁ぜんには」(御書24P) と、念仏宗を 「一凶」 と断じ、厳しく破折されています。

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橋を問う

 題名の 「橋を問う」 を見て、何のことか、お解かりにならない方もおられると思います。私も初めて 「六巻抄」 を手にしたとき、古文の読解力は無く、今のように講義録や教学辞典なども無く、何がなんやら実に暗中模索の状態でした。

 日寛上人の六巻抄の 『依義判文抄第三』 の冒頭の文に、「明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る、苟(いやし)くも糟糠(そうこう)を執し “橋を問う” 何の益あらん」 (“”は筆者)とあります。

 「橋を問う」 とは、『大方等陀羅尼経第三』 に説かれた求道者の愚行を戒めた故事である。ある僧が大施会に行く途中に大きな橋があった。僧はある一人の智者に尋ねた。この橋は誰が造ったのか、材料はどのような木か等々、次から次へこのような質問を七千八百もしたという。智者は何の利益もない愚かな質問を止め、早く目的地に行くよう諭したが、僧が会所に着いた時には、すでに法会は終っていたという。

 この話は、文は理を伝えるための手段であるから、ちょうど目的地へ行くための橋に相当する。したがって、仏法を学ぶにあたって、文の訓詁注釈に囚われて仏法哲理が理解できず、実践も出来ないというのは、この 「橋を問う」 の愚になることを諭している。

 『大集経』 に云く 「我法の中に於て闘諍言訟(とうじょうごんしょう)して白法隠没(びゃくほうおんもつ)せん」(258P) とあります。  (白法…釈尊の仏法)
 釈尊自ら末法には、教義について諍が起き、釈迦仏法は滅びて功力がなくなると宣言しています。

 浄土宗はじめ旧仏教界の諸宗は、釈迦仏法の糟糠(カスやヌカ) に執着して、いたずらに不毛の文をもてあそんでいる。例えば歎異抄など、仏教の成仏と何の関係のない事柄に、感心し自己陶酔している者も居る。

 『歎異抄』 に親鸞の言として 「念仏はまことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」 また 「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり」 と言っております。

 すなわち、“念仏で浄土に行けるのか、地獄なのか、どうなるか知らない。自分は弟子一人も持ってない。自分の計らいではなく、阿弥陀仏に促がされて、好きに念仏している人を、自分の弟子とは言えない” と、開祖という立場でありながら、これほど確信のない、無責任極まりない言動もない。

 法華経には、西洋の宗教哲学でさえ明かしてない、宇宙生命・人間生命の実相を説き明かしています。この法華経を投げ捨てて、取るに足らない浄土三部経や人師・論師の注釈をもてあそぶことは、「橋を問う」 ことに他ならないのである。

 歎異抄を秘本だとか何とか言って崇めているけど、ただ “愚痴と言いわけの書” でしかない。親鸞一人が地獄へ堕ちるのは勝手であるけど、何と言いましょうか、このような親鸞や法然に誑(たぶら)かされて、一緒に地獄に堕ちる者こそ哀れである。早く目を覚まして頂きたいと、切に願うものである。

 これに対し、日蓮大聖人の 「末法の御本仏」 として、一切衆生救済の慈悲と勇気とご確信の一端を、『開目抄』 に見て見たいと思います。
 
 「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教に千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれおも・いだきぬべし」(202P)。
 「当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん、日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語を助けん」(203P)。
 「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし、命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし」(223P)。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(232P)。
 
 「大願を立てん日本国の位をゆずらむ、法華経をすてて観経等について後生をご(期)せよ、父母の頸を刎(はね)ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(232P)。
 「日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり」(237P)。 


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事・理と人・法

 仏法に 「事と理」 という判釈があります。法華経本門は事の一念三千、迹門は理の一念三千である等と言います。一般的に、「事」 とは事実・実体・実践等を意味し、「理」 とは理論・法則・観念等を意味します。

 例えば、家の設計図は 「理」 である。それに対して実際に建てられた家は 「事」 となる。家が建てられて、初めて住むことが出来、そこに価値が生ずるのである。ゆえに、「理」 は真理観であり、「事」 は価値観に立ったものであると言えます。

 日蓮仏法では、「事」 とは妙法の当体の御本尊であり、「理」 とは妙法の哲理である。したがって、事は理を含むものであるから、事は理に勝れ、理は劣ると判ずるのである。ゆえに、空理空論の念仏宗など、打ち捨てなければならないのである。

 前回、六巻抄がなかなか解からなかったと言いましたが、そのなかの一つに次の文がありました。『三重秘伝抄第一』 の“第八に事理の一念三千を示さば”、のところで。(六巻抄・58P)

 「問う文底独一の本門を事の一念三千と名づくる意如何。
 答えて云く是れ唯蜜の義なりと雖(いえど)も今一言を以て之を示さん、所謂人法体一の故なり」
 とあります。

 ここで、どうして 「人法体一」 が、事の一念三千の意(こころ・所以) となるのか、なかなか解かりませんでした。日寛上人は、すべてお解りになられておられますので、当然のように、ただ一言 「人法体一の故なり」 と述べられ、あとは文証を示されただけで、詳しい説明はありません。

 日蓮仏法では、「人」(日蓮大聖人) と「法」(南無妙法蓮華経) は、別々のものではなく一体であることを 「人法体一」 又は 「人法一箇」 と言います。爾前・迹門の仏菩薩は、世情に随順する垂迹化他の虚仏であるため、法は勝れ・人は劣るのであり、これを 「人法勝劣 」と言います。

 ところで、「人法体一 」が事の一念三千ということで、「事」 について事実・事相・生活などを考える内に、ふと 「実在」 という語が思い浮かんできました。

 このことを踏まえて考えてみますと、「実在する」 すべての十界の衆生(物も含めて) が 「人法体一」 の当体、妙法の当体であると言うならば、では、「人法勝劣」 とは何か! それは反対に 「実在しないもの・架空のもの」 のことを示していると、言えないでしょうか。
 そのように考えますと、「架空のもの」 の話であれば、それは 「理論上のこと」 となり、すなわち、「理の一念三千」 となります。

 『諸法実相抄』 に、「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用(ゆう)の三身にして迹仏なり …… この釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云うは仏なり」(1358P)とあります。

 爾前・迹門の仏・菩薩は、所詮、南無妙法蓮華経から出た用(はたらき・つくろう・作用等) なるものであり、迹(影) にしか過ぎないとのことであります。

 したがって、迹仏は用(ゆう) すなわち、作用や影などであると言うことは、「実体がない」 と言うことであります。ゆえに、爾前・迹門の仏・菩薩は、架空の存在にしか過ぎないことになります。
 したがって、「人法体一」 は 「事の一念三千」 であり、「人法勝劣」 は 「理の一念三千」であることが、自分なりに解ってきました。

 今まで 「人法体一」 は、“三大秘法の南無妙法蓮華経であり”、「人法勝劣」 は、“爾前・迹門・脱益の仏法” などであると言うように、どちらかと言えば、「法」 の方へ軸足を置いて考えていたので、解からなかったように思われます。

 「人法体一」 とは、仏身に備わる 「法」 が、「体一」 であるのか・ないのか、言い換えれば、「境智冥合」 しているのか・いないのか、「成仏」 しているのか・いないのか、その身は「 事実の体」 なのか・「理論上の体」 なのか等を、見るものでは無いでしょうか。むしろ、「人(仏身)」 から観る方が良いように思えてなりません。そしてこれをもって、日蓮仏法と釈迦仏法との勝劣を判ずることが出来るのです。

 以上の点をふまえて、「人法体一(勝劣)」 を考えるうえでは、「実在(架空)」 という概念を当てはめて考えた方が、理解し易いように思いました。

 しかし老婆心ながら、「人法体一」 は、「自受用身即一念三千」 という日蓮大聖人の甚深のご境涯の意義を、とどめていることを申し述べさせて頂きます。

 所詮、「人法体一・色心不二・依正不二・境智冥合・因果倶時・諸法実相」 等々は、根底において、まったく、同じことを言っているのであり、すなわち、「南無妙法蓮華経」 のことなのであります。
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人間革命

 『新・人間革命』 第19巻 に目を通していましたら、「人間革命」 について記述されたところがありました。五十年来、慣れ親しんだ言葉ではあるが、いざ説明しようとしても “成仏を現代的に解釈したもの” ぐらいしか思い浮かばない。そこでこの際、少しでも記憶にとどまるよう書いてみたいと思いました。

 1974年(昭和49年) 3~4月のアメリカ指導のことが記載されています。特に、4月1日にUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校) にて、「二十一世紀への提言」 と題する海外初の大学講演がなされまして、大成功に終わりました。
 4月2日、サンタモニカのアメリカ本部で、戸田城聖先生の十七回忌法要が行われました。勤行終了後、先生のご指導がありました。その内容の抜粋です。

 戸田城聖の大きな偉業の一つは、難解な仏法の法理を、わかりやすく現代的に解釈し、展開したことにある。
 たとえば戸田は、あの獄中にあって、「仏」 とは 「生命」 であると悟達し、やがて仏法を生命論として展開していった。これによって、仏法は現代を照らす、生きた人間哲学としてよみがえったのだ。

 また彼は、信仰の目的である 「仏の境涯」 に至ることを、「人間革命」 と表現した。
 この 「人間革命」 という、新しい概念を導入したことによって、仏教界で死後の世界の問題であるかのように言われてきた 「成仏」 が、今世の人間完成の目標として明確化され、深化されたのである。
 
 「われわれの生命、肉体は即、南無妙法蓮華経の当体であります。この南無妙法蓮華経の生命を顕していくことが人間革命なのであります。
 では、人間革命とは、どのような姿、在り方となるのか。本日は、その指標を明らかにしておきたい」
と仰せられ、七項目の指標を示されました。 (詳しくは、新・人間革命第19巻・228~231P)

 伸一は、この 「健康」 「青春」 「福運」 「知性」 「情熱」 「信念」 「勝利」 の七項目を人間革命の指標として示したあと、さらに、これらを包括し、仏法者の規範として確立されなければならないものこそ、「慈悲」 であると訴えた。
 伸一は、慈悲について戸田城聖の指導を通して論じ、「私たち凡夫の場合は、勇気をもって行動することが慈悲に変わるのである」 と力説。そして、慈悲と勇気の実践である広宣流布に生き抜くことの大切さ、尊さを訴えたのである。

 「人間革命といっても、一言すれば、地涌の菩薩の使命を自覚することが肝要であり、喜び勇んで広宣流布に生きる姿こそが人間革命であります。
 たとえ、名誉や財産があろうとなかろうと、真実の法をもって、人のため、社会のために尽くす人こそ、真実の “尊貴の人” であり、その人の生命は菩薩であります。
 最も苦しんでいる人に救済の手を差し伸べ、蘇生させてきた団体が創価学会です。また、そのために命をなげうってきたのが、三代の会長なのであります」
と指導なされました。

 「人間革命」 や 「成仏」 という言葉は、会員の間で使用されている割には、その概念はあまり知られてないと思います。ここに、“七項目” の具体的な指標を示して頂きました。自身にとって、“足らないものからでよい”、“出来そうなものでもよい”、“何か一つからでもよい” ですから目標にして、いま再び、人間革命に向って挑戦したいと思います。

 本日もまた、新潟・福島大水害が報道されています。この苦悩と混乱の末法において、人類を救い、時代を変革していくためには、万人が具える仏性を開き、偉大なる仏界の力を開発する以外にない。人類が境涯を広げる以外に、本質的な解決はない訳です。

 池田先生は、次のようにご指導されています。
 世界の平和と人類の幸福を実現していくことが、私たちの仏法運動の目的です。「暴力と恐怖の世界」 に転落していくのか、「平和と安穏の世界」 を構築していくのか、人類は今、重大な岐路に立たされている。
 戦争という人類の宿痾(持病) を乗り越えて、地球規模の 「立正安国」 を実現しなければならない。そのために、人間それ自身の変革から出発しなければならない。
 「一人の偉大なる人間革命から、全人類の宿命転換を実現する」―― その壮大なる革命の最前線に、私たちは立っているのです。
 (御書の世界第一巻・173P)
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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