創価の法華経(その3)(戸田先生の悟達)

 私の 「創価の法華経 」 というブログを見て、色々なお考えが有ろうかと思います。それはそれで結構なことなのですが、もう少しはっきりと、私の考えを述べさせて頂いた方が良いように思いました。

 私が 「創価の法華経」 と言ったのは、前のブログにも述べましたが、何としても創価学会の独自性を強調したかったからです。
 その根拠となるものが、戸田先生の 「獄中の悟達」 であります。戸田先生の 「悟達」 があったればこそ、大聖人の仏法は、戦時中の滅亡の淵から蘇(よみが)えったのである。
 したがって、「創価の法華経」 と 「獄中の悟達」 を、イコール(=)で結んでもらって結構であると思っています。ただ 「獄中の悟達」 のみを指しているのではなく、牧口・戸田・池田先生御三方のご指導のすべてにわたることは当然である。

 御入滅後の700年間、確かに御本尊も御書もありました。御書には 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(1360P)・「法華の行者は男女共に如来なり」(737P)・「大願とは法華弘通なり」(736P) 等々のご金言を、まことに身読なされて、その真意を教えて下さったお方は、牧口先生・戸田先生・池田先生であります。

 特に、戸田先生は、「生命」 という言葉を法華経より取り出だして下さいました。
 池田先生は、「彼の明晰な悟達は、仏法を見事に蘇らせ、近代科学に優に伍して遜色のないものとした。仏法に鮮明な性格と、現代的な理解とを与えたのである。あらゆる古今の哲学のうえに位置せしめた」 (人間革命4巻・生命の庭より) と述べられています。

 「仏とは生命なり」 そして 「我、地涌の菩薩なり」 の戸田先生の悟達を、私は 「戸田先生の法華経」と称しても良いと思いましたが、個人名ではその範囲が限定されますので、「創価の法華経」 とした訳です。

 「大聖人の法華経」 (南無妙法蓮華経) は、基本であり、肝要であり、根本であります。創価学会は、それを実践修行し、広宣流布を成し行く団体であります。 
 大聖人と創価の法華経の両者を判別すれば 「創価」 は、「総別」 では “総” であり、「本迹」 では “迹” であり、「勝劣」 では “劣” であり、「原理」 に比すれば “応用” であり、「法体」 に比すれば “修行” となるのである。

 「創価」 とは、“価値創造” ということで、すでにその名の中に、「大聖人の法華経」 と比して、我と劣ることの意を含んでいるのである。ゆえに 「総別の二義」 をわきまえて、「創価の法華経」 と称することは、間違いではないし、可能で且つ、許されるものであると思っています。

 すでに、戸田先生の 「獄中の悟達」 という言葉があるのに、別に立てる必要はないのではないかと思われますが、私は 「悟達」 や 「悟り」 という言葉からくる イメージが、なにか “釈尊のような・特別な・奥深い・我ら凡人の到底なすことの出来ない・関係のないもの” と、受け取られがちに成るのではないかと危惧するものであります。

 戸田先生は、仏法の成仏を 「人間革命」・「絶対的幸福境涯」 と解明して下さり、我々の身近な問題として示して頂きました。これからの世界の広宣流布を考えるとき、日蓮仏法をどのように現代人に理解させていくのかが、重要な課題となってきます。まだまだ、これから、この問題に挑戦しなければならないと思っています。 
 いま世間では “なでしこ ジャパン” と言えば、誰もが関心を示し・話に花が咲く状況である。そこまでは行かなくても、少なくとも、悟りや成仏の法理を含む法華経や日蓮仏法には、関心を示し・話の種になるようにして行かねばならないと願うものである。

 池田先生は、「社会も宗教も混乱の極みにある末法において、人々を救い、時代を変革していくためには、万人が具える成仏の可能性を開く教え以外にない。つまり、人間の偉大な可能性を開発する以外に、末法の救済はない。
 人間が境涯を広げる以外に、本質的な解決はないのです。
 法華経の救済観を委細に求めると、そういう根本的な 『人間主義』 ともいうべきものを見ることができる」
と仰せられています。 (御書の世界第1巻・10P)

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9.11を思う

 9月11日、ニューヨークにて同時多発テロ事件が起きて、早くも10年が経ちます。また、6ヶ月前の3月11日、東日本大震災が起きました。同じ “11日” という日にちの一致に、何か不思議なものを感じます。

 この間の10年、米国はテロ撲滅の名のもと、アフガニスタンとイラクに侵攻し、彼の地の独裁政権を倒したが、多大な混乱と損害を与えることに成ってしまった。また、自国の将兵も1万人以上の犠牲者を出し、経済までも、何やらおかしく成ってきた。
 テロ撲滅が出来たかと言えば、首謀者 ウサマ・ビンラディン容疑者を殺害したが、テロの脅威は一向に減っていません。

 釈尊は 「実にこの世においては、およそ怨(うら)みに報いるに怨みを以ってせば、ついに怨みの息(や)むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息む」(趣意) と述べています。そもそも、武力をもってテロ撲滅を図ろうとすること自体が間違いなのである。

 御書に 「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧(びる)の身土は凡下の一念を逾(こ)えず」(1358P) と仰せです。この御文は我々の生命は、「十界互具の当体」 であると説かれています。
 すなわち、怨みという心は、もともと生命に備わっているものであり、仏様でもこれを無くすことは出来ないのです。反対に、極悪人の一念(生命) といえども仏界を具しているのである。

 したがって、日ごろ潜在化している怨みの心は、縁によって顕在化するのであります。ゆえに、武力行使によって子供や親兄弟を殺された極普通の民間人が、テロリストに変身しないとは限りません。ゆえに、テロ根絶のための武力行使が、かえって、テロリストの醸成になるという認識を、持たねばならないと思います。

 「自他の隔意(きゃくい)を立て彼は上慢の四衆・我は不軽と云う、不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり、此に立って礼拝の行を成す時善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり」(768P) と仰せです。このご文は、彼は 「悪人」・我は 「善人」 であるというように、差別を立てる見解、差別観に執着する心は 「無明」 であるということです。

 「無明は明らかなること無しと読むなり、我が心の有様を明らかに覚(さと)らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う」(564P) と仰せです。無明とは、自分の生命の法理に暗いということです。これが迷い・混乱・不幸の根本です。

 テロリスト(悪人)と民間人(善人)という二種類の人間が居るのではない。これらのものが、一人の人間の中において共存する、すなわち、「十界互具の生命」 の認識もなく、生命の法則も解からないままで、事を推し量っても、うまくいく訳がありません。

 しかし、善悪、邪正と立ててはいけないという意味ではないのです。善悪、邪正の立て分けがなくなってしまったならば、それは混乱以外の何ものでもない。
 仏法の精神は 「善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり」 とありますように、善人も悪人も、邪も正も、ともに “南無妙法蓮華経” を根幹にしたときに、はじめて救われ、社会、人類に、価値を提供していくことが出来るのであります。

 池田先生は、二十世紀は 「戦争の世紀」 であった。二十一世紀こそ 「生命の世紀」 にしなければならない。それには、何があろうと 「殺すなかれ」(不殺生)という大原則を、人類の 「根本の正義」 にしなければならない。
 「自分の主義主張を訴える手段に、暴力を採用してはならない」 という共通思潮を世界に広げ、根づかせていかなければ、人類は 「二十世紀の教訓を、まったく学んでいない」 ことになろう。
 二十一世紀の真の戦いは、文明と文明の戦いでもなければ、いわんや宗教と宗教との戦いでもない。「暴力」 に対する 「非暴力」 の戦いである。それこそが 「野蛮」 に対する 「文明」 の戦いである。
 大悪おこれば、大善きたる。しかし、大善は、ひとりでに来るわけではない。大善をもたらすのは、常に勇気である。
 凡夫の慈悲に代わるものは勇気である。勇気をもって語っていくことが慈悲に通じる(趣意)。
と指導されています。

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真言亡国 (東密)

 真言宗は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を依経とし、大日如来を教主とする。中国において、善無畏三蔵が唐の開元4年(716年) にインドから渡来し、大日経を訳し弘めたことから始まる。
 善無畏は、天台の一念三千論を見て、法華経より大日経が勝れているとしなければ、真言は弘まらないと思い、天台の学僧の一行を欺いて 「大日経疏」 を書かせた。

 『撰時抄』 に、善無畏三蔵が大に巧(たくら)んで云うには、「大日経の入漫陀羅已下の諸品は漢土にては法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒(みろく)に向つて大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわた(渡)す、天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩埵に向つてとかせ給う、此れを大日経となづく我まのあたり天竺にしてこれを見る、されば汝がかくべきようは大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし」(276P) といって、一行を誑(たぶら)かしたのである。
 このことを伝教大師は 『依憑集』 で 「新来の真言家は即ち筆受の相承を泯(ほろ)ぼし」(1269P) と破折しました。
 そこには法華経と大日経とは一念三千の 「理」 は同じであり、印と真言の 「事」 において大日経が勝れる、すなわち、「理同事勝」 という邪義が打ち立てられた。
 「印」 とは、印相のこと、印契、密印ともいう。指先で特殊な形を結び、仏・菩薩の悟りをあらわしたものを手印という。
 「真言」 とは、仏の真実の言葉という意味です。密教の一種の呪文で、日本では翻訳せずに梵語を音写して用い、その訳の分からないことを以って秘密と称している。
 大聖人は 「大日経の印真言を彼の経の得分と思へり、理も同じと申すは僻見(びゃっけん)なり、真言印契を得分と思ふも邪見なり」(888P) と破折されています。

 日本では、弘法大師空海が入唐して真言密教を学んで帰朝し開宗した。大別して二つの派があり、弘法系の真言宗を 「東密」(東寺の密教)と言い、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を 「台密」 という。

 弘法の悪義は 「一代の勝劣を判じ給いけるに第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候」(277P) と、『十住心論』 などで言ってることです。そこには、

①各宗とも自宗に仏乗と名のっているが、後に出てくる真言宗に望めば、前の天台法華宗は戯論(けろん)となるのである。 
②法身の大日如来に相対すれば、釈尊も無明の辺域であって、明の分位(悟りの位)ではない。 
③五味に譬えると法華は第四の熟蘇味の位である。 
④中国の人師たちは、争って第五の醍醐味を真言宗から盗み取って、各々の自宗に添加した。
 等が代表的な邪義である。

 大聖人は 「華厳経と大日経とに対すれば法華経戯論・六波羅密経に対すれば盗人・守護経にに対すれば無明の辺域と申す経文は一字一句も候はず」(277P) と、一切の経文のなかに、有りもしない妄語を並べ立てていると破折されています。

 「醍醐を盗んだ」 と言うことであるが、天台大師は陳隋の時代の人である。六波羅蜜経はその後の唐の時代になって、般若三蔵がこれを中国へ持ってきたのである。実に有りもしない経から、どうして盗むことが出来るのか。
 「其の上・又法華経を醍醐と称することは天台等の私の言にはあらず、仏・涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給い天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかかれて候、竜樹菩薩は法華経を妙薬となずけさせ給う、されば法華経等を醍醐と申す人・盗人ならば釈迦・多宝・十方の諸仏・竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか、弘法の門人等・乃至日本の東寺の真言師・如何に自眼の黒白はつたな(拙)くして弁へずとも他の鏡をもつて自禍(じか)をしれ」(278P) と破折されています。

 真言宗は、此土有縁の教主釈尊を捨てて、我等衆生と何の縁もゆかりも無い、架空の大日如来を教主としている。あまつさえ、釈尊を大日如来や弘法のその車を引く資格すらない、牛飼いや履物取りにも及ばないと、口汚く罵っているのである。
 
 善無畏が中国へ大日・真言を渡したのは、唐の玄宗皇帝の時代でした。それから後は、あれだけ隆盛を極めた唐王朝も“安史の乱”の後から衰退に向かいはじめ、玄宗も失意のうちに薨じた。その後は中国から、仏教自体も滅亡する道を辿ることになるのである。

 三徳具備の教主釈尊を捨てて、取るに足らない大日如来を立てるゆえに、主を殺すものであり、諸経中で最第一の法華経を第三と下すことは、主客転倒している。
 『立正安国論』 に、「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万人乱る」(19P) と、人々の価値観が転倒して、社会が混乱し国が滅びることになるのである。
 日蓮大聖人は 「真言は亡国の悪法」(1073P) であると断定なされています。
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真言亡国(台密)

 日蓮大聖人は、日本の天台法華宗が密教化したことについて、「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同理勝の狂言(おうげん)を本として我が山の戒法をあなずり戯論(けろん)とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし」(1023P) と述べられています。

 大聖人の諸宗の破折は佐渡以前では、念仏・禅宗などが主で、真言(東密)は少々でした。それは大聖人が、「所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え」(170P) と、『北条時宗への御状』 で申されたように、公場対決を望まれていました。
 しかし、「爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろう(披露)してかれらし(知)りなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり」(1489P) とあるような理由で、真言を強く破していませんでした。
 したがって、公場対決の望みがなくなった佐渡以後は、「而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頸をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり」(1489P) と仰せになり、『撰時抄』・『報恩抄』 等で天台密教を徹底的に破折されることにより、三大秘法を顕わされたのであります。

 “なぜ真言を強く破折する” のかと言いますと、念仏・禅などは当時の新興宗教であり、多くの民衆に信じられていたとはいえ、言わば個人的な信仰と言ってよく、それに対し長い間、鎮護国家の法として為政者から祈祷を依頼されていた真言密教の国家・社会に対する悪影響は、はなはだ重大なるものがあるのである。
 ゆえに、天台密教の邪義を破ることによって、法華経の正義を示されて末法の法華経の行者、即ち 「南無日蓮聖人」(287P) と仰せられましたように、『撰時抄』 にて 「御本仏のご内証」 を明かされたのであります。

 大聖人は、真言宗の中でも、善無畏や弘法などと比べて、慈覚の行為こそが最大の悪事であるとされています。
 『撰時抄』 に、「日本国にして真言宗を法華経に勝るると立つるをば叡山こそ強きかたきなりぬべかりつるに、慈覚をもつて三千人の口をふさぎなば真言宗はをもうごとし、されば東寺第一のかたうど(方人)慈覚大師にはすぐべからず」(279P) と仰せられています。
 
 伝教大師が、桓武天皇の御前で南都六宗の碩徳と公場対決し、六宗を破し法華経最第一の義を決した。六宗の碩徳は承伏の謝表を奉り、伝教大師に帰伏した。その結果、日本一州みな・僧は伝教の弟子となり、寺は叡山の末寺となったのである。

 そのような中で、弘法が法華経は大日経に比べて三重の劣であり、釈尊は無明の辺域であると、あからさまに下していても 「あまりの僻事(ひがごと)なれば弟子等も用ゆる事なし」(308P) という程度であった。

 しかし、慈覚・智証の天台法華宗が、法華経と大日経は「理」は同じであり、「事」においては印と真言があるから、大日経の方が勝れると云えば、叡山の座主自らが云うのだから 「皆人さもやと・をもう、かう(斯)・をもうゆへに事勝の印と真言につひて天台宗の人人・画像・木像の開眼の仏事を・ねらはんがために日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」(309P) という有様であった。結局、僧侶たちは祈祷を生業として、金銭を儲けんが為に堕落したのである。
 「慈覚・智証の義は法師と尼と黒と青とが・ごとくなる・ゆへに智人も迷い愚人もあやまり候て此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州・皆謗法の者となりぬ」(309P) と仰せである。 

 ここに、法華経最第一とする叡山の天台宗が密教化したことの謗法罪は、弘法の東密よりも遥かに重いのである。
 特に、慈覚に対しては厳しく 「天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(286P) と、安然・慧心を加えて“師子身中の虫”とまで断じておられます。
 
 大聖人は 「真言は亡国の悪法」(1073P) なりと定められた理由を簡潔に 「答う法華を誹謗する故なり云云、一義に云く三徳の釈尊に背く故なり云云、一義に云く現世安穏・後生善処の妙法蓮華経に背き奉る故に今生には亡国・後生には無間と云うなり」(167P) と破折されています。

 慈覚の理同事勝の邪義を、日寛上人が破した文がありますのでご参照ください。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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