真言亡国の現証

 日蓮大聖人は 「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468P) と仰せられ、真言亡国の現証を指摘されています。

 大聖人は 「而るに日蓮此の事を疑いしゆへに幼少の比より随分に顕密二道・並びに諸宗の一切の経を・或は人にならい・或は我れと開見し勘(かんが) へ見て候へば故の候いけるぞ、我が面を見る事は明鏡によるべし・国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず」(1521P) と仰せです。
 「此の事」 とは “承久の乱” の事で、主上の朝廷方が臣下の幕府方に敗れた事に、疑問を持たれたと仰せられています。

 『報恩抄』 に 「人王八十二代・尊成・隠岐の法皇・権の太夫殿を失わんと年ごろ・はげませ給いけるゆへに大王たる国主なれば・なにとなくとも師子王の兎を伏するがごとく、鷹の雉(きじ)を取るやうにこそ・あるべかりし上・叡山・東寺・園城・奈良・七大寺・天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間・或は調伏(ちょうぶく)・或は神に申させ給いしに二日・三日・だにも・ささえかねて佐渡国・阿波国・隠岐国等にながし失(うせ)て終にかくれさせ給いぬ、調伏の上主・御室(おむろ)は但東寺をかへらるるのみならず眼のごとくあひ(愛)せさせ給いし第一の天童・勢多伽(せたか)が頸(くび)切られたりしかば調伏のしるし還著於本人(げんちゃくおほんにん)のゆへとこそ見へて候へ」(321P) と仰せてられています。 
 「還著於本人」 とは、「還って本人に著(つ) きなん」 と読む。邪法をもって正念の相手を呪詛して害そうとすれば、帰って自らの身にそれを受けるようになるということです。

 大聖人は 「法華経を或は第三・第二・或は戯論(けろん)・或は無明の辺域等と押し下し給いて、法華経を真言の三部と成さしめて候いし程に、代漸く下剋上(げこくじょう)し此の邪義既に一国に弘まる、人多く悪道に落ちて神の威も漸(ようや)く滅し氏子をも守護しがたき故に八十一乃至八十五の五主は或は西海に沈み或は四海に捨てられ・今生には大鬼となり後生は無間地獄に落ち給いぬ」(1424P) と仰せです。

 これは源平の争乱の時も、平家の願によって源氏調伏の祈祷をしたのは、比叡山の明雲座主であるが、源氏の木曽義仲に調伏の壇上に踏みこまれて殺されてしまった。それから約二年後、平家一門は西海の壇ノ浦で滅亡したのである。この時幼い安徳天皇(81代) も、二位尼と共に海中に沈むという悲劇を生んだ。
 承久の乱の時は、後鳥羽上皇(82) は隠岐島へ、土御門上皇(83) は土佐国へ、順徳上皇(84) は佐渡島へ配流され、仲恭天皇(85) は廃帝させられた。臣下が天皇を廃し、また流罪に処したことは、わが国有史以来の出来事であった。これも朝廷方が、真言の悪法で祈祷した結果であったのである。

 源平・承久の乱は、一般的には時代の趨勢として、政権が朝廷から武家へ変わる時であり、力を保持してきた武家が勝利するのは当然であるという見方であるが、しかし、日蓮大聖人はその上に、仏法の正・邪により、事の勝・敗が決まると云う 「仏法史観」 とも云うべきものを仰せられている訳です。

 大聖人は 「殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべし」(287P) と予言されています。そしてそれは、文永の役・弘安の役として現実のものとなったのである。

 池田先生は、「承久の乱の結果は、伝統的な権威に基づく従来の朝廷・貴族が世を治める力を失うとともに、その社会のなかに組み込まれていた既成仏教が無力化したことをも意味していました。それは、従来の祈祷仏教の無力化を如実に示していたのです」  (御書の世界第一巻・41P)
 
 真言の祈祷仏教の 「空理性・呪術性というのは、裏づけとしての 『一念三千の理』 がない、形式のみの祈祷を行っていることだね。
 一念三千の法理がないということは、人間生命をいかに捉え、いかに変革していくかという、普遍性・哲学性がないということです。
 それなのに、祈祷・呪術の形式だけが発達して、何かありそうに人々に思わせた。その破綻の象徴が承久の乱における混迷です」
 (同書・92P) と、真言宗の祈祷を厳しく破折されています。
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生命を本尊とせよ(その1)(我が身は即大宇宙)

 弘安2年(1279年)10月12日は、“一閻浮提総与の大御本尊” が、建立された意義ある日であります。そこで御本尊について、池田先生のご指導が 『新・人間革命』 にありましたのでご紹介いたします。

 「大聖人がこの世に弘めようとされたものは、端的に申し上げれば 『本尊』 であります。『本尊』 とは、『根本として尊敬すべきもの』 です。人は、根本に迷えば、枝葉にも迷い、根本に迷いがなければ、枝葉末節の迷いも、おのずから消えていくものである。ゆえに、いちばんの根本となる 『本尊』 を、一切衆生に与え、弘められたのであります。
 では、その 『本尊』 の内容とは何か」

 「それは、 『御本尊七箇相承』『汝等が身を以って本尊と為す可し』(富士宗学要集・第一巻) とある通り、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては、『人間の生命をもって本尊とせよ』 ということであります」
 「つまり、大聖人の仏法は 『一切の根源は “生命” それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに “人間生命” そのものである』 という哲理であり、思想なのであります」

 伸一は、さらに、 『御本尊七箇相承』「法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり」、また、「法界即日蓮、日蓮即法界なり……」 の文を引き、こう語った。

 「宇宙を構成している要素である 地・水・火・風・空 という、同じ五大種によって、人間も構成されている。大聖人は、『宇宙法界の全要素』 と 『日蓮という一個の生命体の全要素』 とは、全く同じものであると断言されているのであります。これは、大聖人御自身だけでなく、一切衆生にも共通することであります。
 わが身は即大宇宙であり、妙法の当体である。それゆえに、生命を 『本尊』 として、大切にするのであります。私どもは、この御指南に、『生命の尊厳』 の原点を見いだすものであります」
 伸一は、日蓮仏法の本尊とは、決して神秘や幻想の象徴ではなく、人間自身の生命であることを明らかにしたのである。

 日蓮大聖人は、 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(1244P) と仰せになっている。
 また、法華経に説かれた宝塔について、 「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(797P) とも言われている。

 仏は、遠い彼方の世界にいるのではない。また、人間は神の僕(しもべ) ではない。わが生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。
 ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬、すなわち本尊となるのである。
 そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、涌現させるための 「明鏡」 こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。
  (新・人間革命第19巻・297P)
 (以上でありますが、先生のご指導は続きがありますので、本書をご参照ください)

 根本として尊敬すべきものは生命であり、ゆえに、「人間の生命をもって本尊とせよ」 との池田先生のご指導は、知識としては知っていましたが、今あらためて拝見しますと、また新しい感動が起きてきます。人はややもすれば、ものごとを忘れてしまうものです。ゆえに、日々新たなる前進のためには、師匠の存在が大切であり、学会という善知識の必要性を痛感いたします。

 『開目抄』 に、 「諸宗は本尊にまどえり」(215P) と仰せです。根本の 「本尊」 に迷うが故に、一切が狂っておかしくなる訳です。大聖人は、すでに700年以上前から、三大秘法の大御本尊を顕わされて下さいました。

 『御義口伝』 には、 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P) 等々と、そこには根本として尊敬すべきものは人間生命であると、数多くのご金言をもってご教授されています。そうであるのに、日蓮門下と名のる者たちでさえ、大聖人のご真意が解からず、誹謗正法の限りを尽くしておるのが現状である。
 そのような中で、法華経を正しく解釈し、大聖人のご真意を解き示して下さったのは、戸田先生・池田先生であり、創価学会であります。まことに有り難く報恩感謝申しあげる次第である。

 いま世界は、地球的規模で天変・争乱・不況などによる混乱の極みにありますが、これを救う哲理は、「生命を本尊 (根本尊敬)」 とする、日蓮仏法の大御本尊以外にはないのである。
 この生命哲理を、人類の共有財産として広宣流布し、世界平和を実現しいくことが、池田門下の使命であると決意するものである。

 追記  コメントがありましたので申し述べさせて頂きます。

 池田先生は、“あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては、「人間の生命をもって本尊とせよ」” と述べられています。総別の二義を鑑みてあえて 「総じては」 と、ことわられておるところにご留意ください。
 なにも、無明の・迷いの凡夫の生命を、信心修行の本尊とせよと言っているのではないのです。そこのところを混同してしまうと、 「総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん」(1055P) と云うことになる訳です。

 総じての立場からの 「本尊とせよ」 の本尊とは、根本として尊敬する最高の価値を、“人間生命” に置くべきであるという哲理・思想を指していると思います。
 世間では、幼児殺しなどが起こるたびに、生命の尊厳が叫ばれますが、どうも、倫理・道徳の次元の話であり、深い哲理・思想性は無いように思われます。
 そこで、生命尊厳の哲理・根本法を、 「一切衆生・悉有(しつう)仏性 (一切衆生に悉〈ことごと〉く 仏性有り)」 と説く 「法華経」 に求めなければなりません。
 池田先生は、“人間の生命に 「仏」 が具わり、「本尊」 であると説く、この仏法の哲理こそ、生命尊厳の確固不動の基盤であり、平和思想、人間主義の根源といってよい” と指導されています。
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生命を本尊とせよ(その2)(人の本尊・法の本尊)

 「生命を本尊とせよ」 との 「生命」 は、同じ一個の生命体だからといって、なにも犬・畜生の生命をも同列に論じているのではない。あくまでも人間の生命なのである。それは人間だけが法華経を信じ、自身の仏性を顕わすことが出来るからである。

 しかるに、ある種の通力 (能力) に惑わされて、竜神や稲荷大明神などを拝んでいる人がいますが、これらは生命の法理からして、いくら功徳があるからと云っても、蛇や狐狸の類いに帰命すれば三悪道の因になるのである。そのような次第で、人間の生命だからと云っても、何も九界の迷いの衆生の生命を云っているのではないのです。

 本尊とする 「生命」 は、“南無妙法蓮華経” という宇宙根源の一法を即座に悟られた、 「久遠元初の自受用身如来」 すなわち、“日蓮大聖人の御生命” に約すのである。
 『御義口伝』 に、 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P) と仰せです。 「法華経の行者」 とは、別しては “日蓮大聖人” の御事であります。

 しかし一方では 『本尊問答抄』 に、 「此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず」(365P)・
 「末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり、故に今能生を以て本尊とするなり」(366P)
 と仰せです。

 ここにきて、「法華経 (法) を本尊とせよ」 と、 他方 「法を覚知した仏 (人) を本尊とせよ」 との両方があって、どちらが正しいのやら迷うところであるが、ともに大聖人の御金言であり、すべて正しいのである。確認のため御書講義録に 『本尊問答抄』 を探したが見当たらなかった。

 そこで 『御義口伝』 を開くと、 「南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」(708P) と仰せられています。
 「南無」 すなわち 「帰命」 の対象 (本尊) に、「人」 と 「法」 とがある。
 「人の本尊」 とは、文底の釈尊、即ち “日蓮大聖人” である。 「法の本尊」 とは、末法の法華経・即ち “南無妙法蓮華経” であるということです。
 
 このように、帰命の対象・対境である 「本尊」 を説明しょうとすれば、どうしても 「人」 の本尊と 「法」 の本尊というように、分けて説明しなければ説明の仕様がないし、その方が解かり易いと思います。
 しかし、生命の実相は、「人法体一」 であり、「色心不二」 であります。理論的には、「人」 と 「法」 を分けて考えられても、事実の上では、「人(仏)」 を離れた 「法」 は存在しないのです。

 釈尊の説法に、 「法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る」 という言葉があります。 「法」 を悟られている釈尊に会え (帰命すれ) ば、「法」 を悟ることができるということです。
 じっさい、我々には “南無妙法蓮華経” という 「法」 は、なかなか解からない訳です。
 ゆえに、現実的には 「生命を本尊とせよ」 との如く、生命すなわち、「法」 と一体となった 「仏(人)」 を本尊として、信心修行に励んでいる訳です。

 その本尊とは、 「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124P) と仰せのように、日蓮大聖人の御生命を留められた、 「三大秘法の十界の文字曼荼羅御本尊」 であります。

 人・法についての記事 → ここから 
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生命を本尊とせよ(その3)(法華経の行者の一身の当体)

 前のブログで、「我々には “南無妙法蓮華経” という “法” は、なかなか解からない訳です」 と述べました。実際、大宇宙と共に本有常住していると云っても、見ることも触ることも出来ず、有るのか無いのかさえ分かりません。

 そこで私は、「南無妙法蓮華経」 を “万有引力の法則”(以下:引力という) に当てはめて考えれば、解かり易く・理解され易いと思いました。

 ご承知のように、「引力」 は大宇宙と共に常に遍満している法であります。宇宙にいつもあると言っても、何処を探しても、人間の五感等では見つかりません。では、無いのかと云えば、例えば地球等のような物体が有れば、瞬時に現われ作用します。物体があれば現われ、物体がなければ作用も現われもしない。
 また、引力が有るところは必ず物体があり、引力が作用しないところには物体も何もないというのである。引力と物体は “相即・一体不二” の関係にあります。
 ゆえに、目に見えない引力を見ようとすれば、それは例えば、木からリンゴ (物体) が落ちるのを見るように、その物体を通してしか、見ることも感ずることもできません。

 この関係性を、仏身上の 「人」 と 「法」 に当てはめて、「引力」 を南無妙法蓮華経の 「法」 に、「物体(リンゴ)」 を妙法を信ずる 「人」 に置き換えてみます。
 そうしますと、即ち “南無妙法蓮華経” という 「法」 は、「人(仏)」 のうえにしか・顕われようのないものです。

 「仏界」 は具体的には、仏の “慈悲・智慧・責任感” 等となって、その人の “振る舞い” のうえに顕われるものなのです。
 日蓮大聖人は、 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) と仰せられています。
 ゆえに、南無妙法蓮華経の 「法」 を拝しようとすれば、それは 「仏(人)」 を拝する以外にない訳です。したがって 「仏」 に帰命すれば、その 「法」 を悟ることができる訳です。

 池田先生は、 「南無妙法蓮華経は法であるが、同時に仏身なのです。人法一箇です。ここが大事なところです。
 『法』 といっても 『人(仏)』 を離れた法は、『理』 だけの存在です。実際には ―― 『事』 の上では ―― 仏の智慧を離れた法というのはないのです」
  と指導されています。 (法華経の智慧4巻・80P)

 以上のように、この宇宙に実在しているものは、すべて 「人法体一」 なのであります。
 「人」 と 「法」 が別々なもの、言い換えれば、動物などの例えで、肉体と精神が別々なものは、この世には存在しないのである。
 ゆえに、「人」 を離れた 「法」 というものを取り出せば、それは 「理」 だけのものになります。

 したがって、外道の神や爾前・迹門の諸仏・菩薩たちは、生命の永遠性や力量・作用等はよく説かれていますが、それらは事実・実在として 「人」 の上に行ぜられた 「法」 ではありません。ゆえに、これらの神・仏たちは、ただ単なる理論上の・架空の 「夢中の権仏」 といわれる 神や仏・菩薩にしか過ぎません。

 日蓮大聖人は、人間として生を受け、仏法流布の国土に生まれながら、善知識(御本尊)の縁に値(あ)えば、成仏できる身であるのに、このような実体のない理論上の仏や神しか 信じない衆生に対して、黙っていられようか と仰せです。
 「此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤(うつつ)に還つて生死の紲(きづな)を切る可し 今より已後は夢中の法門を心に懸(か)く可からざるなり」(575P) と戒められております。

 『御義口伝』 に、 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P) と仰せです。
 法華経の行者、すなわち、“日蓮大聖人の御一身の当体” が、即・御本尊となり、我らはこの御本尊を、ただ ひたすらに信ずることにより、わが身が即ち、 「一念三千・南無妙法蓮華経の当体」 と輝けるのであります。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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