本門の戒壇 (5)

 伝教大師が南都六宗を打ち破り、比叡山に法華一乗の円頓戒壇が建立されて、法華経迹門の広宣流布が達成されました。これによって、あの平安朝の絢爛たる仏教文化の華が開きました。

 しかし程なくして、弘法は嵯峨天皇に取り入り、また叡山の座主第三慈覚・第五智証は、本師伝教に背いて、真言の悪法に染まってしまった。したがって、「仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」(1521P) と仰せのように、平安後期から国土は大いに乱れ、「天変地夭・飢饉疫癘・遍(あまね)く天下に満ち広く地上に迸(はびこ)る」(17P) という状況であった。

 日蓮大聖人は、災難の起きる根源は邪宗・邪義にあるとし 「立正安国論」 をもって、幕府の執権・北条時頼を諫めました。

 その 『立正安国論』 に曰く、「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰(おとろえ)んや十方は悉(ことごと)く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微(すいび)無く土に破壊(はえ)無(なく)んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」(32P) と述べられていますように、大聖人は一刻もはやい “世界の平和と一切衆生の幸福” の実現を願われています。即ち 「仏の大願」 であります。

 『御義口伝』 には、「大願とは法華弘通なり」(736P) とあります。
 『三大秘法抄』 には戒壇について 、「最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、時を待つ可きのみ、事の戒法と申すは是なり」(1022P) と仰せです

 この 「時を待つ可きのみ」 の中に、大聖人の未来に対する “展望” と一切衆生の幸福を願う “慈悲” とが、含まれているように思われます。

 そうしますと、「時を待つ可きのみ」 の時とは 「法華弘通(の時)なり」 ということになります。今度は、それがそのまま、「事の戒法と申すは是なり」 となってきます。

 大殿堂を建て、大御本尊を御安置することのみが、「事の戒壇」 になるだけではありません。そのような形式的なことではなく、実質的には、仏の大願たる 「法華弘通」 の戦いにまい進することのみが、「事の戒法と申すは是なり」 に当ると思います。

 『三大秘法抄』 に、「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下(らいげ)して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり」(1022P) と仰せです。

 「大梵天王・帝釈等も来下して」 とあり、この梵天・帝釈とは、“世界の指導者” をいいます。(総じていえば、妙法所持の地涌の菩薩は、世界の指導者であります)
 このことは 「本門の戒壇」 は、単に日本一国のためのものでなく、世界の人々の懺悔滅罪のための戒壇であり、また “世界の平和と幸福” を祈願し、その実現を期するために来下する、“世界の指導者” のための大殿堂でなければならないのである。

 現に、学会本部には連日のように、国内・海外の著名な有識者の方々が、はるばる遠くから来訪しています。このことは、まさに 「事の戒法と申すは是なり」 の御金言を、そのまま写した姿であると言えないでしょうか。

 現在、日蓮大聖人のご精神を体して、「世界の広宣流布」 を願って戦っておるのは、“創価学会・SGI” だけであります。したがって、創価学会の広宣流布の活動の拠点である “創価文化・平和会館” は、現時点における実質的な、法華経の 「本門の戒壇」 であると言えるのではないでしょうか。

 翌・2013年11月18日に、新しい “創価学会総本部” が完成いたします。これからも日本だけでなく、世界の五大陸の各地・各国にも、世界の平和と一切衆生の幸福のために、“創価の文化・平和会館” を建設し、三色旗を “法華弘通のはたじるし” として、へんぽんと翻さなければなりません。そうしなければ、人類と地球の未来はないからです。
 これが日蓮大聖人の 「法華弘通の大願」 にお応えする道だと思います。

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我身一人の日記文書

 前に、生命について間違った考え方である 「断見と常見」 ということについて、池田先生の 『生死一大事血脈抄講義』 を参考にして述べてみました。
 
 断見と常見の記事 → ここから

 そのとき、では、正しい生命観とは何であるか、法華経ではどう説いておるのか、等々のことを、合わせて述べて見なければ、片手落ちになるのではないかと思いました。

 しかし、生命論を書くことは、私にとって非常に難しいのである。それはいまだ、生命というものが解かっていないからである。自分自身が理解してなくて、それを書いたり・しゃべったりしても、それを読んだり・聞いたりした人は、ますます解からなくなって理解し得ないのである。

 であるけれども、それを畏れていては何も先に進まない。何よりも、自分自身の研鑚のためには、ただ読むことだけより、そのうえに書いて見る方が、より理解は深まると思うからである。

 事実、同じところを何回も繰り返し読むことも多く、それでも年の所為か、すぐ忘れてしまうことが多い。前の分を開いて見て、“あれ-こんなことも書いていたのかなぁ!”と思うことも良くあることである。
 それでいて記憶に残らなくても、読んだという行為は善業となって、わが生命に刻まれているのであると思い、心なぐさめているのが実情である。

 『総勘文抄』 に、「此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉(ことごと)く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(563P) と述べられています。

 「我身一人の日記文書なり」 と、すなわち、一代聖教は、我身一人の人間の生命のありようを説き明かしたものである。ゆえに、わが身の本体をよくよく知るべきであると仰せられている。この自身の本体を悟り究めた人が 「仏」 であり、これに迷うのを 「衆生」 というのである。

 総じて “八万四千の法蔵” といえば、今までの私が “ブログ” で書いてきたことも、取りも直さず生命論であったと言えると思います。
 そのように考えれば、肩ひじ張ることもなく、少しは気が楽になると言うものです。これからも、御書と池田先生のご指導を根本にして、学んで参りたいと思います。

 『諸法実相抄』 に曰く、「行学の二道をはげみ候べし、行学たへ(絶)なば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし」(1361P) と。
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円信 (妙法の信)

 仏教においては、「生命」 は永遠であると説いている。仏教だけでなく他の宗教も、何らかのかたちで生命の永遠性は説いています。しかし、それらは死後の霊魂などの不滅を説く、「常見」 と言われる不完全な生命観である。

 『開目抄』 に、「本門十四品も涌出・寿量の二品を除いては皆始成を存せり、雙林最後の大般涅槃経・四十巻・其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」(198P) と述べられている。

 「法身の無始・無終はとけども」 と、法華以外の経は、三身(法身・報身・応身) の中の法身の無始無終は説いても、三身常住までは説いてなく、特に応身の無始無終は難信難解なのである。私かて解かりません。

 池田先生は 『生死一大事血脈抄講義』 において、「釈尊は、如来の生命が死後に続くのか、続かないのかと問われて、どちらとも答えなかったと伝えられています。どちらに答えても、相手を高めるための教えにはならず、むしろ死をめぐる迷いと苦しみを深める結果になりかねないからです」(同書12P) と述べられています。

 釈尊ほどの仏さまでも、この死後の問題は、なかなか説くことが出来なかったと言うことである。これは説く方よりも、教えを受ける方の資質・機根の問題ではないかと思う。

 『法華経譬喩品第三』 に、「汝舎利弗すら 尚此の経に於いては 信を以って入ることを得たり …… 仏語を信ずるが故に 此の経に随順す 己が智分に非ず」 とあります。あの智慧第一の舎利弗さえも、自分の頭では理解できず、信を以って慧に代え、成仏することができたのである。
 このように法華経は、釈尊の “随自意” の経であり、最上の真実で嘘のない経であるがゆえに、「信」 を強調するのである。

 日蓮大聖人は、女性門下の日女御前に対して、重要な御本尊の相貌(そうみょう)について、述べられた御書を送られています。したがって、お手紙の後半の部分には 「信」 の重要性についてご指導されています。

 仏法の根本は信を以て源とす、されば止観の四に云く 「仏法は海の如し唯信のみ能(よ)く入る」 と、弘決の四に云く 「仏法は海の如し唯信のみ能く入るとは孔丘(こうきゅう)の言(ことば) 尚信を首(はじめ)と為す況や仏法の深理をや信無くして寧(むし)ろ入らんや、故に華厳に信を道の元・功徳の母と為す」 等、…… 弘の一に云く 「円信と言うは理に依つて信を起す信を行の本と為す」(1244P) と仰せです。

 「円信と言うは理に依つて信を起す信を行の本と為す」 と、円信とは、妙法・御本尊への信、真実に対する信である。それは円の法理を聞くことによって、円信が起き、その信が修行の本と為るのである。

 「信」 について、二つの意味があります。
 一つは、「多宝仏・大地より出現して皆是真実と証明す」(188P) とありますように、説く方が 「真実を言う」 ということです。
 二つ目は、「疑い無きを信と曰い明了なるを解と曰う」(725P) とありますように、今度は受ける方が 「疑わない」 ということである。

 この両者が合致して 「信」 の意義も満たされ、仏と衆生が一つに結ばれて、境智冥合し即身成仏の大利益が得られるのであります。

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質問に答えて (1)

 「本門の戒壇」 の記事に “コメント” を頂きまして、その中に四つの質問がありましたので、ブログにて私の考えを発表いたしたいと思います。

 (1)なぜ 「御本尊」 という名がついたのか。それは 「御本尊」 とは、「根本尊敬」 という意味で(確か任用試験もしくは青年教学3級試験で勉強した記憶があります)、その真ん中の 「本尊」 を取り、「御」 を頭に付けることで、「御本尊」 と名がつきました。なのでもともと 「御本尊」 とは 「根本尊敬」 という意味です。
例えば、念仏でいうところの 「本尊(根本尊敬)」 は阿弥陀仏にあたると思います。
では、日蓮仏法の 「本尊」 つまり 「根本尊敬」 しているものは、何にあたるのでしょうか?


 以下、私の考えであります。
 日蓮大聖人は、人間の生命をもって 「御本尊」 を顕わして下さいました。ゆえに、「根本尊敬」 すべきものは 「生命」 であると言えます。

 「御本尊」 の相貌は、虚空会の儀式を借りて顕わしています。虚空会の儀式には、巨大な宝塔が出現いたします。この宝塔は、人間の生命の偉大さと尊厳さを象徴していると言われています。

 虚空会の儀式に参列したものは、「此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず」(1243P) とありますように、仏・菩薩から地獄・餓鬼・畜生の衆生まで全て具わっており、これは 「十界互具」 を顕わしています。「十界互具の当体」 といえば、すなわち、我ら衆生の 「生命」 そのものであります。

 また、この宝塔について、「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」(1304P) と仰せになり、ここでも阿仏房に、自分自身の生命が本尊であると信じて、修行に励みなさいと指導されています。

 大聖人は、末法の衆生を憐れんで、大慈大悲の御心をもって、御自ら 「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124P)
 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P)
 と仰せになりました。「法華経の行者」 とは、日蓮大聖人の御事です。
 したがって、日蓮大聖人の御生命が、即 「大御本尊」 であります。この御本尊こそ、我ら末法の衆生の成仏得道のために帰命すべき御本尊であり、天台・伝教大師が末法を恋い慕い、癩人でもよいから一目でも拝したいと願った 「未曽有の大御本尊」 であります。

 池田先生は、根本尊敬する生命について、次のようにご指導されています。
 人間の生命を根本尊敬する日蓮仏法こそ、まさに人間尊重の宗教の究極といってよい。そして、ここにこそ、新しき ヒューマニズムの源泉があるのだ。
 誰もが、平和を叫ぶ。誰もが、生命の尊厳を口にする。
 
 しかし、その尊いはずの生命が、国家の名において、イデオロギーによって、民族・宗教の違いによって、そして、人間の憎悪や嫉妬、侮蔑の心によって、いともたやすく踏みにじられ、犠牲にされてきた。
 いかに生命が尊いといっても、「根本尊敬」 という考えに至らなければ、生命も手段化されてしまう。
 
 ボリビアの人間主義の大詩人 フランツ・タマーヨは訴えた。
 「世の中に存在するすべては、生命に奉仕するために存在する。哲学も、宗教も、芸術も、学問も、すべて、生命に奉仕し、生命に仕えるために存在するのである」
 人類に必要なのは、この思想である。そして、生命が尊厳無比なることを裏付ける、確たる哲学である。
 
 人間の生命に 「仏」 が具わり、“本尊” であると説く、この仏法の哲理こそ、生命尊厳の確固不動の基盤であり、平和思想、人間主義の根源といってよい。
 その生命の哲理を、人類の共有財産として世界に伝え、平和を実現していくことこそ、自身の使命であると、伸一は決意していたのである。
 (新・人間革命第19巻・300P)

 *先生の御指導の前半部分がある 「生命を本尊とせよ」 の記事 → ここから
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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