質問に答えて (2)

 (2)大聖人が 「一閻浮提総与の大御本尊」 を御図顕されたのは、ご存知の通り弘安2年10月12日であります。ということは、御図顕される前は当然御本尊を現されてませんので、「御本尊のない時代」 にあたります。御本尊がないので、もちろんお仏壇もありません。
当時日蓮門下であった、四条金吾・富木常忍等さらに熱原の三烈士等の農民信徒(現在でいう学会員の方々)は、御本尊やお仏壇のない中、どこに向かって題目を上げ、そしてその祈りは叶ってなかったのでしょうか?
御本尊がないのに祈りが叶うのであれば、なぜ叶うでしょうか?

 
 ご承知のように、御本尊は、竜の口の法難で “発迹顕本” なされた後、佐渡期において、はじめて顕わされました。したがって、それ以前の成仏は、どう考えたらよいのか、ということであろうと思います。

 「成仏」 とは、自身が所具している仏界を開き顕わすことであり、“南無妙法蓮華経” という根源の種子を覚知し、自身が 「一念三千の当体」 であると悟ることです。ゆえに、正・像・末法という時代の違いによって、成仏の境涯に差別がある訳ではないのです。

 しかるに、“南無妙法蓮華経” が説かれてない正報・像法時代に、どうして自身が 「一念三千の当体」 であると悟ることができるのでしょうか、という疑問である。

 これは衆生の 「機根」 によるのである。機根とは、衆生が仏の説法を聞いて受け入れ、それに反応する能力・性質・可能性をいう。爾前経は、衆生の機根が別々であったが故に、それに随って種々の教説を説いたのである。このことを 「対機説法」 と言います。

 この点について、本尊抄には 「仏教已前は漢土の道士・月支の外道・儒教・四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り、又利根の菩薩凡夫等の華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て大通久遠の下種を顕示する者多々なり例せば独覚の飛花落葉の如し教外の得道是なり」(242P) と仰せです。

 仏教以前の道士・外道たちが、儒教や四韋陀と云うそれぞれの教えを縁として、法華の正見に入った者がおった。又利根の菩薩・凡夫は、爾前経の諸大乗経を聞いた縁によって、過去三千塵点劫のその昔、釈尊によって法華経の下種を受けたことを、思い起こした者が多々おったと云うのである。
 
 このことは 「利根の菩薩凡夫等」 とありますように、正・像時代の衆生は 「本已有善(本と已に善有り)」 と言って、歴劫修行の結果、すでに善根を積んでいたのである。これらの上機・上根の者は、釈尊の爾前経であっても、それを縁として法華の久遠元初の下種(南無妙法蓮華経)を思い起こし、得脱することができる機根の衆生である。

 しかし、末法の衆生は 「本未有善(本と未だ善有らず)」 と言って、善根を積んでなく、釈尊と縁のない衆生である。ゆえに、大聖人の仏法によって始めて下種され、ただ題目の五字によってのみ、即身成仏できる機根の衆生なのである。

 では、いまだ御本尊が顕わされていない佐渡以前の日蓮門下は、どうしていたのかと言うことであります。それは大多数の信徒は、釈迦如来像に向かって、“南無妙法蓮華経” と唱える唱題行に励んでいたと思います。

 このことについて大聖人は、富木常忍・四条金吾ご両人の釈迦如来像の造立を許して讃嘆されました。その理由について、日寛上人は 『末法相応抄』 に次のように述べられています。

 第一に、いまだなお弘教の初めであり、御正意でなくとも用捨時宜にしたがわれた。
 第二に、当時は日本国中一同に阿弥陀仏を本尊としていた中に、阿弥陀を捨てて釈尊を立てるのを讃嘆された。
 第三に、大聖人の観見の前には、釈迦の一体仏も全く一念三千即自受用身の仏と映ぜられたからである。

 また、次に「過去の下種結縁無き者の権小に執着する者は設い法華経に値い奉れども小権の見を出でず、自見を以て正義と為るが故に還つて法華経を以て或は小乗経に同じ或は華厳大日経等に同じ或は之を下す、此等の諸師は儒家外道の賢聖より劣れる者なり」(242P) と仰せです。

 もし過去に法華の下種結縁のない者で、現在権教小乗教に執着している者は、たとえ法華経に値っても権小の見解から抜け切れないで、自見をもって法華経を下し、邪見に陥るゆえに、儒教や外道の賢聖よりも劣る者である。ただし、過去の下種結縁がなくても権小に執着しない者は、法華の正見に入り得道することができるのである。
 このことは、信心修行するに当たっては、法華経の “こころ・精神” を能くよく弁えなければならないと言うことである。

 大聖人は 「諸法の心とは妙法蓮華経なり、伝教云く法華経を讃(ほ) むると雖も還つて法華の心を死(ころ) すと、死の字に心を留めて之を案ず可し」(709P) と。
 また、「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」(404P) と仰せです。

 「但爾前の経の利益なり」 と云うことは、成仏の大利益は得られないと言うことです。能くよく心して行かねばなりません。
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質問に答えて (3)

 (3)日蓮仏法の 「本尊」 は3つで1つについてです。
御書1337P 「生死一大事血脈抄」 前から2行目
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」
大聖人が 「この3つは全く差別なし」 というわれている、「久遠実成の釈尊」、「皆成仏道の法華経」、「我等衆生」ですが、具体的に何と何と何は3つ全く差別ないのでしょうか?

 
 [これは法体と修行とは、分けて考えなければならないと言うことです]―→ (コメント直後の私の回答です。そうしますと、直ぐに返事がきました)
 ⇒分けて考えるのではありません、3つ全く差別ありません。上記の通りです。 

 (では、この点について述べさせて貰います)
  そもそも 『生死一大事血脈抄』 の 「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解(さと) りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(1337P) の御文は、「血脈」 という信心修行に関することを述べられた御金言であります。

 この御文には 「御本尊」 のことについては、なにも論じられていません。ただ御本尊の名目を示して、わが身が御本尊と全く差別がないと理解し確信して、南無妙法蓮華経と唱え奉るところに、成仏の 「血脈」 が流れると述べられています。

 このように、成仏のための “信心の姿勢、心構え、修行” について、指導されている御文の中の 「三つ全く差別無し」 の一文を取り上げて、「我等衆生」 と 「御本尊(法体)」 とが、同じだと一体化視するなんて、無茶な論法である。
 ゆえに、はじめに 「法体と修行」 とは、分けて考えなければならないと申し上げた訳である。

 いくら 「生仏一如」 だから、“衆生も仏も、その本体は同じである” と言っても、それはあくまで、「理」 の・理論上の話であって、「事」 の・事実の上では、明昧(みょうまい) の差別があるのである。 昧は暗いという意で、無明・九界の凡夫に譬える。

 しかるに、仏の悟りの心(法性) と我等衆生の迷いの心(無明) とを、ごっちゃ混ぜにして、それがそのまま 「御本尊」 であるというのは、御書のどこの御文証にあるのか、また先生の御指導のどこにあるのか、明示してください。
 したがって、“本尊は3つで1つです” と言われるのは、何か勘違いされているようですので、よく目を開いて見てもらいたいと思います。

 また 「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」(869P) と仰せです。

 したがって、あえて上記の御文の3つを、「本・迹」 に分ければ、皆成仏道の御本尊・南無妙法蓮華経は 「本」、唱え奉る我等衆生は 「迹」 となります。
 教学を学ぶと言うことは、ある一面から言えば、事理・本迹等の勝劣を学び知ることであると思います。

 日蓮大聖人は、「而るを本迹を混合すれば水火を弁えざる者なり」(996P) と、厳しく御遺誡なされています。
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質問に答えて (4)

 (4)なぜ 「自分自身が仏」 であり 「自分自身が妙法の当体」 なのでしょうか?本当に自分は仏なのでしょうか?
  
 [これは妙法は能生の根源であるからです。それを悟るを仏という] ―→ (私のコメント欄の回答です)
 ⇒悟るのではありません。自身の中にある 「生命」 を 「仏」 といいます。法華経の智慧1巻28Pから先生が書かれております。
 
 「⇒悟るのではありません」 のご返事をみて、おやっと意外な思いになりました。それは仏教は、悟りの宗教と言われているからです。悟るのでないのなら、仏道修行は不要になります。「自分自身が妙法の当体」 なのだと覚知・悟るために、日々唱題し学会活動に励んでいるのではないでしょうか。

 「妙法の当体」 についてであるが、止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」(1339P)
 金錍論に云く 「乃(すなわ)ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」(239P)
 と仰せです。

 これ等の御金言は、人間だけでなくあらゆる実在するものは、中道実相・悉く本有常住の三因仏性を具足しており、非情の草木・瓦石の類いであっても、有情と同じく色心・因果を具足していて成仏するのである。

 『当体義抄』 に 「十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり」(510P) と仰せです。

 十界とは、地獄界から仏界までの十種の生命活動である。依正とは、依報と正報のことである。
 正法とは、主観的な立場、自己自身の生命である。
 依報とは、正報の拠りどころとなる非情の草木・国土、即ち環境世界である。

 一切の生命・事物の姿には、この依報・正報があり、しかも 「依正不二」 と言って、この二つは切っても切れない、一体不二の関係にある。依正とは、言わば 「生命」 と約することができるのである。
 
 この依正即ち一切の事物は、“南無妙法蓮華経” という 「法」 によって、動かされ成り立っているのである。ゆえに、妙法のことを 「能生の根源」・「根源の種子」・「根源の一法」 等々、称しているのである。

 このように 「妙法蓮華の当体なり」 と言っても、これはあくまでも、理の上の法相なのである。事の上・実際上では、『当体義抄』 に 「所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり」(512P) と仰せのように、“南無妙法蓮華経” と唱えた者のみが、真実の妙法蓮華の当体となり、仏界を湧現することができるのである。
 したがって、ただ自身の頭だけで理解するのと、生命の底から感得し・悟るのとでは、天地雲泥の差があるのである。

 「これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり」(1504P) と仰せのように、仏とは、悟って仏界の境界を開いた人なのである。それには、仏道修行が絶対不可欠なのであります。
 
 「⇒悟るのではありません」 となりますと、いまだ悟ってない凡夫の無明の心を、そのまま 「仏」 であると言うことになります。これは、平安中期の天台本覚思想と同じことになります。

 「天台本覚思想」 とは、人間の本性は一念三千の当体で 「仏」 そのものなのであるから、成仏を目指しての修行は何ら必要としないのである。現実をすべてありのままに受け入れ、変革の努力を放棄したところに、天台本覚思想としての堕落の面をみることができる。
 
 現実の絶対肯定の思想である本覚思想は、人間だけでなく非情の草木や国土にいたるまで一切の存在が、本来成仏の相を示しているとされた。刻々と生滅の変化を遂げるこの現実の姿こそが、永遠普遍の真理そのものとなるのである。それゆえに、国土が災害や社会悪によって地獄のような悲惨な様相を呈していたとしても、仏の目でみるとき、そこは浄土以外の何ものでもないとされたのである。

 当時の地獄絵図のような社会にあって、いわゆる鎌倉新仏教が誕生した。浄土宗の法然は来世の往生に救いを求めた。大聖人は死後の極楽往生を切望する念仏者を批判し、法華経の 「娑婆即寂光」 の理念に基づき、あくまで現実の娑婆世界に仏国土を築かねばならないとした。

 それにはまず、災難の起こる根本の因を邪法である法然の念仏によると喝破し(破邪)、釈尊の正法である法華経(文底独一本門)を立て(立正)、国土・社会を安穏ならしめん(安国) となされました。
 これに対して、天台本覚思想は現状肯定であり、念仏は現状逃避である。共に変革の哲理とはなり得ないのである。

 日蓮大聖人の “三大秘法の南無妙法蓮華経” こそ、現今の混迷せる国土・社会を救済することができる大仏法なのである。
 『立正安国論』 に云く 「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞(ことば)此の言(ことば)信ず可く崇む可し」(32P) と。

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生死と波の譬え

 『生死一大事血脈抄』 に、「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり …… 天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり」(1336P) と仰せです。

 これは 「妙は死」 「法は生」 ということは、「妙法」 そのものが 「生死の二法」 である。また、あらゆる生命の生死、あらゆる天地の現象の起滅が、ことごとく 「妙法蓮華経の生死」 であり、言うなれば、「生と死」 は本来的に 「妙法蓮華経」 に具わっているということです。

 池田先生は 『生死一大事血脈抄講義』 において、この 「妙法」 と 「生死」 の関係を大海原の波の譬えをもってご指導されています。 
 言うまでもなく、大海原が 「妙法」 であり、波が 「個々の生命」「個々の現象」 に当たります。そして、波が大海原から起こり、大海原に還っていくことが 「生」 と 「死」 に当たります。
 ここで注意すべきことは、個々の波が大海原に呑み込まれて消えていくように、個々の生命も死ぬと妙法の海に呑み込まれて消えていくのではない、という点です。

 外からは見えなくとも、海中には種々の海流が厳然と流れていると考えてみれば、生と死の違いは、海面に現れた波と、海中でうねる海流との違いといえるかもしれない。決して生命が死んで消えていくのではない。生も死も、ともに妙法のうねり以外のなにものでもないのです。
 海中のうねりは海面に現れて波となり、また、海中に没して見えないうねりとなる。同じように、生として現れた生命の波は、死によって妙法の海に溶け込み、見えなくなりながらも、うねりを持続している。そして、何らかの機縁に応じて、また新しい生命の波として出現するのです。
(同書53P) 

 戸田先生は、よく、死後の生命は大宇宙のなかに溶け込むと語られていました。
 この大宇宙の生命それ自体が、十界具足の生命です。大宇宙そのものに地獄もあり、餓鬼もあり、仏界もあります。私たちもまた、この大宇宙の地獄界なり、餓鬼界なり、菩薩界なり、そして仏界なりへと、それぞれの境界へ溶け込んでいきます。
 私たちの生命は、溶け込んでいるといっても、厳密に言えば、もともと、宇宙の生命それ自体です。大宇宙の海そのものが、刻々と変化を起している。常に、動き、変化しながら、「生」 と 「死」 のリズムを奏でている。

 前回、確認したように、一次元の譬喩で言えば、私たちの個々の生命は、大宇宙という大海から生まれた 「波頭」 のようなものです。波が起こることが、私たち個々の生命の 「生」。また大海と一つになれば、私たちの生命の 「死」 です。
 大宇宙に溶け込んだ死後の生命は、大海の中のうねりのようなものであり、決して一個所に固まっている訳ではない。大宇宙の生死のリズムに合わせて、宇宙に遍満しながら、動いている。
(同書73P) と述べられています。

 以上のように、波が起これば 「生」、大海と一つになれば 「死」 という絶妙な譬喩をもって教えて下さいました。
 宇宙生命も一個の生命も、この 「生と死」 が永遠に繰り返されて続いている、と日蓮仏法は説いているのである。

 しかれば、仏教以外の教えは、おおかた、どの様に言っているのであろうか。
 欧州統合の提唱者、クーデンホーフ・カレルギー伯が、池田先生と対談したときに、面白いことを言っていました。
 それは 「東洋人、とくに仏教徒にとって、この人生は本の一ページである。終わっても、めくれば次のページが出てくる。ヨーロッパ人にとっては、人生は一冊の本であって、終わればそれでお仕舞いだ。(趣意)」 ということです。
 キリスト教には、東洋的な輪廻観、即ち、生命は生死・生死と繰り返すという考えはないようです。この世界での生は今世だけで、ゆえに、死ぬのは一回だけということです。
 そして最後の審判の日に、神を信じた者は天国で永遠に生き続けるという。それに対して、神を信じなかった者は地獄に落ちるとされている。

 仏教でも権教の念仏宗などは、この世は穢土であり成仏できないから、念仏でも唱えて死んで、あの世で極楽浄土に往生しょうというのである。
 いずれも、子供じみた架空のおとぎ話の様なものである。本当は、死んでからのことが解かっている訳ではない。今世で苦悩が解決できなくて、どうして来世の安穏が確信できるのかと聞きたい。
 このようなことだから、生命が 「生死・生死」 と繰り返すなんて、確信がないから恐ろしくて言えないのである。

 要は現世で、どう 「永遠の価値」 を創っていくかと言うことである。それが出来るのが日蓮仏法である。
 大聖人は 「自身法性の大地を生死生死と転(め)ぐり行くなり」(724P) と仰せです。

 池田先生は、次のように指導されています。
 すなわち妙法を信仰した者は、法性の大地、仏界の大地の上を、「生」 の時も、「死」 の時も悠々と前進していく。大白牛車という壮麗な最高の車に乗って、自在に進むのである。「仏界の大地」 とは、絶対に崩れない幸福境涯のことである。大地のごとく盤石に固めに固めた自分自身の成仏の境涯である。その境涯を固めたら、三世永遠に続く。だから 「今世で頑張りなさい」 というのである。
 自分自身が 「法性の大地」 の上を、「生も歓喜」 「死も歓喜」 と前進する。これが 「生死、生死とめぐり行くのである」 ということである。
(輝きの人間世紀へ・402P)
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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