『二十一世紀への対話』(トインビー対談)より (死後の生命)

 1972年5月 (昭和47年)、池田先生は イギリスの20世紀最大の歴史家と称された、アーノルド・トインビー博士との対談を開始されまして、本年で早や 40周年になります。
 対談は、ロンドンにある トインビー博士のご自宅で行われました。当時、博士は 83歳、池田先生は 44歳で、1972年と 73年に、延べ 40時間にわたって行われました。

 対談では、人生と社会、政治と世界、生命倫理など多くの テ-マが語り合われ、対談集は 「21世紀への対話」 として、1975年に日本で発刊されました。翌年には、英語版 「生への選択」 が刊行され、現在では、世界 28の言語で出版されています。
 また、各国の誇る最高学府で教科書として使用され、ある博士は 「長年、探し求めてきた テキストであり、学ぶべき課題と解答がすべて語られている」 と絶賛しています。

 対談集が発売されたとき、一度は読んだと思うが内容は全くと言っていいほど記憶にありません。新聞の対談 40周年記念の記事を見て、あらためて読み直そうと思いました。
 丁度この ブログで、生命について少々述べていますので、『二十一世紀への対話(下)』 ①生命の起源(211P) のところから読んでみました。

 生命の永遠性・死後の生命は、時間とか空間とかでは捉えられないものであり、池田先生は仏法の 「空」 の概念について述べられています。

 池田  仏法では死後のわれわれの生命の存在の仕方を “空” という概念でとらえています。 “空” というのは、現象としては現われなくとも、厳然と実在する状態のことをいいます。 実在するといっても、それは目には見えませんから、“無” と変わらないともいえましょう。 しかし、実在する以上、縁にふれて目に見える現象として現われるのです。 そうなると、“無” とはいえません。 つまり、“有” と “無” という二つの概念だけでは表現できない状態です。
 結局、仏教の教えによれば、生命の本質は “生” すなわち “有” と “死” すなわち “無” とを現じながら、永遠に存続していく超時間的実在であるということができます。


 トインビー博士は、“宇宙の背後にある究極の精神的実在” に帰ることが死であると述べられています。このことを仏教では、「仏界」 とよんでおるものであります。

 トインビー  結論として、死という現象は、われわれが身心統一体として見慣れている人間存在のうち、肉体面の分解をともなうわけですが、しかしそれは、“実在それ自体” からみれば、じつは人間の知的着想力の限界から生じる幻想にすぎないことになります。 したがってまた、“究極の実在” ないし “空” に関する疑問は、空間とか時間とかの観点から公式化してみたところで、回答が得られないわけです。……
 私は、“実在それ自体” には時間もなければ空間もないと信じています。 といって、それが時間と空間に束縛されたこの世界から、全く遊離して存在するものだとは思っていません。

 
 池田先生は、さらに三諦論を駆使されて、死後の生命を説明されています。

 池田  大乗仏教においては、“生死不二” といって、生と死という時間・空間次元の現象は、時・空を超えた実在である生命の、二つの異なった顕われ方であると説いています。 個々の生命体は、生命が顕在化した状態であり、死とはその生命が “冥伏” した状態です。 冥伏とは無に帰することではありません。
 さきほどから私が提起してきた “空” の概念は、目には見えなくとも厳然と実在する、有無のいずれか一方に決めることのできない概念です。 これに対して、現実にさまざまな個別の姿をとって現れてくる姿を “仮(け)” と名づけています。 身心統一体としての生とは、この “仮” の姿であり、しかもそのなかに “空” をはらんでいます。 死後の生命は “空” として実在しながら、そのなかに “仮” の傾向性、方向性をはらんでいます。 そして、この “空” と “仮” を貫く生命の本質を “中” と呼んでいます。 あるときは顕在、あるときは冥伏という姿をとりつつも、無限に持続していく生命の本質ということです。
 この持続していく生命の本質とは、現代の哲学用語でいえば、最も根本的な意味での “自我” という表現に通ずるものです。 さらに仏法では、この “空” と “仮” と “中” は円融一体のものであって、それらを全体として統一的に把握しなければならないと説いています。


 トインビー  生命は、はたして死後も存続するのか。また、肉体が無機物の世界へと還元されてしまった後、精神はどこへ行くのか。 ―― 要するに、これらの疑問は、空間とか時間の基準からは答えられず “空” ないし “永遠” の概念によって初めて答えられるのだと信じます。
 
 以上のように、トインビー博士は 「生と死」 の回答を、特に仏教の “空” の概念に求められておられました。少々、長い引用になりましたが、詳しくは 「二十一世紀への対話」 を、是非お読みくださるようお願い致します。

 “空” について戸田先生のお話 ―→ ここから
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対談集の序文を読んで

 『二十一世紀への対話』 の序文を読んでみました。
 トインビー博士は、比較的に長文の序文を寄せられており、この対談集にかける意気込みのようなものを感じました。

 まず、はじめに 「本書が広範な話題を扱っていることをただちに知るはずである」 と述べられています。
 そして博士は 「本書において、人類史の次の段階では、西欧がその主導権を東アジアに譲り渡すことになろうと予測し、そのいくつかの理由をあげている」 と述べられている。
 現今の中国の台頭をみると、40年前のことであるが、その慧眼の正しさに感じ入りました。

 「両著者は、人類の存続に不可欠の条件として、人類がその姿勢、目標、行為に根深い変革を行うことの必要性をともに信じている。 ただ、全体としてみれば、アーノルド・トインビーは、人類がそうした根深い変革をなすには高価な代償を支払わねばならないと予測する点で、池田大作よりも悲観的である」 とあります。

 これは博士の人類史観が、文明はあらゆる 「挑戦」 を受け、それに 「応戦」 し勝利しゆくところに発展があるという史観によるところであろう。

 「しかしながら、両著者におけるそうした宗教的、文化的背景の違いを考えると、むしろ二人の間で交わされた対話には、それぞれの人生観、目的観に、驚くほどの合致がみられるのである。 しかも、そうした合意点はきわめて広範囲に及んでいる。 そして相違点は比較的わずかである。 まず、二人は宗教こそが人間生活の源泉であると信ずる点で同じ見解に立っている。……」 等々。

 このように多くの共通点があるのは、 「二人の共著者がその哲学論、宗教論を交わすにあたって人間本性中の意識下の心理層にまで分け入り、そこにいつの時代、いかなる場所においてもあらゆる人間に共通する、人間本性の諸要素というべきものにまで到達していることが考えられよう。 すなわち、人間本性の諸要素といえども、やはり森羅万象の根源をなす究極の存在基盤から発生した存在だからである」 と述べられている。

 トインビー博士は、 「池田大作に感謝の意を表したい。 本対談を行うに当たり、池田大作がその イニシアチブをとってくれたこと、またその後本書の発刊にさいして諸手配をしてくれたことに対してである。 すなわち、アーノルド・トインビーがすでに旅行を困難と感ずる年齢に達していたとき、池田大作は進んで訪英の労を取り、わざわざ日本から会いに来てくれた。 本対談中の彼自身の発言部分についての英訳を手配したのも、本書の全内容を書物形式に編集すべく手を尽くしてくれたのも、これまた、大変な仕事であった」 と、具体的な例を引かれてまで、心からの感謝の意を表している。

 池田先生も、 「この世界的に著名な歴史家が、浅学未熟な一若輩に心から胸襟を開き、終始温かい態度でまったく対等の立場に立ち、諸般にわたる意見の交換をしてくれたことに」 甚深の謝意を表している。

 対談の期間中に、東西の首脳会談等のものが催されていて、連日大々的に マスコミで報道されていたとのことである。
 この状況をみて博士は、 「そのようなことは 10年もすれば、みんな忘れ去ってしまい記憶に残らないだろう。それよりも今、ここで行っているこの対談の方が、より重要であり未来に輝くだろう。 …… また、あなたは私より、多くの名誉博士号を受けられるでしょう。(趣意)」 と仰せられたと聞いたことがあります。

 40 時間にもわたった対談を終えた際、トインビー博士は、池田名誉会長の手を握りしめて言った。
 「私は、対話こそが、世界の諸文明、諸民族、諸宗教の融和に、極めて大きな役割を果たすものと思います。 人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話を、さらに広げていってください」
 そして、ローマクラブの創立者 ペッチェイ博士など、友人の名前を記したメモを託し、会うことをすすめた。  (ソーカネットより)

 『二十一世紀への対話』 は、今や 「人類の教科書」 「全指導者の必読書」 と讃えられている。未だ読まれてない方は、是非一読されますようお願い致します。

 ソーカネットの記事 → ここから
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自殺について

 『二十一世紀への対話』 の序文には、「両著者におけるそうした宗教的、文化的背景の違いを考えると、むしろ二人の間で交わされた対話には、それぞれの人生観、目的観に、驚くほどの合致がみられるのである。…… そして相違点は比較的わずかである」 とあります。
 その相違点なるものについて、かつて、男子部の指導会だったと思うが、それは 「自殺」 についてであると聞いたことを思い出しました。そこで、“自殺と安楽死” のページを開いてみました。

 トインビー  ただし、寿命はまだあっても、もはや希望はない、という場合もあります。 そのような場合、その人が正気を保っているかぎり、私は、当人が熟慮のすえ、なお死を願うというのを、邪魔してはならないと考えます。 このような状況にある人が、もしも安楽死を願うのなら、私は、その願いはかなえてあげるべきだと思います。 また、その人が自殺を選ぶというのなら、それも決してひきとめるべきではない、と断固主張したいのです。
 
 池田  北伝仏教では、あらゆる人間の生命は尊極なる至宝 ――すなわち、仏界あるいは仏性―― を内包した宝器であると説いています。 生命は、いかなる等価物も持たないという意味でも尊厳ですが、そればかりではありません。 生命には仏界が潜在しているが故に尊厳なのです。 仏界とは、宇宙と生命の究極の実相を究めた知恵、および宇宙生命と自己の生命の一体性を覚知したところから湧きいずる無限の生命力をそなえた実在であり、真実の幸福を築く源泉となるものです。
 結局、北伝仏教の教義のなかには、自殺や安楽死を直接禁じている言葉は見当たらないにしても、それは許してはいないと考えられます。

 …… 仏教は、過去・現在・未来の三世にわたる生命の連続を前提とし、それにしたがって人間のもつ宿業もまた持続していくものと考えます。 苦しみは死によって終わるのではなく、苦しみの業として死後も続いていくとするのです。 この業そのものは、その人自身の力で転換する以外にありません。 このように考えれば、仏教には、安楽死を正当化する根拠は何もありません。 また、自殺についても、生命は宝器であるという理由から、認めることはできません。
 ただし、もとより生命が連続するかどうかということ自体、客観的に証明することができませんから、それを前提とした、 安楽死や自殺をどう考えるかということも、一つの “信念” の問題になります。 しかし、人間生命が尊極で、かけがえのないものと考える以上、私は、故意に生命を縮めることは許されないと信ずるのです。
 

 先生は “苦しみは死によって終わるのではなく、苦しみの業として死後も続いていくとするのです” と述べられています。
 
 『総勘文抄』 に、 「本覚の寤(うつつ)を以て我が心性を糾(ただ)せば生ず可き始めも無きをが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火(ごうか)にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭(きゅうせん)にも射られず芥子(けし)の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭(せま)からず」(563P) とあります。

 私は初めて 「劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず」 の文に接した時、“ありゃ,これはなんじゃろか!” と思いました。普通、我われが死というものを考える場合、自身の肉体の消滅を伴なうわけです。それなのに 「劫火にも焼けず……」 と言われても、なかなか得心がいかず不思議な感じがしました。
 しかし、仏の本覚の寤(悟り) をもって捉えると、我が心性(生命)は 「生」 も 「死」 もなく、既に生死を離れているのが真実の姿なのである。したがって、たとえ我が身を殺しても無に帰することではなく、その苦しみや業は続くのである。
 さらに、先生は次のように述べられています。

 池田  私は、博士の主張された 「人間は自殺する権利をもつ」 ということを否定するものではありません。 ただし、その 「自らの生を終える」 ということを決定する主体は、知性や感情ではなく、もっと本源的な、その生命自体であるべきだと思います。

 知性、理性、感情は、この生命自体の表面の部分であって、生命全体ではありません。 知性や理性、感情は、この全体的生命を守り、そのより崇高な発現のために奉仕すべきものです。 それが生命の尊厳を守り、尊厳性を現実化する道であると考えます。
 したがって、知性や理性、感情には、全体的生命を破壊したり、その持続を終息させる瞬間を決定する権利はないといわざるをえません。 全体的生命のみが、その生の終焉(しゅうえん)を決定する権利をもつといえましょう。 …… それは、知性や感情がかかわりえない、意識下の深層にあるわけです。

 知性や理性、感情が、生命のより崇高な発現のために、正義、勇気、慈愛をめざしていくべきであるのは、当然のことです。 その理想の追求のために、全体的生命を危険に陥らせることがあったとしても、それは認められなければならないと思います。 むしろ、自己保身のために正義を曲げたり、臆病になったり、他の人を犠牲にすることは、その人の生命の尊厳性を傷つけることでしかありません。 この点、仏教でも、法の正義を守るため、利他のためには、自らの生命を惜しんではならないと教えています。
  (二十一世紀への対話上・320~334P・抜粋)

 わが国では、毎年・3万人以上の自殺者が出ているそうである。これは先進諸国の中では、ダントツの一位である。いろいろ防止策は講じられておるようであるが、根本的には、その人自身の人生観・生命観に帰結するものと思います。

 大聖人は、 「念仏宗と申すは亡国の悪法なり、…… 善導と申す愚癡(ぐち)の法師がひろ(弘)めはじめて自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(1509P) と念仏宗を破折されています。
 
 “オウム” を信じた者たちは、殺人者に仕立て上げられたのである。いかに間違った宗教・思想が、諸悪の・不幸の根源であるのか、お解かり頂けたであろうと思います。しかし、一般の方々は無関心なる故なのか、このことを知ろうともしないのである。
 『開目抄』 に、 「結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(200P) との大聖人の御意を体して、妙法弘通に励むのみである。 
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戸田先生の生命論 (1)(生命の不可思議)

 「生命論」 といえば、戸田城聖先生の 「生命論」 を抜きにしては語れないと思う。それは戸田先生が、あの戦時中の牢獄の劣悪な環境のなかで、激烈な思索と唱題のすえに、法華経の極意を感得なされた先生であるからです。

 戸田先生の 「生命論」 は、雑誌・大白蓮華の創刊号(昭和24年7月) に掲載された論文である。戦後の創価学会の再建と会社経営という超多忙の中、原稿の締め切りに追われながら、短期間で原稿用紙わずか三十枚あまりの、解かり易い論調で書かれたものである。
 しかし、短期間といっても決して雑なものではなく、その発想の場というものは、あの獄中での生命を懸けた深い思索と体験に裏づけられているのである。その中には、幾多の新学説と原理・方程式が含まれているのである。

 まず、はじめの 「生命の不可思議」 の章では、発想の場について述べられています。

 冷たい拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送っているうちに、思索は思索を呼んで、ついには人生の根本問題であり、しかも、難解きわまる問題たる 「生命の本質」 につきあたったのである。「生命とは何か」 「この世だけの存在であるのか」 「それとも永久につづくのか」 これこそ、永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。

 不潔な拘置所には、シラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミは、のこのこと遊びにはい出してきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、かれらは一心に手足をもがいている。まず、一匹をつぶしたが、ほかの一匹は、そんなことにとんちゃくなく動いている。つぶされたシラミの生命は、いったい、どこへ行ったのか。永久にこの世から消えうせたのであろうか。

 また、さくらの木がある。あの枝を折って、かびんに差しておいたら、やがて、つぼみは花となり、弱々しい若葉も開いてくる。このさくらの枝の生命と、元のさくらの木の生命とは、別のものであるか、同じものであるのだろうか。生命とは、ますます不可解のものである。
 ………
 そこで、私は、ひたすらに、法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。そして、法華経の不思議な句に出会い、これを身をもって読みきりたいと念願して、大聖人の教えのままにお題目を唱え抜いていた。唱題の数が二百万べんになんなんとするときに、私は非常に不思議なことにつきあたり、いまだかつて、はかり知りえなかった境地が眼前に展開した。よろこびにうちふるえつつ、一人独房の中に立って、三世十方の仏・菩薩、いっさいの衆生にむかって、かく、さけんだのである。
 遅るること五年にして惑わず、先だつこと五年にして天命を知りたり。
 かかる体験から、私は、いま、法華経の生命観に立って、生命の本質について述べたいと思うのである。


 先生は、ひたすらに、法華経と御書を拝読したと述べられています。昭和19年元旦を期して、毎日 『日蓮宗聖典』 を手にし、そのなかの法華経を読むことにした。
 この法華経を読むきっかけになったのに、不思議なエピソードがあります。

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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