戸田先生の生命論 (2)(三世の生命)

 次の 「三世の生命」 の章は、法華経の譬喩品・化城喩品・如来寿量品の経文を引かれながら、三世の生命について述べられています。

 『寿量品の自我偈』 にいわく、「我仏を得てより来(このかた) 経(へ)たる所の諸の劫数(こつしゆ) 無量百千万 億載阿僧祇(おくさいあそうぎ)なり」

 およそ釈尊一代の仏教は、生命の前世、現世および来世のいわゆる三世の生命を大前提として説かれているのである。ゆえに、仏教から三世の生命観をぬきさり、生命は現世だけであるとしたならば、仏教哲学はまったく、その根拠をうしなってしまうと考えられるのである。しこうして、各経典には、生命の遠近(おんごん)、広狭(こうきょう) によって、その経典の高下浅深がうかがわれるのである。
 さらに、日蓮大聖人にあっても、三世の生命観の上に立っていることはいうまでもない。ただ、釈尊よりも大聖人は、生命の存在をより深く、より本源的に考えられているのである。


 『開目抄』 にいわく、「儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す …… 貴賤・苦楽・是非・得失等は皆自然(じねん)等云云。
 かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄(げん)とは黒なり幽なり、かるがゆへに玄という、但(ただ)現在計りしれるににたり」(186P)


 かかる類文(るいもん)は、あまりにも繁多であり、三世の生命なしに仏法はとうてい考えられないのである。これこそ、生命の実相であり、聖者の悟りの第一歩である。しかしながら、多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。しかるに、吾人の立場からみれば、否定する者こそ自己の生命を科学的に考えない、うかつさを笑いたいのである。

 およそ、科学は因果を無視して成り立つであろうか。宇宙のあらゆる現象は、かならず原因と結果が存在する。生命の発生を卵子と精子の結合によって生ずるというのは、たんなる事実の説明であって、より本源的に考えたものではない。あらゆる現象に因果があって、生命のみは偶発的にこの世に発生し、死ねば泡沫のごとく消えてなくなると考えて、平然としていることは、あまりにも自己の生命に対して無頓着者といわねばならない。

 いかに自然科学が発達し、また平等をさけび、階級打破をさけんでも、現実の生命現象は、とうてい、これによって説明され、理解されうるものではない。われわれの眼前には人間あり、ネコあり、イヌあり、トラあり、すぎの大木があるが、これらの生命は同じか、違うか。また、その間の関連いかん。

 同じ人間にも、生まれつきのバカと、りこう、美人と不美人、病身と健康体等の差があり、いくら努力しても、貧乏人である者もおれば、また貪欲や嫉妬になやむ者、なやまされる者などを、科学や社会制度では、どうすることもできないであろう。かかる現実の差別には、かならずその原因があるはずであり、その原因の根本的な探究なしに、解決されるわけがないのである。


 以上のように、生まれながらにして病身や不健康体などのいろいろな差別は、どう説明すればよいのであろうか。
 キリスト教のいうように、全知全能の宇宙創造神が人間を創るならば、このような病身や容姿をもって生まれてきた原因は、神の摂理(配慮・思し召し)によるとしか答えられない。恵まれた人は良いが、恵まれない人にとっては、神とは冷酷非情なものになりかねません。
 
 戸田先生は、「かかる現実の差別には、かならずその原因があるはずであり、その原因の根本的な探究なしに、解決されるわけがないのである」 と述べられています。この原因の根本的な探究には、日蓮仏法の正しい 「三世の生命観」 による以外にはないのである。
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戸田先生の生命論 (3)(永遠の生命)

 「永遠の生命」 の章においては、「人間の生命は三世にわたるというが、その長さはいかん」 と問いかけられ、この命題こそ、また仏法の根幹であるがゆえに、法華経の経文と御書の御文を引かれて述べられています。

 『妙法蓮華経如来寿量品』 にいわく、
 「然るに善男子、我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由佗劫なり。譬えば、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使(たとい)人あって、沫して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃(すなわ)ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意(こころ)に於て云何(いかん)。是の諸の世界は、思惟し校計(きょうけい)して、其の数を知ることを得べしや不(いな)や。
 弥勒菩薩等、倶(とも)に仏に白(もう)して言(もう)さく。世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所に非ず。亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞、辟支仏、無漏智を以ても、思惟してその限数を知ること能(あた)わじ。我等阿惟超越致地(あゆいおっちじ)に住すれども、是の事(じ)の中に於いては、亦(また)達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。
 爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に、汝等に宣語すべし。是の諸の世界の、若しは微塵を著(お)き、及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来(このかた)、復(また)此れに過ぎたること百千万億那由佗阿僧祇劫なり。是れより来(このかた)、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」


 右(上)の経文は、釈尊の、かず多くの経文中、もっともたいせつな部分であり、悟りの極底である。その大意をいうならば「お前たちは、みな、私がこの世で仏になったと思っているが、じつは自分が仏になったのは、いまから五百塵点劫という、かぞえることもできないほど昔に成仏して、常にこの娑婆世界にいて活動をしているのである」 という意味であり、自分の生命は、現世だけのものではなく、また悟りも現世だけのものでなくて、永久の昔からの存在であると喝破しているのである。 

 また、寿量品の文を引かれて、「福徳の薄い心の濁った者は、生命は現世だけであると考えているが、真実の生命の実相は無始無終であると説かれているのである」 と述べられている。

 日蓮大聖人におかれては、釈尊が仏の境涯から久遠の生命を観ぜられたのに対して、大聖人は名字即の凡夫位において、本有の生命、常住の仏を説きいだされている。すなわち凡夫のわれわれのすがた自体が無始本有のすがたである。瞬間は永遠をはらみ、永遠は瞬間の連続である。久遠とは、はたらかさず、つくろわず、もとのままと説かれているのである。

 そして次に、御書の要文をひかれて、「大聖人の直達正観・事行の一念三千こそ、もっとも生命の実体を、より本源的に説き明かされている」 と述べられている。(要文は一部分です、あしからず)

 『三世諸仏総勘文教相廃立』 にいわく、「釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、…… 在在・処処に八相作仏」云云。(568P)
 『当体義抄』 にいわく、「聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す …… 妙覚果満の如来と成り給いしなり」(513P) 
 『十法界事』 にいわく、「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず …… 故に無始無終の義欠けて具足せず」云云。(421P) 
 『御義口伝下』 にいわく、「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、…… 唯凡夫の当体本有の儘(まま)を此の品の極理と心得可きなり」(752P)

 戸田先生は、大聖人の観心釈をもって、「永遠の生命」 について述べられている。
 生命とは、宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとから偶発的に、あるいは何人かによって作られて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物とみることもあやまりである。われわれは、広大無辺の大聖人のご慈悲に浴し、直達正観事行の一念三千の大御本尊に帰依したてまつって、「妙」なる生命の実体把握を励んでいるのにほかならない。

 あるいは、アミーバから細胞分裂し、進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。しからば、赤熱の地球が冷えたときに、なぜアミーバが発生したか、どこから飛んできたのかと反問したい。

 地球にせよ、星にせよ、アミーバの発生する条件がそなわれば、アミーバは発生し、隠花植物の繁茂する地味、気候のときには、それが繁茂する。しこうして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、いたるところに条件がそなわれば、生命の原体が発生するのである。

 ゆえに、幾十億万年の昔に、どこかの星に人類が生息し、いまは地球に生き、さかえているとするも、なんの不思議はないのである。また、いずれかの星に、まさに人間にならんとする動物がいることも考えられ、天文学者の説によれば、金星が隠花植物の時代であるとの説を聞いたことがあるが、私は天文学者ではないから、これを実証することはできないにしても、さもありなんと信ずるものである。あるいは、蛋白質、そのほかの物質が、ある時期に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはいかないのである。生命とは宇宙とともに本有常住の存在であるからである。


 『法華経寿量品』 の 「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」 の文は、釈尊がご自身の生命に即して 「永遠の生命」 を説いたのである。これを 「発迹顕本」 といいます。
 すなわち、釈尊がインドに誕生して、十九歳で出家し、三十歳で成道したというのは、衆生を教化するために迹を垂れたものであり(始成正覚)、その本地は五百塵点劫以来、三世常住の仏(久遠実成)であると明かした。
 それ以来、常に此の娑婆世界に在って、無数の衆生を説法教化してきたのである。このように仏の寿命は無量であり、常住にして不滅であると説いたのである。
 
 池田先生は、『法華経方便品・寿量品講義』 のなかで、次のように述べられています。
 戸田先生は言われた。「日蓮大聖人の生命というもの、われわれの生命というものは、無始無終ということなのです。これを久遠元初といいます。始めもなければ、終りもないのです。大宇宙それ自体が、大生命体なのです。
 大宇宙ですから、始めもなければ終りもないのです。このままの地球だけなら始めも終りもあるのです」 と。
 私たちの生命は、創造神のような “作者” によって作られた “作品” ではない。宇宙とともに実在し、宇宙とともに無限に続きゆくものです。あえていえば、生命自体が作者でもあり、作品でもあるのです。
  (小冊子・2寿量品編・87P)
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戸田先生の生命論 (4)(生命の連続)

 最後の 「生命の連続」 の章は、「生命は永久であり、永遠の生命であるとは、人々のよく言うところであるが、この考え方には、いろいろの種類がある」 と述べられ、2~3の例題をあげられて、それらはみな不正確な生命観であるので、「こんな観念論的な永遠は吾人のとらないところである」 と述べられている。

 寿量品の自我偈には 「方便現涅槃」 とあり、死は一つの方便であると説かれている。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、たんなる方便である。人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。そのように、人も老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便において、若さを取り返す以外にない。
 
 『観心本尊抄』 では、十界について、次のようにのべられている。
 「数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平(たいら)に或時は貪(むさぼ)り現じ或時は癡(おろか)現じ或時は謟曲(てんごく)なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・謟曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり (乃至) 世間の無常は眼前に有り豈(あに)人界に二乗界無からんや、無顧(むこ)の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し」云云。(241P) 

 われわれの日常生活における心の状態を、よくよく思索するならば、瞬間瞬間に、一念一念と起きては消え、起きては消えているのが、貪りとか、よろこびとか怒りである。そして、二つの念が一時に起こることは、けっしてありえないのである

 このように、本尊抄の十界の文を引かれて、我われの日常生活上に起きる種々の生命情況を、仏法の 「空観」 をもって、次のように解かりやすく説明されています。

 われわれの心の働きをみるに、よろこんだとしても、そのよろこびは時間が立つと消えてなくなる。そのよろこびは霊魂のようなものが、どこかへいってしまったわけではないが、心のどこかへとけこんで、どこをさがしてもないのである。

 しかるに、何時間か何日間かの後、また同じよろこびが起こるのである。また、あることによって悲しんだとする。何時間か何日か過ぎて、そのことを思い出して、また同じ悲しみが生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、前の悲しみと、あとの悲しみと、りっぱな連続があって、その中間はどこにもないのである。

 同じような現象が、われわれ日常の眠りの場合にある。眠っている間は、心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて、起きている場合には心がある。あるのがほんとうか、ないのがほんとうか、あるといえばないし、ないとすれば、あらわれてくる。

 このように、有無を論ずることができないとする考え方が、これを空観とも妙ともいうのである。この小宇宙であるわれわれの肉体から、心とか、心の働きとかいうものを思索してこれを仏法の哲学の教えを受けて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。

 前にものべたように、宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする。死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみの間に何もなかったように、よろこびと、よろこびの間に、よろこびがどこにもなかったように、眠っている間、その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命にとけこんで、どこをさがしてもないのである。霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。大自然のなかに溶け込んだとしても、けっして安息しているとは限らないのである。あたかも、眠りが安息であると言いきれないのと同じである。眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りになやんでいる人もあると同じである。

 この死後の大生命にとけこんだすがたは、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、自然に会得するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目に写る生命活動となってあらわれてくる。ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。

 かくのごとく、寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永遠の生命を保持している。その生と生の間の時間は、人おのおの、ことなっているのであるから、この世で夫婦・親子というのも、永久の親子・夫婦ではありえない。ただ、清浄なる真実の南無妙法蓮華経を信奉する、すなわち、日蓮大聖人の弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を信ずるもののみが、永久の親子であり、同志である大功徳を、享受しているのである。


 池田先生は、『法華経の智慧』 の中で、次のように述べられています。
 名誉会長 戸田先生はよく 「われわれの生命は、死後、大宇宙に溶けこむんだ」 と言われていた。霊魂ではなく、色心不二の生命そのものが大宇宙に帰っていく。
 
 大宇宙そのものが、一つの大生命です。大生命の海です。あらゆるものを育み、あらゆるものを生かし、働かせ、死せるあらゆるものを、再び、その腕に抱きとって、新たなエネルギーを与えていく。満々とたたえられた大生命海がある。その海は、常に動いている。動き、変化しながら 「生」 と 「死」 のリズムを奏でている。

 私たちの生命も、大宇宙という大海から生まれた 「波頭」 のようなものです。波が起これば 「生」、また大海と一つになれば 「死」 です。永遠に、これを繰り返していくのです。人間の生命だけではない。 

 日蓮大聖人は、「天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし」(1336P) と仰せです。
 「天地・陰陽・日月・五星」 とは、いわゆる天体の世界でしょう。星にも誕生があり、死がある。寿命がある。一つの銀河にも誕生がありい、死があり、寿命がある。生死の二法です。ミクロの世界も同様です。また地獄界から仏界という 「法界」 にも生と死がある。あるときは生の地獄界となり、あるときは死の地獄界となる。
 また大聖人が門下の南条時光のお父さんについて、「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(1504P) と仰せのように、即身成仏の仏果は死をも超えて続く。全宇宙のありとあらゆるものが 「生死の二法」 の永遠のリズムを織り成しているのです。
  (法華経の智慧・4巻・331P)
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戸田先生の生命論 (5)(池田先生のお話し)

 池田先生は 「人間革命第四巻」 において、戸田先生の 「生命論」 の卓越性について、色々な面から述べられています。

 池田先生は死後の生命の存続について、西洋哲学では 「有無」 の両極端に要約し、「空」 とか 「中」 という概念にとぼしい。「空観」の理解なくして、生命は絶対に理解できない。空観の妙が、そのまま生命の連続する姿を示す、不思議さなのである、 と仰せられ 「永遠の生命」 を理解するためには、どうしても 「空」 の概念の理解が必要であると述べられています。
 その難解な 「空観」 の概念を、戸田先生は、日常のありふれた事柄を譬えにして、我われが理解できるように解かりやすく説いて下さったのである。

 彼(戸田) は、この面倒な死後の生命について、科学的に実証できない現在、これは一応、仮説とみなされても仕方ないと思った。ただ、この仮説を素直に信じ、真面目に行じた人たちの人生が、見事に自己の宿命を転換させ、即身成仏を実証している事実だけは、彼は身をもって知っていた。この仮説が、いつかは必ず真実であると証明される時が来ることを、彼は深く確信していた。

 三千年まえに確立した仏法の宇宙観に対して、二十世紀半ばにいたって、ようやく現代天文学が、それとは知らず、日に日に科学的証明を加えてきている。おなじく戸田城聖の 「生命論」 も、やがてその真実が証明される日が来るにちがいない。東洋の叡智ともいうべき鋭い直観を、現代は無視することができない趨勢(すうせい)になってきているのだ。
 ただ、この叡智の真髄が、日蓮大聖人の生命哲学にあることを、世界の現代知識人は気がつかないし、たとえ気がついても信じようとしないだけである。
 (文庫・人間革命4巻・49P)

 池田先生は、“東洋の叡智ともいうべき鋭い直観を、現代は無視することができない趨勢になってきている” と仰せです。今日この頃の世相を見るに、実に天変地夭・飢饉疫癘とうたわれている 「立正安国論」 の時代とよく似ています。

 御本仏・日蓮大聖人の御生誕の国でありながら、日本民族は宗祖の教えを信じようともせず、あまつさえ、明治以降は外道である国家神道を、国を挙げて信奉するという大謗法を犯した結果、亡国の憂き目を喫したのである。

 これに懲(こ)りた民衆や国家は、政治・教育等の公の場から宗教を排除した結果、その精神性や道徳・倫理性がなくなり、羅針盤もなく大洋をさまよえるような、今日の混沌の世情となってしまった。

 戦後、その精神の空白に取って代わったのが、経済と科学である。民衆はお金さえあれば、科学が発展すれば、世の中は幸福になれると思った。
 しかし、経済も人間の欲望の前に、科学も大自然の脅威の前では無力であることを “3・11 東日本大震災” は証明した。後に残ったのは、これらに対する不信感と虚無感だけである。
 
 いま、この不信感と虚無感から脱する道は、今までのような、己心の生命の外に価値を置くような、いき方を改めるべきである。そして、宇宙生命の神秘・人間生命の尊厳と無限の可能性を指し示す大哲学を、求めて指針とすべきであると思います。

 大聖人は、「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若(も)し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法(そほう)なり、…… 然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財(たから)を計へたれども半銭の得分もなきが如し」(383P) と戒められています。
 
 池田先生は、戸田先生の 『生命論』 について、次のように述べられています。
 戸田は、現代知識人の宗教に関する無知よりも、自己の生命に関する無知と無関心を衝(つ)いたのである。  (文庫・人間革命4巻・41P)
 人間性の喪失、疎外に、人びとが気づきはじめた時、焦点のぼやけた人間群像の背後に、突如として 「生命」 が、明晰な姿で現れようとしている。  (同書・62P)
 
 結局、私たち自身の中に、生命の本質はあるのである。してみれば、また人間の主体性を回復するためにも、この解明にこそ重点を置かなければならない。
 戸田城聖の 「生命論」 が、まことに新しい、生命の世紀の夜明けを告げる宣言書であるということも、やがては人びとから肯定される時が来るにちがいない。
 ………
 人びとが生命の探求にあたって、迷路にはいって行き詰まった時、たち還るべき故郷としての 「生命論」 を知って、思わぬ幸せを噛みしめる時も来るにちがいない。また私は、それを待とう。
  (同書・63P)

 人間の背後に生命が、いやでも鮮明な姿を現わした以上、広宣流布による人間社会の変革と共に、戸田城聖という実践的哲学者の 「生命論」 が、これからの新世紀の光源となることも、また自明の理ではないだろうか。  (同書・64P))

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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