幸福製造機

 池田名誉会長講義 “勝利の経典 「御書」 に学ぶ” の 『新尼御前御返事』 のなかで、御本尊について次のように述べられています。
 
 日蓮大聖人は、乱世に生きる私たちが、一人ももれなく、自身に内在する、仏と等しい生命を開き、絶対の幸福境涯を確立するための方途として、御本尊をあらわし、末法の全民衆に与えてくださいました。
 この御本尊の偉大なる力を、戸田先生はよく “もったいないことだが” と前置きされながら、分かりやすい表現として 「幸福製造機」 に譬えられていました。

 
 先生は明快に指導されています。 
 「この御本尊は、仏法の最高理論を “機械化” したものと理解してよろしい。たとえば、電気の理論によって、電灯ができたと同じと考えてよろしい。仏教の最高哲学を “機械化” した御本尊は、何に役立つかといえば、人類を幸福にする手段なのである。
 されば日蓮大聖人の最高哲学の実践行動は、この御本尊信じて、南無妙法蓮華経を唱えるにあたって、この実践行動によって、人類は幸福になりうるのである」
 
 
 この御本尊は 「信心の御本尊」 です。受持した我らの信力・行力によって仏力法力があらわれ、一人一人が自らの可能性と使命に目覚め、人生の勝利を築いていくのです。そこに真の世界の平和実現の基盤もあります。ゆえに戸田先生は、この御本尊を流布することを、民衆の幸福拡大の指標とされたのです。 (大白2012年8月・37P)

 戸田先生の 「幸福製造機」 と仰ったことに対して、あるいは御本尊に対して不敬ではないか、不謹慎ではないかと思われる方々も、多々居られると思います。
 しかし、日蓮大聖人も御自身の御本尊を、“はた(旌) じるし” になぞらえている御文もあります。
『日女御前御返事』 に、「法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり」 (1243P) と仰せです。

 また、仏教には多くの説話が説かれています。特に、法華経の難解な法理を理解させるために説いた、「法華経の七譬」 といわれる、代表的な七つの譬喩は有名です。

 戸田先生は、人びとが一人ももれなく幸福になって貰いたいと願い、御本尊の偉大なる力を製造機に譬えて、解かりやすく教えて下さったのである。

 今までの宗教は、礼拝する本尊や神仏等を 「絶対なる存在」 と位置づけ、信者はそれらを仰ぎ見て、ただその前にひれ伏すだけの 「弱い存在」 としか教えて来なかったのである。

 しかし、日蓮大聖人は、「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用(ゆう) の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(1358P)、「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(1359P) と仰せです。

 大聖人は、凡夫(人間) が本仏であり、絶対者と思われている神仏は、実は迹仏、すなわち架空の存在であり、人間のための 「用(働き・作用・功徳等)」 であり、「人間のための手段」 にしか過ぎないと仰せである。まさに、今までの宗教観がひっくり返ってしまった御言葉です。

 現今の世相は、“拝金主義・科学信仰・国家崇拝” 等が、かっての神仏に取って代わり、人間生命の尊厳を抑圧しています。
 このような転倒を正すためには、今までの「宗教のための人間」 から 「人間のための宗教」 へと価値観を転換させなければなりません。
 これを成しうる道は、この日蓮仏法を広宣流布する以外にないと断ずるものである。

 “凡夫が仏”の記事 ―→ ここから

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旗じるし

 『日女御前御返事(御本尊相貌抄)』 に、「竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはた(旌)じるしとして顕し奉るなり」(1243P) と仰せです。

 日蓮大聖人は御本尊を、「法華弘通のはたじるし」 として、すなわち “広宣流布のための御本尊” として、顕わしてくださいました。

 “旗じるし” とは、国家や軍隊、その他種々の集団や施設などの標章として用いられ、集団がその目的の達成のため、外には自己の存在を示し、内には団員の団結や士気を鼓舞するために掲げるものである。

 したがって、たとえその集団の中心者が倒れても、後者がその “旗じるし” を掲げて進んでいく限り、目的とする戦いは続けられる。ゆえに “旗じるし” は、その集団の生命というべきもの、理念といったものをあらわす、最も大事な要になっているのである。
 ゆえに、「法華弘通のはたじるし」 である御本尊は、大聖人の仏法における最も大切な要であると言えるのである。

 法華経方便品に、「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無からしめん) とあります。
 仏の目的は、一切衆生を自分(仏) と等しい境地に導くことによって、苦しみから救うことである。

 『開目抄』 に、「衆生をして仏知見を開か令めんと欲す」等云云、…… 衆生と申すは九法界・衆生無辺誓願度・此に満足す、「我本誓願を立つ一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す我が昔の願せし所の如き今は已に満足しぬ」等云云。(209P) と仰せです。
 
 仏法は一切衆生の生命に、仏界が内在していると説いています。衆生をしてその仏知見を、開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめんがために、仏は世に出現するという。

 したがって、仏の願いとは、「御義口伝に云く大願とは法華弘通なり」(736P) と仰せのように、「法華弘通」 すなわち、法華経(御本尊) をもって、衆生を救うための広宣流布の実現が大願なのである。
 
 御本尊がなければ、広宣流布はあり得ません。ゆえに大聖人は、“広宣流布のための御本尊” を、大難を忍び、大慈悲を起こして、末法の衆生のために顕わしてくださいました。

 池田先生は、次のように講義なされています。 (「新尼御前御返事」大白・2012年8月)

 仏から見て、苦難を避けることのできない闘諍の時代の衆生を、どう救うのか。地上から悲惨と不幸をなくす方途とは何か。それは、乱世に生きる民衆の一人一人を強く賢くするしかない。いかなる苦難をも打ち返す仏界の生命力を触発するしかありません。
 そこで、生命根源の力を直ちにあらわすために、御本尊が必要となるのです。

 人を救うことは、外的な環境整備も大切なことであるが、究極的には “一人一人を強く賢くする” すなわち 「人間革命」 しかないわけである。

 諸仏の願いは末法広宣流布です。悪世にあって、妙法五字の御本尊を 「身に帯し心に存」 して戦う勇者が出現しなければ、悪世を変革することはできません。
 「一人」 からまた 「一人」 へ。この人間の内なる可能性を開く実践が広がることが 「広宣流布」 です。それを実践するための御本尊です。まさに 「人間のための御本尊」 であり、「広宣流布のための御本尊」 なのです。


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「生の仏」 と 「死の仏」

 聖教新聞の連載小説 「新・人間革命」 には、いま “厚田” の章が載っています。
 厚田とは、戸田城聖先生の故郷である厚田村(現在の石狩市厚田区) のことである。この厚田の地に、1977年(昭和52年)、恩師の名を冠した 「戸田記念墓地公園」 が完成した。9月30日、その式典の出席とその後の一連の行事のようすが載っている章であります。

 10月3日、園内の戸田講堂で、北海道の広布功労者に対する追善法要が営まれた。追善法要のあいさつで、先生は、日蓮仏法の死生観について指導されています。

 『上野殿後家尼御返事』 に、「い(生)きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、『若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり』云云」(1504P) と仰せです。

 大聖人は、「生死ともに仏」 であると述べられています。この点について池田先生は、
 「なぜか ―― それは、広宣流布のために、この世に馳せ参じた私どもは、御本仏・日蓮大聖人の真の弟子であり、地涌の勇者にほかならないからであります。大聖人と同じく法華弘通の大願を起こし、友の幸福のために広宣流布に奔走してきたことは、自身が仏であり、地涌の菩薩であることの証明であります。広宣流布は、仏、地涌の菩薩のみが成し得る聖業だからです。
 そして、“学会活動が楽しくて楽しくてしょうがない。折伏が大好きである。唱題するのが嬉しくて仕方ない。新しい挑戦の意欲が満ちあふれてくる。生きていること自体が喜びである” というのが、成仏の境涯であり、『生の仏』 の姿なんです」

 「私たちは、必ず臨終の時を迎えます。しかし、生命は永遠です。自分の生命がなくなるわけではありません。大宇宙に冥伏するんです。ちょうど、一日を終えて、眠りに就くようなものです。時が来れば、また生まれてきます。
 死んでも、三世にわたる生命の原因と結果の法則は一貫していますから、宿業も、福運も、使命も、境涯も、そのまま続いていくんです。広宣流布に生き抜いた人は、仏・菩薩の境涯のまま、『死の仏』 となるんです。
 生きている時は、『生の仏』 であり、亡くなってからも 『死の仏』 となる ―― それを日蓮大聖人は、『即身成仏と申す大事の法門』 といわれているんです。
 さらに大聖人は、法華経見宝塔品の 『若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり』 の文を引かれています。正法を持ち、強盛に信心を貫き通していくことこそ、一生成仏の根本要件なんです」
 (聖教2012年8月・厚田・42・43)
 
 以上、「生の仏」・「死の仏」 につて述べられていますが、一般の方々は 「生の仏」 について、なかなかスッキリと納得がいかないのではないかと思います。それは、貪・瞋・癡の三毒の煩悩にまみれ、罪障深き我が身が、とうてい 「仏」 だとは思えないからである。

 それどころか 「死の仏」 の方は、“死ねば極楽浄土に往生して仏に成る” という浄土宗の邪見に、日本の民衆は長い間、命の中にすり込まされてしまっている。
 死ねば仏に成るのならば、仏道修行も何もやらなくてよい。今世で苦悩にあえいだ者が、死んだら直ちに来世で仏に成るなんて、因果の理法に反する邪見である。邪宗邪義に騙されてはならない。
 死して 「死の仏」 となるには、今世において 「生の仏」 とならなければならないのである。

 大聖人は 「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(1359P) と仰せです。
 「本仏」 すなわち、本当の・真実の・実在する仏とは、「凡夫」 すなわち、生きている・実在する人間以外にいないのである。
 「迹仏」 すなわち、影の・仮の・用の仏とは、「仏」 すなわち、一般の諸宗が本尊としている、阿弥陀・大日・薬師仏などである。これらは、衆生を導くために説かれた理論上の仏たちで、権仏とも言われている。
 
 したがって、拝む対象物であるそれらの 「本尊」 には、真の仏の生命(仏界・仏性) はないのである。では、どこにあるのかと云えば、他ならぬ我が身(生命) の中にあるのである。

 ゆえに大聖人は、「都(すべ)て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり」(383P) と仰せられている。
 この一点を外して、成仏も得道もないわけである。これを知るを 「法華経の心」 を知るというのである。

 それでは 「仏の生命」 は、どこに現れるのかい云えば、それは何か、今までと別な姿かたちになるものでもなく、特殊な通力のような能力を発揮するものでもありません。

 池田先生は、「“学会活動が楽しくて楽しくてしょうがない (歓喜)。折伏が大好きである (慈悲)。唱題するのが嬉しくて仕方ない (智慧)。新しい挑戦の意欲が満ちあふれてくる (生命力)。生きていること自体が喜びである (成仏の境涯)” というのが、『生の仏』 の姿なんです」 と指導されています。

 それは、日常の生命活動の中で、智慧や慈悲や歓喜等となって、わが身の振る舞いの上に現れるものなのです。ゆえに、「一生成仏」・「即身成仏」 といわれる訳であります。
 このように、「生の仏」 なくして 「死の仏」 はないのである。

 関連記事“如来秘密 神通之力”―→ ここから
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パスカルの賭け

 前の北海道の広布功労者追善法要における池田先生の指導のなかで、戸田先生の講義を引かれているところがありますので紹介いたします。
戸田城聖先生は、法華経の方便品・寿量品講義で、生命は永遠であることを強く訴えています。
 
 「この世の中へ、また生まれてきて、また死ぬ。また生まれてこなければならない。それがために、仏法ということを やかましく 言うのであります。いわざるを得ないのであります。死んでしまえば、おしまいだと言うのなら、仏法は必要はないことになるではありませんか。
 この生命が永遠だと叫ぶ。永遠であるから御本尊をきちんと拝んで、仏の境涯をつかまなければいけないと、やかましく 言うのであります。もしも 『しち面倒くさい。なんだっていいではないか。私が死んだら、それっきりだ』 と言う人なら、そう貧乏したり苦労して生きている必要はないではありませんか」
 (聖教2012年8月・厚田・45)

 文中、“やかましく” のところに、傍点をつけて注意をうながされています。
 “人は死んでも、また生まれてこなければならない” という、生命の実相を覚悟なされている、戸田先生の眼からみれば、どうして解からないのか、解かろうとしないのか!と、歯がゆい思いをなされていると推察いたします。

 死後に生命が、続くのか、続かないのか、これは現在では、未だ証明は不可能です。
 池田先生は、“だから私は、いつもパスカルの議論を思い出すのです” と述べられています。

 名誉会長 思想家だが、数学にも長けていた。「確率」 の研究でも有名です。そういう彼らしく、死後の生命について、パスカルは 「賭(か) け」 の理論で説明する。<『パンセ』>

 つまり、死後の生命があるかどうか、理性ではどちらとも言えない。―― これはカントが証明したことでもあるね。だから、もし人が 「死後の生命がある」 ほうにかけて生き、死んだとする。その結果、賭けに負けた ―― すなわち、実はそれが存在しなかったとする。それでも 「あなたは何も損をしないではないか」 とパスカルは言うのです。
 一方、「死後の生命はない」 ほうに賭けて生き、死んだとする。それでもし、死後の生命が実在していたら、もう取り返しがつかない。生きている間に善行を積んで、死後に備えていればよかったと思っても、もう間に合わない。だから、死後を信ずるほうに賭ければ、賭けに勝てば幸福だし、負けても何も失わない。反対のほうに賭けて、賭けに負ければ、取り返しがつかない。こう冷静に考えれば、死後の生命を信じるほうに賭けることは ―― つまり宗教を受け入れることは、極めて 「合理的な選択」 であり、理性的である人ならば、これ以外の選択はないという論理です。異論もあるかもしれないが、私はパスカルの理論には今でも説得力があると思っている。


遠藤 「賭け」 ですか。確かに、「絶対確実でなければ、何もしない」 という態度では、結婚も出来ません(笑い)。
 「絶対うまくいく」 という保証は、どこにもないわけですから ――。

 名誉会長 結婚のことはともかく (笑い)、「死」 というものは、絶対にだれもが迎えざるを得ない。確実といえば、これほど確実なものはない。しかし、「生死」 という人生の 「一大事」を真剣に考える人が少ないのも、また事実です。
 日蓮大聖人が 「夫れ生を受けしより死を免れざる理りは賢き御門より卑き民に至るまで人ごとに是を知るといへども実に是を大事とし是を歎く者千万人に一人も有がたし」(474P) と嘆かれている通りだ。
 特に現代は、仏法でいう 「断見」 の人が多くなっている。
 

斉藤 「断見」 とは、生命が死によって無に帰するという生命観ですね。現代の 「享楽主義」 も、その裏腹の 「不安」 や 「悲観主義」 も、この 「断見」 に根っこがあると言えるかもしれません。 (法華経の智慧4巻・317P)
 
 “賭け” とは、言い得て妙である。ある一面から言えば、人生はすべて賭けである。未来のことは分からないという点において、そう言えると思います。
 その人生にあって、ある事をなして失敗して後悔することよりも、何もしなくて後悔することのほうが、大きいと言われています。失敗しても、人生経験を積み重ね、勉強したことになるからである。

 ゆえに、創価学会に対する、つまらぬ風評や悪意ある讒言などに惑わされることなく、真実の宗教・本当の日蓮仏法は、何処にあるのかと真摯に求め、勇気をもって実践修行して御覧ください。必ずや、人生の正しき軌道に入っている、自分自身を発見することができるでしょう。

 大聖人は、「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿(なか)れ」(970P) と御遺誡なされています。

 関連記事 “断見と常見” ―→ ここから

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自殺 と 法器

 前のブログの池田先生のご指導は、次に戸田先生の自殺のお話にも言及されています。
 池田先生とトインビー博士との対話には、そのほとんどが意見の一致を見ましたが、一致しなかったなかで自殺の問題がありました。ゆえに、以前に “ブログ” で紹介いたしました。今回も先生の指導を紹介いたしたいと思います。

 引き続いて、池田先生の指導です。
 さらに、戸田は、自殺にも言及し、「この肉体というものは、法の器と申しまして、仏からの借り物になっております」 と述べ、その大切な仏の入れ物を、勝手に壊してはならないと、力説している。
 仏縁を結んだ人は、いつか、必ず御本尊と巡り合える。また、周囲の人びとの題目は、個人をも救い得る力となる。それが仏法の力であるが、自らの命を絶ち、福運を消してしまう人を、絶対に出したくなかったのである。
 (聖教2012年8月・厚田・45)

 戸田先生は、“この肉体というものは、法の器と申しまして、仏からの借り物になっております” と述べられております。
 法器とは、身体は妙法の無上宝聚を藏する器ということで、すなわち、妙法の当体であり、成仏の境涯を意味する。ゆえに、仏からの借り物になるのであります。

 『対談集』 でトインビー博士は、「当人が熟慮のすえ、なお死を願うというのを、邪魔してはならないと考えます」 と述べています。
 
 池田先生は、「生命には仏界が潜在しているが故に尊厳なのです」 と生命の尊厳性について語られ、仏法の三世の生命観によれば 「人間のもつ宿業もまた持続していくものと考えます。苦しみは死によって終わるのではなく、苦しみの業として死後も続いていくとするのです」 と、たとえ自死したとしても、何ら問題の解決にはならないのである。
 
 博士は 「人間は自殺する権利をもつ」 と、自らの尊厳を護るためには、許されるべきであると述べています。

 先生は 「その 『自らの生を終える』 ということを決定する主体は、知性や感情ではなく、もっと本源的な、その生命自体であるべきだと思います」 と、「全体的生命のみが、その生の終焉を決定する権利をもつといえましょう。…… それは、知性や感情がかかわりえない、意識下の深層にあるわけです」 と述べられ、知性や感情などの表層部分を突き抜けて、生命の奧底・本源に立ち返って論じられています。

 池田先生は、戸田先生の仰せの 「この宇宙そのものが慈悲の当体である」 との言葉を引かれまして、
 「万物を生成し、変化させ、生死生死を繰り返させながら、一切を生かそうとしている宇宙。この宇宙という大生命そのもが、仏の当体です。無作三身の仏の当体なのです。
 宇宙の慈悲とは 「本有の仏界」 の力用である。また 「本有の菩薩界」 の力用であり、これが地涌の菩薩の働きなのです。ゆえに総じては、宇宙の生きとし生ける一切のものが神聖なる地涌の菩薩なのです。別しては、この生命の法に目覚めた者を地涌の菩薩と呼ぶのです。
 菩薩道は人間性の極地の行動です。それは根底において、宇宙の慈悲の力用と一体なのです。私どもが友の幸福を祈り、語り、動いていくとき、その身口意の行動のなかに、永遠の生命が現れ出ているのです。
 (法華経の智慧3巻・330P)
 
 我われはともすれば、誰からも手を借りず、自分の信念・努力で生きているのだと思いがちであるが、そうではないのである。生まれて来る時から死ぬる時まで、すべて 「一切を生かそうとしている宇宙」 の大慈悲に助けられ生かされているのである。この大慈悲がすなわち、地涌の菩薩の働きであると仰せです。
 生をこの世に受けた者として、妙法受持の地涌の菩薩として、今度はその大慈悲の万分の一でも報恩感謝すべく、「友の幸福を祈り、語り、動いていく」 とき、「宇宙の慈悲の力用と一体」 となることができ、「永遠の生命が現れ出ている」 すなわち、一生成仏できるのである。

 引き続き、厚田の章の指導です。
 生命は永遠である。ゆえに、老いとは、終局を待つ日々ではない。今世の人生の総仕上げであるとともに、次の新しき生への準備期間なのである。
 命の尽き果てるまで、唱題に励み、師と共に、愛する同志と共に、広宣流布の大願に生き抜いていくのだ。そして、わが生命を磨き高め、荘厳なる夕日のごとく、自身を完全燃焼させながら、大歓喜のなかでこの世の生を終えるのだ。
 希望に燃えるその境涯が、そのまま来世のわが境涯となるからだ。
 (厚田・46)

 本来、人間は、宇宙と一体の大いなる存在なのだ! 個人の力は、かくも偉大なのだ! これが法華経のメッセージです。

 関連記事 “自殺について” ―→ ここから

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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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