板御本尊(2)

 板御本尊と言いますと、第一次宗門問題(昭和52~54年頃) の時のことを思いだします。
 正信会の僧侶たちが、池田先生が “御本尊を偽作した、偽造した” といって騒ぎだし、彼らの機関紙やビラなどで喧伝して、反創価学会の運動を起した事件のことである。

 御本尊の “偽作・偽造” というから、先生が勝手に書写して作ったのかと思ったら、何のことはない。学会所持の紙幅の御本尊を、板御本尊として “謹刻” 申し上げたまでである。この作業を “摸刻” とも言います。
 御本尊の謹刻は、昔から普通にやっていたことであり、それ自体は謗法でも何でもないのである。それを、偽作だ・謗法だとかいって騒いだのは、御本尊を謹刻するのに、時の日達猊下の認可を受けていないといって、不敬だ・憍慢謗法だ・何だかんだと、誹謗中傷してきたのである。

 この件については、当時、庶務部長の藤本日潤の 「藤本メモ」 に、日達上人が認可されていたことは、ハッキリと記載されているのである。しかし、上人がそれを失念されていただけである。
 「藤本メモ」によれば、その後上人は、「会長から板御本尊にしました、という報告はあった。個人が受けた御本尊だから、その人(学会) の宝物だから、どのように厳護しようと他がとやかく言えない。また、開眼とか、入仏式とかは、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない。(趣意)」 と、仏法の本義に基づいたご指南をなされています。

 「御本尊摸刻問題」 は、創価学会側の行為に、事実上また教義上においても、何ら問題にされるようなものはないのである。それを、事実をねじ曲げ・ウソまでついて人を攻撃するとは、聖職者とは名ばかりの人格破綻の悪比丘たちである。

 彼らは、信徒が受持できる本尊は、紙幅の御本尊のみであり、板御本尊は、僧侶の寺号のある寺のみの専有で、信徒の分際で板御本尊を望むとは、何ごとであるか、という思いがあり、これは僧俗差別主義であり、彼らの頭は特権意識に凝り固まっているのである。

 日蓮大聖人は、「法師品には若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給いて僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(1448P)・「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず」(1134P) と日蓮仏法は、男女平等・僧俗平等の人権主義に貫かれているのである。彼ら日顕宗こそ、師敵対の大謗法を犯しているのである。

 池田先生は、昭和52年1月、第9回教学部大会において、「仏教史観を語る」 と題して、記念講演をなされました。大乗経なかんずく法華経は、在家の菩薩修行者の中から生まれ発展してきたもので、その仏教の本義に基づき、現代を見すえて論じられたものです。その中から少々引用させて頂きます

 「大乗仏教は、小乗の出家仏教が、あまりにも形式主義、官僚主義に陥り、民衆の苦悩から遊離していたのに対し、釈尊の精神、すなわち仏教の原点から問い直そうとした運動でありました。…… かつての民衆のなかから生まれ、みずみずしく躍動した仏教が、沈滞・形骸化していった大きな要因のなかに、仏教界全体が “出家仏教” に陥り、民衆をリードする機能を失ったという事実であります。…… その本義に立てば、現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしているといえましょう。これほど、偉大なる仏意にかなった和合僧は世界にないのであります。…… 形や姿で決めるのではなく、仏教徒の心、姿勢いかんが真実の出家か否かを決定するのである。…… 出家、在家を問わず、ひとたび仏教の正しい信仰に目覚め、苦悩の民衆を救済しようとの精神に立った人は、その瞬間から、形式を超えて精神においては出世間の人々であるというのであります」

 この講演を、伝え聞いた堕落僧たちは、わが身を反省するどころか、かえって黒い嫉妬心と怨念を燃やしたのである。

 「維摩詰(ゆいまきつ) は、在家の身でありながら供養を受けた事実が 『維摩詰経』 に記されております」
「一つには真に仏法流布に挺身し、民衆救済に進むものには、供養を受ける資格があるとの思想が底流にあること。二つには、その供養が民衆のために、仏法のために還元されるならば、それは仏法の本義に叶うということなのであります。つまり、供養とは、あくまで仏法のためになすのであります。その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります」


 彼らは、御供養は出家・僧侶に奉るものであり、在家の創価学会の財務は、御供養ではないと言うのである。
 「供養とは、あくまで仏法のためになすもの」 であるならば、どちらが広布のため尽くしておるのか。僧侶らの贅沢三昧・物見遊山が広布のためなのか、一目瞭然ではないかと言いたい。 

 「ともあれ寺院とは、このように、本来、仏道修行者がそこに集い、仏法を研鑚し、そこから布教へと向かうための道場、拠点であることは論をまちません。その本義からするならば、今日、創価学会の本部・会館、また研修所は、広宣流布を推進する仏道実践者が、その弘教、精進の中心拠点として集い寄り、大聖人の仏法を探究するところであり、そこから活力を得て、各地域社会に躍り出し、社会と民衆を蘇生させていく道場であります。すなわち、学会の会館・研修所もまた 「近代における寺院」 というべきであります」

 池田先生の 「学会の会館・研修所もまた近代における寺院」 というご発言に、わが身の可愛さのあまり、御本尊摸刻事件なるものを惹き起こし、学会員を誑かし脱会させて、その獲得を企てたのである。ここに、創価学会と日顕宗は、日蓮仏法の本義に照らして相容れず、遂に義絶したのである。

 創価学会文化・平和会館は、地涌の菩薩が集い、広宣流布を推進する 「近代における寺院」 として、御本尊を永く大切に護持するため、順次、「板御本尊」 に換えて、御安置すべきことは当然のことである。 

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戸田先生の悟り (4)(仏とは生命なり)

 戸田先生の一回目の悟りは、仏とは生命なりということであります。
 
 池田先生は、「戸田城聖のこの時の悟達の一瞬は、将来、世界の哲学を変貌せしむるに足る、一瞬であったといってよい。…… 仏法を見事に現代に蘇らせ、近代科学に優に伍して遜色のないものとした、といえよう」 と述べられています。
 先生の仰しっやる通りであると確信はしますが、私は世界の哲学や近代科学については、何も分かりませんので、比較して論ずるようなことはできません。
 戸田先生の 「仏とは生命なり」 という言葉自体、もう既に、「仏法を見事に現代に蘇らせ」 ている、と思っています。
 ゆえに、世間一般の方々が、漠然と思っているであろう 「仏」 のイメージとは、格段の差があるのであります。したがって、世上に流れている 「仏」 のイメージについて、少々述べてみたいと思います。

 まずはじめに、“先祖が仏である” とか、“死んだら仏に成る” とかいうことであるが、この様なものは俗語の類いであって、仏法の教えに反しているし、何ら関係のない事がらである。
 「仏」 とは、目覚めた人という意味で、一切諸法の真理を悟り、よく他を導いて真理を得せしめる覚者をいう。このように、万人を救済する力ある 「仏」 に、何も修行もしなくて、死んだらそのままで成れるなんて、因果の法理に反するものである。

 「仏とは生命なり」 の “生命” は、現に生きている者の命のことであり、決して死者のことではない。したがって、生者を対象としているのであり、本来の仏教は、死者にかかわる教えではないのである。じっさい、釈尊をはじめ日蓮大聖人や弘法・法然・道元等の諸宗の元祖たちも、自分の弟子・信者の葬儀にかかわったという記録はないのである。 

 しかし、このような先祖を崇める考えに至ったのは、もともと日本の神道は、わが民族の偉人や英雄たちを 「神」 として崇めていました。また、中国から儒教や道教が伝来し、その教えの 「先祖崇拝」 の思想が取り入れられ、これが広く民衆の間に広まった。
 この先祖崇拝思想が、僧侶の堕落とともに、仏教のなかに取り入れられたのである。

 評論家の小林正博氏は、日本の既成仏教の大半は、祖師の精神からかけ離れ “三つの放棄” を行ってきた歴史がある、と述べています。 (第三文明・2011・12月号・28P)
 
 1)室町時代後半の葬送儀礼体質への変貌による “生の仏教” の放棄、 
 2)江戸時代に確立された檀家制度による “布教の放棄”、
 3)明治時代初頭の聖職者の妻帯による “出家の放棄” という三段階です。
 しかも宗門はそのうえに、あってはならない “信徒の大量放棄” を行った。…… この日本仏教史上でも前代未聞の愚行は、日蓮の精神を根底から否定し、ついには日蓮をも放棄してしまったと言えるでしょう、
と論じています。

 『佐渡御書』 に曰く、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云」(957P) と仰せです。
 仏法は外部から破壊することはできないが、ただ内部にいる悪僧によって破壊される、と言うことです。

 以上のように、外道の先祖崇拝思想によって、先祖が仏であるという間違った見解を、悪僧たちはこれを正すどころか利用して、葬送の儀式を己が生業とするゆえに、人類救済の仏法を、葬式仏法と揶揄(やゆ)されるまでに貶(おとし)めたのである。
 
 「仏とは生命なり」 との戸田先生の悟達は、“仏とは何か” 今までの死のイメージを一新する、生の躍動する本当の 「仏」 とは何かを教えて下さいました。これによって、滅亡のふちにあった日蓮仏法は、蘇(よみがえ)ることができたのである。 
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戸田先生の悟り (5)(権教の仏・菩薩)

 つぎに 「仏」 といえば、一般的には仏画や彫像の仏像などを、仏であると思っている方々が多くおられます。
 これらの仏画や仏像を本尊として修行するのは、正法・像法時代の修行法であって、末法の今日では無益で用を成さないのである。

 『本尊抄』 に、「利根の菩薩凡夫等の華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て大通久遠の下種を顕示する者多々なり例せば独覚の飛花落葉の如し教外の得道是なり」(242P) と仰せです。

 正法・像法時代の衆生は、「本已有善(本と已に善有り)」 といって、過去世において仏道修行して善根を積んでいる、上機上根の衆生である。ゆえに、華厳などの権教であってもそれを縁とし、法華経の久遠の下種を覚知して、成仏することができたのである。

 『曽谷入道等許御書』 に、「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃(う)たしむるの時なり」(1027P) と仰せです。

 末法の衆生は、「本未有善(本と未だ善有らず)」 といって、釈尊と無縁の権実の善根のない下機下根の衆生である。ゆえに、権実の仏像などを本尊としても、理体を観ずる能力がなく、成仏することはできないのである。
 したがって末法は、「久遠名字の妙法」 を直ちに下種して、不軽菩薩のように “毒鼓を撃たしめる時” なのである。
 ここまでは、衆生の機根と教法との関係性の上から、仏画・仏像などでは成仏できないことを簡単に述べました。
 
 そのほか、常識的に考えても、権教の仏画・仏像などは、衆生と縁がなく、真の仏にならないことが解かります。
 例えば、阿弥陀如来は、実在するのか?、西方十万億土という国土は何処にあるか? と問えば、すべて実在しない架空の話なのである。(他の大日・薬師・薬王・観音・地蔵なども、みな同じことなのである)
 それは釈尊が、衆生を真実の法華経に誘引するために、仮に説いた教え(権教) であるからである。ゆえに、架空の阿弥陀如来が、有りもしない極楽浄土に、幾ら往生できると約束しても、それは空手形であり夢物語なのである。
 そうであるのに法然・親鸞らは、無慙にも無知な衆生を誑かせ、真実の法華経を “捨てよ・閉じよ・閣(さしお) け・抛(なげう) て” させて、正法(法華経)を誹謗した。

 『立正安国論』 に、法華経に云く 「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」(29P) と有りますように、浄土宗(他の宗教も)は、堕地獄の因なのである。

 戸田先生の 「仏とは生命なり」 の悟りは、本当の仏とは、実は我が己心の中に在るということを、観念論ではなく、実体験のの上から教えてくださいました。御書には、次のような御金言があります。

 「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」(766P)
 「惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり」(752P)
 「一心三観・一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され」(414P)
 「我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、…… 然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房」(1304P)

 “我が身が本覚の如来” なることの御文証は、このほかにも多数あります。
 
 日連大聖人は、ご化導のはじめから何回も何回も繰り返し、“妙法を唱うる我が身が仏である” と教えてくださいましたが、「雖近而不見(近しと雖も而も見えず)」(寿量品) の故なるか、弟子等の浅学・浅智なる故か、なかなか法華経の心・精神を、理解するまでには至りませんでした。

 江戸時代の中期、中興の祖・日寛上人は、それまでの各派の邪義を破折し、御書の研鑚とそれを整足されて、「日蓮本仏論」 の日蓮教学を確立されました。しかし、時は封建時代であり、幕府の檀家制度の真っただ中、それは日の目を見ることはできませんでした。

 戸田先生の 「仏とは生命なり」 の悟りは、これまでに説かれた仏・菩薩たちの偉大な力・功徳を信じて、それにすがろう・功徳を得ようとする信仰の姿勢を一変するものである。
 それは、これら己心の外の権教の仏・菩薩の本尊には、真の力・功力は無いのだから、すがっても何にも成らないのである。
 では、問題解決の力はどこに在るかといえば、他ならぬ我が身の己心・生命のなかにあるのである。
 ゆえに、信仰とは、ただ功徳をお願いし・すがるだけのものではなく、祈りとは、こうしますという “決意と実践” がなければならないのである。その “信力・行力” があって、はじめて “仏力・法力” が涌現するのである。

 戸田先生は、自らの命(いのち)に生きよ と御指導なされています。結局、自己自身に生きる以外にないのです。その自己の生命を輝かせるための本尊であり、信仰なのであります。
 (戸田先生の 『巻頭言集』 の中に、同じ題名の論文がありますので、読んでみてください)
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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