法華経の心(3)(怨嫉謗法)

 「法華経の心」 について、日蓮大聖人の御精神(御本尊) を知(信じ)られなければ、ならないと申し上げましたが、今度は同じ御本尊にお題目を唱えても、修行する者の信心の姿勢の如何によって、その功徳に差が出てくるのであります。
 その功徳を消す信心のなかに、同志の批判をしたり、うわさ話をして回ったりする人が、まま見受けられます。このことについては、『松野殿御返事』 の御指導を拝したいと思います。

 日蓮大聖人は、門下の松野殿が質問された題目の功徳の多少について、次のように仰せられています。
 「但し聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金(こがね) も智者の持ちたる金も・愚者の然(とも) せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり」(1381P)

 大聖人は、題目の功徳には勝劣はないけれども、但し此の経(法華経) の心に背いて唱えれば、その差別が出てくると仰せです。その要因について、十四種の悪の因を挙げられています。

 「悪の因に十四あり・一に憍慢(きょうまん)・二に懈怠(けたい)・三に計我(けいが)・四に浅識(せんしき)・五に著欲(じゃくよく)・六に不解(ふげ)・七に不信・八に顰蹙(ひんしゅく)・九に疑惑(ぎわく)・十に誹謗(ひぼう)・十一に軽善(けいぜん)・十二に憎善(ぞうぜん)・十三に嫉善(しつぜん)・十四に恨善(こんぜん)なり」 此の十四誹謗は在家出家に亘(わた) るべし恐る可し恐る可し、(1382P) 
 
 このなかで、一から十までの分は、御本尊を持っている方々は、基本的に謗法にあたりませんが、後の十一から十四までの怨嫉謗法は、たとえ御本尊を持っていても充分に気を付けねばなりません。
 現在、聖教新聞に連載中の 『新・人間革命第26巻』 の “法旗” の章に、愛媛県幹部会での御指導のなかに、この十四誹謗のことが掲載されていましたので、ご紹介させて頂きます。

 山本伸一は、厳しい口調で語っていった。
 「『松野殿御返事』 には、十四の法華経への誹謗、つまり十四誹謗について記されています。
 誹謗とは、“そしる” ことですが、そのうちの最後の四つは、軽善(きょうぜん)、憎善(ぞうぜん)、嫉善(しつぜん)、恨善(こんぜん)といって人に対するものです。御本尊を持つ人を、軽蔑したり、憎んだり、嫉妬したり、恨んだりすることです。一言すれば、同志への怨嫉(おんしつ) であり、いがみ合いです。
 日蓮大聖人は、十四誹謗の罪は極めて重いので、『恐る可し恐る可し』(1382P) と、戒められている。怨嫉というのは、自分の功徳、福運を消してしまうだけでなく、広宣流布の組織を破壊していくことになる。だから怖いんです。
 皆が心から団結できない。どうも、組織がすっきりとまとまらない。皆、頑張っているのに、功徳を受けられないでいる ―― そうした組織をつぶさに見ていくと、必ず、怨嫉問題が潜んでいます」

 なぜ、御本尊を持った人同士が、時には幹部同士が、怨嫉し合うことが生ずるのか。
 大聖人は、「十四誹謗も不信を以て体と為せり」(97P) と御指摘になっている。
 皆が仏の使いであり、地涌の菩薩であることや、生命の因果の理法など、妙法を信じることができないところに、その根本的な要因があるのだ。
 (法旗・31)

 池田先生は、“そのうちの最後の四つは、軽善、憎善、嫉善、恨善 といって人に対するものです” と指導されています。この “善” というのは、“御本尊を持つ人” のことであり、“同志への怨嫉” は、“広宣流布の組織を破壊していく” すなわち、破和合僧(五逆罪の一つ) という極重罪に当たることになります。

 大聖人は、「或は 『若実(にゃくじつ)若不実』 とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀(そし) るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」(1382P) と仰せです。

 「若実若不実」 とは、『普賢菩薩勧発品第二十八』 の文で、「若(も)し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」 とあります。
 もし事実であっても、事実でない作りごとであっても、御本尊を受持する者を誹謗すれば、大罰を受けるのである。
 「若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ」 というこの経文は、一般の世間法の概念をつき抜けて、生命根源の一法から発せられたものであろうと思います。
 
 引きつづき大聖人は、「釈に云く阿鼻(あび)の依正は全く極聖(ごくしょう)の自身に処し毘盧(びる)の身土は凡下の一念を逾(こ)えず云云、十四誹謗の心は文に任せて推量あるべし」(1382P) と仰せられ、地獄の生命といっても、仏の生命に内在しているものであり、仏といっても凡夫の生命に、もともと具わっているのである。
 たとえ、極悪人といえども妙法の当体であり、ましてや、同志であればなお更である。ゆえに、この 「凡夫が仏である」 という 「法華経の心」 に反する怨嫉謗法は、重々・気を付けなければならないのである。

 さらに大聖人は、「何なる鬼畜なりとも法華経の一偈一句をも説かん者をば 『当(まさ)に起(た)ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし』 の道理なれば仏の如く互に敬うべし」(1383P) と仰せです。
 『御義口伝・普賢品』 に、「此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏(とうきおんごう・とうにょきょうぶつ)の文なり、…… 当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり、…… 但此の八字を以て法華一部の要路とせり」(781P) と、この “八字” をもって、法華経一部八巻の肝要としたのである。すなわち、「法華経の心」 であります。
 「最上第一の相伝」・「法華一部の要路」 と、これ程までに、人間生命の尊厳を謳い上げた哲理はありません。

 したがって、御本尊を持つ者はみな 「仏」 である。仏を謗ることは罪を受けるのである。「若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ」(勧発品) の戒文の重きことに、心せねばならない。この教えを信受する者は 「法華経の心」 を知る正信の人であります。
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法華経の心(4)(三毒の煩悩)

 次に、功徳を消す信心の姿勢としては、愚痴や言いわけが、ついつい出てしまうことである。
 この “愚痴” とは煩悩の一つで、その中の根本的な三毒の煩悩、すなわち 「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」 の中の癡(おろか) にあたります。
 
 『観心本尊抄』 に、十界のなかの六道を説明しているところで、
 「瞋(いか)るは地獄・貪(むさぼ)るは餓鬼・癡(おろか)は畜生・諂曲(てんごく)なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖(ししょう)は冥伏(みょうぶく)して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し」(241P) と仰せです。

 「瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生」 と、この “三毒” は、即・「地獄・餓鬼・畜生」 の “三悪道” に対応しています。
 したがって、愚痴は畜生の命から起こると言うことです。畜生の心は、強きものには卑屈になり、弱きものには傲慢となり、そのうえ、ものの道理を弁えず本能ままに行動する 等のことです。

 『御義口伝』 に、この三毒の煩悩から三災が起こることについて、
 文句四に云く 「相とは四濁増劇(ぞうぎゃく) にして此の時に聚在(じゅざい)せり、瞋恚(しんに)増劇にして刀兵起り、貪欲増劇にして飢餓起り、愚癡増劇にして疾疫起り、三災起るが故に煩悩倍(ますます)隆(さか)んに諸見転(うた)た熾(さか)んなり」(718P) と仰せられています。

 怒りの心から争いごとが起こり、欲望の心から飢餓が起こり、愚かな心から病気が起こると言うことです。
 愚かさが病気になるとは、例えば、肉が好きだから肉ばかり、甘いものが好きだからケーキばかりと、好き勝手に食べれば、病気になるのは必然である。食事一つをとっても、理知的であらねばならない。
 そうであるのに、偏見や邪見の愚かな心で事に処すれば、そのものの生命が本来の正しいリズムの軌道から外れ、歪みが出てくる。これゆえに、愚痴が病気の原因となるのである。

 『御義口伝』 に、三毒の煩悩の病を治す方法について、
 「されば妙法の大良薬を服するは貪(とん)瞋(じん)癡(ち)の三毒の煩悩の病患を除くなり、法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉る者は謗法の供養を受けざるは貪欲(とんよく)の病を除くなり、法華の行者は罵詈(めり)せらるれども忍辱(にんにく)を行ずるは瞋恚(しんに)の病を除くなり、法華経の行者は是人於仏道決定無有疑と成仏を知るは愚癡(ぐち)の煩悩を治するなり」(755P) と仰せです。

 このように、根本的には 「三大秘法の大御本尊」 に帰命する以外には無いわけです。
 御本尊を信じる者は、謗法の供養を受けることはない。このことは金儲けのために、法を犯したり無節操であってはならないと言うことである。これは “貪欲の病” を除くことになるのである。
 いかに悪口罵詈されても、忍辱の鎧を着て折伏を行ずることは、“瞋恚の病” を除くことになるのである。
 『如来神力品第二十一』 に、「是人於仏道 決定無有疑」(是の人仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん) とあります。御本尊を信ずることによって、即身成仏が出来ることを覚知することは、“愚痴の煩悩の病” を治すことになるのである。
 しかしながら、御本尊を持っていながら愚痴がでることは、まだまだ、確信が足りないというものであろう。「譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり」(97P) と仰せであります。

 池田先生の 『一生成仏抄講義』 の 「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(383P) のところの講義のなかに、「愚痴・不信」 についての御指導がありますので、ご紹介させて頂きます。

 さらに、「漠然たる不信」 「グチ」 「文句」 も排していきたい。
 妙法蓮華経を 「心外の法」 と考える誤った信心には、自他の生命に仏性が内在することに対する不信がある。この不信の根底には 「元品の無明」 があります。
 現実の信心のあり方において言えば、「仏性といっても理想に過ぎないのではないか、現実は変わらないのではないか」 との不信感は、確信なき祈りや漠然とした祈りとして現われてしまう。中途半端では、当然、一念の転換も、生命の変革もありません。
 
 本抄に 「深く信心を発(おこ) すべきなり」(383P) と仰せのように、一生成仏のためには、信心と祈りを深化させていく必要があります。そして、信心の深化は確信ある具体的な祈りとして現われてきます。
 一生成仏の信心における唱題行にあっては、我が一念を定めることがどこまでも重要となります。
 弓で矢を射る時に的を定めなければ、弓を引く力もこもりません。同じように、「…… したい」 という漠然たる思いから、「必ず …… するのだ」 という確信ある祈りを決定してこそ、祈りは成就するのです。

 この 「漠然たる不信」 に通じる門として 「グチ」 や 「文句」 があります。グチと文句は、よくないと分かっていても、つい出てしまう場合があります。グチや文句が自分の習性となれば、絶えず自身の成長のブレーキとなって、前進を忘れてしまう。それは、自分自身の可能性を自ら閉ざすことになり、結局は、「己心の外に法あり」 の姿勢になっていまいます。
 凡夫にとってグチや文句を消すことは難しいかもしれませんが、それを上手に操り、前進へのバネとすることが、妙法の智慧です。
  (一生成仏抄講義・72~74P)

 先生は、“妙法蓮華経を 「心外の法」 と考える誤った信心には、自他の生命に仏性が内在することに対する不信がある” と、仰っています。
 “自他の生命に仏性が内在する” という 「法華経の心」 を、知らなかったり・信じなければ、自身の一生成仏は叶いません。
 「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(751P) と、この 「愚痴・無明の心」 を断破すべく、南無妙法蓮華経の智慧を持って、信行に励んで参りましょう。
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法華経の心(5)(種・熟・脱)

 「法華経の心」 と言うことでありますが、日蓮大聖人が 「法華経の肝心」 と仰せられた御書があります。
 それは 『秋元御書』 に、「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072P) の御金言であります。
 
 「種・熟・脱」 とは、下種・調熟・得脱のことで、仏が衆生を悟りに導く化導の始終を三段階に分けたものである。
 『曽谷殿御返事』 に、「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(1056P) と仰せられていますように、植物の生長過程になぞらえて、どのようにして調熟し成仏していくのか、その過程を明らかにしたものです。

 「種」 とは、衆生の心田に仏になる種子を植える(下種) ということで、仏法に縁した最初をいう。
 「熟」 とは、その下種された種子に手を入れて、次第に生長させ機根を調えさせることをいう。
 「脱」 とは、種子が生長してきたら実を成らせて、得脱させるということで、成仏に至る化導の終わりを言います。

 この 「種・熟・脱」 すなわち、化導の始終は、爾前経では明かされていないのである。
 『観心本尊抄』 に、「設(たと)い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず還(かえ)つて灰断(けだん)に同じ化の始終無しとは是なり」(249P) と仰せられています。
 この 「化の始終無し」 とは、化導がいつ始まって、いつ終わるのか、如何なる仏が、どのような法を説いたのか、そういうことが明らかにされていなければ、どんなに立派そうに成仏の姿を説いても、その根拠が・プロセスが、明らかになっていないのですから、その成仏は空虚な抽象論であり、単なる観念論にしか過ぎません。
 
 初めて 「種・熟・脱」 が明かされたのは法華経だけであり、ここにおいて、迹門・本門・文底の三釈があります。
 「迹門の種熟脱」 は、『法華経化城喩品第七』で、三千塵点劫の過去に、大勝智勝仏という仏がいて、法華経を説法した。その十六番目の王子(釈迦) が、もう一度法華経を説くわけです。これを大通覆講と言います。その時が 「下種」 になります。
 その後、いろんなところで化導を受け、その間ズートと爾前経の段階までが 「熟」 になります。
 法華経迹門に入ると、舎利弗等の二乗に未来成仏の記別が与えられる。提婆達多という悪人、竜女という女人にも成仏の記別を与える。これが 「脱」 になります。

 「法華経本門」 では、『如来寿量品第十六』 で、五百塵点劫という久遠を明かします。この時点が 「下種」 になります。
 これによって、三千塵点劫の大通智勝仏及び四十二年間の爾前経と法華経迹門までが 「熟」 になります。
 寿量品に至って、釈尊は自身の五百塵点劫・久遠実成の境地を明かし、霊山の聴衆はこれを信受することによって得脱する。これが 「脱」 になります。
 このように釈尊の法華経は、久遠に下種を受けながら (本已有善)、大乗から退転して小乗に堕ちた衆生(退大取小)を 「得脱させるため」 のものであり、これを 「脱益の法華経」 という。

 日蓮大聖人の 「文底独一本門」 では、久遠元初のときが、ことごとく 「下種」 となります。「熟・脱」 はこの 「下種」 のなかに含まれています。「下種」 と同時に 「熟・脱」 も完成する訳です。ここら辺のところが、解かり難いところであります。
 大聖人は、“南無妙法蓮華経” を 「因果倶時・不思議の一法」(513P)・「因果一念の宗」(871P) と仰せになられています。この点に関しては 「久遠即末法」 ということも、あわせて考えなければならないと思います。

 このように、大事な成仏の プロセスを説いている法華経は、「一切の諸の教法の中に於いて、最も為(こ)れ第一なり。…… 諸経の中の王なり」(薬王品) と呼ばれている。その外には、
 『法師品第十』 に、「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当(まさ)に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」 とあります。
 伝教大師は、「已説の四時の経・今説の無量義経・当説の涅槃経は易信易解なり随他意の故に、此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」(991P) と述べられ、ここでも、一切経の中で法華経が最高の教法であることが明かされています。 
 したがって、「已・今・当」 の三説をもって、諸経・諸宗は成敗されたのである。然るに、権宗諸派の開祖たちは、無惨にも 「皆成仏道の法華経」 を捨てさせているのである。

 “浄土宗” の法然は、「捨・閉・閣・抛」 の四字をもって、法華経を蔑(ないがし)ろにした。
 “真言宗” の弘法は、最上第一の法華経を第三・戯論(けろん)の法と下し、そのうえ正覚房は、教主釈尊を無明の辺域、大日の牛飼い、草履取りにも及ばないと、口汚く罵(ののし)っている。
 “禅宗” は、「教外別伝・不立文字」 といって仏典を否定しながら、経文を読誦している。祖師無用と言いながら、達磨を禅祖としている。言っている事とやっていることが、全てバラバラで自語相違も甚だしい。
 
 『如来寿量品第十六』 に、「飲他毒薬。薬発悶乱。宛転于地」(他の毒薬を飲む 薬発し悶乱して 地に宛転す)・「毒氣深入。失本心故」(毒気深く入って 本心を失えるが故に) とあります。
 これらの開祖たちは、第六天の魔王から魂を打ち抜かれ、仏弟子でありながら、祖師釈尊の金言に悉く叛逆する様は、本心を失える狂子の様だとしか言いようがない。

 同じく 『寿量品』 に、「如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者」(如来諸の衆生の 小法を楽(ねが)える徳薄垢重の者をみては) とあります。
 権宗・権教の “厄除けだとか、◯◯安全とか” このような小功徳を願う衆生は、「小法を楽える徳薄垢重の者」と、仏は戒められています。
 
 大聖人の 「文底下種仏法」 には、即身成仏という、永遠にして “絶対的幸福境涯” を獲得することが出来る道を教えています。
 『顕仏未来記』 に、伝教大師云く 「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」(509P) と仰せです。
 「丈夫の心」 とは、仏の心ということです。浅き爾前・権教の小功徳を去って、遠大な広宣流布という大目的に向かって、前進していくのが 「丈夫の心」 であり、「法華経の心」であります。

 したがって、「種・熟・脱」 の化導すら説かない権教、すなわち古今東西の数ある宗教・思想・哲学の中で、日蓮大聖人が御図顕された 「十界の文字曼荼羅御本尊」 が最高峰であることを確信し、「不受 余経一偈」(余経の一偈をも受けざれ)(譬喩品) の人のみが、「法華経の心」 を知る人であります。
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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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