会い難き御本尊 (3)(何なる幸あって後五百歳に生れん)

 日蓮大聖人の五老僧という高弟からして、大聖人の下種仏法がなかなか信解することが出来なかったと述べました。
 もともと、人界に生を受け、仏法(法華経)に会い、仏様に会うということは、非常に難しいことなのであります。その会い難きことを、法華経の説法に見てみたいと思います。

 『法華経方便品第二』 に 「諸仏世に興出(こうしゅつ)したもうこと 懸遠(けんのん)にして値遇(じぐ)すること難し 正使(たとい)世に出でたもうとも 是の法を説きたもうこと復難し 無量無数劫にも 是の法を聞くこと亦難し 能(よ)く是の法を聴く者 斯(こ)の人亦復難し 譬えば優曇華(うどんげ)の 一切皆愛楽(あいぎょう)し 天人の希有(けう)にする所として 時時に乃(いま)し一たび出ずるが如し 法を聞いて歓喜し讃(ほ)めて 乃至(ないし)一言をも発せば 則(すなわ)ち為(こ)れ已に 一切三世の仏を供養するなり」
 『安楽行品第十四』 に 「是の法華経は 無量の国の中に於いて 乃至名字をも聞くことを得べからず 何に況や見ることを得 受持し 読誦せんをや」 とあります。

 方便品には、そもそも、仏がこの世に出現することからして難しいのであると。だからその時に生まれ合わせて、仏に会えることは非常に困難である。たとい世に出現されたとしても、法華経を説くことは極まれなのである。 (説法)
 たまたま、法華経を説法したとしても、それを聞くことすら困難なのである。 (聞法)
 さらに、この法門を聞いても、能く聴く即ち、信受することは、ますます難しいことなのである。 (信受)
 安楽行品には、名字(名前)すら聞くことが出来ないと、すなわち、法華経の “説法・聞法・信受” の困難さと、それ故に、どれほど偉大な福運があるのか、想像すらできないのであると説かれている。

 『法華経題目抄』 に 「さればこの経に値いたてまつる事をば三千年に一度華(はな)さく優曇華(うどんげ)・無量無辺劫に一度値(あ)うなる一眼の亀にもたとへたり、大地の上に針を立てて大梵天王宮より芥子(けし)をなぐるに針のさきに芥子の・つらぬかれたるよりも法華経の題目に値う事はかたし、此の須弥山に針を立ててかの須弥山より大風のつよく吹く日・いとをわたさんにいたりてはりの穴にいとのさきの・いりたらんよりも法華経の題目に値い奉る事かたし」(941P) と仰せです。

 大聖人様も、“優曇華・一眼の亀・針と糸” の譬えをもって、いかに法華経の題目の会い難きことか、どれほどの大功徳なるかを御指導なされています。 (“一眼の亀” の譬えは、『松野殿後家尼御前御返事』(1391P)に詳しく述べられています)

 日蓮大聖人は、末法の広宣流布の時に、巡りあうことの喜びを述べられています。
 『顕仏未来記』 に、法華経の第七に云く 「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」 等云云、予一たびは歎(なげ)いて云く仏滅後既に二千二百二十余年を隔(へだ)つ何なる罪業に依って仏の在世に生れず正法の四依・像法の中の天台・伝教等にも値(あ)わざるやと、亦一たびは喜んで云く何なる幸あって後五百歳に生れて此の真文を拝見することぞや、(505P) と仰せです。

 大聖人は、仏の在世に生れなくて釈尊にお会いすることが出来なかったことを、一たびは歎かれています。また一たびは、末法に生まれ合わせて 「後五百歳・広宣流布」 の真文を拝見できることを喜ばれています。

 私も初信の頃、“鎌倉時代に生れて大聖人様にお会いしたかったなぁ” と思ったことがあります。でもしかし、鎌倉時代に日蓮門下となることは、実に命がけのことなのでありました。
 実際に “小松原の法難” では、工藤吉隆・鏡忍房が大聖人をお守りして討死しました。“竜の口の法難” では、四条金吾は殉死の覚悟でお供しました。“熱原の法難” では、農民信徒の神四郎・弥五郎・弥六郎が、退転を拒否し、妙法に殉じました。「其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう(過料)等かずをしらず」(1189P) と述べられ、また 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(1282P) と指導されています。
 
 このような厳しい時代状況の中での信仰に、正直いって、自分は耐えられるだろうかと危ぶまれます。今日の信教の自由が保障された時代とは、天地雲泥の差です。
 富木殿をはじめ当時の弟子たちは、日蓮大聖人の大慈悲あふれる仏のご境涯に触れて、みな命を惜しまぬ修行をいたしました。その功徳による即身成仏は、絶対に間違いないのであります。

 しかし、鎌倉時代は広宣流布の上から言えば、“逆縁広布” の時代です。大聖人から 「広宣流布の大願も叶うべき者か」(1337P)、「大地を的とするなるべし」(1360P) と、お聞きしていても、広宣流布への実感は湧いてこなかったと思います。
 それに比して、現在は創価学会三代会長の死身弘法の戦いによって、“順縁広布” の時代は切り拓かれ、広宣流布が世界192カ国まで進展いたしました。

 大聖人は 「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(1337P) と仰せです。“すべての人を成仏させよう” との “仏の心” とは、“広宣流布の大願” そのものであります。
 この “広宣流布の大願” を教えて下さったのが、創価学会であり、御歴代の会長・なかんずく池田先生であります。そして、広宣流布の大願、異体同心の信心・組織、師弟不二の実践のあるところ、成仏の血脈が流れることを教えて下さいました。

 今や我々は、創価学会のお蔭で 「会い難き仏法」 に会えて、「会い難き御本尊」 を信受することが出来ました。そしてまた、「何なる幸あって 『後五百歳中 広宣流布 於閻浮提(後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して)』(薬王品) の此の真文を拝見することぞや」 の御金言を、この身で読めることに感謝いたします。
 この報恩感謝のためには、来たる都議選・参院選には全員当選を勝ち取り、池田先生に “創価完勝” のご報告を申し上げますことをもって、創価学会総本部完成を慶祝いたします。
  
 『寂日房御書』 に 「夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり」(902P) と、末法に生を受け、「会い難き御本尊」 にお会いすることができた身の福運を感謝し、「世界広宣流布」 の戦いに、池田先生のご指導のもと、「青年学会 勝利の年」 を勝利して参ります。

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文字曼荼羅 (1)(曼荼羅とは)

 前のブログの 「会い難き御本尊」 の中で、日蓮門下の殆んどの弟子たちは、日蓮大聖人の御図顕された御本尊の意義や偉大さが解からなかったと述べました。
 その理由は、色々あろうかと思いますが、その中の一つに、御本尊が 「文字」 で顕(あら)わされた曼荼羅(まんだら)であると言うことではないかと思います。
 思えば、それまでの御本尊と称するものは、みな絵像や彫像によって製作されたものばかりだったからであります。その当時にあって、「文字」 で表現するなんて画期的なことでありました。

 「曼荼羅」 は、特に密教(真言宗) で用いられており、胎蔵界曼荼羅・金剛界曼荼羅が有名である。その他・阿弥陀にも浄土曼荼羅、神道系にも垂迹曼荼羅と称するものもある。
 これらは、仏の悟りの境地、世界観などを絵画を用いて視覚的・象徴的に表したものであると言われている。

 日蓮大聖人は 「曼荼羅」 について、次のように述べられています。
 『日女御前御返事』 に、「十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり」(1244P) と仰せです。

 「曼荼羅」 とは、輪円具足、即ち全てのものが具わって欠けているものはないという意で、十界具足(十界互具) を表わしている。
 真言の曼荼羅のごときは、仏・菩薩のみで、二乗・六道は捨てられてしまっているから、本当の輪円具足、功徳聚(功徳の集まり) とはいえない。したがって、曼荼羅の名にも値しないのである。
 日蓮大聖人は、地獄界の提婆達多ですら成仏を許された法華経の哲理に基づいて、十界すべてを具足した曼荼羅を 「文字」 をもって、御図顕なされて御本尊とされたのである。

 このような十界互具の御本尊について、日蓮大聖人は次のように述べられています。
 「此の大曼陀羅は仏滅後・二千二百二十余年の間・一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず」(1305P)
 「爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比(ころ)はじめて法華弘通のはた(旌)じるしとして顕し奉るなり」(1243P)
 と仰せです。

 仏滅後、正法・像法時代には無く、末法二百余年の頃、日蓮大聖人がはじめて御図顕されたところの、未曽有の大曼荼羅であります。
 したがって、この御本尊を初めて見聞きした者たちは、わが耳を惑(まど)わし、心を驚かして、とうてい信解することが出来なかったのである。 この故か、大聖人御入滅後、御本尊を粗末に扱った弟子たちがいたのである。

 日蓮大聖人の御本尊は、真の輪円具足・一念三千・御本仏の当体であるが故に、これを信ずる者ものは如何なる人であれ、生命の変革即ち、即身成仏ができるのである。
 また真の功徳聚であるが故に、如何なる苦悩も解決し、所願満足の生活ができる、素晴らしい御本尊なのである。

 粗末に扱った記事 ―→ ここから
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文字曼荼羅 (2)(文字について)

 日蓮大聖人は 「文字」 について、どのように御指導されているのか、御書を見てみたいと思います。
 「文字」 について書かれている御書は、その殆んどが禅宗を破折された文言のところにあります。

 ご承知のように禅宗は、“不立文字” すなわち、文字を立てないと言って、文字を軽んじ蔑(ないがし)ろにしている。文字を軽んずるが故に、経を軽んじ、その教主である釈尊を軽んじ、祖師無用とまで言っているのである。。
 人倫の道は、知恩報恩にあります。禅宗は師恩さえ侮(あなど)る、人間の道に外れた邪教である。

 では、日蓮大聖人は 「文字」 について、どの様に御指導されているのでしょうか。

 『木絵二像開眼之事』 に、「法華経の文字は仏の梵音声(ぼんのんじよう)の不可見無対色を可見有対色のかたちと・あらはしぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声かへって形をあらはして文字と成って衆生を利益するなり、…… 自身の思を声にあらはす事ありされば意(こころ)が声とあらはる意は心法・声は色法・心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二(にに)とあらはれて仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食(おぼしめす)事なかれすなわち仏の御意なり」(468P) と仰せです。

 梵音声とは、仏の三十二相の一つで梵音深遠相(ぼんのんじんのんそう)といい、仏の音声が十方世界に達し、かつ清浄であることをいう。すなわち、仏の説法の音声であります。
 見ることも・形もない音声が、見ることも・形もあるものと変化したものが 「文字」 である。自身の思いが声となってあらわれ、思いは心法・声は色法である。心法より色法をあらわす。
 また、声を聞いて心を知ることができる。色法が心法を顕わしている。色心不二であるが而二(しかも二)とあらわれて、仏の御心は法華の文字となり、文字は変じて又仏の御心となる。
 されば、法華経を読む人は、単なる文字と思ってはならない、すなわち仏の御心と思いなさいとのことです。

 『諸宗問答抄』 に、「文字は是一切衆生の心法の顕れたる質(すがた)なり、されば人のかける物を以て其の人の心根を知つて相する事あり、凡(およ)そ心と色法とは不二の法にて有る間かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり、然れば文字は是れ一切衆生の色心不二の質(すがた)なり、汝若し文字を立てざれば汝が色心をも立つ可からず、汝六根を離れて禅の法門一句答へよと責む可きなり」(380P) と仰せです。

 「文字」 は、一切衆生の心法(生命)が顕われた姿かたちであり、されば人の書きものを以って、その人の心根も・貧福をも人相をみて知ることができる。
 然れば、文字は一切衆生の色心不二の姿であるが故に、もし文字を立てなければ色心の二法も立たず、しからば汝六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を離れて禅の法門一言でも言って見よ、と破折すべきである。

 『四条金吾殿御返事』 に、「釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進(まい)らせたりと・おぼしめすべし」(1122P)
 
 法華経の文字は生身の釈迦如来、すなわち蓮祖大聖人と思し召しなさいと。また、「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P) と、『御義口伝』 に述べられています。

 『四信五品抄』 に、「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ、初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずる自然に意に当るなり。(342P) 
 
 妙法蓮華経の五字は単なる文字ではない。「一部の意」 すなわち、法華経・一部八巻・二十八品の中の肝心・要(かなめ)・心髄であり、成仏の種子であります。

 『蓮盛抄』 に、「仏は文字に依って衆生を度し給うなり、問う其の証拠如何、答えて云く涅槃経の十五に云く 『願わくは諸の衆生悉(ことごと)く皆出世の文字を受持せよ』 文、像法決疑経に云く 『文字に依るが故に衆生を度し菩提を得』 云云、若(も)し文字を離れば何を以てか仏事とせん」(153P)

 仏は文字によって衆生を救うのである。ゆえに、衆生は皆・出世の文字(御本尊)を受持しなさいと教えられています。
 以上、何点かにわたって 「文字」 に関する御金言を述べてみました。

 禅天魔の記事 ―→ ここから 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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