文字曼荼羅 (3)(文字とイメージ)

 「文字」 の意義について、日蓮大聖人の教えを学びました。自身の思いが声となり、声変じて文字となる。ゆえに、仏の御心あらわれて法華の文字となったとのことです。

 日蓮大聖人は、御自身の一念三千の当体を御本尊として御図顕なされて、我ら末代幼稚の者の頸に懸けてくださいました。
 『経王殿御返事』 に、「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124P) と仰せられています。

 この “日蓮がたましひ” である “南無妙法蓮華経” という 「法」 は、今までの絵像・木像の本尊では、とうてい顕わすことは出来ません。
 それは 「法」 というものを顕わすためには、「文字」 でなければならないからです。「文字」 で書かれた本尊は、「法を顕わした本尊」 と言えると思います。

 「文字」 について述べれば、例えば、“貴方の誕生祝いに、五万円プレゼントします” という短い言葉でも、これを絵や彫像で表現することは難しく、また、これら絵・像を見る人のそのときの精神情況や環境等によって、受ける感覚は種々変わってきます。しかし、この点 「文字」 ならば、簡単・かつ正確に伝達することができます。

 また、画・像で仏の姿や境地を顕わすこと自体にも限界があります。例えば、小説で 「この山は天下の嶮(けん)である」 という文章があったとして、それを読んだ人は、その人の好みに合わせて、箱根や蜀の桟道等・種々の断崖絶壁の風景を思い浮かべることが出来ます。
 しかし、これを絵に描いたり、TV等で映像化したりしますと、作者の意向によって、天下の嶮の イメージが具体化されてしまいます。それとともに、イメージを限定してしまうことにもなります。
 なるほど、絵や彫像の本尊でもその姿を通して、境地の素晴らしさ・優しさ・慈悲深さ等の イメージは表現されていますが、それ自体が イメージの限定になっているわけです。限定されると言うことは、それ以上のものは顕わせないと言うことです。

 「文字」 は意味を持っていますが、イメージを限定しておりません。ゆえに、一念三千という多様な仏の力用・生命の全体像を表現するためには、絵や彫像よりも、「文字」 のほうが優れておるわけです。
 この頃の学生さん達は、読書をあまりしなくなり、マンガや スマホ・TV等の映像ばかり見ていたのでは、イメージの一方通行ばかりであり、これでは思考力・想像力等が、育たないと憂慮されている状況です。

 『草木成仏口決』 に、「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(1339P) と仰せです。

 大聖人は、この一念三千の法門を 「ふりすすぎたてたる」 のが大曼荼羅であるとお教えられている。“振り灌ぐ” というのは、振り動かして清め、その エッセンスを取り出すことである。
 自身が、知らなかったから、分からなかったからといって、「当世の習いそこないの学者」 と言われないように、御本尊に対して、絶対の信を確立しなければならない。

 日蓮大聖人の 「事の一念三千」 の法理を本尊として顕わすには、絵像・木像の本尊ではどうしても限界があり、「文字」 によらなければ、それを顕わすことは出来ないのです。
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文字曼荼羅 (4)(文字について先生の指導)

 文字曼荼羅について、池田先生の御指導を学びたいと思います。
 『御書の世界第2巻』 の目次の 「御本尊(下)」 に、〔仏の真意を表す文字曼荼羅〕 の項目があります。池田先生の御指導を中心に参照いたします。(抜粋)

 斉藤  大聖人は、「観心本尊抄」 で、御本尊を 「此の仏像」(248P) と仰せです。 しかし大聖人は、木像や絵像ではなく、文字の曼荼羅として顕されています。
 この点、なぜ 「文字」 の曼荼羅として御本尊を顕されたのでしょうか。

 名誉会長  大聖人は、「木絵二像開眼之事」(468P) で、仏が具えた主要な特徴である 「三十二相」のうち、梵音声だけは、色心二法に分けた時、唯一、心法に属するゆえに、木像・絵像では、仏のすべてを表現しきれない、と指摘されています。
 心には、時間・空間を超えて無限に広がる豊かさがある。 まして仏の心は、絵や彫刻では表現しきれない。
 
 
 森中  見えないが厳然として存在する永遠の 「法」 は、視覚的には表しがたく、文字を使われたということですね。

 名誉会長  また、絵や彫刻などでは、それを拝した時に受け止め方が違ってきてしまう。 どうしても目に見える “表現” のほうにとらわれがちで、表現が象徴している “真理” に思いを致すのを妨げることもありがちです。
 ………
 名誉会長  絵や彫刻などでは、永遠にして普遍的な法を表現するのは困難です。
 御本尊が、万人に対して 「永遠の法」 即 「永遠の仏」 を顕し、弘めるために、像ではなく文字で表現されたことに深い意義を拝することができる。

 
 森中  確かに、文字を見ると、“誰が書いたのか” “どういう意味か” と考えます。 「書いた人」、「書いた人の心」 へと思いを至らせるはたらきが強いですね。

 名誉会長  文字は、「心」 へ、「因」 へと導きます。 これに対して、絵・像は、「果」 に執着させる傾向がある、と言える。
 
 森中  たしかに、できあがった絵や像の美しさや巧みさにほれぼれとし、その作者の心へはなかなか思いが至りません。 ………
 斉藤  木像・絵像は、因果の功徳のうち 「果」 の方の表現であり、しかも色心二法のうち色法に過ぎない、と言うことですね。

 名誉会長  それゆえ、決して、南無妙法蓮華経という因行果徳をすべて具足した根本法を表し尽くすことはできません。
 色心二法のうち、心は言葉で表されます。
 御書にも 「言(ことば)と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(563P) と仰せです。 そして言葉は、文字によって記し伝えていくことができる。 仏の心が文字に記され伝えられたものが経典です。 文字は 「心」 の表れです。 その文字に、永遠に人々を救う仏のはたらきが具わるのです。
 大聖人は 「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり(=仏は文字によって人々を救われるのである)」(153P) と仰せです。
 また 「所詮修多羅と云うも文字なり文字は是れ三世諸仏の気命(いのち)なりと天台釈し給へり(=つまるところ、経といっても文字である。 『文字は三世の諸仏の命の源である』 と天台大師は釈されている)」(381P) とも述べられています。
 さらに 「滅せる梵音声かへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり(=釈尊が亡くなって、すでに滅んでしまった仏の声がかえって形を現して文字となって人々に利益を与えるのである)」(469P) とも仰せです。

 
 斉藤  仏の滅後は、文字が、仏のはたらきをなし、民衆を救うのですね。
 
 名誉会長  ただし、大聖人は 「木絵二像開眼之事」 で、文字で記されたもののなかでも高低浅深があると仰せです。 人々を導くためにその能力に合わせて説いた 「随他意」 の経典と、仏の真意を直ちに説いた 「随自意」 の経典との違いがある。
 だからこそ大聖人は 「観心本尊抄」 の後半で、末法流通の本尊を選び定めるに当たり、序文・正宗分・流通分の三段を五重に用いて、仏の真意を明らかにされているのです。 いわゆる五重三段です。
 (御書の世界第2巻・222~226P)

 池田先生は、“文字は、「心」 へ、「因」 へと導きます。これに対して、絵・像は、「果」 に執着させる傾向がある” と指導されています。
 確かに仏画・仏像は、仏・菩薩像が主たるもので、これは仏果を描き・作り表したものである。 中には諸天像もあるが、これとて、諸天の力用をたのみ、その加護を得ようとするものである。
 このような信心の姿勢は、「従因至果〈因従(よ)り 果に至る〉」 ということで、迷いの衆生が修行して、成仏の 「果」 を目指すという姿は、釈迦仏法の 「仏果(仏界)」 を説いて、渇仰の心を起こさせて衆生を導くという姿勢です。 このような釈迦仏法を、「本果妙の仏法」 と言います。

 “文字は 「心」 の表れです” と。ゆえに、文字を見れば、それがどういう意味内容なのか、知りたい・学ぼうという心が湧いてきます。 まさに、“文字は、「心」 へ、「因」 へ” とそれを導いています。
 日蓮大聖人の仏法は、“南無妙法蓮華経” という 「根源の一法」 を根本として、どうすれは成仏するのかと、御自身は御本仏のお立場でありますが、凡夫のお姿のままで、仏になる本因の菩薩道を説き、自ら行じられ、大難に遭うことによって、宿命転換ができるという成仏の プロセスを、我われに教え諭(さと)してくださいました。
 このような信心の姿勢を、「従果向因〈果従(よ)り 因に向かう〉」 と言い、また、仏になる本因(仏因)を説く大聖人の仏法を 「本因妙の仏法」 と言います。

 このような 「本因妙の仏法」 とは、己心のなかに妙法の仏因・仏果を同時に感得することになります。 これに耐えうる本因妙の本尊は、仏果しか示し得ない絵像・木像の本尊ではなく、「十界具足の文字曼荼羅」 でなければなりません。
 ここに日蓮大聖人が、御本尊を 「文字」 で書き顕してくださった、ことの必然性があると思います。
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文字曼荼羅 (5)(御本尊と虚空会)

 文字曼荼羅に描かれている相貌(そうみょう)は、日蓮大聖人が法華経の 「虚空会の儀式」 を用いて御図顕してくださいました。
 
 池田先生は、大聖人は、付嘱を受けた地涌の菩薩の導師である上行菩薩の再誕のお立場から、寿量文底の根源の法である南無妙法蓮華経を直ちに示し、私たちが信受すべき明鏡として御本尊を顕してくださったのです。
 その際に、ただ南無妙法蓮華経だけを示しても、その深い意義は分かりにくい。そこで、既に広く知られていた虚空会の意義を用いながら、南無妙法蓮華経の深義を明らかにされたのです。
 ………
 本迹に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が 「本」 で、虚空会は 「迹」 です。迹をもって本を顕すのです。
 (御書の世界第2巻・208P) と指導されています。

 その相貌は、『日女御前御返事』 に 「是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用(ゆう)の神豈(あに)もるべきや、宝塔品に云く 「諸の大衆を接して皆虚空に在り」 云云、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる是を本尊とは申すなり」(1243P) と仰せです。

 「法華経見宝塔品第十一」 から 「嘱累品第二十二」 までの十二品は、「諸の大衆を接して皆虚空に在り」 と言われます様に、不思議なことに十界の衆生を、大神通力をもって虚空に引き上げて説法が始まります。これを 「虚空会の儀式」 と言います。
 
 この 「虚空会の儀式」 に参列した聴衆は、「此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず」 とあるように、全ての 「十界の衆生」 が参列しております。
 この 「十界の衆生」 が、すべて顕わされていることが肝心なのであります。真言宗のように、三悪道・四悪趣の悪を切り捨てて、善のみの仏・菩薩像しか描いて無いようなものは、真の曼荼羅とは言えない。
 大聖人は 「十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり」(1244P) と仰せられています。

 「十界の生命」 がことごとく具わっていると言うことは、法華経の哲理・生命の法則からして、それは 「十界互具・百界千如・一念三千」 であります。すなわち 「日蓮大聖人の御生命」 であり、「大宇宙の生命」 とも言うべきものを顕わしているのであります。
 
 大聖人は、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124P)
 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P)
 と仰せられています。
 以上のように、御本尊は 「文字」 によって、「十如実相・一念三千」 即 「生命」 を顕わしています。
 
 このことは、「生命」 こそ、何ものにも換えられない絶対的価値であり、“生命を本尊とせよ” との宣言であります。
 混迷せる二十一世紀を切り開く希望の哲理は、“人間主義” “生命尊厳主義” “平和主義” “文明主義” を標榜する、日蓮大聖人の大生命哲学・以外にありません。

 “生命を本尊とせよ” の記事 ―→ ここから
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文字曼荼羅 (6)(相貌について先生の指導)

 大聖人は、虚空会の意義を用いて、御本尊を御図顕なされました。その御本尊の相貌(そうみょう)について、池田先生の御指導を学びたいと思います。
 『御書の世界第2巻』 の目次の 「御本尊(下)」 にある、〔十界具足の曼荼羅〕 の項目のところからです。(抜粋)

 名誉会長  御本尊の相貌は宝塔である南無妙法蓮華経を中央の軸として、重層的な構造となっています。
 このことは、「日女御前御返事」 にも記されているね。


 斉藤  はい。「観心本尊抄」 では、列座の衆生として、釈迦・多宝と上行菩薩等の四菩薩、迹化の菩薩、十方の諸仏までが挙げられていますが、「日女御前御返事」 では、その他に声聞や六道の衆生が挙げられ、十界の無数の衆生が御本尊の中にそろっていることが示されています。
 その相貌をもって、南無妙法蓮華経が全衆生を包む大法であり、全宇宙は南無妙法蓮華経を中心軸とし、南無妙法蓮華経に支えられた コスモス(調和的秩序)であることが示されています。

 名誉会長  中央の 「南無妙法蓮華経」 は、根源の真理を示すものです。 いうなれば、生命宇宙の中心軸なので、虚空会の中心に屹立する宝塔で示されている。その左右に、釈迦仏と多宝如来がいる。 これらは、妙法蓮華経のはたらきを示す仏です。
 多宝如来は、過去仏であり、永遠の真理を表す。智慧の対境(対象)としての法を示しています。 釈尊は、現在仏です。法を現実に悟る智慧を表している。
 まさに南無妙法蓮華経の二つの側面です。
 二仏並坐とは、真理と智慧の一致、境智冥合を示すものです。


 森中  大聖人は 「此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり」(1055P) と仰せです。
 斉藤  迹門で示された永遠普遍の真理(迹門普遍真如の理)と、真理に基づきながら具体的な現実の縁に随って発揮される本門の智慧(本門隨縁真如の智)とも重なるものではないでしょうか。

 名誉会長  当然、そうなります。
 大事な点は、釈迦・多宝を本尊とするのではない、ということです。 釈迦・多宝も南無妙法蓮華経によって成仏したのです。 どこまでも、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経を本尊とするのです。
 そのことは、御本尊の相貌で、南無妙法蓮華経が中央に大きく認められ、その左右に釈迦・多宝が位置していることにも明らかです。


 森中  さらに、上行等の四菩薩は、釈尊の脇士とされています。

 名誉会長  南無妙法蓮華経を悟った仏は、必ず万人を救う菩薩行を起こします。 その菩薩行の面を示すのが四菩薩です。 上行、無辺行、浄行、安立行と、すべて 「行」 という名がついているのは、悟りの智慧を発揮して現実に行動を展開するからです。
 それは、妙法蓮華経と一体になった無限の生命力に基づく 「最高の行動」 「無限の行動」 「清らかな行動」 「ゆるぎない行動」 といえるでしょう。


 斉藤  涌出品についての 「御義口伝」 では 『輔正記』 を引いて、四菩薩が常・楽・我・浄の四徳波羅密に配されています。

 名誉会長  “永遠に(常) 確固として(我) 清浄で(浄) 幸福な(楽) 境涯を示すもの” といえるでしょう。

 森中  「生死一大事血脈抄」 には、地・水・火・風・空(天)の五大(万物を構成する五元素)の力を、「妙法蓮華経の五字」 のはたらきであり 「本化地涌の利益」 だと仰せです。

 名誉会長  地涌の菩薩は、生命本有の力を発揮し、全衆生、全世界を守り救っていくのです。

 森中  さらに、「文殊・弥勒等」 の迹化の大菩薩は、四菩薩の眷属であると仰せです。これは何を表すのでしょうか。

 名誉会長  生命本有の力が発揮されて成し遂げる、種々の具体的なはたらきを表すといえるでしょう。
 「三人寄れば文殊の知恵」 ということわざもあるように、文殊は “智慧” の象徴です。弥勒は漢訳して 「慈氏」 という。“慈悲” の象徴です。
 その他の迹化・他方の大小の菩薩は、虚空ではなく地上にいると仰せです。 これは、利他の種々の実践を意味しているのではないか。一人ひとりの現実に即して何としてでも皆を救おうとする、さまざまな具体的行動であると言えます。
 これらの菩薩は無数です。余りにも多いので御本尊に文字としてすべてを顕されてはいませんが、その功徳は厳然と具わっていることは明らかです。


 森中  十方の諸仏もまた大地にいると仰せです。
 十方の諸仏とは、釈尊の分身です。釈尊の心を受け継いで、それぞれの地で、その地の人々に応じた教えを説いている応身仏です。

 名誉会長  十方の諸仏は、一面から言えば、釈尊が説いた片端・片端の教えの象徴と言えるでしょう。 妙法という完全な真理の部分・部分を、人々の状況に随って説く、随他意の説といえる。

 斉藤  「日女御前御返事」 には、無数の十界の衆生を挙げられたうえで、「此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」(1243P) と仰せです。

 名誉会長  宝塔の妙法のもとに参集した、これら十界の衆生のすべてが、妙法のはたらきの一分、一分を担っているのです。 妙法の光明に照らされて、妙法の当体としての自身を顕し、「本有の尊形」 を示しているのです。 それぞれが個性を発揮し、妙法の豊かさを表している。これが 「自体顕照」 です。
 太陽の光は、プリズムを通ると、赤から紫まで連続した多くの色に分かれます。
 「太陽の光」 は全体、「それぞれの色」 は光が分かれてできた部分、部分です。 太陽の光には無数の色が具わっています。種々の色を含むからこそ、ものを照らした時、それぞれのものがその一部を吸収したり反射したりして、さまざまな色合いを見せます。
 
 ………
 名誉会長  妙法は 「能生の根源」 です。 万物を生み出す源です。 全てが含まれている。全てを含む妙法の陽光で照らすゆえに、あらゆるものが個性豊かに輝くのです。
 大聖人は 「妙の三義」 を説かれた。すなわち、妙とは 「開く義」 であり、「具足・円満の義」 であり、「蘇生の義」 です。
 当然のことながら、御本尊の㓛力には、この三義が具わっています。
 御本尊には、万人の仏性を開く力があります。 御本尊には、あらゆる功徳を具え、あらゆる機根を包摂する力があります。 御本尊には、いかなる悪業や悲惨をも救済しゆく蘇生の力があります。 要するに、御本尊には一切を生かしていく力がある。 「活の法門」 です。
 
 
 森中  インドの碩学であられる ロケッシュ・チャンドラ博士は、池田先生との対談で、虚空会について、こう語っておられます、
 「この宝塔を中心に行われる虚空会こそ、法華経の独自の法門を示すものといえるでしょう。 現在の仏である釈迦と、無限の過去の仏である多宝が、まったく等しいのです。
 永遠の真理と無限の福徳が、今、個々の一個の生命に顕れるということです。 まさに即身成仏の原理が示されているのです。
 日蓮大聖人は、法華経を目で読んだだけでなく、体験し、実行しました。題目の五字は実に成仏への直道であると、身をもって証明したのです。
 多宝如来の塔は、法華経のなかの個々の教義を指し示すというよりも、むしろ、この経の教え全体、精神が卓越したものであることを強調するものです。 ゆえに、宝塔とは題目であり、経そのものなのです」
  (『東洋の哲学を語る』、第三文明社)
 
 名誉会長  鋭い洞察です。
 宝塔とは、縦には三世、横には全宇宙を貫く 「法」 即 「仏」 の象徴です。
 その宝塔を仰ぎ、その高みを目指して無限の向上を図るのです。

 ………
 名誉会長  宝塔が大地の底から生じて娑婆世界の上空にかかるというのは、世界の久遠の根源から生じ、娑婆世界という現実を通じて、未来へ理念・理想を開花することを表しているのではないだろうか。
 釈尊の一族の末裔という、ネパールの シャキャ博士は、こう語っておられた。
 「虚空会の儀式は、仏の偉大な境地の象徴であり、その 『現在』 のうちに、『過去の十方世界』 も 『未来の十方世界』 も含んでいると考えられます。 時空を超越しているのが 『仏界』 です。 虚空会で説かれている世界を悟れば、人間には何でもできる力が出るということです」

 ………
 名誉会長  虚空会は 「時空を超えた世界」 です。 歴史的な特定の時・場所ではない。だからこそ、「いつでも、どこでも」 虚空会につながることができるのです。
 虚空会の儀式を用いて顕した御本尊を拝することによって、私どもは、「いま」 永遠なる宇宙生命と一体になり、「ここで」 全宇宙を見わたす境涯が開けるのです。
 日々の勤行・唱題によって、「いま・ここ」 で永遠なる虚空会の儀式に連なることができる。わが身に、わが生活に、わが人生に、宝塔を光らせていける。 これが御本尊の素晴らしさです。壮大な生命の コスモス(調和的秩序)が開かれ、現実が価値創造の世界と現われるのです。
  (御書の世界第2巻・210~219P) 

 以上、少々長い引用になりましたが、中には難しい・解からない、と仰しゃる方もおられると思います。
 しかし、私が申し上げたいのは、この御本尊は、正法・像法時代には出現されず、末法において、日蓮大聖人がはじめて顕わされた、全世界の中で、未曽有の最高の 「十界互具の文字曼荼羅御本尊」 であります。
 
 他宗の本尊を、比較してみれば、みな仏・菩薩の像はしていても、その実体はない、架空の仮の権仏と言われるものばかりである。
 なかには、蛇や狐狸の類いまで何でもかんでも、ご利益があるからと言って、無思考的・無批判的に、拝んでいる人たちもおります。
 これら間違ったのもを本尊とする信仰は、自身の生命を歪める故に、不幸になり、堕地獄の因となるのであります。
 
 日蓮大聖人は、「諸宗は本尊にまどえり」(215P) 
 日寛上人は、「須(すべか)らく本尊を簡(えら)んで以て信行を励むべし)(六巻抄・81P) と教え諭してくださいました。

 このように、正しい本尊を選び正すことは、信仰する者にとって、最も肝要なことなのであります。
 このことが、少しでもご理解いただけるならば、望外の喜びとするものであります。
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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