靖国神社問題

 靖国神社の春季例大祭に、与野党の国会議員が、過去最多の168名も参拝した。中国・韓国が反発するのは分かっているに、“今やめたらダメになる” と、何か意固地になってやっているようである。

 歴代内閣は、先の大戦において近隣諸国に多大な損害と苦痛を与えたことについて、そのつど謝罪をしてきた。しかし、いくら謝罪しても、靖国・慰安婦問題等は収まるどころか、事がだんだん大きくなってきている。なかには、何回謝罪すれば済むのか、自虐外交ではないかと言う者もおる。

 何故このような事になってしまったのか。
 それは戦後、国家神道・国家主義の悪思想を、徹底的に弾劾せず、中途半端なままにしてしまったからであると思う。過去を忘れ、過去を水に流す、国民性の故であろうか?
 その一つの表れが、国家主義・軍国主義の象徴たる靖国神社に、国の指導者からして、いまだに参拝していることである。
 
 一方、同じ敗戦国ドイツは、ナチスの悪を徹底的に断罪し、当時の西ドイツのアデナウアー首相は、ホロコーストのユダヤ人犠牲者の墓碑のまえで、深く謝罪をしました。そして、ナチスやヒットラーを称賛し、宣伝したりする者がおれば、逮捕し罰するという徹底ぶりであると言われている。

 両国のこの違いが、ドイツはEUの盟主として信頼を勝ち取り、わが国は戦後、70年になんなんとしているのに、近隣友好どころか、いまだ日中・日韓の新首脳会談さえも開かれないと言う、現今の状況である。 
 
 あまつさえ、朴韓国大統領は、このあいだの訪米の時 “日本の歴史認識の誤りが、東アジアの平和を阻害している(趣意)” との発言をし、第三国に対して、また世界世論にまで訴えようとしている。
 この動きは、決して等閑視できるものではない。この問題の処理を誤れば、わが国はかつて来た道、“世界の孤児” にならないとも限らないと、はなはだ憂慮するものがあるのである。

 来たる参院選に自民党が大勝すれば、8月15日の終戦記念日には、またぞろ大挙して参拝するのではないかと思われる。“火に油を注ぐ” ようなことに成らなければ良いがと思う。
 国民の負託を受けた国会議員ならば、もう少しこの問題の本質を真剣に見極めて、平和友好のために働いて貰いたいと思う。 
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国家神道と靖国神社

 「国家神道」 とは、幕末から明治維新にかけて政治変革のエネルギーであった王政復古・尊王思想を、明治新政府樹立のための基本的・精神的支柱として、神道思想を中心に創りだされた、明治期の国家のための新興宗教である。
 ゆえに、日本古来からの古神道より大きく逸脱して、異質なものであるという認識を先ず持たねばならない。

 明治政府は、欧米列強の侵略に対抗できる国づくりのために、国民の天皇への尊皇心を利用したところの天皇主権国家を樹立した。
 そこには天皇を、現人神(あらひとがみ)として絶対化し、古事記・日本書紀を基底とした惟神(かむながら)の道を説き、国家の精神的支柱とした。これが 「国家神道」 である。
 国家神道は、他の宗教を超越したところの国教的地位を与えられ、国家護持し、神職には官吏(公務員)の地位が与えられた。

 国家神道の思想(惟神の道)は、必然的に国家主義・軍国主義への道を開いた。特に、満州事変以後は、その教義に従わない者や団体は、自由を奪われ、排除や弾圧や投獄の対象とされた。それ故に国民に対して、個人の思想・信条や生活全般にわたり深刻な影響を与えた。
 創価教育学会もまた、平和を唱え、神札を受けないというだけで、牧口会長・戸田理事長は、“不敬罪” と “治安維持法” 違反で、弾圧・投獄され、牧口会長は獄死するという法難を受けた。

 王政復古・天皇親政のための国家神道、その思想の実現のための施設が 「靖国神社」 である。したがって、“国家主義・国家神道・靖国神社” の三者は、切っても切れない一体なるものなのである。

 「靖国神社」 は、戊辰戦争及びそれ以後に戦争等の国事に殉じた人々の霊を祀った招魂社の一つで、大村益次郎が推進して、明治2年に東京招魂社として建てられ、明治12年に靖国神社と改称された。昭和14年に各県にある招魂社は 「護国神社」 と改称したが、靖国神社は改称されなかった。

 靖国神社は、単なる慰霊碑や墓所の類いではなく、レッキとした国家神道の宗教施設なのである。首相ほか国の公人が、一宗教法人に肩入れして、戦没者を慰霊するためとは言え、参拝することは “憲法違反” に当たることは当然のことである。
 
 その靖国神社の教義は、天皇のために死すれば、神様(祭神)として祀られると言うのである。
 しかし、戦没者なら誰でも祀られるかと言えば、そうではなく、現人神である天皇のために戦った官軍の将兵だけであり、民間人や他国の将兵は祀られていないのである。このことは日本古来の伝統的精神に反するのである。

 その昔、日本の武将たちは、戦い終わった後は、敵も味方も区別なく、戦死者の霊を弔っておりました。元寇のときの元軍の将兵や島原の乱のキリシタンの人たちに対しても、その霊を弔っています。
 ところが、幕末の戊辰戦争のとき、会津若松藩の白虎隊士の遺体は、半年以上にわたって、山野に晒されたままであったとのことである。
 明治政府は、かれらが天皇に反逆した賊軍なるが故に追善供養することを禁止し、あまつさえ、違反する者は厳罰に処するとしたとのことである。じつに、死者にむち打つ酷い仕打ちである。

 沖縄の 「平和の礎(いしじ)」 には、敵・味方の区別なく民間人も含めて二十四万人余、沖縄戦でのすべての戦没者の氏名が刻銘されています。これこそが平和を愛する沖縄の心であり、我が国古来の伝統精神です。
 この 「怨親平等」 の伝統精神を、破壊したのが国家神道であり、靖国神社です。まさに、死者の霊までも 「差別・排除の論理」 を持ち込んだのである。 

 かかる偏狭な国家主義の精神が、そのまま現在の 「靖国神社」 に受け継がれているのである。自国のことばかりで、相手国の立場は考えようともしない、その象徴が 「A級戦犯の合祀」 である。
 この問題は、わが国が 「平和国家・文化国家」 であるか・どうかを、試されている試金石であると思う。
 このように重大な問題であるが故に、無関心であってはならない。熟慮して善処しなければならないと思う次第である。
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国家神道と国家主義

 明治政府は、天皇に主権を持たせるために、天皇の神格化が最善の方法と考えた。それには、古事記・日本書紀等にある惟神(かんながら)の道を、唯一の教義とする神道を用いた。

 「豊葦原瑞穂ノ国ハ、我子孫(うみのこ)ノ君タルベキ地(くに)ナリ。汝(いまし)皇孫(すめみま)征(ゆ)イテ治メヨ。宝祚(あまつひつぎ)ノ隆(さか)エマサンコト、天壌(あめつち)ト倶(とも)ニ窮(きわま)リ無カルベシ」 とある。

 この天照大神の神勅を、天皇による国家統治の原理とした。これには、天照大神の子孫である天皇は、生まれながらにして、神の子であるというのである。
 このような神代の時代後れの思想を基にして、天皇に絶対的権力を持たせるために、維新後に編成され作られたのが 「国家神道」 である。

 国の基本法からして、『明治憲法』 の第一条は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」 と。
 『教育勅語』 には、「一旦緩急(かんきゅう)アレバ義勇公ニ奉(ほう)ジ、以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。是ノ如キハ獨(ひと)リ朕(ちん)ガ忠良ノ臣民(しんみん)タルノミナラズ …」 とあります。

 このように憲法や勅語に、国民を天皇の臣民と位置づけ、一旦危急なることが起これば、公すなわち、天皇の国家に義勇をもって奉仕し、皇室を永遠に足らしめるべく扶助せよと、法律や勅まで作って国民を縛り付けているのである。
 明治政府は、国民一人ひとりの幸福や安穏な生活よりも、国家が強大な富国になることを目指した。そこには、“国民のための国家” ではなく、“国家のための国民” という転倒せる価値観、すなわち 「国家主義」 への道が開かれていた。

 もともと国家や政府は、国民大衆のためにあるのであって、国民は国家のためにあるのではない。国家は国民の生命・財産・幸福を第一義に考えなければならないのである。
 国家を第一義にして国民を手段とした国家主義が、前世紀に二度にわたる世界大戦を引き起こし、どれ程の民衆の犠牲者を出したことか、計り知れないのである。この転倒せる価値観を正し、生命尊厳主義・絶対平和主義にして行かねばならないのである。
 「国家主義」 について 『法華経の智慧』 には、次のように述べられています。(抜粋)

 名誉会長 国家主義とは何か。その根本には 「力の崇拝」 があります。不軽菩薩と対極です。

 須田 「力の崇拝」 が国家主義の根本にある ―― 難しいですね。

 名誉会長 「権力主義」 と言ってもよいと思う。
 「国家があって人間がある」 という転倒の思想です。忘れてならないのは、国家主義は古代からの 「宗教」 であるということです。
 
 ………
 名誉会長 トインビー博士は、こう言っておられた。
 「キリスト教の後退によって西欧に生じた空白は、三つの別の宗教によって埋められた」 その三つとは、「科学的進歩への信仰」 と 「共産主義」、そして 「ナショナリズム」 すなわち国家主義であると。 その「国家主義」とは、どんな宗教か。それは 「人間の集団力」 を信仰の対象にしている。「集団力崇拝」 であり 「国家崇拝」 です。
 ちなみに、トインビー博士は、集団的な人間の力を崇拝している点で、ナショナリズム、ファシズム(全体主義)、共産主義は共通していると喝破(かつぱ)されていた。国家主義という宗教のもとでは、「人間」 は、あくまで 「国家」 の一部にすぎない。手段にされ、道具にされる。「人間の尊厳」 が 「国家のエゴ」 に踏みにじられてしまう宗教です。

 ………
 名誉会長 「集団力崇拝」 の恐ろしさは、「信仰するに価(あたい)しないことがそれほど明瞭にわからないから」 だと、トインビー博士は書いている。
 「そして個人が罪を犯す場合なら、おそらく躊躇(ちゆうちよ)なく良心の呵責(かしやく)をうけるはずの悪業(あくごう)も …… 一人称が単数から複数におきかえられることによって、自己中心の罪をまぬがれたような錯覚におちいるために、とかくこれを大目に見ることになる」 (『一歴史家の宗教観』)

 斉藤 あの、戸田先生をいじめた看守も、「国家主義」 に毒された姿そのものですね。
 「国家」 という強大な力と自分を同一視している。自分まで、力があるかのように振る舞っている。

 名誉会長 戦争もそうだ。通常なら、人を殺すということは 「極悪(ごくあく)」 の行為です。ところが 「国のため」 となると、たくさん人を殺したほうが英雄になる。

 須田 国家主義という転倒の宗教によって、人間が狂わされていく ……。

 名誉会長 戦争をはじめ、こうした流転に歯止めをかけ、人類永遠の楽園を建設する原動力こそ、真実の宗教であると戸田先生は叫ばれたのです。
 人間です、大事なのは。人間のために社会・国家があるのであって、その逆ではない。国家優先の思想は、「力の崇拝」 であり、要するに 「弱肉強食」 になっていく。人間愛の 「不軽菩薩」 と対極です。それで不幸になるのは、結局、庶民なのです。見抜かなければいけない。目ざめなければいけない。 
 (法華経の智慧5巻・138~142P)

 明治維新の変革期に、近代国家を建設するにあたって、古事記等の史実とは異なる、おとぎ話のような神話を基にして、天皇の神格化を国家統治の原理としたところに、すでに滅亡への道が始まっていたのである。 
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神について

 神を信ずる宗教の 「神」 は、唯一神・多神・自然神・人間神・機能神・理念神・魂・等々多種多様にあり、一概に述べることは出来ません。ゆえに、大雑把に次の三点に分けて、簡単に述べてみたいと思います。

 第一に、全知全能の神です。
 代表的なのが、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教等の神です。人間をはじめ一切の動植物・大宇宙にいたるまで、全てを創造したと考えられている全知全能の唯一絶対神である。
 ゆえに、神と人間との間には越えがたき断絶があり、人間はただ、神の恩寵(おんちょう)を願い、罪の許しを請うだけのものに過ぎなくなります。
 唯一絶対神とは、他の一切の神の存在を許さないと言うことであり、この思いがこうじてくると、不倶戴天の他の神を撲滅することが、わが神の喜びであり、恩寵に与(あずか)ることになります。
 このことは、西欧における二千年来の宗教戦争の歴史が、証明するものである。
 ところで、全知全能・宇宙創造神なる神は、実在するのか・しないのか。いくら実在証明に理論的精密さを以ってしても、所詮は、観念の所産であり、幻想であり、架空のものである。
 近世以後、人格神としての性格はなくなって、宇宙・自然現象の奥底にあって、これを動かしている 「法」 を神と名づけているようである。

 第二に、宇宙・自然力を人格化した神である。
 太陽神や雷電・火・風・地・海・山・川などがその代表で、とくに各民族に共通して多いのは太陽神信仰で、古代エジプト、インカの神などはその例である。
 わが国も八百万(やおよろず)の神と言われるように、神代から宇宙、自然の様ざまな力を人格化した神々が多数存在します。皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ)も太陽神であります。

 第三に、民族の祖先や英雄を神格化した神々である。
 わが国では、菅原道真を祀った天満宮、豊臣秀吉の豊国神社、徳川家康の東照宮、等々です。また、戦没兵士を祀った靖国神社も、この部類に入ります。
 今までは、偉人や英雄を神として崇拝していましたが、靖国神社は一般庶民の兵士を祭神としたところに、古神道と異なるところがある。
 これによって明治政府は、富国強兵策のために徴兵(ちょうへい)制度を施行した。もし、この中で戦死者を出したとしても、忠君愛国の士として称え、靖国神社の 「祭神」 として祀られ天皇の礼拝を受けることは、一家・一族の名誉であるとして、遺族並びに国民の不平・不満を抑えたのである。
 そして、「祭神」 として崇められると教えることで、あたら前途有望な若者を神風特別攻撃隊員として、爆弾になれ・魚雷になれと諭して死地に送り込むことができたのである。
 このように 「靖国神社」 は、軍国主義の精神的支柱であり、戦争を美化し、正当化するための施設であります。
 何故、美化し正当化しなければならないのかと言えば、祭神として崇める以上、お前たちの死は決して “犬死に” では無いとしなければならない。そこから侵略戦争は自衛戦争であり、欧米列強の植民地支配からの解放であり、大東亜共栄圏構築の聖戦としなければならなかったのである。

 「神と仏」 について、池田先生の御指導を学びたいと思います。
 
 仏教で説く “仏” とは、宇宙、生命の根本の法を悟り究めた人をいいます。この法とは、大宇宙それ自体も、一切の生命現象も、全てを包含し、貫いている根源の法です。それを悟り究めた仏とは、なにも特別な力をもって生まれた “英雄” でも、“豪傑” でもありません。ただ、その悟り究めた法と、すばらしい叡智のゆえに尊貴なのです。

 つまり、仏法の仏とは、生まれながら、特別な力をもっている、いわば “特殊” な人格ではなく、最も円満な、普通の人格者です。しかし、その悟り究めた法が宇宙・生命の本源の法であり、その法と合致した生命活動をしていく人であるが故に、何ものもかなわない、すばらしい力を発揮していくことができるのです。

 ここに、“力” を根本とした、神の信仰と、“法” を根本とした、仏教の教えとの決定的な相違があります。神の “力” は、その人格だけに特有のものですから、人格の死と共に失われてしまいます。仏の “法” は、宇宙に本然のものですから、人格の生死には左右されません。また、神の力は、その神にだけあるもので、他の普通の人間は、それを真似ることができませんが、仏の法は、万人が平等に会得することができるのです。

 そこで、問題は、この仏と神との関係です。これまで述べてきたことから、冷静に考えていただきたい。宇宙、自然の様々の力といえども、大宇宙それ自体からみれば、その一分の働きに他ならない。つまり、そうした神々は、妙法という大宇宙のなかの、ほんの一部の “力” を神としてあらわしたものに過ぎないといえるでしょう。宇宙を創造したとされている、ユダヤ教やキリスト教の唯一絶対神も、その例外ではありません。宇宙空間にただよっていた物質が互いの引力によって凝集し、星や星雲を形成した。そこに、やがて生命が誕生し、様々の動植物を生み出していった。それは、宇宙自体のもっている “法” にしたがって現出されていったことであって、したがって全知全能神といっても、所詮、この法を “擬人化” して表現したものと考えるべきでしょう。
  (『現代文明と宗教』・18P)

 靖国神社に祭神として祀られた戦没兵士たちも、どんなに知恵や能力を持っていたとしても、所詮、人生の根本の法を究めた人ではない。
 したがって、死して神になれば衆生を救う力が出てくるなんて、そんな不合理なことはあり得ないのである。ゆえに、神として祀り、崇拝することは、道理に反することであります。
 押しなべて神道には、もともと思想的・哲学的な教義はありませんでした。とうてい、高等宗教と呼べる代物ではないのである。
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仏法上の神とは

 では、仏法において神は、どのように説かれているのでしょうか。
 それは、法華経の行者を守護するとの誓いを立てた 「諸天善神」 として説かれています。
 『法華経安楽行品第十四』 に 「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而(しか)も之を衛護(えいご)し」 とあり、法華経の行者を守護することを誓っている。

 仏法は流布されたとき、その土地の土着の神々を排斥することなく、「法」 の力用(りきゆう)を示すものとして受け入れてきました。
 たとえば、大梵天(だいぼんてん)・帝釈天(たいしやくてん)・四天王・鬼子母神等はインドの神であり、天照大神・八幡大菩薩等は日本の神である。
 これらの土着の神々は、仏法上では宇宙や生命の力用(功徳・作用・働き)の一部を示すものと考えられ、仏法を護る諸天善神としての役割を与えられたのである。
 しかしながら、仏法では 「法」 こそが、根本であるとする立場から、世界創造をなす絶対神やその他の神々への帰依・信仰は認めないのである。ゆえに、この諸天善神そのものを信仰の対象(本尊)としては拝まないのである。

 仏法には、「本地・垂迹(すいじゃく)」 という教判があります。
 『百六箇抄』 に、「立つ波・吹く風・万物に就いて本迹(ほんじゃく)を分け勝劣を弁ず可(べ)きなり」(869P) と述べられています。すなわち、一切の現象、我われの人生・生活についても、本迹、勝劣を立て分けていきなさいとのことです。
 
 では、何が 「本」 で、何が 「迹」 となるのか。
 ここでは、仏が 「本地」 であり、衆生を救うために神として現われた姿・振る舞いは 「垂迹」 である。
 また、生命論から言えば根本とすべきものは、あくまでも 「生命」 であり、人間が 「本」 となるのである。その他、宗教や政治・経済等は 「迹」 にすぎないと、このように勝劣を立て分けるのである。

 「本迹」 について、池田先生のご指導を学びたいと思います。(抜粋)

 中国の天台大師は、この 「本迹」 について、「本」 を 「天の月」 とし、「迹」 を月の影である 「池の月」 に譬(たと)え、「本」 は勝れ、「迹」 は劣るとしている。「本」 とは本体を意味する。一方、「迹」 とは本体の影、または跡(あと)を指す。事実から理論が生まれてくるように、「本」 があっての 「迹」 である。 
 ………
 「理論は一つの物差しです。だから、理論は、事実を説明する規範にはなるが、そのすべてではない。たとえば、現実の人間の生命活動を見ても、瞬間、瞬間、変化です。その変化してやまない本体が生命の事実の姿です。
 一方、この事実から抽出(ちゅうしゅつ)され、普遍化されたものが理論です。そこで、大事なのは、事実と理論を見極(みきわ)める鋭(するど)い目をもつとともに、どこまでも現実の大地に立脚していくことです。
 その根本は 『生命』 です。現実に生きている 『人間』 です。理論やイデオロギーを絶対視して教条主義に陥(おちい)り、かえって、現実の人間を抑圧(よくあつ)した例は、歴史上、枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。若き知性の諸君は、この不幸の歴史を変えてもらいたいんです」
 (新・人間革命8巻・147P)

 『神国王御書』 に、「王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」(1521P)
 『教機時国抄』 に、「必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫(がりゃく)を捨てて金珠(こんじゅ)を取るべし金珠を捨てて瓦礫を取ること勿(なか)れ」(439P) と仰せです。

 大聖人は、「金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ」 と、戒められています。
 「必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし」 とありますように、日本国は法華経有縁の実大乗流布の国である。そうであるのに明治政府は、国家主義に走る神道という外道の邪法を、国家の精神的支柱にしてしまった。仏法(本)という金珠を捨てて、神道(迹)という瓦礫を取ったのである。
 その結果、「仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」 と、大聖人のご予言通り亡国となってしまった。わが国民は、この歴史上の事実を真摯に学ばなければならない。

 私は靖国神社問題を、中国や韓国からクレームが付くから行くなと、そんな次元から言っているのではない。
 一国の指導者が、邪法邪義に染まり、信じ行ずれば、災起り難起り、仕舞いには国が滅亡するのである。
 これが日蓮大聖人のご確信であり、ご予言であり、「立正安国」 の精神であります。
 
 『立正安国論』 に云く 「言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」(17P) と。 

 参考:安国論の記事 ―→ ここから
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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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