再び 「神道」 について

 靖国神社の参拝について、多くの賛否の論があるが、否定するもののなかに、“神道そのものが低級なる教えであり間違いのもと” であるからという論は、あまり聞かない。しかし私は、これが一番の肝心なことであると思っています。

 明治維新の近代国家建設にあたって、西洋の先進技術や文明は学んだが、政治体制は天皇を絶対とする王政復古体制とした。王政復古とは、簡単に言えば、奈良朝や平安朝の時代に戻すことである。
 世界は フランス革命以後、王政から共和制へと移行しているのに、このときの時代の趨勢(すうせい)が読めなかったわが国は、歴史上の逆コースの道を歩んでしまった。これゆえに、国が亡んでしまったのであり、歴史の証明でもある。
 
 維新前の倒幕の エネルギーが、神道による尊王攘夷論にあったことから、これもむべなるかなと思われるが、王政復古の理論的根拠は、本居宣長・平田篤胤等の国学派が唱えた復古神道である。この神道の惟神(かんながら)の道が、国家的保護のもと、政治体制の根本原理として使われた時に、すでに挫折への第一歩がはじまったのである。

 小説 『人間革命』 には、「神道」 について次にように述べられています。
 
 「自然崇拝、あるいは祖先崇拝の原始宗教にあっては、自然あるいは集団のなかへの精神的従属主義をもたらす傾向が強い。それがまた、人間本然の帰属意識を満足させることによって、断ち切りがたい魅力をもつ原因でもあろう」 (文庫人間革命6巻・231P)

 「北畠親房の 『神皇正統記』 には 「大日本は神国なり」 と冒頭にあるが、この神国は、神の護る国というより、日本は神の子孫の国であり、天皇の統率すべき国であるという思想が濃厚であった」 (同・232P)

 「明治政府の成立から敗戦にいたるまで、わずか七十八年に過ぎないが、日本の驚くべき奇跡的な近代化が、この間に遂行された。神道は、この期間にあって、政治的実践を宗教化し、政治のさまざまな矛盾を合理化することで、重要な役割を演じたものの、その行き着くところに敗戦の悲劇が待っていた。
 建武の中興の五十年にわたる国内的悲劇もまた、神道の行き着くところの悲劇であったということが言えないだろうか。ここに歴史の証言と警告がありそうである。………
 
 神道というものは、所詮、わが国固有の宗教としてしか存在しえなかった。仏法との比較において、これは明確といえよう。つまり、神道の神は日本人のみの信仰の対象であるが、仏は少なくとも三国伝来にたえる信仰の対象であった。
 神道は、あくまで国民的であり風土的であるが、仏教は元来、世界的な広がりをもつものであり、根本義において宇宙的なものの内包があった。
 
 明治維新にあたって、神道の復古思想は、たしかに近代日本の跳躍台となったといえるが、二十一世紀の現代世界への真の跳躍台とは、とうていなりうるものではない。神道は内に強く、外に弱かったのである。
 仏教は現に生きる人間の哲学であって、単なる歴史的遺産ではない。その宇宙生命への深遠な悟りには、一民族の伝承や自然崇拝とは比較すべくもないものがある。高天原(たかまがはら)の生命的現実をもってしては、無始無終の久遠元初の生命(仏)には、とうてい及ぶものではないであろう」
 (同・235~237P) とあります。

 池田先生は、「およそ不幸の根源は、一国の政治や、社会機構の形態だけで、決定できるものではない。より本源的には、誤った思想や宗教によるものである」 (文庫人間革命1巻・21P) と述べられています。
  
 個人の人権・信教の自由のある民主主義国家の米国と、天皇絶対主義という封建思想を根本においた日本とは、すでに戦わずして、最初から勝敗は決していたのである。人間性を無視した組織の敗北の姿が、終戦直後の日本の現実であった。 

 日蓮大聖人は、「必ず先に弘まれる法を知って後の法を弘むべし」(439P) と。先に弘まった法を知って、後にそれより低い法を弘めてはいけないと言うことです。これは宗教のみならず、政治・社会全般に通ずる定理である。
 日本は、神道という瓦礫を取って、仏教(三大秘法の法華経)という金珠(こんじゅ)を捨てたがゆえに、“梵天・帝釈の治罰” を被ったのである。ここに、国家を挙げての神道の普及が、まさしく一国を誤らせ亡国へと至らしめた、動かすことのできない証拠なのである。
 この教訓を肝に銘じて、歴史の歯車を逆転させてはならない。それゆえに、国家神道の靖国神社に係わることは「絶対悪」であり、参拝などはとんでもない事であると断ずるものである。 
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靖国と憲法

 国会議員達が集団で、終戦記念日や例大祭に靖国神社を参拝することが、今や恒例行事になった。過去の歴史認識をめぐる不毛な対立による、中韓両国の反発も相変わらず起きている。
 この頃は、わが国の尖閣諸島近海で、中国艦船が領海侵犯をするという憂慮すべき問題も起きている。

 安倍総理は参院選前から、憲法九条改正への意欲を明言していた。
 この前の テレビ番組で、憲法改正について討論会をしていたとの事、私は見ていなかったが、見た友人が今の若者たちが、意外に改正に賛成する者が多かったと言っていた。
 このようなことを思うと、自民党の国会議員達が、あえて反発のなか憲法違反まで犯して、靖国神社の参拝を強行するのは、憲法改正の賛成世論を醸し出したいからではないかと、そのような、うがった見方もして見たくなる。

 安倍総理は前の時、「戦後 レジーム(体制)からの脱却」 という スローガンを掲げていた。
 それは、教育基本法を改正して、国のためになる国民の育成を、教育の目的とするものである。
 また、靖国神社を特別扱いにし、その関係を復活させて、将来、国のために命を捨てさせるための施設にしょうとしているのである。かつて “戦没者を祀る靖国神社を国の手で維持しないで、これから先、誰が国のために死ねるか” と発言した、保守系の大物議員もいたのである。
 そして次に、戦争ができる国にするために、憲法改正をしょうとしているのである。憲法改正と靖国神社国家護持は、一体となっているのである。

 そこには、個人よりも国家の価値を優先し大切にする価値観がある。すなわち、“国民のための国家”より、“国家のための国民” であるという転倒せる価値観である。
 権力には魔性がある。「他化自在天」 といって、自分以外のすべてを、自分の手段として利用しょうとする生命の働きである。これは誰人にもある 「元品の無明」 が発動したものだけに、なかなか厄介なものであり、注意する必要がある。

 安倍総理には、戦前の一等国 “大日本帝国” への郷愁があるのではないかと思われる。これが単なる杞憂であれば幸いである。
 わが国は サンフランシスコ講和条約で、東京裁判の結果を受けいれて、国際社会に復帰したわけである。
 “あの裁判は不正義の裁判だ” とか、“平和憲法は アメリカから押し付けられたものだ” とか、片一方の視点から見て、戦後の国際秩序の現状を認めないような、閣僚たちの言動は厳に慎むべきである。
 そのようなことをすれば、アメリカをはじめ、国際世論の反感を買う結果になりかねないのである。

 ところが、否定された筈の過去の神道史観をもって、国の公人が何時までも、「靖国神社」 に参拝していることは、何時までも、中国・韓国から歴史認識の問題を突き付けられ混乱が生じて、国際世論も我が国から離れて行きつつあるのである。
 政治指導者たるもの視線は、死者の慰霊という過去のものではなく、生者である国民の福祉・安寧・幸福という、未来に向けられていなければならない。

 戦後 70年になんなんとするのに、もういい加減にして、この問題に終止符を打とうではありませんか。
 それには、過去の軍国主義の侵略戦争の反省からして、戦争を精神面で推進した 「靖国神社」 には、今後一切関わらないことである。これが一番の解決策である。
 『立正安国論』 に、「唯偏に謗法(ほうぼう)を悪(にく)むなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍(のうにん)の以後経説は則ち其の施(せ)を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施(ほどこ)さず皆此の善に帰せば何なる難か並び起り何なる災か競い来らん」(30P) と仰せです。
 
 能忍とは釈尊のことである。釈尊以後は、謗法を退治する最直道として “則ち其の施を止む” と、すなわち謗法に対する布施を止めることである。これが、破仏法・破国の根源を断つ要諦である。ゆえに、靖国神社にはいっさい、参拝しない・玉串料も収めない、これが仏法の理にかなった一番よい方法である。

 我が国には、国のために犠牲になられた人々を、公に追悼する施設がありません。これを、一宗教法人である 「靖国神社」 に、委(ゆだ)ねているような状況であるから、いつも 「憲法違反」 の疑念が付きまとうのである。 これを、ハッキリと区別させるべきである。

 したがって、私は次のように思っています。 
 第一に、今後一切、わが国は国家神道の靖国神社・護国神社等と完全に縁を切り、国の公人は参拝しないことを宣言し、実行すべきである。
 第二に、然るべき別の場所に、新しく追悼の施設を作る方法が良いと思います。また、現在ある千鳥ヶ淵戦没者墓苑を、可能ならば拡充しても良いと思います。
 第三に、新しい施設は、誰でも心置きなく追悼でるように無宗派の施設で、碑や モニュメントの類いであるべきだと思います。間違っても、本尊や経題を書写した類いのものを設置しないことである。
 第四に、天皇陛下・総理大臣・外国の使節・その他・国民すべての人が、心から静かに追悼するに相応しいものにしてもらいたいと思います。

 戦後の復興にあたって、平和憲法が果たした役割は多大なものがある。特に、ベトナム戦争や イラク戦争において、一人の戦死者も出さなかったのは、憲法第九条のお蔭である。
 池田先生は、「軍事力等の ハード・パワーの行使も、現代では、国連という システムや、その背後にある国際世論という ソフト・パワーを無視しては不可能である(趣意)」 と述べられています。

 今や時代は、ソフト・パワーが主役の時代である。そうであるのに、わざわざ憲法を変えて、海外派兵を可能にしょうとするのは、時代錯誤・逆コースも甚だしいと言わざるを得ない。
 防衛上に不都合な点があれば、加憲や解釈改正や自衛隊法改正等で対処が可能かどうか、検討して見てはどうかと思う。

 そして、“憲法の前文並びに第九条” は絶対に堅持すべきである。わが国は平和・文化国家に徹すべきである。いたずらに、大国主義になる必要はない。
 平和で環境等すべてに安心・安全で、世の中で一番暮らしやすい国だと、世界中の人々から羨(うらや)ましがられるような国にして行きたいと思います。 

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勇猛精進

 夏季友好期間も終わった。8月の拙ブログは、まだ二つしか出来てない。暇があってゆとりがあれば、ものごとは早く出来るかといえば、そうでもない。むしろ、忙しく活動している時のほうが出来るのである。要は、気合が入るかどうかなのである。
 ところで、あと一つは書こうと思い、何にしょうかなと考えていたところ、朝夕読誦している方便品の「勇猛精進」という語句が思い浮かんだ。

 『法華経方便品第二』 に、「勇猛精進 名称普聞」 <勇猛(ゆうみょう)精進して、名称(みょうしょう)普(あまね)く聞こえたまえり> とあります。
 勇猛精進といえば、はじめは、勇敢にして励むことぐらいにしか思っていませんでした。入信して、六巻抄の「依義判文抄」を学んで、その一字一字に甚深の意義があることを知りました。
 依義判文とは、「義に依って文を判ず」と読む。経文を解釈する場合は、その文に囚われるのではなく、より高い教典の義によって解釈しなければならないと言うことです。
 末法の我らの立場では、法華経の文を解釈するには、日蓮大聖人の「文底独一本門」の意義をもって解釈するのである。

 『依義判文抄』 に、問う勇猛精進を題目と為すこと如何、
 答う本門の題目に即ち二意を具す所謂信心唱題なり、…… 勇猛は是れ信心なり、故に釈に云く「敢(いさん)で為すを勇と言い智を竭(つく)すを猛と言う」…… 精進は即ち是れ唱題の行なり故に釈に云く「無雑の故に精・無限の故に進」と云云、
(六巻抄・124P) とあります。 

  とは、勇んでと言うように、自発能動に主体性をもってやるのである。人から言われて、嫌々ながらやるのは信心ではない。

  とは、智を尽くすと言うように、理知性をもって、宗教は皆同じであるとかいうような、盲目、無知なことではいけない。生命のの英知を輝かせ、自己の主体性の確立をはかるのが信心である。

  とは、無雑と言うように、混じりけのない純真な信心である。「此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」(1546P) と仰せです。

  とは、無限と言うように、間断なき持続性をもって、一生涯・信行を貫くことである。「大難来れども憶持不忘の人は希(まれ)なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136P) と仰せです。
 勇猛精進とは、「真剣」 の二字であり、「一生懸命」 の実践であり、創価の師弟の心であります。 

 池田先生は、次のように指導されています。

 名誉会長 「畢竟(ひっきょう)して一乗に住せしめん(最後に必ず妙法に到着させることができる)」 というのは、「広宣流布」 のことです。<「御義口伝」 に 「畢竟とは広宣流布なり」(772P) と>
 そのために私どもは、願って、この世に生まれてきた。その今世の使命に向かって、生きて生きて、生き抜くのです。その 「勇猛精進」 の心が輝いていれば、不老不死の生命力がわく。
 「勇猛」 とは、最高の勇気です。「精」 とは無雑。精米のように、純白な、汚れのない信心の心です。 「進」 とは無間。間断なき行動です。たゆむことなく前進また前進することです。「精進」 です。「南無妙法蓮華経は精進行なり」(790P) です。間断なく戦い続ける、その信心に 「如来神力」 は湧現する。
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」(790P) です。
 “億劫の辛労”です。一念や二年分の辛労ではない。
 心をくだき、身を粉にして、広布のために苦労することです。「世間に行じて」 です。「社会の中で行動する」 のが神力品の付嘱を受けた地涌の菩薩です。
 日蓮大聖人直結の 「広宣流布の組織」 で、気どらず、飾らず、苦労に苦労を重ねて生き抜いている人。その人こそ、いかなる有名人よりも尊き、末法における “如来の使” なのです。また “如来” です。
  (法華経の智慧5巻・295P)

 かつて、ある青年が、牧口先生に、何が善で何が悪かをどうすれば判断できるようになるかと質問した。
 牧口先生は、「世界最高の宗教を命がけで修行する、その努力と勇気があれば、わかるようになる」 と答えられたという。
 さらに、「勇猛精進したまえ。実行だよ。精進だよ。老人にはなったが、私も実践しています」 とも語られた。
 まさしく 「勇猛精進」 とは、学会の源流です。勇んで挑戦するところに生命の躍動もあり、知恵も生まれる。そこに歓喜があり、希望がみなぎる。
 瞬間、瞬間、自己完成への因をたゆまず積み重ねる勇猛精進の人こそ、永遠の勝利者なのです。
 一人一人が師子王の心で、真剣に、また広々とした心で戦うことが、勇猛精進の実践にほかならないのです。
  (小冊子方便品寿量品講義①・72P)
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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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