世界広布新時代 開幕の年

 「世界広布新時代 開幕の年」 明けましておめでとうございます。本年も “創価教学随想” を何卒よろしくお願い申し上げます。
 聖教新聞元日号のトップに、池田先生から全同志に贈られた 「新年の歌」 が掲載されています。

  いざ昇れ 勝利の旭日 全世界
   広布の誓願 歓喜の船出よ


 世界広宣流布という全人類の幸福の実現へ、池田先生と共に、同志と共に全世界へ “広布の誓願・歓喜の船出” の出帆の時は今である。
 聖教新聞元日号にて、池田先生の “新年のメッセージ” を期待しておりましたが、残念ながら掲載されていませんでした。もうすでに、先生の御指導を一々仰がなければ、何も出来ない、指示待ちの時では無いということを感じました。
 これからは、各人が自身の修行の成果をもとにして、自分で考え、勇気をもって行動し、広宣流布の使命と責任を果たし行かねばなりません。
 喜ばしいことに、池田先生はお元気です。先生ご夫妻のご健康とご長寿をお祈り申し上げますと共に、いま執筆なされている聖教新聞に連載の 「新・人間革命」 と大白蓮華の 「勝利の経典『御書』 に学ぶ」 の二つは、しっかりと研鑚しなければならないと思います。

 大白蓮華1月号の 「勝利の経典 『御書』 に学ぶ」 は 『十字(むしもち)御書』 である。
 大聖人は、「正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく・日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・とく(徳)もまさり人にもあい(愛)せられ候なり」(1491P) と仰せです。 

 池田先生は、次のように指導されています。
 大聖人は、この正月一日を、妙法をもって祝う人は、月が次第に満ち、太陽が赫々と昇るように、わが身の功徳も勝り、人にも愛されるようになると仰せです。
 正月一日は 「始まり」 の日です。誰でも清新な決意で、一年を 「始める」 ことができる。自身を、いわば 「本因妙」 の精神に目覚めさせる好機になるのです。わが生命が喜びに躍動しないはずはありません。
 ………
 また『妙密上人御消息』 には、「日本国の中に但一人・南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の一塵大海の始の一露なり」(1241P) と仰せです。「始」 の一字には、広宣流布の戦いに一人立つ精神が烈々と燃えているではありませんか。
 その意味からも、私たちは、一日また一日と、御本尊に朗々と題目を唱えながら、わが身に新鮮な生命力をわきあがらせて出発していきたい。毎日が元日であり、元初の旭日に照らされながら、最高に充実した人生を歩んでいくための信心です。
 (大白2014年1月・31P)

 “正月一日は 「始まり」 の日です” と、「始まり」 の重要なることを指導しています。中には “自分は三日坊主だから” といって、何もしない人も見受けられるが、三日でも決意し実践すれば価値は生まれます。それを繰り返して行けば、一生のものになるわけです。悪いのは、善いことを何もしないということです。
 まず、基本中の基本である、御本尊にお題目を唱えることから挑戦しましょう。

 そして 「世界広宣流布新時代」 といっても、何も難しく考えることはありません。実は、我ら一人ひとりの日常の実践のなかにあるのです。
 世界平和といっても遠きにあるのではない。他人を大切にする心を育み、自らの振る舞いを通して、地域の中で友情と信頼の絆を一つ一つ勝ち取っていく中にこそ、世界は平和へと一歩一歩前進するわけです。
 一日一日の自身の振る舞い、そして地道な友人との対話を通し、「生命の尊厳」 「人類の融和」 への思いを高め合う中で、「平和の文化」 の土壌は豊になり、「世界広布新時代」 「世界の平和」 の幕は花開くと思います。 

 講義の最終のところは、 
 さあ、「世界広布新時代」 の開幕を告げるファンファーレは鳴り響いています。絢爛たる時代が到来しました。
 信ずるわが同志よ!
 愛するわが青年たちよ!
 新たな広宣流布の誓願に燃え立ちながら、今年もまた、共々に、勇気凛々と戦おうではありませんか!
 (同・43P)と、師の呼びかけにお応えしましょう。    
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本部幹部会のメッセージ

 「世界広布新時代第3回本部幹部会」 が、11日午後、東京戸田記念講堂で晴れやかに開催された。これには、池田先生が記念のメッセージを贈ってくださいました。
 先生は、広宣流布という正義の大誓願に生き抜き、朗々たる題目を轟かせながら、万年に語り継がれる歴史的な一年を、共々に勝ち飾ろうと呼び掛けられました。
 メッセージをご紹介したいと思います。(抜粋)

 一、青年部時代から、私が新年の出発に際し、決意も新たに心肝に染めてきた三つの御聖訓があります。
 一つは、「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(970P)。
 二つ目は、「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(955P) です。……… 
 だからこそ、永遠不滅の妙法と共に、死身弘法の師匠と共に、ただただ 「広宣流布」 という大誓願のため、わが生命を惜しみなく萌え上がらせて、この一年を、一日また一日、悔いなく戦い切っていくのだ
 こう、若き日より、思い定めてきました。
 この決意は、今もまったく、変わりはありません。

 一、さらに、三つ目の御聖訓は 「未来までの・ものがたり(物語)なに事か・これにすぎ候べき」(1086P) という 「兄弟抄」 の一節です。………
 大聖人は、私たちの今の挑戦も、今の苦労も、今の努力も、今の同志愛も、そして今の勝利も、すべてが消え去ることなく、「未来までの物語」 となって永劫に光り輝いていくと、励ましてくださっているのです。


 昨年の流行語大賞には 「いつやるか?今でしょ」 が受賞した。時代も、世間の人々も、今の一念の大切さ、妙法というものを、心の奧底では気付き希求していると思います。
 それは、いかなる権勢・財宝・学識・知性の人たりとも、人生の “生老病死” という本源的な苦を打開することはできないからです。

 それゆえに、久遠元初からの誓願を掲げて、三世永遠に、常楽我浄の生命の軌道を、大確信をもって人類へ示しゆく、私たちの宿縁は、あまりにも深い。 と述べられています。

 世界広宣流布の草創期といっても、決して過言ではない 「今」 について、池田先生は
 、一人の友に、随力弘通で妙法を語り切る勇気が、未来に無量無辺の地涌の眷属を創り広げる。
 、言いしれぬ災難にも負けずに、信心を貫き通す不屈の忍耐が、未来の社会の活路を赫々(かくかく)と照らし出す。
 、多彩にして多様な友と、励まし合って進む異体同心の団結が、未来の人間共和の都を建設する。
 、地道に誇り高く信念に走りゆく青春が、あとに続く幾千万もの未来の青年に、人生の栄光と勝利の大道を切り開くのであります。
(聖教2014/1/12・3面)と、今の大切さと、なすべきことを指導なされています。

 先生は、“こう、若き日より、思い定めてきました。この決意は、今もまったく、変わりはありません” と述べられています。
 かつて、先輩から先生の御決意の和歌を、お聞きしたことがありますので、ご紹介いたします。

  学会本部の質素な執務室に、私は次の一首を掲げている
  
   わが運命(さだめ)
   かくもあるかと
    決意せば
   惑うことなし
    恐れることなし


  これが第3代会長として立った 私の変わらぬ心である
  
  二00五 五月二十九日(日)
  

 池田先生の御心に、一歩でも近づけるような覚悟の信心を致せねばなりませぬ。終わりに、
 さあ、白馬のいななくように、朗々たる題目を轟かせながら、頑健な生命力を発揮して、万年の未来までの物語として語り継がれゆく、歴史的な一年を共々に飾りゆこう と呼び掛けられています。 
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権実相対(二乗作仏)

 前の権実相対に続いて、本迹相対に行こうかなと思いましたが、「十如実相」だけでなく「二乗作仏」のことも言わなければならないかなと思いました。
 また、開幕の年にあたり『人間革命』の研鑚の機運も高まり、この方も読み直さなければなと思い、どちらからにしょうかなあと思いながら、ついつい時を過ごしてしまいました。
 そこで、取りかかっている権実相対の二乗作仏まではやっておこうと思いました。

 二乗作仏とは、二乗(声聞・縁覚)が仏に成ることを言う。爾前の諸経では、声聞・縁覚界の者は永久に成仏できないと仏から弾呵された。
 その理由の第一は、二乗の者は自己の小さな悟り(空理)に執着して、これで事足れりとしていたからである。
 第二に、二乗は利他の行を欠いていて、苦悩の衆生を救おうとしない利己主義がある。
 この二乗の慢心と利己主義を、釈尊は徹底的に打ち破り、真実の成仏の道を知らしめようとして、きびしく呵責したのである。
 『開目抄上』に、「二種の人有り必ず死して活きず畢竟(ひっきょう)して恩を知り恩を報ずること能わず、一には声聞二には縁覚なり、譬えば人有りて深坑(じんこう)に堕墜(だつい)し是の人自ら利し他を利すること能わざるが如く声聞・縁覚も亦復是くの如し、解脱の坑(あな)に堕して自ら利し及以(およ)び他を利すること能わず」(191P) と仰せです。

 “恩を知り恩を報ずること能わず” と、すなわち、父母・師匠・一切衆生・三宝等の恩を振り捨てて、現実から逃避しょうとする利己主義的な二乗の態度が、慈悲をもって衆生の救済を根本とする仏法の精神と全く相いれないものであるからである。
 また、「枯れたる木・華さかず山水・山にかへらず破れたる石あはず・いれる種をいず、二乗また・かくのごとし仏種をいれり等となん」(192P) とまで言われ、二乗は永(よう)不成仏の者と定められたのである。

 然るに、法華経にきて忽ちに “二乗作仏すべし” と、釈尊は説かれたのである。それは、釈尊の弟子の大半は、二乗と呼ばれる人たちである。わが弟子たちを救わずして、なんで一切衆生を救えようか。このままでは、釈迦仏法はなんの意味もなさないのである。
 そして法華経迹門にて、成仏の記別を与え、弟子たちをして一切衆生救済の真の菩薩たれと、自覚を促がし、法華流布の使命を与えようとしたのである。

 前に引用した 『開目抄』 の文に、「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり」(197P) とあります。
 日寛上人は 『三重秘伝抄』 において、“爾前二種の失・一つを脱れたり” と言うのならば、“一念三千を説いて” だけで充分でであるのに、なぜ “一念三千・二乗作仏を説いて” と二つを並べ挙げたのであろうか、と疑問を呈しておられます。

 「答う一念三千は所詮にして二乗作仏は能詮なり、今・能所・並べ挙ぐる故に一念三千・二乗作仏等と云うなり」(六巻抄・25P) と答えられています。
 ここで 「能詮」 と 「所詮」 について述べれば、「詮」 とは事理をよく説き明かすこと。「能」 とは能動で説き明かす方であり、「所」 は受動で説き明かされる原理である。
 ここでは二乗作仏が明らかにする側(能詮)で、明らかにされる側(所詮)が一念三千である。ということは、二乗作仏が明らかになると、その結果、一念三千という原理が明確になってくる、という関係があるのである。

 次に、「謂(いわ)く若し二乗作仏を明さざる則(とき)は菩薩・凡夫も仏に作(な)らず、是れ即ち菩薩に二乗を具うれば所具の二乗・仏に作らざる則は能具の菩薩・豈・作仏せんや」 と仰せです。
 十界互具の原理からして、菩薩の一念には二乗の命が具わっています。二乗にも菩薩を具しています。そうであるのに、二乗が成仏できないということは、二乗を能具している菩薩も成仏できないということになります。
 ここで二乗作仏について、『法華経の智慧』 から池田先生の御指導を学びたいと思います。(抜粋)

 須田 大聖人が 「菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり」(421P) とおっしゃっているのは、このことですね。

 名誉会長 そうです。この原理は、十界の各界すべてについて同じです。
 「二乗界・仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず又余界の中の二乗界・仏にならずば余界の八界・仏になるべからず」(522P) と仰せの通りです。
 「二乗不作仏」ならば、仏ですら、仏ではありえなくなる。仏の中の二乗界が成仏しないからです。
 法華経以前の経典には、十界それぞれの因果が別々に説かれている。しかし、そこで説かれる成仏には実体がなく、“影” のようなものです。
 法華経には、その十界の因果の 「互具」 が説かれている。ゆえに法華経によって初めて、十界すべての衆生の成仏が可能となるのです。「十界互具」 が説かれるか否か。ひとえに、ここにかかっている。


 遠藤 「法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す今は十界の因果互具をおきてたる計りなり」(401P)―― 法華経とはほかの何を説いているのでもない。十界の因果は爾前の経に明かしているが、今(今経=法華経)は十界の因果の互具こそを定めている ―― と、大聖人が明言されている通りですね。

 斉藤 そうしますと、成仏できないと聞いた二乗の嘆きは、菩薩にとっても “他人ごと” ではなかったと言えますね。

 名誉会長 そこなのです、大事なのは。
 大聖人は 「二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくべきにあらざりけり我等も同じなげきにてありけりと心うるなり」(522P) と仰せです。
 そして 「人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生」(401P) という考え方を示されている。
 十界互具になる前は、他の衆生のことは、あくまで “他人ごと” であった。それが十界互具になって、“人の成仏は自分の成仏”“人の不成仏は自分の不成仏” と受け止めていく生き方に転換している。これは生命観、世界観の大変革です。
 「他人だけが不幸」はありえない。「自分だけが幸福」もありえない。他者のなかに自分を見、自分のなかに他者との一体性を感じていく ―― 「生き方」 の根底からの革命です。
 すなわち、人を差別することは、自分の生命を差別することになる。人を傷つければ、自分の生命が傷つく。人を尊敬することは、自分の生命を高めることになる。


 斉藤 「十界互具」の生命観に立てば、人間は差別を超えられる、平等になれるということですね。

 名誉会長 その通りです。「権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり」(816P) と大聖人は仰せです。法華経は、単なるスローガンとしての平等ではなく、生命の法理のうえから、そして 「生き方」 の根源から、自他共の幸福への道を教える経典なのです。
 そして大聖人は、末法は 「南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり」(816P) と教えてくださっている。
  (法華経の智慧第1巻・185~188P)

 このように、二乗作仏と一念三千は、切っても切り離せない関係があります。ゆえに、能所・並べ挙げて説かれた分けです。
 法華経迹門と爾前権経との違いは、二乗・悪人・女人の成仏を許すのか、不成仏のままなのかの点である。迹門において 「二乗作仏」 が示され、九界即仏界・十界互具・一念三千の原理が説き明かされ、一切衆生の成仏が可能となったのである。 
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新・人間革命(正義の章)

 新時代開幕の年1月より、聖教新聞には 『新・人間革命第27巻』 の正義の章が連載されています。
 正義の章は、日蓮大聖人の御遺命たる広宣流布の大願に勇往邁進する 「創価学会」 と、広布を忘れ邪教と化した 「日蓮正宗」 との違いを明確にして、我われに成仏得道の道を踏み外さないように教えてくださっています。

 この正義の章に、戸田先生が第二代会長になられて直ぐ、創価学会が宗門と別団体になるための宗教法人格を取得したことが述べられています。このことは、戸田先生の先見の明の確かなることを物語っています。
 正義の章には、次のように述べられています。

 後年、腐敗、堕落した宗門は、「C作戦」(Cはカットの意) なる計画を実行し、一九九一年(平成三年)十一月、学会を “破門” するなどという時代錯誤な暴挙に出た。しかし、いくら一方的に “切る” などと騒いでも、学会は、もとより独立した宗教法人である。なんの社会的な影響力もなかった。
 むしろ、それによって、学会は、邪宗門の呪縛から完全に解き放たれ、魂の独立を果たし、晴れやかに、ますます雄々しく、広宣流布の大空に飛翔していくことになる。
 宗教法人の設立という戸田の英断が、どれほど広宣流布の大発展につながっていったことか。伸一は、未来を見すえた師の慧眼と偉大さに感嘆するとともに、“戸田先生に学会を守っていただいた” との思いを深くするのであった。
 ………
 一方、広宣流布の団体の破壊を企てた宗門は、その後、衰亡の坂道を転げ落ちていくことになる。それは、まさに宗門こそが、日蓮大聖人から破門された証明といえよう。
  (新・人間革命27・正義20)
 
 宗門の僧侶たちは、信仰心を失い、自ら腐敗堕落し、僧が上だと言って信徒を蔑視し、これが聖職者の姿なのかと、その醜態をさらけ出していたのである。
 そして金が貯まってくると我意に従わない者は切るという、坊主根性まる出しで 「C作戦」 を企て、広宣流布を推進する創価学会を “破門” するという暴挙に出たのである。
 この挙は、日蓮大聖人の御精神に反することであり、その後、宗門は衰亡の一途を辿っているのである。先生も “まさに宗門こそが、日蓮大聖人から破門された証明といえよう” と述べられています。

 これまでの各宗派では、すべての信者が一宗教法人のなかに収容されて、一体となった存在であった。ところが、学会の場合は、日蓮正宗という総括法人の外に、さらに創価学会という新たな法人格を作るということである。その理由について、先生は次のように述べられています。

 第一に、大法戦等に際して、総本山に直接の責任や迷惑を及ぼさないためであり、
 第二に、総本山を外護する団体として、思いきった折伏行を断行するためである。
 また第三に、これからの民衆は、いままでの僧侶仏教的な指導や行き方では、なかなか正法を持つまでにはいたらないであろう。しかも、わずか少人数の僧侶をもってしては、多数の信徒を指導することは到底できないからである。
 第四に、信徒だけで構成された団体こそ、もっとも近代的で理想的な民衆仏法であるといえよう。
 妙法を根底にしつつ、そこから一切の社会の各分野にわたって広く活躍していったほうが、はるかに広宣流布の進展も早まるにちがいない。また、それが自然な姿でもあったからだ。
 ………
 今にして思えば、この時の戸田の決断こそ、まさしく他のあらゆる教団を見事にかけはなしてしまい、学会の行き方が正しかったことを実証したのである。
  (文庫・人間革命5巻・218P)

 実際に、広宣流布の戦いの場において、如何ほどの非難・中傷を受けたことか。それを創価学会なかんずく、池田先生が御一人で受けられ、宗門を外護してきたのである。そのお蔭でぬくぬくと育てられた恩を忘れ、学会員を蔑視しその会の破壊を企てるとは、人に道にもとることである。

 このような僧侶の体質は、江戸時代の檀家制度から醸成されてきたのである。牧口・戸田先生の時代にもあったが、大きく具体的な動きとして現われてきたのが、一九七七年(昭和五十二年)の一月十五日、第九回教学部大会での 「仏教史観を語る」 と題しての記念講演からである。
 この講演について、正義の章には、次のように述べられています。

 伸一は、その仏教が、やがて沈滞し、形骸化していった要因の一つは、仏教界全体が “出家仏教” に陥り、民衆をリードする機能を失ったことにあると指摘した。
 そして、衆生を導く、指導者たる “法師” について、本来の意義に立ち返って論及。
 「今いかなる時かを凝視しつつ、広宣流布の運動をリードし、能く法を説きつつ、広く民衆の大海に自行化他の実践の波を起こしゆく存在」 と述べた。つまり、民衆と共に、仏法のために戦ってこそ、真の法師であると訴えたのである。
 また、出家と在家の本義にも言及し、「現代において創価学会は、在家、出家の両方に通ずる役割を果たしているといえましょう。これほど、偉大なる仏意にかなった和合僧は、世界にないのであります」 と宣言した。
 さらに、寺院の歴史についても論を進め、寺院は、人びとが集って成道をめざし、仏道修行に励み、布教へと向かう拠点であり、その本義の上から、学会の会館、研修所は、「現代における寺院」 ともいうべきであると語った。
  (新・人間革命27・正義24)

 この講演は、仏教の本義の上から述べられたものであり、何ら批難されるようなものではないが、宗門の僧侶らは、自らの行状を省みることなく、宗門批判と捉えた。そして、どす黒い嫉妬心を燃やし、創価学会攻撃の材料として利用したのである。
 
 『佐渡御書』 に、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云」(957P) と、仏教は外からは破れない。内部の仏弟子の腐敗堕落から破られるのである。
 『法華経』 に、「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲(てんごく)に未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)い我慢の心充満せん」(勧持品) と、末法の僧の実体を説いています。
 頭をまるめ、袈裟・衣を着しておればと、外形から判断してはならない。世の中で、一番信用ならない大悪人は、実は僧侶なのであります。
 妙楽云く 「第三最も甚し後後の者転(うたた)識(し)り難きを以つての故に」(228P) と。

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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