戸田先生の誓願(4)(学会の秘史)

 戸田先生の “七十五万の大誓願” をもって、この稿を終わろうかと思いましたが、会長御就任までの期間、戸田先生・池田先生は、命を懸けた大変な御苦労をなされました。
 池田先生は、「戸田と伸一という師弟がつくった、この期間の秘史のなかに、その後の創価学会の、発展と存在との根本的な要因があったといえよう」 と述べられています。  (ワイド文庫人間革命4巻・343P)
 したがって、概略ではありますが述べてみたいと思います。

 戸田先生は出獄後、直ちに創価学会とご自分の事業の再建に取りかかりました。
 学会の再建は、昭和21年正月、総本山の宿坊で四人の幹部を相手に、法華経の講義から始めました。
 事業の方は、昭和20年10月、西神田に日本正学館の事務所を開設し、出版事業を開始する。
 昭和24年1月、池田先生は日本正学館に入社、戸田先生のもとで訓育を受けられ、「師弟不二」 の戦いを開始されました。
 出版事業は、戦後の急激なインフレと大手出版社の有力雑誌の復刊により、経営困難となり出版事業は断念する。 
 この頃、戸田先生は、東京建設信用組合を引き受け、その経営責任者となる。
 昭和24年、GHQの命により、インフレの収束と経済自立化を目的とする 「経済安定九原則」(ドッジ・ライン)が実施された。いわゆる緊縮政策なるが故に、世間は大不況となり、失業者は巷(ちまた)にあふれ、社会は混乱し、怪事件が次々と起こり、人心は騒然となった。
 かかる時節、信用組合の方も、不良債権を抱え、経営困難となり、大蔵省より業務停止命令を受ける。
 他人のお金を預かって営業する信用組合は、経営破綻すれば、その経営責任者は、法的責任を問われ兼ねないことになります。

 戸田先生は、かかる事態になったのも、すべてご自身の責任であり、“御本尊様よりお叱りを受けた” のだと感じられました。
 昭和25年10月末、大石寺に詣でて、丑寅勤行の終了後、ただ御一人、大御本尊が安置された宝蔵の前の石畳の上に端座して、大御本尊にひたすらに、“大荘厳懺悔” を申し上げました。
 想えば、学会再建の第一歩は、法華経の講義から始められたのであったが、

 それというのも、戦時中の、あの弾圧で、教学の未熟さから、同志の退転という煮え湯を飲まされたからだ。…… 方針は正しかったが、大聖人の仏法を理解させることにおいて、私は誤りを犯したようだ。
 大聖人の仏法の根本義を明かした 「御義口伝」 をもとにして講義したつもりであったが、…… 受講者が理解したものは、大聖人の法華経ではなくて、いつの間にか天台流の臭味のある法華経になってしまった。
 ………
 一方、新宗教は、戦後社会の混乱と、人びとの不安に乗じて、勢力を伸ばしてきた。…… これは果たして誰の罪であろうか。
 ………
 “敗戦後の不幸のどん底にいる民衆を、誤った宗教の手に、かくも多く委ねてしまったのは、誰の罪でもない。私の罪だ
 ………
 そして、組織体として弱体であったことを思った時、会長不在のまま、六年の歳月が流れてしまったことを、彼の責任として、考えないわけにはいかなかった。
 “恩師・牧口先生の七回忌が目前に来ている。しかも。現在の自分は、苦悩の底に沈んでしまった。
 先生亡き後、会長就任を、心のどこかで避けようとしてきた自分、それでいて大使命だけは自覚してきた自分、なんという矛盾に満ちた姿であったことだろう。一寸延ばしに延ばしてきたのは、会長就任という容易ならぬ重責を予見してのことであったが、その臆(おく)する心のゆえに、かくも多くの不幸な民衆を、誤った宗教に委(ゆだ)ねてしまった。まさに、その罪、万死に値するかもしれぬ……” 

 ………
 戸田が会長就任を避けたのは、もう一つの具体的な理由があった。
 牧口会長の時代から、創価学会の経済的負担は、ことごとく彼一人で引き受けてきた。戦後の再建に身を挺した時も、彼はまず、経済的基礎の確立を急ぎ、組織体としての躍進を第二として考えていた。
 ………
 今、彼は、一手段、方法にすぎない経済の問題を、宗教革命という一切の根本問題よりも先行させて考えていた錯誤を、感じ始めていた。つまり、経済的成功を左右するものもまた、広宣流布という使命感の自覚いかんによることを悟ったのである。
 ………

 “いかなる苦難が、いよいよ重なろうと、これを乗り切らねばならぬ。もはや、わが身一つのためではない。ひとえに、わが使命達成のためである。日蓮大聖人の金言のことごとくを、断じて虚妄にしてはならないのだ。
 大御本尊様、万死に値する、この戸田城聖に、もしも、その資格があるならば、何とぞお許しください”
  (ワイド文庫人間革命4巻・313~318)

 戸田先生は、今までの来し方を反省なされ、御本尊様にお詫び申し上げて、早くこの苦悩から脱出し、使命たる広宣流布を目指して邁進(まいしん)せんと意を決しました。そのためには明らかなる現証を、待ち望んでいました。
 昭和26年の2月初旬の厳寒の日であった。戸田先生は、御仏意というより外にない、不思議な瞬間を持たれました。

 ―― あの牢獄で知った喜悦の瞬間を、今また、彼は体験したのである。
 彼の生命は、虚空に宇宙的な広がりをもち、無限の宇宙は、彼の胸の内に納まっていた。彼は、心で唱題し、抑えがたい歓喜に身を震わせた。輝くばかりの充実感を自覚したまま、大宇宙に遍満するわが生命と、永遠をはらんだ一瞬を、苦もなく感得したのである。
 ………
 “ありがたい。なんと、ありがたいことか 俺は厳然と守られている、俺の生涯は、大御本尊様を離れては存在しないのだ”
 ………
 この日から数日後のことである。大蔵省の意向が、清算中の信用組合に通達されてきた。組合員の総意がまとまるものならば、組合を解散しても差し支えないというのである。…… 組合の解散が可能ならば、法律的責任も、自然解消ということになるではないか。
  (ワイド文庫人間革命5巻・30P)

 戸田先生は、ついに “仏法、必ず王法に勝れり” いう確証を身をもって知りました。あとは一瀉千里、“七十五万世帯折伏” という大誓願・達成への尊い御生涯でした。
 日淳(にちじゅん)上人は、戸田先生の偉業を称えて、「その方々を、会長先生が末法に先達になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。すなわち、妙法蓮華経の五字七字を、七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います」 (ワイド文庫人間革命12巻・451P)
 以上のように、戸田先生と創価学会を、仏の誓願を実践する一大教団であると称え敬意を表されました。

 このことは 「創価学会」 こそ、日蓮大聖人の仏法の正統の継承者であることの証左であります。
 そして、われ等もまた、戸田先生の大誓願によって、地上へ呼び出された宿縁ある者である。
 『寂日房御書』 に、「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」(903P) と。
 「世界広布新時代・開幕の年」、池田先生のもと、宿縁ふかしと思うて、折伏弘教に頑張ります。

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法華経の心(7)(最上第一の相伝)

 今まで 「法華経の心」 について、六つほど書いていますが、考えてみますと、不軽菩薩の礼拝行や折伏は、「法華経の心」 の実践であり、これらのことも、押さえて置かなければならないな! と思いました。
 そこで、うまく書けるかどうか分かりませんが、自身の勉強のつもりで書いてみようと思いますので、お目を通して頂ければ幸いです。

 日蓮大聖人は、法華経の経末に至って、“最上第一の相伝あり” と仰せられています。
 昨年の11月、「広宣流布大誓堂」 の落慶記念勤行会が開催され、池田先生よりメッセージを賜わりました。その 「名誉会長のメッセージ」 に、(抜粋)

 この大殿堂の南側と北側には、それぞれに八本の柱が立ち並んで、来館される方々をお迎えいたします。
 日蓮大聖人は、「御義口伝」で、「此の品(=普賢品第28)の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏(とうきおんごう・とうにょきょうぶつ)の文なり」(781P) と仰せです。
 八本の柱は、「必ず仏の如くに法華経の行者を敬うべし」(同) という 「法華経の心」、すなわち学会員を仏の如くに大切にする 「創価の心」 を体した八文字の象徴なりと、私は後世のために申し上げておきます。
  (聖教・2013-11-9)

 大誓堂の南側と北側の入り口にある其々八本の柱は、「広宣流布誓願勤行会」 に参加する “学会員を仏の如くに大切にする 「創価の心」 を体した八文字の象徴なり” と、その意義を教えてくださいました。
 そして、釈尊が八年かけて説いた法華経も、要約すれば 「当起遠迎当如敬仏」 の八字になります。その本意は、末法に現れる法華経の行者即ち、日蓮大聖人を 「末法の御本仏」 として敬いなさいという意味であります。
 その上で、総じては、日蓮大聖人の門下として、広宣流布に邁進する創価学会員をも、“まさに仏の如くに敬いなさい” という、これが 「法華経の心」 であり、「創価の心」 であります。

 『崇峻天皇御書』 に、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) と仰せです。
 仏法の肝要は 「人の振舞」 即ち、「人を敬う」 実践こそが、「法華経の修行の肝心」 であり、「教主釈尊の出世の本懐」 であると仰せです。
 ゆえに、「当起遠迎当如敬仏」 の八字を 「最上第一の相伝」 とまで、仰せになられています。大聖人は、この 「法華経の心」 を、一切衆生にまで及ぼし、全人類を救わんと大願を立てられました。
 引きつづき “メッセージ” を拝読いたします。
 
 「大願」 とは 「法華弘通」 つまり 「広宣流布の大願」 にほかなりません。
 大聖人の立宗より七百年、闘諍言訟の末法が極まった現代にあって、この御本仏のお心のままに、「広宣流布」 の大願を成就することを誓って立ち上がった仏意仏勅の教団が、創価学会であります。
 「広宣流布の大願」 と 「仏界の生命」 とは一体です。
 だからこそ ―― この誓いに生き抜く時、人は最も尊く、最も強く、最も大きくなれる。
 この誓いを貫く時、仏の勇気、仏の智慧、仏の慈悲が限りなく湧き出でてくる。
 この誓いに徹し切る時、どんな悩みも変毒為薬し、宿命をも使命へと転じていける。
 これが、創価の最極の同志であります。
 これが、学会の無敵の陣列であります。
 そして、我ら誓願の学会が奉ずる 「法華弘通のはたじるし」(1243P) こそ、この大礼拝室に御安置奉った 「大法弘通慈折広宣流布大願成就」 と、お認めの常住御本尊であられるのです。
 ………
 我らの祈りは、わが地域から全地球まで包みます。
 この大殿堂は、「生死一大事血脈抄」 の御聖訓の通り、ありとあらゆる差異を超えて、妙法の世界市民が集い合い、「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え」(1337P) 民衆の幸福と安穏、社会の繁栄、世界の平和、人類の宿命転換へ、共々に励まし、誓願へ勇猛精進していく究極の人間共和の宝塔なのであります。
 ゆえに本日より、この城を 「広宣流布大誓堂」 として、世界広宣流布の新時代へ、歓喜勇躍して正義と希望の大前進を開始したいと思いますが、いかがでしょうか(大拍手)
 大聖人は 「ちかいし願やぶるべからず」(232P) と仰せになられました。
 我ら創価の家族は、この広宣流布大誓堂とともに、「ちかいし願」 をいよいよ燃え上がらせて、いかなる試練も断固とのり越え、金剛不壊にして所願満足の大勝利の人生を、仲良く朗らかに飾りゆくことを約束し合い、私の記念のメッセージといたします(大拍手)。
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法華経の心(8)(常不軽菩薩)

 「法華経の心」 の実践は、「常不軽菩薩の礼拝行」 に求められます。
 法華経本門の流通分である 『常不軽菩薩品第二十』 に、「我深敬汝等(がじんきょうにょとう)。不敢軽慢(ふかんきょうまん)。所以者何(しょいしゃが)。汝等皆行菩薩道(にょとうかいぎょうぼさつどう)。当得作仏(とうとくさぶつ)」(我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何(いか)ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし) とあり、経文の漢字が “二十四字” ありますので、「二十四文字の法華経」 と言われております。

 常不軽菩薩は、過去世の威音王仏の滅後、像法時代に出現し、一切衆生に仏性があるとして 「二十四文字の法華経」 を唱え、四衆の衆生を礼拝し、軽んじなかった。 
 しかし、国中には謗法者が充満し、不軽を見て軽蔑し、杖木瓦石の迫害を加えたが、屈服することなく礼拝行を全うし、その功徳によって、六根清浄を得て、成仏した。
 また、迫害を加えた衆生は、その罪によって、一度は無間地獄に堕ちたが、再び不軽にあって、救われた。
 釈尊は、この常不軽菩薩の礼拝行を通して、滅後末法の “弘経の方軌” と “逆縁の功徳” を説いているのである。

 この不軽品に登場する菩薩の名前であるが、サンスクリット語の原典では、「常に(人から)軽んじられた」 男という意味になっているそうである。
 それゆえに、竺法護訳の 「正法華経」 では、「常被軽慢」(常に軽んじられる)と訳されていて、原典に近い訳である。
 鳩摩羅什訳の 「妙法蓮華経」 では、「常不軽」(常に軽んじない)菩薩と訳されている。

 池田先生は、「常不軽菩薩が、いつも バカにされていたという表面に着目すれば、たしかに 『常に軽んじられた』 菩薩になるでしょう。
 しかし一歩深く、その行動の本質、魂に着目すれば、『常に軽んじなかった』 という訳は正しいのではないだろうか」 
と述べられています。  (法華経の智慧5巻・120P)
 いかにも、羅什訳の 「妙法蓮華経」 が、釈尊の正意を誤りなく訳出した、珠玉の名訳であることが分かります。

 鳩摩羅什について ―→ ここから

 『御義口伝』 に、「此の廿四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり」(764P) と仰せです。 
 法華経には、「広・略・要」 の三つがある。
 「広の法華経」 とは、釈尊の “一部八巻二十八品” 全体をいう。
 「略の法華経」 とは、天台の“摩訶止観”、また “方便・寿量の二品” をいう場合もある。ここでは、不軽の “二十四文字の法華経” も、「略法華経」 に当たります。
 「要の法華経」 とは、日蓮大聖人の三大秘法の “南無妙法蓮華経” であり、“七文字の法華経” とも言います。
 いずれにしても、“南無妙法蓮華経” とその元意は同じであり、広・略の法華経は、要である南無妙法蓮華経の序文となり、流通分となるのであります。

 池田先生は、次のように指導されています。
 名誉会長  法華経とは一体、何を説いたのか。それがこの二十四字に凝縮されているということです。「私は深く、あなた方を敬います。軽んじたり、慢(あなど)ったりいたしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができるからです」
 一切衆生に 「仏性」 がある。「仏界」 がある。その 「仏界」 を不軽菩薩は、礼拝したのです。法華経の経文上では “一切衆生に仏性がある” とは明示されていない。しかし、厳然と、そのことを主張しているのです。これ以上の 「生命尊厳」 の思想はない。
 宗教のなかには、「平等」 を説いたとしても、人類は 「罪の子として平等」 であると説くものもある。しかし法華経は皆、尊き 「仏子」 と説く。「仏界の当体として平等」 なのです。そこには、大きな違いがある。


 須田  自分の仏界を自覚してない “異教徒” であっても、仏界の当体である事実は変わりません。不軽菩薩が礼拝した通りです。ゆえに法華経の精神からは、暴力は絶対に出てきません。

 斉藤  暴力を伴なう 「宗教紛争」 は、絶対にありえないですね。

 名誉会長  ありとあらゆる暴力と対極にあるのが 「不軽菩薩」 です。法華経です。
 「暴力」 に対する 「精神闘争」 が法華経なのです。
  (法華経の智慧5巻・125P)

 二十世紀、二度にわたる世界大戦を経験した人類は、この大戦から何かを学んだかと思いきや、二十一世紀はますます、地域・民族紛争・無差別殺人等々、全地球的に 「暴力」 が罷り通っています。
 “「暴力」 に対する 「精神闘争」 が法華経なのです” と仰っているように、この激流に抗する力は 「法華経の心」 即ち、「自他の仏性を信ずる」 信念と、不軽菩薩の 「人を敬う」 ということを実践する以外にありません。
 この信念と実践行動をもって、「世界広宣流布」 に邁進しているのは、わが 「創価学会」 以外にありません。
 地球と人類の未来は、実に 「創価学会」 の双肩にかかっていると言っても、過言ではありません。創価学会会員の皆さま、我らこの 「常不軽菩薩の精神」 に立って、法華弘通の大願に頑張って参りましょう。
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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