四度の大難(松葉ヶ谷の法難)

 前のブログで、戸田先生の獄中の受難について、概略、述べてみました。そこで感じたことは、看守が、ごく些細なことで権力を傘にきて、自分の感情のまま、囚人たちを殴打していることである。
 戸田先生は、初めは訳もわからず、ただ驚くばかりであった。しかしそうした中で、法華経を読み、題目をあげ抜いていったとき、これは自分の罪業を消すために撲ってくれているのだ、ということが解かりました。
 三回目の難の後、… 「今日で三度目…」 (そうだ! もう一度、撲られるぞ! 四度目に撲られたら、それは帰れる時だ!) と思いました。
 その通りになった四度目の時、先生は心の内で、(罪が終わった! 四回目がきて、罪が終わった!) と喜び、叫びました。  (戸田先生の 『人間革命』 より)

 「四度の難」 ということで思い出すことは、日蓮大聖人が、『開目抄』 において、
 「既に二十余年が間・この法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(200P) と仰せられていることです。
 「大事の難・四度なり」 とは、すなわち、
 一度は、文応元年八月二十七日、御年三十九歳のとき、鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがやつ)の御法難。
 二度は、弘長元年五月十二日、御年四十歳のとき、伊豆伊東の御流罪。
 三度は、文永元年十一月十一日、御年四十三歳のとき、安房小松原の御法難。
 四度は、文永八年九月十二日、御年五十歳のとき、竜の口の頸の座、それにつづく、佐渡の御流罪。

 以上の四つであります。大聖人様の御法難と比べることは、恐れ多いことですが、四度という回数の一致は、何か、不思議な関係性、相似性があるように思われます。

 大事の難の一度目は 「松葉ヶ谷の法難」 です。
 文応元年(1260年)八月二十七日、鎌倉の松葉ヶ谷の草庵で、大聖人が念仏者達に襲われた法難である。
 松葉ヶ谷とは、大聖人が鎌倉において折伏の拠点として草庵を結ばれていた所の地名である。

 『下山御消息』 に、「先ず大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻注したりしを故最明寺の入道殿に奉る御尋ねもなく御用いもなかりしかば国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科(とが)あらじとやおもひけん念仏者並に檀那等又さるべき人人も同意したるとぞ聞へし夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかんがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ」(355P) と仰せです。

 その頃、正嘉の大地震や飢餓・疫病が蔓延し、庶民は塗炭の苦しみに喘(あえ)いでいた。日蓮大聖人は、その真因が真言・念仏・禅・律宗などの僧が、法華経を誹謗する故であると喝破なされました。
 文応元年七月十六日、宿屋左衛門尉を仲介として、北条時頼に一刻も早く念仏などの誤った宗教を捨てて、正法に帰依するように諫めた、国主諫暁の書 『立正安国論』 を提出した。
 しかし、このことについて、幕府の権力者は用いない許りか、怒りを成し、また念仏者をはじめ諸宗の僧達も大聖人に恨みを懐き、翌月二十七日、北条重時ら念仏を信仰していた権力者を後ろ盾とした念仏者達が、深夜に松葉ヶ谷の草庵を襲撃した事件である。
 大聖人はこの難を辛うじて逃れ、一時、鎌倉を出て下総国の富木常忍のもとに身を寄せられた。以後、幕府側は大聖人に対して、さまざまな迫害を加えっていくのである。

 引きつづき、「然れども心を合せたる事なれば寄せたる者も科なくて大事の政道を破る」(355P) と仰せです。
 北条時頼が、大聖人の大慈悲の諫言を用いないと知ると、念仏者達は時の執権北条長時の父・極楽寺重時を後ろ盾として、多くの民衆を扇動して、大聖人を殺害せんと企てたのである。しかし、このような不法な暴力行為を行った側には、その後、何の咎(とが)めもなかった。
 このことについて、「されば人のあまりににくきには我がほろぶべきとがをもかへりみざるか御式目をも破らるるか」(355P) と仰せです。

 “御式目” とは、幕府が法制化した武家法典の 「御成敗式目」(貞永式目) のことである。
 幕府側は、自らが制定した法律を、自らが破るという、誤りを犯しているのである。道理をもって世を治めようとした貞永式目の精神は踏みにじられたのである。 これによって、大事の政道は曲げられ、「国は安穏なるべからず」(356P) と成るのである。
関連記事

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

8・15 の日を思う(1)

 「八月十五日」 は太平洋戦争の結果、わが国が敗れた日である。敗戦と言わずに 「終戦」 すなわち、ただ戦争が終わったのだと言いうるのは、先の大戦の結果を厳しく顧みない姿勢の表れではないかと思われる。
 その顧みない姿勢の故か、戦後 70年にもなろうとしているのに、近隣友好どころか、東アジアに不協和音が漂っているのである。早く平和友好を樹立しなければならない。

 この時期になると、広島・長崎の原爆や特攻隊などの悲劇を語り、戦争の残酷さや悲惨さを教えて、“二度と戦争は行ってはならない” と決意している。この戦争を後世に語り継ぐことの大切さは、些かもゆるがせには出来ない。
 しかし、考えてみますと、これは戦争の結果論を語っているだけです。結果を検証することも大事なことですが、もう一つ、その原因を究明することこそ、より一層大事なことだと思います。

 何故、戦争をしたのか。 何故、戦争が止められなくて、亡国への道をひた走ったのか、等々のことを解明し、その過ちを繰り返させないためにも、一部の研究者間だけの問題にしないで、一般国民にも広くこれを認識させ、共有していかねばならないと思います。

 思い起こせば維新以後、明治政府は西南戦争の内戦を含めて、約十年に一度の国運を賭けた戦争をしてきた。これほど戦争をする好戦国家も珍しいのではないかと思う。前の徳川政権の二百数十年に亘る平穏な時代が、嘘のように思われる。
 このような好戦国家になったのは、私はそれは、明治政権が 「国家神道」 を、国の精神的支柱、指導原理として用いたからであると思っています。

 「国家神道」 は明治政権が、神道国教化政策を執行するために、神社神道を皇室神道のもとに再編成して作られた、明治期の新興宗教である。
 その教えの特徴は、天皇を現人神(あらひとがみ)と拝し、絶対化し、天皇制支配の思想的支柱とした。分りやすく言えば、天皇を本尊とした 「天皇教」 なのである。
 日本書紀から引き出した “八紘一宇(はっこういちう = 世界を一つの家とする)” という スローガンを掲げ、天皇を頂点とした “大東亜共栄圏” 構築のための海外進出を正当化する理論的根拠とした。
 軍部政権の思い上がりも甚だしいもので、この国家神道思想の行きつくところ、「民族主義」・「国家主義」・「軍国主義」 と容易に結びつき、挙げ句の果ては、亡国への坂道を転げ落ちたのである。

 このような亡国の姿を予言された聖人が、既に鎌倉時代に御出現なされていたのである。それは 「日蓮大聖人」 であります。
 大聖人は 『立正安国論』 にて、「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」(19P) (鬼神=思想)と仰せになられて、天変地夭・飢饉疫癘・兵革などの不幸の根源は、みな邪羲邪宗・悪思想にありと喝破され、正法たる法華経に帰依すべきであると、時の為政者並びに一切衆生に対し、警鐘を鳴らし、諫められました。

 明治政府並びに一般国民は、この大聖人の大慈悲の訓戒を信じようとはせず、仏教(法華経)を廃仏毀釈し、低級なる 「国家神道」 を、国教的地位に崇め奉り、国民に強要までして行じさせたが故に、亡国の憂き目を見たのである。
 めぐり来る八月十五日、あらためて太平洋戦争の歴史の教訓を思い起こし、“二度と戦争を行わない” ためには、戦争を美化・讃嘆し、戦争への道を切り開いた悪思想たる 「国家神道」 を徹底的に弾劾して、捨て去らねばならない。

 そして、「一切衆生悉く仏性有り」(1170P) と、根底的から生命の尊厳を説く、日蓮大聖人の “南無妙法蓮華経” の大仏法を奉持し、「絶対平和主義」・「人間革命主義」・「文化教育主義」 の創価思想を、全世界に流布させなければならない。
 この “広宣流布への道” 以外に、根本的に “二度と戦争を行わない” とする方法はないと確信します。

 大聖人は、「真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」(1170P) と仰せられています。 
関連記事

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

8・15 の日を思う(2)

 前のブログで “二度と戦争は行ってはならない” ために、戦争の実態の継承も大切ですが、戦争に至る真因を究明することも大事であると述べました。

 そこでもう一つ、“戦争をしてはならない” と言うのであれば、あの大戦中に “戦争反対” を叫び、弾圧や逮捕され殺されても、節を曲げず闘い抜いた真の勇者・平和の闘士の偉業も、顕彰し学ばなければならないと思います。
 そうしなければ、また民族主義や全体主義の風潮に見舞われたとき、何もしなくて無関心であれば、権力の魔性の虜(とりこ)になり、誑(たぶら)かされ、国家の手段にされ、道具にされ、それで不幸にされるだけです。

 我が国では、戦争反対を叫び殉教した人たちのことは、殆んど知られていないようです。人数が少ない故か? 少なくても、立派な人格者の闘士がおれば、捜し出してでも顕彰すべきある。

 そのようにならないのは、正義の人がいても、マスコミをはじめ、それらに迎合する一般民衆は、それを称えようとはせず、妬み・誹謗し、無関心を決め込むのが関の山である。このような風潮が我が国では、多分にあるように思われる。
 結局、信念の人がいないから、そうなると思う。信念の人といえば、それは別して、宗教を信じている人のことである。
 我が国では、無宗教を自称する人が、あまりにも多い。外国人は、宗教を持ってないと聞いたら、ビックリするそうである。

 人類の幸福・世界平和を目ざし、生命滅失の戦争を阻止せんとする活動は、宗教家・宗教教団の一番に負うべき使命である。
 そうであるのに、戦時中、日本の宗教教団は殆んど皆、戦争に賛成し協力したのである。最後まで戦争反対を唱えて、中心者が逮捕され獄死したのは、“創価教育学会(現・創価学会)” だけである。

 確かに個人的には、キリスト教の牧師や日蓮宗の僧侶等で反対し、弾圧され・入獄した人はおります。しかし、その教団全体としては、戦争に賛成し協力しています。
 日本の宗教界は、伝統的に権力に媚(こ)びて、その庇護を受け、民衆の抑圧に手を貸してきた歴史がある。

 その中で日蓮大聖人は、法華経の正義を説き、一切衆生の成仏即ち、個人の幸福と社会の繁栄を願って 『立正安国論』 をもって、時の幕府を諫暁(かんぎょう)されました。このことは必然的に、権力者の反感を買い、種々の大難となって迫害を受けた。
 『撰時抄』 に、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(287P) と仰せです。

  牧口会長は叫びました。「今こそ、国家諫暁の秋(とき)である。国家権力などは、恐るべきではない。しかし、大聖人の御金言、御予言は絶対であり、まことに恐ろしき極みだ。仏法の力によって、真に国家の滅亡を救い、人を救うことこそ、大聖人の御精神ではないか」
 牧口会長の決意は、烈々たるものであった。  (ワイド人間革命1巻・227P)

 戦時中の言論統制の中、牧口会長自ら率先垂範して、「軍国主義」・「国家主義」・「民族主義」 と対峙し、戦争反対を叫び、盛んに折伏弘教を敢行いたしました。
 大聖人の御精神を体して行動する創価学会は、軍部政権の弾圧を招き、組織は壊滅状態になりました。しかし、牧口会長・戸田理事長の トップお二人は、最期まで屈せず信念を貫き通し、牧口先生は獄中にて名誉の殉教をなされました。
 戸田先生は、体をボロボロに傷めつけられましたが、「獄中の悟達」 の大功徳を得て、滅亡の危機にあった日蓮仏法を見事に蘇生させ、「七十五万世帯折伏」 の大偉業を達成なされました。 

 このほかに、牧口先生は、小学校長として児童教育に一生を捧げました。この教育現場から画期的な 「創価教育学説」 並びに 「価値論」 を発表された大学者であります。
 また、東京にある 「三笠小学校」 の校長になりました。この学校は 「貧窮児童収容特殊小学校」 で、つまり貧しい子供達を集めた小学校です。児童は、ろくに食事もしてない状況であった。
 牧口先生は、その学校に住みついて、自分の家や服を売ったお金で、日本で最初の 「完全給食制度」 を実施しました。しかも無料です。日本国は牧口先生を、「日本の給食の生みの親」 として、称えて然るべきだと思います。
 
 これらのことを考えると、牧口先生は、彼の スイスの教育家 ペスタロッチ先生、ポーランドの コルチャック先生に比して、優るとも劣らないものと思います。
 然るに日本国は、偉大なる牧口先生に投獄をもって報いたのである。未だ、国から名誉は回復されていません。
 これらのことを思うと、我ら弟子たちは、牧口常三郎先生・戸田城聖先生の偉大なる業績を、ますます全世界に讃嘆して参りたいと決意します。
関連記事

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

四度の大難(伊豆伊東の流罪)

 大事の難の二度目は、「伊豆伊東の流罪」 です。
 日蓮大聖人は、前の松葉が谷の法難を避けられて、一時、下総国(千葉県)の富木常忍のもとに身を寄せられ、下総方面の折伏を進められた。翌弘長元年の春、再び鎌倉の地に戻られました。
 これを知った念仏者らの訴えによって、時の執権・北条長時は権力を使って、大聖人を理不尽にも伊豆に流罪したのである。時に弘長元年(1261年)5月12日、大聖人御年四十歳の時である。
 伊豆伊東の流罪については、『船守弥三郎許御書』 を拝したいと思います。
 
 「日蓮去る五月十二日流罪の時その津につ(着)きて候しに・いまだ名をもき(聞)きをよびまいらせず候ところに・船よりあ(上)がりく(苦)るしみ候いきところに・ねんご(懇)ろにあたらせ給い候し事は・いかなる宿習なるらん、過去に法華経の行者にて・わたらせ給へるが今末法にふなもり(船守)の弥三郎と生れかわりて日蓮をあわ(愍)れみ給うか、たとひ男は・さもあるべきに女房の身として食をあたへ洗足てうづ(手水)其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし、ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや、かかる地頭・万民・日蓮をにく(憎)みねだ(嫉)む事・鎌倉よりもす(過)ぎたり、み(見)るものは目をひき・き(聞)く人はあだ(怨)む、ことに五月のころ(頃)なれば米もとぼ(乏)しかるらんに日蓮を内内にて・はぐく(育)み給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわな(川奈)と云うところに生れかわり給うか、法華経第四に云く 「及清信士女供養於法師(ぎゅうしょうしんじにょ くようおほうし)」 と云云、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとこ(男)となり或は女となり形をかへさまざま(様様)に供養してたす(助)くべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女(しじょ)と生れて日蓮法師を供養する事疑なし」(1445P) と仰せです。

 流罪の理由については、「日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」(355P)・「上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし 故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」(1413P) などである。
 要するに、“理不尽に” とあるように、評定(裁判)にもかけず、私怨を抱いて流罪に処するとは、「大事の政道を破る」(355P) ことになるのである。

 大聖人は、小舟で相模灘を護送され、伊豆の川奈の津に降ろされ、疲労の極に達せられて一人で苦しんでおられた。
 そこに通りかかったのが、漁師の船守弥三郎であった。弥三郎は、大聖人を我が身の危険を顧みず、妻とともに30日間かくまい外護し続けたのである。
 「日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもすぎたり、みるものは目をひき・きく人はあだむ」 というように、住民が憎悪するなかを弥三郎夫妻は、大聖人を護り、遂には自ら法華経を信ずるようになったのである。

 日蓮大聖人は本書で、この夫妻の清信の外護を賞賛されている。
 まずは、船守弥三郎に対して 「いかなる宿習なるらん」 と、前世からの何らかの深い因縁があるに違いないと述べられている。
 次に、弥三郎の妻も、献身的な世話をしてくれたことについて 「食をあたへ洗足てうづ其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし」 と述べられ “不思議” としか言いようがないと、女性の力を絶賛されている。
 そして、弥三郎夫妻そろって 「ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事いかなる事のよしなるや」 と述べられ、法華経への信仰を讃嘆されている。
 そのうえ、「ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・はぐくみ給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生れかわり給うか」 と、大聖人の父母が弥三郎夫妻と生まれかわったのであろうか、と言われている。

 更に、『法華経法師品第十』 の 「及清信士女供養於法師」 の文から、「法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし」 と、仏の遣いとしての清信士女であると断言されている。これは、法華経との因縁という面を言われたと考えられる。
 更に、本書の最後には 「しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」(1446P) と述べられ、教主釈尊の生まれ変わりであろうか、とまで絶賛されている。
 このような船守弥三郎夫妻への讃嘆の言葉を拝するとき、伊豆流罪における弥三郎夫妻の役割が、いかに大きかったかを知ることができる。

 後に、地頭の伊東八郎左衛門尉が重病に陥り、大聖人に病気平癒の祈願を依頼しました。その際に、大聖人は伊東に移られ、地頭の屋敷の近くで過ごされました。
 このとき大聖人は、その依頼に応ずべきかどうかを思案されたのである。と言うのは、地頭の伊東八郎左衛門尉は念仏の信者であって、法華経の信者でなかったからである。正しい仏法の祈願とは、あくまでも願主の信心が大切となる。願主に妙法への信がないのに師が祈っても、それは無益なのである。
 そこで、「然れども一分信仰の心を日蓮に出し給へば法華経へそせう(訴訟)とこそをも(思)ひ候へ」(1445P) とある通り、地頭が大聖人と法華経への信心を起こして始めたので、病気平癒の祈願を行ってあげました。
 この祈願の結果、「ついに病悩な(癒)をり・海中いろ(鱗)くづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事・此れ病悩のゆへなり、さだめて十羅刹女のせめなり、此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし」(1446P) と仰せです。

 病苦から救われた地頭は、大聖人に深く帰依したのはもとより、お礼のしるしに、漁師が海中より引き揚げたという立像の釈迦仏を大聖人に奉納した。
 この海中出現の釈迦仏を、大聖人は終生、身から離さず所持されたと伝えられている。
 末法においては、インドの釈尊の教えは無益であり、釈迦仏を本尊とすることはない。にもかかわらず、なぜ大聖人御自身、釈迦仏の像を所持されたのであろうか。
 その意義については、日寛上人が、『末法相応抄下』 で、三つの意義を示されている。

 「一には猶是れ一宗弘通の初めなり是の故に用捨時宜に随うか、二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適(たまたま)釈尊を造立す豈(あに)称歎せざらんや、三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり」(六巻抄・172P) と述べられている。

 一つには、立宗弘通の初めであることから、まず釈迦仏を借りて一機一縁・その用捨は時の宜しきに随われた。
 二つには、当時の日本国中、みな阿弥陀仏など爾前経の諸仏を本尊としていたので、まずそれを廃し、法華経の釈迦仏を造立したことは称歎された。
 三つには、大聖人の仏の境界の眼には、立像の釈迦仏がそのまま、久遠元初の本仏と映られたということである。
 このような深い理由があって、大聖人は釈迦一体像を所持されたのであり、決して他門流の言うように、釈迦像を本尊として崇めてよいと言うことではないのである。
 その後、弘長3年(1263年)2月22日、流罪を赦免され、鎌倉へ戻られました。

 「伊豆伊東の流罪」 は、後の 「佐渡流罪」 と合わせて、『勧持品第十三』 の 「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」(数数(しばしば)擯出せられん) とありますように、日蓮大聖人はこの経文通りに、二度までも王難の流罪の大難に遭われた。
 経文を身読することは、法華経の行者の証明、即ち、日蓮大聖人は 「末法の御本仏」 であります。
関連記事

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
FC2ブログへようこそ!

北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


仏教 ブログランキングへ

最新記事
カテゴリ
最新コメント
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR