夏季大学講座(1)(2014年)

 8月29日、創価大学の夏季講座を受講してきました。講座名は 『法華経』 を読む(9)―随喜功徳品・法師功徳品・常不軽品― です。講師は、菅野博史教授であります。

 ここのところは、法華経の流通分であり、寿量品を聞いて随喜した者の功徳を説いている章である。そして、寿量品について、三点に亘って話された。
 第一に、釈尊が成仏したのは、五百塵点劫というはるか遠い過去であり、合わせて未来も不滅であると説くことで、釈尊の仏としての寿命の長遠を説いている。

 第二に、寿命が長遠であるのに、如来はどうして涅槃するのか、という問題がある。寿量品には 「方便現涅槃」 とある。即ち、衆生を救済するために、あえて方便として涅槃を現ずるのであるという。 
 方便品は、方便の力を讃えている。仏は智慧と慈悲をもって救う。智慧に裏づけされた慈悲である。智慧があっても方便がなければ救えない。譬喩品の “三車火宅の譬え” のように、羊・鹿・牛の三車の方便をもって救ったのである。

 第三に、涅槃された仏を見仏、即ち、信仰のある者は仏を見る、仏と出会うことができるという。 今までの瞑想から心の現実性へ、「時に我れ及び衆僧は俱に霊鷲山に出ず」 と。故に、信ずる者の眼前に出現するという功徳を説いている。

 随喜功徳品
 五十展転の功徳、法華経を聞いて随喜して人に伝え、段々として第五十番目の人の功徳は、計ることもできないほど優れている。

 法師功徳品
 法華経を、受持・読・誦・解説・書写する、いわゆる五種法師の得る、眼・耳・鼻・舌・身・意根の六根清浄を説いている。
 受持とは、本来は暗記することであり、伝持の法師が重要視された。

 その他、六根清浄など、いろいろなお話があったが、先生の講義が滔々として淀みなくお話しされるので、ノートする間がなく、途中で止めました。
 受講中は分かるような気がしたが、後になると思い出せなくて、すっかり忘れてしまいました。
 断片的な単語でもよいから、ノートしておけば思い出すことの糧になるだろうと思いました。  
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夏季大学講座(2)

 講義は午前の部が、10時~11時30分、昼休みが2時間、午後の部が、13時30分~15時までです。
 午後のはじめに、シルクロードを旅して伝えられた法華経の物語の “創価VOD” が、約 20分間放映されました。菅野先生もこの製作に携われて、解説者として出演されています。

 次に、受講生から質問を受けて、その解答が14時30分までありました。この部分の講義が自分にとって、一番面白く感じました。しかし、ノートを取らなくて思い出せず記憶に残った分を、私の考えも交えて少々述べてみたいと思います。

 南無妙法蓮華経 を中国語の発音では、どの様になるのかと言うのがありました。先生は早口で一回だけ言われましたが、ハッキリと聞き取れませんでした。今の我々の発音とは、少し違うようです。
 大聖人は 南無妙法蓮華経 を、当時の音読を使って読まれた とのことでした。
 同じ漢字の音読でも、日本語の発音と中国語の発音とでは、少しずれがあろうし、時が経てば違いも出てくるであろうと思いました。

 また、時によって修行の方法は違って来る。昔は方便品の長行まで読誦していた。これだけでも寿量品の三倍位はある。我々も前は、五座三座をやっていた。今は SGI に習って、方便・自我偈一回限りである。
 経文の読誦も 「爾時世尊 従三昧(にじせそん じゅうさんまい)」 では意味が分からない。宗派によっては、(爾の時に世尊 三昧より…)と訓読させている。海外では英語で読誦させているところもあるという。
 そのように、南無妙法蓮華経の唱題行は根本として堅持するが、助行の勤行は時代や国によって違って来るのである。
 仏教には、随方毘尼(ずいほうびに) という考えがあり、あまりハッキリものを言わないのである。

 日本国は自分自身から、なかなか変革しない。勤行の一つをとっても、SGI からの輸入である。
 こんな調子では、日本国民は、創価学会や池田先生・池田思想の偉大さや素晴らしさを、外国の人から教えられるまで分からないのかも知れない。謗法の執情の深き故であろうか。そうならない為にも、我々が頑張る以外にないと思った。

 葬儀を執り行う宗教は、滅亡しないという話があった。このような、見かたや考え方があるのだなあ と思った。
 釈尊は弟子たちに、“葬儀に係わる必要はない、修行に専念せよ” と説いた。当時、葬儀を行っていたのはバラモン教であった。
 後に、イスラムの侵攻を受け、仏教・バラモン共に破壊されたが、葬儀を執り行っていた バラモンや ヒンドゥー教は蘇生した。
 日本でも、明治維新の廃仏毀釈や戦後の戦勝国の宗教の風圧をはね返し、葬式仏教と揶揄されながらも、しぶとく生き残っているのである。

 仏の生命は長遠であるのに、釈尊は80歳で入滅された。80歳ということで、先生はご自身の体験を話されました。
 それは、東南 アジアからの研究生三人と会食した。奢ってやらねばならないから、高級なところには行かれないので、チョット安いところに行った。
 マグロの刺身が出された。先生は一口食べて、これはどうかなと思った。後は、三人の生徒に食べて貰った。その後、先生はあたって下痢された。早速、生徒たちに如何だったのかと尋ねたが、別に何もなかった。

 このことから、同じものを食べても、あたる人とあたらない人がいる。釈尊は食中毒で亡くなったと言われているが、御供の弟子たちも、同じものを食べている筈である。
 釈尊の場合は、80歳という御高齢であることを考えてみるべきである と言う お話でした。

 私はあと 2年で、80歳になります。釈尊にあやかって少なくとも、80歳までは講義に参加しょうと思います。これから、足腰の老化をを防ぎ、食中毒や熱中症に中らないように、気を付けて参ります。 
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夏季大学講座(3)

 次に 「常不軽菩薩品」 でありますが、菅野先生のお声が 「ジョウキョウ菩薩・ジョウキョウ菩薩」 と聞こえまして、私は一瞬 「ジョウギョウ(上行)」かなと思いましたが、いや 「常不軽菩薩」 の 「フ(不)」 の字音が聞こえなかったのだと納得いたしました。
 それにいたしましても、「常不軽菩薩」 のことを 「ジョウキョウ(常軽)菩薩」 という場合があるのだろうかと、そんなこと思っていましたら、あっという間に時間が来てしまいました。
 そこで、講義資料を頂いていますので、復習してみたいと思います。

 「常不軽菩薩品」 は、釈尊が徳大勢菩薩に対して、常不軽菩薩の物語を通して、『法華経』 を受持するものを悪口し、罵詈(ののしること)し、誹謗するものの罪の報いと、信じるものの六根清浄の功徳を説いている。

 威音王仏の像法時代、増上慢の比丘が勢力を振るっていた時代に、常不軽という出家の菩薩がいた。
 なぜ、常不軽というのかと言うと、自分と出会う上慢の四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)に向かって、彼らを礼拝し、褒め讃えて 「私は深く貴方たちを尊敬する。軽んじて侮ったりしません。なぜならば、貴方たちはみな菩薩の修行を実践して、当に成仏することができるからです」 と、大きな声で言って人毎に礼拝した。
 この菩薩は経典を読誦することに専念せず、ただ専ら礼拝を行うだけであった。常にこのような言葉を語ったので、増上慢の四衆は、彼を “常不軽菩薩” と呼んだのである。

 これは、すべての人間が将来において菩薩の修行を実践して仏に成ることができるという、最も人間を尊厳視した 『法華経』 の思想と実践である。
 この礼拝行を一生涯実践した常不軽菩薩は、六根清浄の功徳を獲得した。そして釈尊は過去世において、この常不軽菩薩こそ、釈尊自身であることを打ち明けるのである。
 釈尊は、常不軽菩薩の物語を通して、諸の菩薩摩訶薩に対して、「如来の滅後に於いて、常に応(まさ)に是の経を受持し、読み、誦し、解説し、書写するべきである」 と述べ、『法華経』 の五種法師の修行を勧めているのである。
 他に、プリント一枚の資料を頂きまして、その中に 「常不軽菩薩の実践の思想的意義」 と題するのがありますので、引用させて頂きます。

 この物語によれば、常不軽菩薩の礼拝行と 『法華経』 とは直接の関係がないことになる。なぜならば、常不軽菩薩は臨終のときにはじめて 『法華経』 を聞いたことになっているからである。
 しかし、一仏乗、つまりすべての衆生が平等に成仏できるとする思想が 『法華経』 のもっとも中心的な思想であることと、『法華経』 の成立の歴史を想像すると、初期の 『法華経』 の信仰者 グループの実践は、あらゆる人の成仏を訴える、この常不軽菩薩の授記のようなものではなかったかと推定される。この 『法華経』 信仰者の実践に対する周囲の冷ややかな反応もまた、常不軽菩薩品に描かれるようなものだったのではないであろうか。

 日本の日蓮(1222~1282)、あるいは後の弟子が常不軽菩薩の語りかけた、二十四文字(我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏。) と、妙法蓮華経の五字 とを類比対照させたこと、つまり常不軽菩薩の語りかけが 『法華経』 の思想そのものであると捉えたことは、常不軽菩薩の実践こそが 『法華経』 に対する信仰と実践であることを洞察したからにほかならなかったからであろう。
 (『崇峻天皇御書』、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P)
 『教行証御書』、「彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり、得道の時節異なりと雖も、成仏の所詮は全体是れ同じかるべし」(1277P) を参照。)

 日蓮の思想の影響を受けた宮沢賢治(1896~1933)の有名な詩に 「雨ニモマケズ」 があり、これは常不軽菩薩の実践に着想を得たものであることはよく知られている。
 日本の文壇では、彼の死後、この詩の文学的価値に関する議論があったが、そのような議論は結局、賢治にとってはむなしいものと映ったはずである。なぜならば、この詩は文学ではなく、賢治の誓願文であるからである。自分も常不軽菩薩のように生きたいという彼の誓いの言葉なのである。

 このように見てくると、常不軽菩薩の実践は、とりもなおさず 『法華経』 の中心思想の一つである一仏乗の思想、つまりすべての衆生が平等に成仏できるという思想を、ドラマの形で生き生きと表現したものであることがわかる。


 日蓮大聖人は、「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) と仰せです。
 常不軽菩薩の礼拝行に見られる 「人を敬う」 という実践が、法華経の修行の根本であり、末法今時に於いては、学会員さんたちが実践する 「折伏行」 こそが、自身にとって 「出世の本懐」 となるのであります。
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四度の大難(小松原の法難)

 大事の難の三度目は、「小松原の法難」 です。
 文永元年(1264年)11月11日、日蓮大聖人が安房国東条郷松原大路(千葉県鴨川市広場付近)で、地頭の東条景信の率いる念仏者らから襲撃を受けた法難で、「東条の難」 ともいう。

 伊豆流罪から戻られて間もない文永元年の秋、大聖人は、病気中の御生母を見舞うため、また、故御父の墓参のため、十一年振りに故郷の安房に帰られました。御生母は重体であったようだが、「されば日蓮悲母(はは)をいのりて候しかば現身に病をいや(治)すのみならず四箇年の寿命をのべたり」(985P) と仰せられております。

 清澄寺での立宗宣言の時、念仏を破折した大聖人に対して、念仏強信の地頭・東条景信はそれを聞きつけて、その日のうちに迫害を加え、清澄寺から追放させた。このとき、兄弟子の浄顕房と義浄房の手解きによって、辛うじて難を逃れることが出来ました。

 また、景信は、清澄・二間の両寺の支配権をめぐって、大聖人が若き日に両親ともどもに、お世話になった恩人である領家の尼と争って、訴訟をたびたび起こしていた。
 その訴訟に、大聖人は、領家の尼への恩返しのためにも関わられた。そして、一年も経たないうちに、領家の尼の勝利で決着した。
 自分から仕掛けた訴訟で敗訴した景信は、どれほど怒り、悔しがったことか、景信はこれを逆恨みしていたのである。
 かかる状況のなか、父の墓参と母の見舞いに帰省された大聖人を、景信らは大勢で襲撃したのである。
 この法難について大聖人は、約1ヶ月後の 『南条兵衛七郎殿御書』 において、次のように仰せられています。

 「今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉(さるとり)の時・数百人の念仏等にま(待)ちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・もの(物)の要にあふ(合)ものは・わづ(僅)かに三四人なり、い(射)るや(矢)はふ(降)るあめ(雨)のごとし・う(討)つたち(太刀)はいなづま(雷)のごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のて(手)にて候、自身もき(斬)られ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・う(打)ちもらされて・いま(今)までい(生)きてはべり、いよいよ法華経こそ信心まさり候へ」(1498P)

 その日、大聖人は、西条花房から、天津の工藤吉隆邸へ向かわれます。その途中、東条の松原という大路で、申酉(さるとり)の時といいますと、現在の暦では、十二月八日の夕方五時ごろに当たります。もう辺りはすっかり暗くなっていたと思われます。
 大聖人の御一行は十人ばかりで、大勢の暴徒は数百人と認識されています。応戦できるのは、わずか三、四人。弟子の鏡忍房はその場で討ち死にした。急を聞いて駆けつけた工藤吉隆は、重傷を負い、程なくして亡くなったと伝えられています。
 大聖人は、「頭にきずをかほり左の手を打ちをらる」(1189P) とありますように、刀の切っ先があと数ミリ長かったら、お命に及ぶような、まさに危機一髪、九死に一生を得られたのである。

 日蓮大聖人は、「而(しか)も此の経は如来の現在すら猶(なお)怨嫉(おんしつ)多し況や滅度の後をや」・「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」 等の経文をひかれて、
 「法華経の故にあやまたるる人は一人もなし、されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあ(値)わせ給はず唯日蓮一人こそよみはべれ・我不愛身命但惜無上道(がふあいしんみょう たんじゃくむじょうどう)是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(1498P) と仰せられ、「法華経の行者」 としての御自覚を披歴されています。

 在世、釈尊は法華経のゆえに、「九横の大難」を受けられました。その中に 「調逹が山を推(お)す」(966P) と言って、提婆達多が釈尊を怨んで殺そうとし、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)から釈尊目がけて大石を落とした。小片が散って釈尊の足の親指を破って血を出したという難がある。
 釈迦滅後、正像時代では、天台・伝教といえども、ただ悪口罵詈ばかりである。勧持品第十三の 「及加刀杖者(及び刀杖を加うる者有らん)」 の 「刀杖」 の難を身で読まれたのは、日蓮大聖人が最初であります。
 
 池田先生は、「小松原の法難」 をのり越えられたことについて、次のように述べられています。
 いずれにせよ、「日本第一の法華経の行者」 との大聖人の御確信が、諸天を動かし、危難を脱されたのでしょう。「心の固きに仮(よ)りて神の守り則(すなわ)ち強し」(1220P) の仰せの通りです。  (御書の世界2巻・69P)

 法難の三日後、旧師の道善房が見舞いに訪れます。道善房は自身の来世を気にかけ、“念仏を信仰して五体の阿弥陀仏を作った。自分は無間地獄に堕ちるのか” と大聖人に質問しています。
 大聖人は、昔を懐かしみ、いたわり、おだやかに申すことが礼儀とは思ったけれど、「生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、…… 哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(889P) と、いま言っておかなければと、強強に訓戒なされました。
 道善房は一時、法華経の信仰に目覚めましたが、大聖人の佐渡流罪の時、心臆して、領家の尼等とともに退転してしまったようです。

 『報恩抄』 に、「其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便(ふびん)なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさど(佐渡)の国までゆきしに一度もとぶ(訪)らはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし」(323P) と仰せです。
 信じていると言っても、態度・行動の上に現れなければ、それは空ごとになるのである。「行体即信心」 と言われる所以である。

 池田先生は、「故郷に長年巣くってきた念仏信仰を打ち払い、題目の声が響く故郷を築こうとの思いが込められた御書です。念仏勢力に打ち勝った勝利宣言の御書といえるのではないでしょうか。
 すべては、万人成仏の道、幸福の道を開くためです。その大慈悲と勇猛果敢な行動に感謝し、私たちも広宣流布の闘争で勝ち続けていきたい」
 と指導されています。   (御書の世界2巻・71P)
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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