「世界広布新時代 躍進の年」を思う

 2015年、「世界広布新時代 躍進の年」 明けましておめでとうございます。早々に訪問してくださり有り難うございます。本年も何卒 “創価教学随想” をよろしくお願い申し上げます。

 「躍進」 の意義について、池田先生の御指導が 『大白・2015・1月・25P』 にあります。
 また、かつて拙ブログにも書いたことがあるなあ と思って見たところ、それは “2011年1月” であります。この年は 「人材・躍進の年」 でした。早いもので、この記事も 5回目の新年を迎えることが出来ました。毎度の御訪問、真に有り難うございます。
 そして、忘れてはならないことは、この年の 3月11日に “東日本大震災” が起きたことです。
 「大悪をこれば大善きたる」(1300P) で、このような中から、真の人材が数多く育成されたと思っています。
 2011・1月 の拙ブログの記事 ―→ ここから

 池田先生の 「勝利の経典 『御書』 に学ぶ」 の冒頭のところに、
 新しき躍進の夜明けです。
 赫々(かくかく)たる太陽を仰ぎながら、今、親愛なる同志の皆さまの胸中には、清々しい希望の光が満ち満ちていることでしょう。
 新しき一歩を勇んで踏み出す時です。
 今日から、自身の新たな前進の歴史を勝利の金文字で刻んでいくのです。師弟が共に、そして世界の同志が共々に、朗らかに 「未来までの・ものがたり(物語)」(1086P) を綴っていくのです。
  (大白1月・26P)

 “未来までの・ものがたりを綴れ” とのことです。未来までも、わが人生これだけはやり遂げたという、自身の生命の充実感を伴なうことを、残さなければならないと思います。この世に生を受けた証しとして。
 では、本当の充実感は 「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(1173P) と仰せのように、“心の財” に勝るものはありません。
 
 戸田先生は、「地上から “悲惨” の2字をなくしたい」 と叫ばれました。
 広宣流布とは、人類の苦を抜き去り、「慈悲の行業」 を世界に広げる戦いです。平和と幸福の種を蒔き続ける永遠の挑戦です。我ら創価の連帯は、この 「慈悲」 の精神で、人類を結びゆくのです。
 「世界広布新時代 躍進の年」 とは、その 「希望の春」 の到来です。地涌の生命の連帯が、大きく躍進する時がきたのです。
  (大白1月・41P)

 “平和と幸福の種を蒔き続ける” と、40年前の1975年(昭和50年)の1月26日、グアム島の第1回 「世界平和会議」 の席上、池田先生は 「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」 と指導されました。
 “「慈悲」 の精神で、人類を結びゆく” 以外に、平和と幸福の道はありません。「躍進の年」 とは、その 「希望の春」 が到来したことを言うのである。さあ 勇んで平和の種を蒔いて参りましょう。

 元日の聖教新聞の 『新・人間革命』 に、
 「躍進」 とは、歓喜踊躍の前進だ。
 御聖訓には、「我心(わがこころ)本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名(なづ)く所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(788P) と。
 私たちは、本来、仏である。その仏が、末法の衆生救済を請願し、あえて悪業を担い、苦悩を背負って、この世に出現したのだ。
 それは、大仏法に巡り会い、宿命転換することをもって、仏法の厳たる㓛力(くりき)を証明するためだ。ゆえに、打開できない宿命も、苦悩も絶対にない。この最極の真実に目覚め、わが使命を自覚し、自ら勇んで戦いを起こす時、生命は大歓喜に包まれ、悠々(ゆうゆう)と苦悩に打ち勝つ大境涯へ、自身を高めていけるのだ。
  求道あるところに、歓喜はある。
  祈りあるところに、歓喜はある。
  実践あるところに、歓喜はある。
  信仰とは、あふれる歓喜の源泉なのだ。
  (聖教元日・広宣譜三十六)

  歓喜は、勇気を呼び覚ます力だ!
  歓喜は、苦悩を突き抜ける力だ!
  歓喜は、生命を蘇生させる力だ!
  歓喜は、共感の調べを奏(かな)でる力だ!
  (1/5・広宣譜三十七)

 師は呼び掛けられています。“さあ、心に太陽をいだいて、躍進の第一歩を踏み出そう!” と。歓喜の信心をもって、お応えしましょう。 
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会則改正と宗門(三大秘法抄)

 会則改正についての原田会長指導に、「ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用が発揮されないという、あたかも “電源と端子” の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を阻害するものとなりかねないのであります」 と述べられています。 

 門徒の樋田さんは、「本門の本尊」 とは、“弘安2年の戒壇の大御本尊” のみであり、この御本尊に唱える題目が 「本門の題目」 であり、その在所が 「本門の戒壇」 であると言っている。
 したがって、最勝の地は世界で1ヵ所しかないと、盛んにその独自性・唯一性を述べ、「弘安2年の御本尊」 を拝しない創価学会には 「三大秘法」 はないのであると主張している。

 しかし、これらのことには 「事」 というものと 「義」 というものがある。「事」 とは事相・事実・真実の事柄等のことで、「義」 とは道理・意義等のことである。
 書写された御本尊やその戒壇も、戒法およびその功徳において、「弘安2年の御本尊」 とその意義は全く同じであるから 「義の戒壇」 と言われる。「義」 であっても、ちゃんとした 「三大秘法」 が総在しているのである。
 世界広宣流布の時代を迎え、実践修行・流布拡大の時にあいながら、彼らは法華弘通の大願を忘れ、いたずらに 展望のない、出来もしない 「事の戒壇」 に執着し、これをもてあそんでいる。
 今は 「義」 の時代であり、意義・道理をもって広布拡大する時である。原理・原則が分かっていても、それを応用・展開しなければ、価値創造は出来ないのである。

 したがって、鎌倉時代より約800年、社会の世情もずい分変わって来ています。大聖人の 「御書」 と雖も、現代社会に合わなくなったところもあり、解釈の変更も余儀なくされています。
 「本門の戒壇」 を説かれた 『三大秘法抄』 に、

 「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔(ざんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下(らいげ)して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり」(1022P) と仰せです。
 宗門が金科玉条としている御文証であります。

 “王法仏法に冥じ仏法王法に合して” とありまして 「王仏冥合論」 と言われております。これは決して 「政教一致論」 ではありませんので、一言申し述べさせて頂きます。

 “有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を” とあります。有徳王とは、釈尊の過去世における修行中の因位の姿で、正法受持者の覚徳比丘が破壊の悪僧に襲われたとき、武器をとって悪僧と闘い覚徳比丘を守った。王は全身に傷を受け、正法に殉じたのである。
 この説話は、末法における死身弘法の勇者の出現を謂うのであり、まさに有徳王は、創価三代・御歴代会長の御姿そのままであります。

 “勅宣並に御教書を申し下して” とありますが、この部分は現代社会では用を成さなくなっております。御教書を国会の議決書であると曾て聞いたこともありますが、宗教上の問題を国会で議決するなんて、現代では禁止されており、憲法違反に成ります。

 “最勝の地を尋ねて” とありますが、最勝を “ただ一つ” ととって 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(1600P) の御文証をもって、富士の大石寺の奉安堂であると主張している。
 800万の学会員が真心からの御供養で寄進し、日達上人が 「広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」 と訓諭された “正本堂” を、自らぶっ壊しておきながら、今さら何を言うのかと言いたい。
 また、最勝の地とは風光明媚な所だけを言うのではない。時代は安全第一を要請している。
 富士山は数十~数百年後には、必ず爆発すると噴火予知の学者等は予言している。今や富士の裾野は危険地帯なのである。

 “戒壇を建立す可き者か” と仰せられていますが、この戒壇はただ一つの特定の場所を指す 「事の戒壇」 ではなく、広く世界へ各家庭の数多くある 「義の戒壇」 であると、解釈しなければならないと思います。  
 宗教学者のウイルソン博士は、「特定の場所に行かなければならないという宗教は、世界宗教にはなりえない。すべての国の人々が、自分の生活の場で実践できる宗教でなくては、世界宗教とはいえない。寺院建築は、本来の宗教心や精神と比較すれば重要ではない。(趣意)」 と述べられています。
 原田会長も、「あたかも “電源と端子” の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を阻害するものとなりかねないのであります」 と指導されています。

 日蓮大聖人は、「神力品に云く 『若しは林の中に於ても若しは樹の下に於ても若しは僧坊に於ても乃至(ないし)而般涅槃(にはつねはん)したもう』 と云云、此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちまち)に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん」(1578P) と仰せです。
 此の砌とは、御本尊の所住の処であり、そこは林の中でも、世界中どこであっても、三業の悪転じて般涅槃(理想の境地・成仏)を成ずることができるのである。
 ゆえに、“戒壇を建立す可き者か” の戒壇は 「義の戒壇」 すなわち、「各家庭に御安置」 するための本尊流布と、とらなければ日蓮仏法は “世界宗教” には成りえないのである。

 “大梵天王・帝釈等も来下して” とあり、この梵天・帝釈とは、“世界の指導者” たちを言います。
 現に、学会本部・大誓堂・創価大学等には連日のように、海外の著名な有識者の方・SGI の友の方々等、はるばる遠くから、多くの方々が来訪されています。まさに、“梵天・帝釈が来下した” そのままの姿を、映したものとは言えないでしょうか。

 一方、宗門の奉安堂には、海外からどれだけの方々が来ているのだろうか。皆無ではないのか。このような状況で、奉安堂が 「事の戒壇」 だなんて言うのは、おこがましいことではないのか。
 この一事をもってしても、学会と宗門のどちらが、『三大秘法抄』 を “身・口・意” の三業で読み実践している教団であるのか、否か、明瞭ではないか。
 したがって、日蓮大聖人の法華弘通の大願を我が心として、「世界広宣流布」 並びに 「義の戒壇」 の建立に邁進しているのは 「創価学会」 だけであると宣言いたします。

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公明党を支援する理由①(『人間革命』 展開の章より)

 1月度の人間革命池田塾の教材は、「人間革命第9巻・展開の章」 であります。
 「展開の章」 は、昭和30年(1955年)4月の統一地方選挙において、東京都議会・区議会その外・若干の他の市議会に、初めて候補者を立てて戦った時のことが述べられています。
 この選挙戦に面食らったのは世間ではなく、その地域の学会員たちであった。選挙といえば、買収や供応という暗いイメージしかなく、大多数の会員たちは選挙活動などしたこともなかった。
 このような中で、公明選挙で行くという方針を強く打ち出し、多くの有力な対立候補者を相手にして必勝を期するためには、ただ一つ、不可能を可能にする信心しかないことを教えたのである。
 そして戸田先生の広宣流布のご構想を、池田先生が述べられたのが、この章である。

 広宣流布とは、仏法(三大秘法の御本尊)を広く世界に弘め伝えることによって、平和な社会を築くことをいう。 この点について
 「広宣流布は、創価学会の会員の拡大だけを意味するものではない。御本尊を受持して信心に励んだ人は、まず、人間として自己自身を革命することは当然のことだ。革命された個人は、自己の宿命をも変え、家庭をも革新する。このような個々人の集団というものは、地域社会にも、一つの根本的な変革をもたらすはずである。いや、地域社会ばかりではない。それらの個々人は、あらゆる社会分野に英知の光を放ち、変革の発芽をもたらしていくであろう。
 政治の分野でも、経済活動の分野でも、生産活動の部門でも、教育や文化や、科学、哲学の分野でも、自らの生命を革命した、わが学会員の日々の活動というものは、その才能を十二分に発揮した蘇生の力となるにちがいない。それは、社会に大きな波動を与え、やがては新世紀への斬新な潮流となって、来るべき人類の宿命の転換に偉大な貢献を果たす時が来よう。
 これが妙法の広宣流布の活動というものだ」
と、戸田先生は心に期していました。
  (ワイド人間革命9巻・展開・171P)

 そして、「もともと広宣流布の活動は、宗教革命を基本として、それによって、広く遠く人類社会に貢献する活動である。日蓮大聖人の仏法が、行きづまった現実の社会を見事に蘇生させることを目的とする以上、この宗教活動が、いつか社会化していくことは必然の道程であった」 と述べられています。  (同書・179P)

 広宣流布は、ただ単に政治の改革のみを目指しているのではなく、社会全般にわたる改革(総体革命)である。
 しかし、政治の腐敗堕落は、直接に民衆の日常生活の幸・不幸と結びついているが故に、戸田先生はこの現状を、座視することが出来なかったのである。
 昭和30年といえば戦後10年、まだまだ戦後の混乱期を完全に脱してなく、政治的には左・右の勢力は国民不在の政権抗争に明け暮れ、国民の政治不信は募るばかりであった。
 保守系の政党は大企業の資本家ばかりを擁護し、革新系の政党は大きな労働組合の利益ばかりを優先した。
 そのような政治対立の谷間で、組合もない中小企業で働く大多数の庶民は、政治の恩恵から置き去りにされていた。
 戸田先生は、このような国民不在の政治を国民の手に取り戻すために、政治権力を内奥から変革することを、広宣流布の一活動として取りあげられたのである。 
 そして、「私は政治のための政治をしているのではありません。あくまでも日本の民衆の福祉のために戦うのです。政治は、そのための一つの手段です(趣意)」 と言われました。

 池田先生は、広宣流布とは 「総体革命」 のことであると述べられています。したがって、「総体革命」 について先生の指導を引用させて頂きます。
 「それは、日蓮大聖人が示された 『立正安国』 と同じ意義であり、その現代的な表現といえます。
 つまり、どこまでも人間を原点とし、仏法によって社会建設の主体である人間を変革する、人間革命が根本となります。人間こそ、社会を形成する基盤である。ゆえに、人間の生命が変革されれば、それは、人間社会の営みのすべてに反映されていきます。
 たとえば、一人ひとりの人間が、生命の尊厳を自らの生き方として確立すれば、教育、科学、政治、経済、芸術等々、あらゆる分野で、生命を尊重し、人間を守るための方策や制度が、必然的につくられていくことは間違いありません。
 人間を蘇生させ、さらに、文化と社会を蘇生させていくことが総体革命であり、それが、広宣流布の一つの定義なのであります」

 さらに、伸一は、総体革命は武力や暴力による人間の外からの革命に対して、人間の内側からの自発的、能動的な革命であると強調した。
 そして、外からの革命が、破壊をともなう急進的な革命であるのに対して、総体革命は、どこまでも平和的であり、漸進的な革命であると述べ、こう訴えた。

 「この総体革命は、宗教による精神の革命を機軸にして、初めて可能となるのであり、そこに私ども創価学会の、宗教運動の意義があることを知っていただきたい」 
 (新・人間革命16巻・24P)

 “総体革命は武力や暴力による人間の外からの革命に対して、人間の内側からの自発的、能動的な革命である” と、また、“宗教による精神の革命を機軸にして、初めて可能となる” と、人間の内側からの革命と言われても、おおむね他人様のことと思い、自分自身からやるべきことなんだとは、なかなか気づかないし、信じられないようである。
 それだけ広宣流布の戦いは、平和的で崇高な革命であるだけに、世の人々の理解し難いものがある。しかし、難事中の難事であっても、勇気をもって仏法対話に励み、日蓮仏法を人々に伝えて行かねばならないのである。
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公明党を支援する理由②

 創価学会の目的は 「広宣流布」 であると申し上げました。また、「総体革命」 とも言います。
 それは、政治・経済・文化等々、全ての分野に亘って、人間主義を基調とした社会の建設を目指しております。先ず、その第一歩として、政治腐敗の改革から手掛けたのであります。
 民衆の物心両面にわたる幸福について、その責任を自らに課した戸田先生は、現代の政治の病根を深く洞察していました。そのことについて、池田先生は、次のように述べられています。

 ―― 私利に走り、党略に没頭して、権力の争奪に専念する政治家たち、そのような政治家の徒党集団と化していく政党。そして政治から置き去りにされ、その犠牲となるのは、常に民衆である。戸田は、民衆の怒りを肌で知っていた。しかし、権力悪の根源を見抜いていた彼は、民衆の怒りを、直接、政治勢力化して行動を起こしたとしても、それだけでは、真の民衆のための政治の実現という根本的な変革からは、ほど遠いことも承知していた。
 戸田城聖の覚めた心は、彼の半生の結論として、政治の世界に巣くう権力の魔性の存在を、疑うことができなかった。本来、民衆の平和と幸福に奉仕すべき政治が、いつの間にか民衆を苦しめる魔力と化していく ―― その現実を鋭く見抜いていた彼にとって、政治の根底的な変革とは、魔性との戦いにこそ、その焦点があることは明白であった。

 一つの政治権力を打倒され、新たな別の政治権力が登場しても、その魔性は消滅しないことも、彼は知っていたのである。十九世紀から二十世紀にかけ、世界では、さまざまな政治体制の国々が生まれた。しかし、依然として民衆は、政治権力の魔力から解放されたとは言いがたい。どう政治体制が変わっても、いつしか民衆を苦しめる魔性に支配されていく。その愚かな権力の流転の歴史を、戸田は思わずにはいられなかった。この途方もない愚劣さからの脱出 ―― それこそ、民衆が心底から渇望しているものであろう。それは、もはや政治の次元で解決のつく問題ではないのだ。

 民衆の平和と幸福のためになるのであれば、どんな政治形態であっても差し支えないだろう。彼は、政治形態を批判していたのではない。政治そのものに巣食う魔力が、問題の焦点であった。それは、政治権力を握った者、政治家の内にこそ潜(ひそ)んでいることは理の当然である。魔は、自由主義体制や社会主義体制に潜んでいるのではない。それらを支えている政治家、その人間の内部に巣くう魔の力が、それらの体制をむしばんでいることを、彼は問題の帰結としたのである。
 すべての人間は、十界を具しているとする仏法の真理に照らす時、魔の正体は初めて明らかになる。政治権力の魔力も、人間生命に焦点を合わせた時、発生の根拠を初めて知ることができる。
 
 世間の人びとは、この事実に全く気づいてはいない。そればかりでなく、仏法の原理をもって迫っても、耳さえ貸そうとしない。そして、今も権力をめぐる争いのなかで、多くの民衆は、いたずらに犠牲となっているだけだ。これ以上の人類の愚行はないはずだ。しかも、愚行の歴史は数千年にわたっている。
 彼は、立正安国の大事業たるゆえんを、思い返した。そして、この大事業の責任の重さと至難さとを、孤独の心に、いやでも自覚し、自らに鞭(むち)打っていたのである。
  (ワイド人間革命9巻・189P)

 “政治の根底的な変革とは、魔性との戦いにこそ、その焦点がある” と、また、“もはや政治の次元で解決のつく問題ではない” とも。
 要は、民衆の幸福の実現に挺身する政治家を育てる以外にないのであります。“帰するところは人間である。行動の主体者である人間のいかんが、すべて行動を規制している” と述べられています。

 戸田は、あらゆることの帰結として、人間に焦点を絞らなければならなかった。人間、この厄介(やっかい)なるもの ―― この厄介なものは、掲げた理想にもかかわらず、政治悪をも生み出すのである。そして、時に、悪魔にも、天使にもなり得るのが人間である。
 問題は、まともな人間としての政治家を、いかにして育成するか。現代の政治の退廃を思う時、まず、この命題から出発しなければならない。
 いくら民衆の幸福と平和を願ったとしても、権力志向の政党という政党は、ひとたび政治権力を握ると、権力に潜む魔性を発揮して、民衆を犠牲にして恥ずるところがなかった。この魔性こそ、権力に潜むように見えて、実は、人間の生命に、もともと潜在するところのものだ。

 権力は縁にすぎぬ。政治の改革は、政治的次元で事足りるように思われているが、政治体制が政治をするのではなく、根源的に言って、人間の行為に発するところのものである。しかも、政治力が人間をも改革するといった、思い上がった錯覚は、現代政治家のいだく通弊(つうへい)となっている。
 政治の退廃は、この辺にあると、戸田は考えた。つまり政治の退廃は政治家の退廃であり、人間の退廃にほかならぬ。
 この退廃は、現代の社会現象のすべての分野に通じるものとはいえ、権力をもつ政治の世界の退廃は、それが民衆の日常生活の幸・不幸に直接、影響を及ぼすゆえに、戸田城聖は、まず、そこに重大な関心を払わざるを得なかった。
  (同書・207P)

 少々長い引用になりましたが、要するに、広宣流布の目ざす政治改革は、制度や政策という皮相的な環境面の改革だけではなく、より本源的に、政治家自身の生命次元からの変革(人間革命)でなければならない。これなくして、いくら外界の改革を叫んだとしても、砂上の楼閣にしか過ぎないのである。

 この 「権力の魔性」 も、人間の生命にもともと潜在しているものだ。この魔性は、理性や道徳では抑止できないのである。「魔」 に勝つ力は、同じく生命にもともと潜在している 「仏界」 の生命を顕現させる以外にないのである。
 大聖人が 「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(751P) と仰せのように、信心の利剣で打ち破る以外にない。
 そうすることで、妙法の土壌から育った人材は、政界の魔力と闘う力を備えているはずである。そうだとしたら、歴史上まったく新しい政治家の誕生と言わなければならない。

 広宣流布がどんどん進んで行けば、創価学会は社会のあらゆる分野に、人間革命した多くの人材を送り出して行くであろう。そうなると、いわば創価学会は、壮大な教育啓蒙的母体として、それにとどまらず、人類の平和と文化の不可欠な中核体となって行くであろう。
 ここに創価学会が、妙法を受持している公明党の候補者を、支援する理由があるのである。 
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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