教義条項の解説(はじめに)

 聖教新聞の 1月29・30日に 「会則の教義条項改正に関する解説」 が掲載されました。
 昨年 11月8日の会則改正のとき、“会則の教義条項にいう 「御本尊」 とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません” と発表がありました。
 これを受けて宗門は、“創価学会は戒壇の大御本尊を 「否定」 した” といって、盛んに宣伝し攻撃して来ております。
 また、会員さんの中には、“書写された御本尊は持って、その本源の大御本尊を捨てるとは、どうなっているのだ” と、その他・色いろなお考えの方も居られると思います。
 この度、会則の教義条項の解説が説かれましたので、これを シッカリ読んで、スッキリした気持ちで信心に励みましょう。

 「はじめに」 について、(聖教・2015/1/29・4面)
 「創価学会の宗教的独自性」 は、会則に 「各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」 とあるように、三代会長の指導のもと、各人が自行化他の実践で人間革命を成就し、仏意仏勅である世界広宣流布を事実の上で実現するための不惜の実践を貫く教団であるという点にある」 と述べられています。

 この点を踏まえて、「生きた宗教」 として、現実的な課題や将来起こりうる課題に、責任を持って対応していくとしている。
 たとえば、池田先生は 「広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります」 と語られた。
 広宣流布が目的であると言われると、何となく到達点があると思いがちですが、そうではなく “流れそれ自体” であり、終りのない戦いである。それは、「魔」 との戦いであるからです。
 あらためて、それまで一部で唱えられていた 「国立戒壇」 という表現は用いない。また、学問的研究の成果を踏まえ、釈尊の事跡、法華経の成立年代などに、学問的研究の成果を受け入れて論究もし、様々な課題に対応してきました。

 さらに、「世界を舞台に広宣流布を推進する教団として、その伸展とともに新たに生じた課題に対応して、教義解釈の見直しを行うことは、当然のことである」 として、「現代における人類救済の思想を発信していくことこそが、真に世界広宣流布実現のために前進している教団としての使命である」 と述べています。
 したがって、必要であるならば、仏法教義の新解釈もして、創価思想の人間・平和・文化主義の哲学を宣揚し、世界平和に貢献すべき使命があると謳っている。

 そして、「日蓮正宗のように古色蒼然(こしょくそうぜん)たる教義解釈を墨守(ぼくしゅ)して事足(ことた)れりとし、現実の広宣流布の伸展には責任も関心もないという立場とは全く違う」 と宗門と対比して、その違いを鮮明にした。

 今回の改正は、…… 「日蓮大聖人の仏法の本義に立ち返って、従来の教義解釈を整理し直したものである。したがって、教義の変更ではなく、教義の解釈の変更と位置づけられるものである」 と述べています。
 ゆえに、弘安2年の御本尊を 「否定する」(教義の変更)ではなく、大謗法の地に在って参詣できないから 「受持の対象としない」(解釈の変更)をしたものである。

 「今回の改正を機に、そうした仏教学の学問的な成果等も視野の入れながら、日寛教学や、相伝書等についても、慎重に研究を重ね、より普遍的な創価学会教学の構築へ一層の前進を図りたい」 と決意を述べられています。
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教義条項の解説(三大秘法)

 「三大秘法」 について、 (聖教・2015/1/29・4面)
 今回、三大秘法についての解釈を、次のように明らかにした。

 末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、すべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく 「本門の本尊」 である。また、「本門の本尊」 に唱える南無妙法蓮華経が 「本門の題目」 であり、その唱える場がそのまま 「本門の戒壇」 となる。これは、末法の一切衆生の救済という日蓮大聖人の仏法の本義に基づいた解釈である。

 日蓮大聖人は、宇宙と生命に内在する根本の法を “南無妙法蓮華経” であると悟られ、それを具現化されたのが “三大秘法” である。
 御本尊は、法華経宝塔品の虚空会の儀式を借りて、“十界の文字曼荼羅” として御図顕されたものである。それを書写した御本尊も、すべて 「本門の本尊」 である。
 何時でも、その御本尊に唱える題目は 「本門の題目」 であり、何処でも、その所住のところが 「本門の戒壇」 となるのである。
 このように解釈するのが、日蓮仏法の本義に基づいた解釈なのである。

 したがって、「本門の本尊」 としては、「弘安2年(1279年)の御本尊」 も含まれるが、それのみが 「本門の本尊」 だとするものではない。まして、「弘安2年の御本尊」 に繋がらなければ、他の本尊は一切力用を発揮しないなどとする宗門の独善的な本尊観は、大聖人の仏法に違背するものであることは明白である。 

 日顕宗の言うように 「本門の本尊」 は、ただ一つ “弘安2年の御本尊” のみであり、「事の戒壇」 も、ただ一カ所 “大石寺の奉安堂” だとして、これに繋がらなければ、他の本尊は無要・無意味だとする独善的な本尊観は、世界広宣流布を阻害するものであり、大聖人の御心に反するものである。

 日顕宗が “弘安2年の御本尊” を特別視するのは、御本尊の脇書に 「本門戒壇の願主弥四郎国重 法華講衆等敬白」 と認められているからである。“本門戒壇の本尊” なるが故に、大聖人の 「出世の本懐」(次項で説明)であるとして、その独自性・優位性を誇っている。
 (「明るい未来へ弟子として生きる」 という サムさんのブログに、“本門戒壇の大御本尊は大聖人滅後に模刻された” という記事) がありますので、ご参照ください。―→ ここから

 大聖人は 『三大秘法抄』 にて、「時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」(1022P) と仰せです。
 しかしながら、ここで仰せの 「事の戒法」 は、伝教大師の迹門円頓戒壇や鑑真和尚の小乗戒壇のように、特別な建物を特定の場所に建立することではない。
 御本尊に向かって、お題目を唱えるその場が、「是の処は即ち是れ道場なり」(神力品)とありますように、何時・何処にあっても、御本尊を受持し唱題するという “事行” を戒法とするものですから、“事の戒法と申すは是なり” と仰せになられたのである。
 これが大聖人の御本意であると思います。したがって、あらゆる修行の場が 「本門の戒壇」 になる、と解釈するのが妥当である。

 創価学会も、かつて “正本堂” を建立寄進いたしました。日達上人より 「広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」 と称讃されましたが、事も有ろうに日顕は、これをぶっ壊して仕舞いました。今日より考えますと、これも御仏意であったと思います。
 古色蒼然たる日顕宗と縁が切れて、彼らのいう 「事の戒壇」 の呪縛から解き放され、後はスッキリ・サッパリ・晴ればれと、今回の改正を機に、池田先生の御指導のもと、一段と世界広宣流布に邁進するのみである。
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教義条項の解説(出世の本懐)

 「出世の本懐」 について、(聖教・2015/1/29・4面)
 出世の本懐とは、仏が世に出現した本意・目的をいう。それは、“一切衆生の救済” である。
 それには、御本尊が絶対必要不可欠であるために、これまでは 「弘安2年の御本尊」 の御図顕をもって、大聖人の 「出世の本懐」 としてきました。
 その根拠としている 『聖人御難事』 の 「予は二十七年なり」(1189P)の御文証について、あらためて、その意義を考察して見ますと次のようになります。

 、大聖人御自身が、本抄において、直接、「弘安2年の御本尊」 について一言も言及されていない。
 、本抄は、「仏」(釈尊)と、「天台大師」 「伝教大師」 を挙げて、それぞれの出世の本懐を遂げるまでの年数を示し、そのうえで、「予は二十七年なり」 と言われて、この27年間、御自身が大難に遭われたことを強調されている。これに続く御文の内容もことごとく難について述べられている。
 、弘安2年10月1日の御述作である本抄において、大聖人は、農民信徒の捕縛の後、彼らが不惜の信仰を貫いているとの報告を聞いて、門下一同へ、とりわけ法難の渦中にいる門下へ、種々の厳しい信心の御指導と最大の励ましを送られている。
 したがって、この 「二十七年」 という 「時」 と、本抄の 「難」 への言及の本意は、熱原の法難で、農民信徒が不惜身命・死身弘法の姿を示したことを称賛されることにあるといえる。
 、大聖人の御生涯における出世の本懐とは、三大秘法をもって、末法万年の民衆救済の道を完成したことである。


 上記のように、「弘安2年の御本尊」 の御図顕をもって “出世の本懐” にするとは、一言も言及されていない。
 大聖人は、御本尊の御認めについて 「師子王は前三後一と申して・あり(蟻)の子を取らんとするにも又たけ(猛)きものを取らんとする時も・いきを(勢)ひを出す事は・ただをな(同)じき事なり、日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、…… 日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」(1124P) と仰せになられています。

 すなわち、全身全霊を込められて、我ら衆生のために御認めくださいました。このようななかで、数多くある御真筆御本尊の内、ただ一つ 「弘安2年の御本尊」 をもって特別視し、他と差別化することは、かえって畏れ多いのではないかと思われます。
 大聖人におかれましては、御本尊はみな同じであり、“仏滅度後、一閻浮提の内、未曽有の大曼荼羅” であります。すべてに亘って “十界の文字曼荼羅御本尊” を御図顕なされたことが、あえて言えば、「出世の本懐」 であるといえると思います。
 では何故、“本門戒壇” と認められたかと思えば、未来に特定の戒壇堂を建てようとした時、弟子たちがどの御本尊にしょうかと迷わない為の御配慮であると推察いたします。
 しかし、世界広宣流布という時代性は、そのような堂舎を必要としないものになりました。

 、その意味で、「出世の本懐」 の本義は、大聖人の御生涯において、末法万年の一切衆生の救済のために三大秘法を確立されたこと、それとともに、立宗以来27年目に、熱原の法難において、農民信徒たちが大難に負けない不惜身命の信仰を示したことによって証明された民衆仏法の確立である。
 大聖人が、「弘安2年の御本尊」 を御図顕されたことも、この三大秘法の確立と民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える。
 末法万年にわたって全世界の人々を救うという大聖人の出世の本懐は、三大秘法の確立とともに、「日蓮と同意」 「日蓮が如く」 との精神で、それを担いゆく不惜の門下が誕生してこそ初めて成就する。そこに民衆仏法の真の実現がある。


 “農民信徒たちが大難に負けない不惜身命の信仰を示したことによって証明された 「民衆仏法の確立」 である” と解釈しています。
 天台大師の出世の本懐は、摩訶止観を説いたことであり、伝教大師は南都六宗を打ち破り、叡山に法華円頓戒壇を建立したことである。
 摩訶止観は、観心修行の方軌を示した書で、これによって仏果を得た者は殆んどいなかった。叡山の戒壇も、第三代座主・慈覚によって、真言の濁流に飲み込まれてしまった。
 所詮、像法の天台仏教は、僧侶・貴族仏教であり、一般大衆は置いてきぼりにされていたのである。仏法上、人類救済(成仏した人)の実証は殆んどなかった。

 悪世末法に弘通する法は、一切衆生救済の “民衆仏法” でなければならない。
 大聖人は、「然りと雖も伝持の人無れば猶木石(もくせき)の衣鉢(えはつ)を帯持(たいじ)せるが如し」(508P) と仰せです。御本尊があっても “伝持の人” が居なければ、何もならないのである。
 御本尊(法)と伝持の人(人)とは、セットでなければ、法華弘通の大願も 「出世の本懐」 も成就しないのである。

 したがって、“大聖人の出世の本懐は、三大秘法の確立とともに、「日蓮と同意」 「日蓮が如く」 との精神で、それを担いゆく不惜の門下が誕生してこそ初めて成就する。そこに民衆仏法の真の実現がある” と述べられている。
 すなわち、広布誓願に戦う、不惜身命の熱原の民衆が出現したからこそ、大聖人は 「出世の本懐」 を遂げ、誓願を成就なされました。
 これが、「此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり」(1189P) の真の意義である。
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一大秘法について

 「一大秘法」 「六大秘法」 について、 (聖教・2015/1/30・4面)

 原田会長の会則改正の趣旨説明に、
 「大聖人は、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされました。そしてそれを、末法の全民衆の成仏のために三大秘法、すなわち、本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇として具体的に顕されたのであります」 とあるように、「宇宙と生命に内在する法」、すなわち南無妙法蓮華経が根本であり、三大秘法はそれを具現化された法門である。
 これまで日寛上人の教学に基づいて、「一大秘法」 や 「六大秘法」 ということを使用してきたが、「一大秘法」 が 「本門の本尊」 であるという日寛上人の解釈は、御書にはない。
 ………
 日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺の法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある。日蓮正宗が完全に大聖人の仏法に違背した邪教と化した今、学会は正統の教団として、世界宗教にふさわしい教義の確立という立場から見直しを行っていく。
 その意味で、日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない。


 今回の改正に関する解説で、“「一大秘法」 が 「本門の本尊」 であるという日寛上人の解釈は、御書にはない” と述べています。
 日寛教学には、“正義を明らかにする普遍性のある部分” と “唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分” とがあります。
 後者について宗門の歴史を見ますと、第15世・日昌法主(登座1596年)より、第23世・日啓法主(遷座1692年)までの九代・約百年間、京都・要法寺出身の僧が日蓮正宗の法主になっているのである。
 その中で特に、第17世・日精法主は、要法寺の広蔵院日辰の影響を受けて、釈迦像の造立をおこなっている。法主自身が邪義を実践したのである。このように宗門の中枢からして、日蓮大聖人の正しい御本尊は何なのか、邪義に染まって分からなくなってしまった。
 参考 : 第17世・日精法主の謗法 ―→ ここから

 この弊害を正さんがために、日寛上人は、大聖人の御正意は 「十界の文字曼荼羅」 であるとして、「弘安2年の御本尊」 をもって 「出世の本懐」 とし、これを強調されました。
 『観心本尊抄文段』 に、「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり、既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」 とあります。 (文段集・452P)

 「本懐」 については、前項で述べました。
 「究竟」 とは、真理の究極。物事の終極。畢竟等の意がある。日寛上人が、「弘安2年の御本尊」 を、“究竟中の究竟、本懐中の本懐” と言われましたが、私はこれは、チョット褒め過ぎではないかと思っています。

 そのように思うのは、『総勘文抄』 に、「劫火(ごうか)にも焼けず水災にも朽(く)ちず剣刀にも切られず弓箭(きゅうせん)にも射(い)られず ……」(563P) と仰せです。ここは、わが生命・宇宙生命の永遠性について説明している処です。
 「究竟」 と言う言葉には、そのような永遠性、久遠・常住性の有るものが、相応しいのではないかと思います。
 したがって、畏(おそ)れ多いことですが 「弘安2年の御本尊」 と雖も、楠の板で作られている以上、形あるものは、何時かは無くなるという “有限性” のあるものです。
 そのような “有限なるもの” に、日蓮仏法の 「一大秘法」 と称するのは、言い過ぎではないのでしょうか? という思いがあります。しかも、御書には 「弘安2年の御本尊」 が、「一大秘法」 であるという記述はありません。
 それゆえに、私は 「久遠の法」 こそ、「一大秘法」 と言い得るのではないかと思っています。

 日蓮大聖人は 『当体義抄』 に、「至理(しり)は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し」(513P) と仰せです。  (至理とは、至極の道理、一切諸法の根本の真理をいう。 闕減とは、欠けていて十分でないこと)
 『総勘文抄』 に、「釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐(おわ)せし時我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟を開き給いき」(568P) と仰せです。
 “五百塵点劫の当初” とは、「久遠元初」 のことであります。

 したがって、「久遠の法」 とは、「久遠元初の妙法蓮華経」 のことであります。

 教義条項の解説では、“一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない” と言われましたが、御書には無い 「六大秘法」 はともかくとして、大聖人が一ヵ処(1032P)でも仰せになられている 「一大秘法」 という用語は、「久遠元初の南無妙法蓮華経」、すなわち、宇宙生命の根源の一法でありますので、「一大秘法」 と称しても良いのではないかなぁ と思っています。
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六大秘法・本門の本尊について

 引き続き 「六大秘法」 でありますが、新聞紙上(1/30)では “三大秘法を合した 「一大秘法」、また、三大秘法を開いた 「六大秘法」 という表現は、御書そのものには説かれていない。…… 日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない” とあります。

 御書に無いからだけでは、説得力に乏しいと思います。御書に説かれていなくても、時代とともに新しい論理・解釈が生まれて、日蓮仏法の発展に寄与して然るべきである と考えているからである。
 用いないという以上、それは 「事の戒壇」 に関することではないか と思っています。
 ともあれ、三大秘法の開合の相を 『依義判文抄』 に見てみたいと思います。

 「問う若(も)し爾(しか)らば三大秘法開合の相如何、
 答う実には是れ一大秘法なり、一大秘法とは即ち本門の本尊なり、此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為す、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり、故に分ちて三大秘法と為すなり、又本尊に人有り法有り・戒壇に義有り事有り・題目に信有り行有り・故に開して六義を成ず、此の六義散じて八万宝蔵と成る」
(六巻抄・118P) と述べています。
 日寛上人は、三大秘法を合すれば一大秘法と成り、開すれば六大秘法と成る、と説かれています。

 「本門の本尊」 を、六大秘法の 「人」 と 「法」 に開くことは、「御義口伝に云く南無とは梵語(ぼんご)なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」(708P) と仰せられています。
 日蓮大聖人は、南無(帰命)する対境(本尊)を、 「人の本尊」 と 「法の本尊」 に開して説明されておりますので、このように開くことには問題はありません。 

 「人」 とは、釈尊に帰命し奉ることである。この釈尊は、インド応誕の釈尊ではなく、「久遠元初の自受用報身如来 即 本因妙の教主・日蓮大聖人」 の御事であります。
 「法」 とは、法華経に帰命し奉るのである。この法華経は、釈尊の二十八品の法華経ではなく、大聖人の 「文底下種・三大秘法の南無妙法蓮華経」 の御事であります。

  しかし、生命の実相は、「人法体一」 であり、「色心不二」 であります。理論的には、「人」 と 「法」 を分けて考えられても、事実・実際の上では、「人(仏)」 を離れた 「法」 は存在しないのです。

 参考 : 「人と法」 についての説明 ―→ ここから

 ゆえに、『御義口伝』 に、「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(760P) と仰せになられています。
 「法華経の行者」 とは、末法において、法華経の経文を身読された “日蓮大聖人” の御事であります。日蓮大聖人の 「人法一箇」 の御当体を、御本尊として南無し、報恩感謝申し上げているのであります。 
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谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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