教義条項の解説(御本尊を認定する権能)

 去る 1月末、聖教紙上に 「会則の教義条項改正に関する解説」 が掲載されました。(大白蓮華 4月号にも掲載されています)
 ところでこれまで、私の考えを少々述べさせて頂いていますが、もともと筆が遅いうえに、色々なこともあり遅くなっています。
 教義条項の解説の “2 創価学会に御本尊を認定する権能” と “3 「広宣流布大誓堂」 と 「創価学会常住御本尊」 について” は、紙面をよく読んで頂ければご理解いただけると思います。
 よって、前項までで止めようかなと思いましたが、中途半端なままで止めてはスッキリしないので、遅くなっても・少ししか書けなくても、書いてみようと思いました。よろしくお付き合いください。

 「創価学会に御本尊を認定する権能」 について、聖教紙上には次のように述べています。 
 いずれの宗教団体も、独立した教団である以上、その教団の本尊、聖典、礼拝施設等を決定する権能を有するのは当然である。仏意仏勅の世界広宣流布推進する創価学会は、受持の対象としての御本尊を認定する権能を有する。

 上記のことは、日顕宗から独立した教団である以上、至極当然のことであると思います。
 かつて、池田先生の教学部大会における 「仏教史観を語る」という 記念講演 や 「生死一大事血脈抄」 の講義に、宗門から取るに足りない イチャモンを付けられてきて、訂正させられた苦い思い出があります。平成3年に “魂の独立” を勝ち取って、本当に良かったと思っています。  

 御本尊の本義は、「広宣流布のための御本尊」 である。大聖人は仰せである。
 「爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比(ころ)はじめて法華弘通のはた(旌)じるしとして顕し奉るなり」(1243P)
 池田名誉会長は、この一節をこう講義している。

 「私たちは、…… 万人の幸福を実現し、平和の楽土を築くために、立正安国と広宣流布の旗を掲げて勇んで出現した地涌の菩薩です。その先駆けとして不惜身命の大闘争をなされた日蓮大聖人が顕された御本尊は、この私たちの崇高な使命を呼び覚ます 『広宣流布のための御本尊』 なのです」 (『勝利の経典「御書」に学ぶ』第11巻「日女御前御返事」講義)
 ………
 この 「広宣流布のための御本尊」 を弘通してきた教団が創価学会である。学会出現以前、当時の日蓮正宗に御本尊流布の実践がなく、本格的な御本尊流布は、牧口初代会長、戸田第2代会長から始まったことは歴史の示す通りである。
 そしてまた、受持即観心の本義に照らせば、御本尊を正しく拝する信心があってこそ、釈尊の因行果徳二法を具足した妙法蓮華経の㓛力を現実に現すことが可能になる。「観心の本尊」 は、「信心の本尊」 でもある。この信心を私たちに教えてくださったのが創価の三代会長、なかんずく池田名誉会長であることは言うまでもない。
 

 上記のように、我われに “竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅の 「観心の本尊」” と、“折伏弘教” の信心を教えてくださったのは、創価学会であり、なかんずく池田先生であります。宗門の法主や僧侶からではないのである。この事実を忘れてはならない。
 大聖人は、「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余(よそ)へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし」(1055P) と仰せです。
 “根源の師” とは、別しては日蓮大聖人でありますが、総じては創価の御歴代会長、初代牧口常三郎先生・二代戸田城聖先生・三代池田大作先生であります。 

 ところで、この項で語られている 「権能」 という言葉ですが、日顕は法主を詐称して以後、“御本尊書写の権能は法主の専権事項である(趣意)” と、法主の権威づけのために盛んに言っていたと記憶しています。 
 この 「権能」 という言葉は、御書にはありません。そこで、広辞苑を引いてみました。そうしますと、
 ① ある事柄について権利を主張し行使できる能力。
 ② ある事柄をすることが許される資格、 とありました。

 法主という立場は、②番の資格になるのではないかと思います。すなわち、大聖人より 「広宣流布のための御本尊」 を書写する資格を与えられている立場であると思います。
 それを謙虚に受け止めて、広布のため、人々の幸せのために、書写に励みて身を尽くす福運を、御本尊に報恩感謝申し上げるのが法主の務めであろうと思います。
 ところが、法主詐称という “臑(すね)に疵持つ” 日顕は、それをも感謝せず、皆々が頭を下げて拝する御本尊を作る能力が、自分にあるのだと慢心を起こし、事も有ろうに 「法主は御本尊と不二の尊体」 という邪説まで唱えるに至り、大聖人と同格などとは、その思い上がりも甚だしいものだ。このような悪侶が三宝の 「僧宝」 になるとは、おこがましい限りだ。

 出家の多くが、慢心を起こすことについて 『御義口伝』 には、次のように説かれています。
 「比丘比丘尼の二人は出家なり共に増上慢と名く疵(きず)を蔵(か)くし徳を揚ぐるを以て本とせり、優婆塞(うばそく)は男なり我慢を以て本とせり優婆夷(うばい)は女人なり無慙(むざん)を以て本とせり」(718P) と仰せです。

 「増上慢」 とは、「我慢の心充満し、未だ得ざるを得たりと謂(おも)う」(173P) ことで、“疵(きず)を蔵(か)くし徳を揚ぐるを以て本とせり” と仰せのように、日顕は猊座(げいざ)を盗み取り、徳もないのに自分ほど偉いものはないという、自己顕示欲に凝り固まっておる。
 宗門史上においても稚児法主等、信用に値しない法主が出現した時ほど、「法主本仏論」 なるものが叫ばれたのである。

 『佐渡御書』 に、「悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云」(957P) と。
 日顕は 「広宣流布のための御本尊」 の下付を停止し、仏意仏勅の創価学会を破門し、仏の広宣流布の大願を破壊するという暴挙を行った。 まさに “仏弟子等・必ず仏法を破るべし” の御金言の通りである。
  したがって、“師子身中の虫の師子を食(はむ)” の通り、日顕の所業は 「三類の強敵」 の 「第三・僭聖増上慢」 の高僧に相当するのである。袈裟・衣の権威に、騙(だま)されてはなりません。気を付けましょう。
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教義条項の解説(大誓堂と学会常住御本尊)

 「広宣流布大誓堂」 について、次のように述べられています。
 日蓮大聖人の御遺命は 「法華弘通」 即ち 「広宣流布の大願」 である。
 この御本仏のお心のままに 「広宣流布の大願」 を成就することを誓って立ち上がった、三代会長の死身弘法によって築かれたのが今日の創価学会である。


 日蓮大聖人の御遺命である 「広宣流布の大願」 を実現せんと立ち上がったのが、創価学会であります。
 なかんずく 第2代戸田先生が、 “七十五万世帯の折伏は、私の手でいたします” という、畢生の大誓願を発し、広宣流布の指揮を執られた原点の地・信濃町に、2013年11月18日 「広宣流布大誓堂」 が建立されました。
 須弥壇には 「大法弘通慈折広宣流布大願成就」 と認められた 「創価学会常住御本尊」 が御安置されています。
 そして、この大誓堂の勤行会の意義について、次のように述べられています。

 「広宣流布大誓堂」 の勤行会に参加する意義は、池田名誉会長が 「まさしく法華経さながらに、全世界から地涌の菩薩が勇み来たり、広宣流布の御本尊と境智冥合して、久遠元初の大誓願の生命を、昇りゆく旭日のように光らせ、生まれ変わった息吹で出発する黄金の会座であります」 と述べられているように、その座に列なり、永遠の師匠である三代会長と心を合わせ民衆の幸福と繁栄、世界平和、自身の人間革命を祈り、ともどもに広布の推進を誓い合う集いなのである。

 上記解説に “永遠の師匠である三代会長と心を合わせ民衆の幸福と繁栄、世界平和、自身の人間革命を祈り、ともどもに広布の推進を誓い合う集いなのである” とありますように、あくまでも 「広宣流布の大願」 を誓い合う場なのである。
 旧来からあるような聖地巡礼とは違うのである。また、大誓堂や信濃町は、ヴァチカン(キリスト教)・メッカ(イスラム教)等のような聖地ではないし、聖地化してはならないと思う。
 とは言っても、宗教施設のあるところ、聖地と言えば言えなくもない。ただ、言えることは、我が家のお仏壇と大誓堂との間に、功徳(成仏)において、僅かでも違い(勝劣)があると思ってはならないことである。
 要は、自身の信心であり、決意・誓願の問題である。

 大聖人は、「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(1561P) と仰せです。
 大事なことは、広宣流布の戦いに生き抜くところに、仏界の生命は涌現するということです。
 したがって、「誓願」 の大切なることを、池田先生の御指導に学びたいと思います。

 「広宣流布の大願」 と 「仏界の生命」とは一体です。だからこそ ―― この誓いに生き抜く時、人は最も尊く、最も強く、最も大きくなれる。
 この誓いを貫く時、仏の勇気、仏の智慧、仏の慈悲が限りなく湧き出(い)でてくる。
 この誓いに徹(てつ)し切る時、どんな悩みも変毒為薬し、宿命をも使命へと転じていける。
 これが、創価の最極の同志であります。
 これが、学会の無敵の陣列であります。
 そして、我ら誓願の学会が奉(ほう)ずる 「法華弘通のはたじるし」(1243P) こそ、この大礼拝室に御安置奉(たてまつ)った 「大法弘通慈折広宣流布大願成就」 と、お認(したた)めの常住御本尊であられるのです。
  (11/8・落慶記念勤行会へのメッセージ)

 我らには 「広宣流布の大誓願の御本尊」 があります。
 我らには 「広宣流布の大誓願の師弟」 があります。
 そして、我らには 「広宣流布の大誓願の同志」 がおります。
 ゆえに、我ら創価の師弟は、広宣流布の大誓願とともに永遠なのであります。
 ………
 さあ、我らは、異体を同心とする団結で、苦楽を分かち合い、いよいよ明るく仲良く賑(にぎ)やかに、所願満足の大勝利の生命の旅を共々に飾りゆこう
 これからも、忍辱(にんにく)の鎧(よろい)を着て、勇気の声を響かせ、人類の心を聡明に結び合いながら、この地上に 「立正安国」 の楽土を築き広げていこうではないか
 わが誉れの全同志、万歳
 晴れわたる凱歌の 「創立の日」 の朝に
  (11/18・創立記念勤行会へのメッセージ)

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異教と異端

 月刊雑誌 『第三文明』 に、「創価学会とは何か」 というテーマで、日本を代表する知性・佐藤優氏と、日蓮研究などを専門とする僧侶・松岡幹夫氏との対談が連載されています。
 その “5月号” に 「異教」 と 「異端」 について、佐藤氏が述べています。
 異教とか異端という言葉は、キリスト教的用語であると思って無関心でありましたが、この文章を読んでみて、少し興味がわきましたのでご紹介したいと思いました。

 佐藤氏は、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省に入省、在ロシア日本大使館に勤務し、主任分析官として活躍しました。その後、無罪に等しい背任と偽計業務妨害容疑で逮捕され、約500日間服役しました。
 現在は、作家・評論家として活躍。特に創価学会を深く理解され、池田・トインビー対談、海外諸大学講演などを解説し、雑誌等に寄稿され、また 『創価学会と平和主義』 という著作もあります。

 佐藤氏は、プロテスタントの キリスト教徒でありますが、仏教団体の創価学会を応援してくださるのは、氏が物事を正しく見る見識の士であるからである と思います。
 それまでには、大使館在任中、池田先生と ゴルバチョフ大統領との会談がありました。それを近くで見聞きして、池田先生の偉大さを感じられた、のではないかと思います。
 会談の数日前、桜内氏(衆院議長)を通して、大統領の訪日を要請したが、それが頓挫(とんざ)してしまい、外務省は困り果て、池田先生に依頼しました。そして先生のお力添えで、やっと初来日が実現できたのである。
 しかし外務省は、池田・ゴルバチョフ会談のことは公式記録に記せず、外務省の失態を隠蔽(いんぺい)してしまった、 ということである。
 次に外部の方々は、通常、創価学会を褒め称えることはありませんが、佐藤氏は自身が服役したことによって、名誉も何も剥ぎ取られ、何も捨てるものがなくなった極限の境地を体験されて、毀誉褒貶(きよほうへん)に左右されない強き自由人になられたと思います。
 それから戦時中、キリスト教をはじめ全ての宗教団体が、不当なる国家権力に屈したその中で、創価学会だけが屈せず、初代牧口会長が殉教なされたことを高く評価されています。

 佐藤 勝  キリスト教神学では、「異教」 は キリスト教以外の宗教を指します。異教と キリスト教のどちらが正しいかを判定するためには、「弁証学」 が用いられます。それに対して 「異端」 とは、同じ キリスト教のなかで考え方が違う一派を指します。「異端」 との間で行われるのは 「弁証学」 ではなく 「論争学」 になります。本来 「異端」 との間のほうが距離は近いはずですが、「異教」 とのほうが併存しやすい。「異教」 に対しては 「無関心・無関係」 を保ちやすいからです。しかし相手が 「異端」 となると、無関心ではいられず、いろいろと面倒くさいことになるわけです(笑)。

 松岡 幹夫  いわゆる 「第二次宗門事件」 をめぐる経緯のなかで、宗門が創価学会を 「破門」 したわけですが、それはまさに彼らが学会を 「異端」 扱いしたわけです。異教ではなく異端だからこそ、衝突が起きた。

 佐藤  そうですね。不思議なのは、破門してもう関係ないのなら無関心を決め込めばよいものを、あの人たちは破門後も学会から信徒を奪い取ろうと画策してきたことです。それは私から見ると、「お前のことは勘当(かんどう)する。しかし、お前が息子であることに変わりはないのだから、親の言うことを聞け。親には仕送りをしろ」 と言っているように聞こえます(笑)。 (第三文明・2015-5月号・52P)

 佐藤氏は、異教は無関心・無関係でいられるが、同じ宗教内で似て非なる異端は、無関心ではいられず、色々と面倒くさい問題が生じてくると言われています。
 実際、学会と宗門との関係もそうなっています。また、イスラム教の シーア派と スンニ派のことはよく分からないのですが、同じ “アッラー” の神を信じながら、共に不倶戴天の仇敵である、といっている。宗教が持っている、ある一面の怖さを感じます。ゆえに、宗教の正邪を正さなければならないのである。

 松岡  まさに 「内ゲバの論理」 で、自分に近い存在ほど エキセントリックに排撃するわけです。 (エキセントリック…常軌を逸した、奇矯な)
 それから 『宗教改革の物語』 のなかに 「『超越性に対する感覚』 を失うと、信仰は単なる世界観になり、寛容性を失って、自分たちの世界観を他者に押し付けるようになる」 という一節があって、本当にそのとおりだと思いました。
 宗教改革とは、要するに 「宗教の原点回帰」 のことであるわけですが、どのように原点回帰すればよいかというと、それは 「超越性の感覚を取り戻す」 ということに尽きると思うんです。そのような宗教改革の本質を、見事に摘示(てきし)された文章だと感じました
。 

 佐藤  宗門は 「超越性に対する感覚」 を失ってしまったわけですね。 (同誌・53P)

 ここに 「超越性に対する感覚」 という分かり難い哲学的な用語があるが、「超越性」 すなわち、通常を超えたものとは、我々にとっては 「御本尊」 になると思います。
 したがって、それに対する感覚と言えば、“御本尊に対する瑞々しい信仰心” であると思います。その信仰心を取り戻すことが、“宗教改革の本質” である、と述べられている。

 松岡  そうなんです。宗門の僧侶は、江戸時代の檀家制度によって 「職業化」 してしまいました。本来は生き生きとした宗教活動であるはずが、ただの 「僧侶という職業」 になってしまった。その結果、宗門の僧侶から 「超越性に対する感覚」 がどんどん失われてしまった。佐藤さんのご著書にある言葉を借りれば、「自己保全のビジネス」 と化してしまったんですね。

 佐藤  しかも、宗門には 「僧が上、信徒が下」 という ヒエラルキーがあって、なおかつ、僧のなかにも細かい クラス分けがなされていますね。まるで中世の硬直した カトリック教会のようだと感じます。 (ヒエラルキー…階級制度)

 松岡  私が宗門と論争していたころ、相手の言い分のなかでいちばんあきれたのが、「法主(ほっす)だけは本仏の境地にある」 という意味のことを言い出したときです。法主も一人の信者であるはずなのに、彼らにとってはまず何よりも僧俗差別と法主絶対主義があるわけです。そこまで硬直化した世界観を持っているからこそ、その世界観以外の考え方は認めない。そして、創価学会のように 「似て非なるもの」 ほど、自分たちの アイデンティティーを脅(おびや)かす存在となるため、必死になって排撃するわけです。 (アイデンティティー…存在の自己証明) (同誌・53P)

 松岡氏は、“宗門の僧侶は、江戸時代の檀家制度によって 「職業化」” したと述べています。その結果、僧侶たちは御本尊に対する信仰心を失ってしまった。
 職業化は宗教の中に、封建時代の身分感覚をそのまま持ち込み、“僧が上、信徒が下” と、その上に “法主だけは本仏の境地にある” という 「法主本仏論・法主絶対主義論」 を唱え、徳もない信用に値しない法主・日顕の権威づけのために利用しているのである。
 それゆえに、日顕の相承疑惑についても、“日顕が血脈を受けた、と言っているから受けたのだ(趣意)” と、答にもならないことを言っている。このように、法主が “白と言えば白、黒と言えば黒” になる と主張するのである。理屈もへったくれも何もないのである。

 要するに、日顕宗は御本尊と御書を信ずるよりも、法主を信ずる 「法主信仰宗」 なのである。
 そして僧侶らは、御本尊を利用して、然も尤もらしいことを言って、信徒の純真な信仰心を食い物にするのである。このような悪侶を 「食法餓鬼」 というのである。騙(だま)されないように気を付けましょう。
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プロフィール

谷 建二郎

Author:谷 建二郎
 
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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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