一本の矢

 「一本の矢」 の話がありましたが、かつてずいぶん前に、池田先生が 「SGIの日」 の提言で、述べられていたことを思いだしました。
 その当時は、このような難解な仏法哲理のお話をされて、仏法を知らない海外の方々は解かるのだろうかなぁ と思いました。
 だがしかし、先生は相手がどうであれ、言わなければならない時は言うべきである とのお考えであったと思っています。

 現在では、多くの海外の諸大学が、先生の著作物(「21世紀への対話」等々)を教材として活用しているそうです。お隣の中国では、国を代表する大学が 「池田大作研究会」 等々の会を作り、池田思想・創価思想の研究を行っています。
 それに反し、わが国では国公立・その他の大学で、法華経の研究はなされているようですが、池田思想の研究をしておるとは聞き及んでおりません。
 SGI の発展と相まって、今では海外の方が、より多く池田思想を良く理解する力を有しているのではないか と思われます。

 そこで 「一本の矢」 の記事は、どこにあるのだろうかと捜しましたら、15年前の “第25回 「SGI の日」 記念提言 『平和の文化 対話の大輪』” という論文で、2000年(平成12年)3月号の大白蓮華に収録されていました。
 開いてみましたら、今の大白より数段小さな活字で、20ページに亘ってビッシリ書かれているかなり長文のもので、読むだけでも大変なことで、理解するまでには至りませんでした。
 「一本の矢」 が記載されているところまでの前段の文章が 8ページもありました。したがって、各々の章のはじめにある項目の太字の部分だけでも引用してみれば、ご理解への一助にもなるかなぁ と勝手に思いましてご紹介させて頂きます。

 「戦争と憎しみの人類史」 転換し――
 民衆と民衆の力強き連帯で 「希望の千年」の大道を

 「文化帝国主義」の弊害を克服

 国家の枠超える 「人間の顔」 をした文化交流
 「文化民際主義」を21世紀の潮流に


 「外なる差異」の絶対化が
  生み出した20世紀の悲劇


 「言葉による支配・呪縛」を
 打ち破る仏法の善悪無記論


 内なる差異克服し 自他ともに善の価値を実現
 「対話」こそ地球文明構築の黄金律


 そうした 「無記」 という考え方が示している 「内なる差異の超克」 ということを、我々の日常生活の実感に即した文脈でいえば、さきほど、釈尊の 「見がたき一本の矢」 のところで触れたように、差異への 「こだわりが消える」、差異が 「気にならなくなる」 という言い方ができます。
 この点に関して、戦後間もないころ、恩師・戸田城聖先生が、忘れることのできない留言(るげん)を残しています。恩師は、日蓮大聖人の因果観に基づく宿命転換に触れたあと、こう述べています。
 「帰依して南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、よりよき運命への転換の方法であります。この方法によって、途中の因果がみな消え去って、久遠の凡夫が出現するのであります」
 まさしく信仰を発条(ばね)にした「内なる差異の超克」 といえましょう。 「途中の因果」 とは、境涯面、肉体面、精神面で、自分が現在担(にな)っているあらゆる差異を生じさせた、原因であり結果であります。
 国籍、肌の色、家系、学歴、職業、性格、性別等々、十人十色のすべての差異は、自らがなした過去の因によってもたらされた現在の果である――これは、通途(つうず)の仏教で説く、よく知られた因果律です。
 こうした 「途中の因果」 が 「消え去る」 ということは、なくなるということではありません。そんなことはありえない。人間の社会である限り、人相ひとつをとってみても、誰もが差異的存在であり、それを貫く因果律も、三世にわたって厳然と続いていきます。
 そうではなく、「消え去る」 ということは、差異への 「こだわり」 が消え、差異を 「気にする」 ことがなくなる。それが 「内なる差異の超克」 ということなのです。
 真実の仏法に帰依することによって 「久遠の凡夫」 が自らの命の中に立ち現れてくる。「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘(まま)と云う義なり」(759P) という意味ですから、一切の作為的なものを拭(ぬぐ)い去った、巧(たく)まずして放射されるその威光勢力に照らされると、「こだわる」 心、「気にする」 心など、夢の中の出来事のような淡(あわ)い、あるかなきかのごとき些細な事柄と化していくのであります。
 ………
 真実の信仰とは、このような偉大なる生命力を涌現させるものなのです。先に 「金剛にして不壊なる澄み切った大境涯」 「創造的エネルギーに満ちた宇宙生命の内的な働き」 と述べたのも、恩師の不磨(ふま)の留言を想ってのことでした。
  (大白2000-3月・30~38P)

 少々長い引用になりましたが、戸田先生の “久遠の凡夫が出現する” とのお言葉はすごいことだな と思いました。
 「久遠の凡夫」 とは、仏界の生命、仏の境涯になるということだと思います。その方法は、御本尊に “南無妙法蓮華経と唱えたてまつる” ことによって実現できるのです。
 たとえば、アメリカでは法律は整備されておりますが、未だ人種差別問題は解決しておりません。この一カ月ぐらい前にも、白人の青少年による銃の乱射事件が起きています。
 一方、SGI の座談会等では、白人・黒人の差別なく全人種の方々が、仲良く集い・語らい・唱題している姿こそ、「内なる差異の超克」 ということの実証であると思います。

 池田先生は、「まさに対話こそ、仏教運動をベースに、地球文明構築へ我々が推進しゆく文化民際主義の “黄金律” といってよい。
 大聖人の仏法は、「此の心が善悪の縁に値(お)うて善悪の法(この「法」は「言葉」と、ほぼ同義語です)をば造り出せるなり」(564P) と仰せのように、対話を縦横に展開しながら、いかに善の価値を創造し、悪を善に転じていくかという能動的な変革、実践の哲理なのです」
と述べられています。
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「21世紀文明と大乗仏教」を読む(4)(「人間復権の機軸」)

 第二は 「人間復権の機軸」 という視点であります。  (21世紀文明と大乗仏教・25P)
 「復権」 とは、いったん喪失した権利や資格を回復することで、前世紀は偏狭なる ナショナリズムによって、あまりにも個人の人権が抑圧され無きに等しいものとされた。
 したがって、“人権の回復” と読み換えても、間違いはないものと思います。

 池田先生は、この章の冒頭から 「これを平易にいうならば、再び宗教の時代が叫ばれる今こそ、はたして宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか、という判断を誤ってはならないということであります」 述べられています。

 人間復権には宗教が機軸となるものであるが、その宗教は “人間を強くし、善くし、賢くする” ものでなければならない。しかし、宗教といっても色々なものがあり、中には マルクスの宗教阿片説的なものもあるので、その教えの勝劣・浅深の判定を誤ってはならないということです。

 先生は 「そのためにも、私は仏教でいう 「他力」 と 「自力」―― キリスト教流にいうと 「恩寵(おんちょう)」 と 「自由意志」 の問題になると思いますが、その両者の バランスの在り方を改めて検証してみたいのであります。
 ………
 その点 「自力も定めて自力にあらず」 「他力も定めて他力にあらず」(403P) と精妙に説く大乗仏教の視点には、重要な示唆(しさ)が含まれていると思います。 そこでは二つの力が融合し、両々相まって絶妙の バランスをとっていくことが慫慂(しょうよう=さそい勧める)されているからであります」
と述べられています。

 仏道修行には大きく分けて、自力と他力の二つの形態がる。
 「自力」 は、主に禅宗が標榜している。仏や経典を蔑視し、ただひたすら、禅定の修行を課することで、見性成仏するという。しかし、仏の教えに反し、いくら無明の己心を観じても仏身にはなれない。せいぜい増上慢になるだけである。
 大聖人は、「禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕(お)つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(152P) と仰せです。

 「他力」 は、主に浄土念仏宗である。偉大なる仏(阿弥陀仏)や神の力用を頼みにするため、衆生の主体性や生命力を損なうことになり、自己を卑屈な消極的な者に成りかねないのである。
 大聖人は、「善導と申す愚癡(ぐち)の法師がひろ(弘)めはじめて自害をして候ゆへに・念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ」(1509P) と仰せです。

 以上のように、自力も他力もどちらか 片一方だけでは駄目なのである。
 大聖人は、“自力も定めて自力にあらず・他力も定めて他力にあらず” と申されて、自力と他力の中道を説かれたのである。
 池田先生は、“二つの力が融合し、両々相まって絶妙の バランスをとっていくことが慫慂(しょうよう)されている” と話されました。
 そして、先生は絶妙の バランス感覚をもって、その国(米国)の哲学者の デューイ博士の言葉を用いて講演を続けられました。

 少し立ち入って述べれば、かつて デューイは 「誰でもの信仰」 を唱え、特定の宗教よりも 「宗教的なもの」 の緊要性を訴えました。
 なぜなら、宗教がともすれば独善や狂信に陥りがちなのに対し、「宗教的なもの」「人間の関心とエネルギーを統一」 し、「行動を導き、感情に熱を加え、知性に光を加える」。 そして
「あらゆる形式の芸術、知識、努力、働いた後の休息、教育と親しい交わり、友情と恋愛、心身の成長、などに含まれる価値」 (魚津郁夫編 『世界の思想家20 デューイ』 平凡社) を開花、創造せしむるからであります。
 デューイは他力という言葉は使いませんが、総じて 「宗教的なもの」 とは、善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な生き方を鼓舞し、いわば、あと押しするような力用といえましょう。 まことに 「“宗教的なもの” は、自ら助くる者を助くる」 のであります。
 近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力をまっとうできない。 他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全にはたらく。 しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである―― デューイもおそらく含意していたであろう、こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺であると私は思うのであります。
 私は、仏教者に限らず全宗教者は、歴史の歯車を逆転させないために、この一点は絶対に踏み外してはならないと思います。 そうでないと、宗教は、人間復権どころか、再び人間を ドグマや宗教的権威に隷属させようとする力をもつからであります。


 仏教を知らない方々に、初めから自力や他力といっても、その イメージすら涌かないのではないのだろうかと思います。
 したがって、デューイ博士の “特定の宗教よりも 「宗教的なもの」” という言葉を借りて、自力と他力が “融合し、両々相まって絶妙のバランス” をとる、中道というものを教えようとなされたのだと思います。
 先生は、“こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺である” と述べられています。

 先生は、“他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全にはたらく。しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである” と述べられ、そして、その十全なる力を涌き出させる方法として、『御義口伝』 の 「一念に億劫(おくごう)の辛労(しんろう)を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(790P) の御金言を引用なされました。

 仏教は観念ではなく、時々刻々、人生の軌道修正を為さしむるものであります。 “億劫の辛労を尽くす” とあるように、あらゆる課題を一身に受け、全意識を目覚めさせていく。 全生命力を燃焼させていく。 そうして為すべきことを全力で為しゆく。 そこに、「無作三身」 という仏の命が瞬間瞬間、湧き出してきて、人間的営為を正しい方向へ、正しい道へ と導き励ましてくれる。

 “仏の命が瞬間瞬間、湧き出してきて” と、これこそ、我ら学会員が、朝夕・実践している唱題行そのものであります。
 したがって、創価学会が実践する人間革命運動は 「人間復権」 への戦いの最重要の 「機軸」 になり得るのであります。 

 参考:「他力と自力」 ―→ ここから
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「21世紀文明と大乗仏教」を読む(5)(「万物共生の大地」)

 第三は 「万物共生の大地」 という視点であります。  (21世紀文明と大乗仏教・28P)
 まず 「万物共生の大地」 の イメージを、法華経の薬草喩品第五の 「三草二木の譬え」 から説明されています。
 「共生」 とは、異種の生物が共に生活している状態で、相互に利益があるものを “共利共生”、片一方しか利益を受けないものを “片利共生” という。
 また、仏教では 「共生」 を 「縁起」 と説きます。「縁起」 とは、“因縁生起” ということです。

 池田先生は縁起について、「縁起」 が、縁りて起こると書くように、人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。 すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。
 一切の生きとし生けるものは、互いに関係し依存し合いながら、生きた一つの コスモス(内的調和)、哲学的にいうならば、意味連関の構造を成しているというのが、大乗仏教の自然観の骨格なのであります、
と述べられています。

 「共生」 について、その 「関係性や相互依存性を強調すると、ともすれば主体性が埋没してしまうのではないか」 と問題を提起されて、先生は原始仏典の 「己(おのれ)こそ己の主(あるじ)である。他の誰がまさに主であろうか。己がよく抑制されたならば、人は得難い主を得る」 「まさに自らを熾燃(しねん=ともしび)とし、法を熾燃とすべし。 他を熾燃とすることなかれ。 自らに帰依し、法に帰依せよ。 他に帰依することなかれ」 (『真理の花たば法句経』筑摩書房) 等を引かれて、埋没してしまうのではなく 「自己に忠実に主体的に生きよと強く促している」 と述べられています。

 ここでいう 「自己」 は、「エゴイズムに囚われた小さな自分、すなわち 「小我」 ではなく、時間的にも空間的にも無限に因果の綾(あや)なす宇宙生命に融合している大きな自分、すなわち 「大我」 を指しております」 と述べられています。
 大聖人は、「我とは仏界なり」(756P) と仰せです。 大我の確立とは仏界を開発することであります。
 「三草二木の譬え」 にありますように、種々の草木があっても、平等に降り注ぐ仏の慈悲の雨がなければ、草木の成長も、大我の確立も、「万物共生の大地」 も あり得ないのであります。
 
 大乗仏教で説くこの 「大我」 とは、一切衆生の苦を我が苦となしゆく 「開かれた人格」 の異名であり、常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げるのであります。
 こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる 「近代的自我」 の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平があるといえないでしょうか。 そしてまた、「生も歓喜であり、死も歓喜である」 という生死観は、この ダイナミックな大我の脈動のなかに、確立されゆくことでありましょう。


 『御義口伝』 に、涅槃経に云く 「一切衆生の異(い)の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦」 と云云(758P) と仰せです。
 あらゆる人々の苦を、ことごとく我が一人の苦として受けとめて、“抜苦与楽の行動を繰り広げる” ものこそ 「開かれた人格」 の人であり、“こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる 「近代的自我」 の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平があるといえないでしょうか” と述べられています。

 日蓮大聖人の 『御義口伝』 には、「(生老病死という) 四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(740P) とあります。
 21世紀の人類が、一人一人の 「生命の宝塔」 を輝かせゆくことを、私は心から祈りたい。
 そして、「開かれた対話」 の壮大な交響に、この青き地球を包みながら、「第三の千年」 へ 、新生の一歩を踏み出しゆくことを、私は願うものであります。 その光彩陸離たる 「人間と平和の世紀」 の夜明けを見つめながら、私の スピーチとさせていただきます。
  (1993年9月24日・ハーバード大学講演)

 大聖人の教えは、「生老病死」 という人生にとって避けて通ることのできない根本的な四つの苦しみさえ、“南無妙法蓮華経と唱え奉る” ことによって、我が身を “常楽我浄の四徳の香” をもって、荘厳することができるのである と仰せです。なんと素晴らしい、有り難きことではありませんか。
 この日蓮仏法の大哲理を、未だ知らない人々に一人でも多く教えて上げましょう。
 池田先生は、“21世紀の人類が、一人一人の 「生命の宝塔」 を輝かせゆくことを、私は心から祈りたい” と、弟子たちの 「開かれた対話」 の戦いに期待されています。
 これをお受けして、21世紀を 「人間と平和の世紀」 にするべき戦いを起こしましょう。
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「21世紀文明と大乗仏教」を読む(6)(あとがき・「世界宗教への王道」)

 「海外諸大学講演集」 刊行委員会による 「世界宗教への王道」 という、“あとがき” がありました。  (21世紀文明と大乗仏教・375P)
 この “あとがき” を読みましたところ、「21世紀文明と大乗仏教」 の 「人間復権の機軸」 のところが、少しですが説明されていましたのでご紹介いたします。

 はじめに、講演では、文字や思想、哲学など、必ずその国の誇る優れた精神的遺産に スポットが当てられ、そこから仏教哲理への共鳴音が奏でられていく。 宗教に非友好的な イデオロギーの国では、仏教哲理の異名といっていい人間主義への共鳴音が………。その国その民族の精神水脈のもっとも良質な部分が、ごく自然に、大乗仏教の精神と深く回路を通じていくのである。 と述べられています。
 アメリカの ハーバード大学では、デューイ博士の 「宗教的なもの」 との言葉を援用されて説明されています。

 特に、「人間復権の機軸」 たるべき座標軸を、特定の 「宗教」 や 「絶対者」 などの外形的なものに求めず 「宗教的なもの」(デューイ) としたのは、まことに思いきった、こういう言い方が許されるなら、大胆不敵ともいうべき問題提起であったといってよい。 内在的な精神性を意味するこの 「宗教的なもの」 を、SGI 会長は、端的に 「善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な行き方を鼓舞し、いわば後押しする力用」 である、と。 そして、この 「宗教的なもの」 の発展のいかんが 「宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺」 であり、世界宗教たりうる必須の要件としたのである。
 確たる宗教的信念が、このようなかたちで表白され、ハードにでなく ソフトに世に問われたことが、かつてあったであろうか。 宗教的信念の普遍性 (SGI 会長は、これを「内在的普遍」と呼ぶ) に、よほどの確信がなければ、なしうる業(わざ)ではないのである。


 なぜ、特定の 「宗教」 よりも 「宗教的なもの」 をと 話されたのかといえば、おうおうにして宗教は、何らかの “絶対的なるもの” を根本としているが ゆえに、独断的な ドグマ(教条主義)に呪縛されがちになるのである。
 たとえば日顕宗は、弘安 2年の御本尊を 「出世の本懐」 とし、その教義の独自性・絶対性を堅持するあまり、本来の目的である、人を救うという 「広宣流布」 への戦いを忘れ去り、権威主義的 ドグマに堕ちている。
 現代世界においても、ドグマの呪縛によって独善や傲慢が横行し、宗教史にあるような、また現今の イスラム国のような 「宗教のため」 に人間同士が、傷つけ殺し合うという転倒が繰り返されているのである。

 SGI 会長がしばしば、「私は仏法者ですが 『仏性』 よりも 『友情』 や 『人格』 を信じます」 と語るのも、宗教的 ドグマのもたらしてきた弊害を知悉(ちしつ)しているからにほかならない。 また、マルローや桑原武夫を驚かせた 「私自身も、けっしていわゆる宗教家などではありません。 一個の社会人です」 との発言も、宗教史の光と影の交錯するなか、今後の世界の宗教の在り方へ、貴重な示唆(しさ)を投げかけている。 宗教といっても、「友情」 や 「人格」 に結実し、「社会人」 の資質向上を支えなければ、何の意味があるのか、と。

 池田先生の “「仏性」 よりも 「友情」 や 「人格」 を信じます」” とのお話に、私は目の覚めるような思いがしました。今まで、人生の目的は成仏することにあると。したがって、仏性や御本尊が第一であると思っていました。
 しかし考えてみれば、仏性や仏界と言っても、どこにも見当らない。己心にあるいっても、取り出すこともできない。では、無いのかといえば、縁に随って出てくるのである。
 それは、“釈尊の出世の本懐は人の振舞” と仰せのように、己身の 「智慧・慈悲・友情・人格」 等となって、その “人の振る舞い” のうえに顕れるものである。
 したがって、「人の振る舞い」 が、“「友情」 や 「人格」 に結実し、「社会人」 の資質向上を支えなければ、何の意味があるのか” と言われた所以である。
 ここに、創価の 「人間主義」 と、宗門の 「権威主義」 との違いがある。
 いまや、宗教(本尊や功徳等)を教えることよりも、「人間主義思想」 を教える方が難しいのである。
 ゆえに、「世界広布新時代」 にあっては、「人間主義思想」 を前面に押し立てて、具体的には、己身の人格の練磨と向上をもって、戦う以外にないと思います。
  
 池田 SGI 会長の渾身の言論活動は、まさにいうところの 「真の宗教的情況」、それなくして 「正義」 と 「平和」 は決して両立し得ないであろう、活性化された精神世界の構築目ざして、撓(たわ)まず屈せず、営々として続けられてきたのである。 それはまた、「生まれを問うことなかれ、行いを問え」 との釈尊の金口や 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174P) との日蓮大聖人の御金言の衣鉢(えはつ)を伝える大乗菩薩道の精髄であり、そこからは、一切の ドグマ性を払拭した真の世界宗教への王道が、豁然(かつぜん)と拓(ひら)けてくるであろう、と語って結ばれています。  

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谷 建二郎

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北九州市小倉北区に在住 81歳
日蓮仏法と創価思想に関する私の教学的随想

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